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嵐を呼ぶ男 by 石原裕次郎(日活映画『嵐を呼ぶ男』より) その3
タイトル
嵐を呼ぶ男
アーティスト
石原裕次郎
ライター
大森盛太郎、井上梅次
収録アルバム
『嵐を呼ぶ男 日活映画サウンドトラック集』
リリース年
1957年
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なんだか、『嵐を呼ぶ男』その1でも、その2でも、映画自体はあまり褒めなかったというか、どちらかといえば、けなしっぱなしですが、今回も、結局、シナリオの穴を列挙することになってしまいました。

考えてみると、井上梅次という監督とは相性がよくなくて、見たのはほんの数本ですが、どれもあまり気に入りませんでした。相性はどうにもならないので、井上梅次ファンにはごめんなさいして、シナリオ欠陥探しをつづけます。

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わたしが最終的に強調したいのは、シナリオがどれほどひどくても、それがヒットかミスかに影響を与えないという、偶然ないしは時の勢いというものの恐ろしさのほうなので、どうかあしからず。

あ、もうひとつ、勝因分析を誤るのはよくあることだし、状況は刻々変化することを忘れるのは人間のつねである、ということも日活の歴史は教えてくれます。昨日の真実は今日はもうガラクタなのです。

◆ 愚かさの連鎖 ◆◆
すこしストーリーラインを追います。

石原裕次郎は、音楽業界ゴロである金子信雄が、裕次郎が属すバンドのマネージメントをしている北原美枝に横恋慕しているのを利用し、自分を売り出してくれたら、仲を取り持ってやると約束します。しかし、いっしょに暮らすうちに自分自身が北原美枝に恋してしまい、約束を反故にしてしまいます。

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取引成立、カンパーイ。でも、こういう風にプロットを発展させるのは、主人公のキャラクター設定と矛盾しているように感じる。

裕次郎には音楽学校で作曲を学んでいるまじめな弟・青山恭二がいます。母は音楽家など職業ではない、次男には会社員になって欲しいのに、長男が悪い影響を与えているといいますが、それをいうにはもう遅すぎるでしょう。

音楽学校へ行くのは、ふつうは音楽家になるためであって、サラリーマンになるならべつのコースを選んでいなければいけないのは、だれだってわかることです。文句をいうならコースを選択するときであって、コースを選択し終わったあとでは無意味です。シナリオ・ライターはこういう矛盾に気づかないのでしょうか? それとも、そういう分別すらない愚かな人間として、この母親を描きたかったのでしょうか。不可解。

さて、この弟が非常に優秀で、アメリカの財閥(と解釈した)が新たにはじめる新人作曲家奨励プログラムの第一回に選ばれ、自分の曲を発表するチャンスを与えられます。ここまでは、失速寸前ではあるものの、まあいいとします。

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青山恭二(右手前)

問題は、これをネタに、金子信雄が裕次郎に威しをかけることです。北原美枝をあきらめないと、弟のコンサートを妨害するというのです。金子信雄の役が非常に影響力の強い音楽評論家だということは何度も強調されますが、それにしても、ワン・ショットのコンサートをどうやって妨害するというのか、そのへんの説明がありません。せいぜい、あとで雑誌や放送でボロクソにけなすぐらいのことでしょう。そういう迂遠なことでは、遅かりし由良之助です。

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音楽評論家・金子信雄はテレビのレギュラー番組をもっていて、そこであれこれと綾をつけたりする。アナウンサーは阿井喬子! Jun、クラシカル・エレガンス、といっていたセクシー・ヴォイスのあの人、例の深夜放送のDJである。クレジットには、NTVと出るので、このときは現役のNTVアナウンサーだったようだ。

いろいろ想像をめぐらせてみましたが、わたしにはさっぱりわかりません。あの時代には音楽評論には影響力があったのでしょうか。信じがたいですね。わたしの知っている日本では、そんなことが起きるはずがありません。音楽評論も映画評論も、客の気分やサイフの開閉にはなんの影響も与えなかったし、いまも無関係でしょう。せいぜい、スキャンダルでも暴いて、裏側から追い落とすぐらいのことしかできないだろうと思います。

◆ 批評? そんなものは犬にでもくれてやれ ◆◆
北原美枝と敵対するマネージメント会社のボス、安部徹はダンサーの白木マリを情婦にしています。脅迫のために北原美枝をあきらめた石原裕次郎は、泥酔して白木マリのアパートに泊まります。これを誤解され、安部徹の配下(もちろん高品格を含む!)にリンチにあうシーンでは、石原裕次郎はふたたび金子信雄に、弟に手を出さないと約束するなら、俺も男だ、なにをされても警察沙汰にはしない、などといいます。

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ここもプロットが亜脱臼しています。どうやって妨害するのか、方法をたしかめずに威しに屈するのは納得がいきません。妨害だ? できるものならやってみろ、評論家風情がしゃらくさい、といえば一件落着ですよ。そもそも、そういう台詞のほうが裕次郎らしいでしょう?

この映画は批評を極度に過大評価しています。批評でなにかが成功したり失敗したりなんて、ブロードウェイならいざ知らず、日本では聞いたことがありません。批評になにか力があるとしたら、そもそも日活自体が、石原裕次郎のデビューとともに倒産していたでしょう! 裕次郎が大スターになったことが、すでに批評の無効性を証明しています。映画評論家がなにをいおうと、だれも相手にしなかったからこそ、日活アクションに客が入ったのです。

しかし、またしても、視覚の刺激は論理を蹴散らします。子どものわたしが、この映画で記憶に深く刻みつけたのは、ほかならぬこのリンチ・シーン、とりわけ、コンクリート片で裕次郎の右手をたたきつぶすショットです。『嵐を呼ぶ男』というのは、長いあいだ、わたしにとっては「指をたたきつぶす映画」でした。ほかのことはみな忘れてしまいました。

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さすがは日活アクション、ヴァイオレンス・シーンは生彩がある。廃ビルのセットもムードがあるし、裕次郎の動きもいい。

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暴力を行使する者と、暴力に屈する者のあいだには、あるエロティシズムが介在することを、子どもは鋭敏に感じとったのでしょう。いまのわたしは鈍感な大人なので、そういう微細なところに隠れた真理をたちどころに読み取るセンスは持ち合わせていません。

ともあれ、シナリオ・ライターがこれほど巨大な穴を放置して安閑としていられたのは、結局、金子信雄の役柄が評論家というより業界ゴロであり、安部徹の役がマネージメント・オフィスの社長というより暴力団のボスであり、会社には暴力のプロがゴロゴロしているという設定のおかげでしょう。金子信雄が「妨害」を暗示すると、石原裕次郎も観客も、ペンではなくドスによる妨害をイメージするのです。音楽映画じゃなくて、ヤクザ映画ですな!

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左から笈田敏夫、安部徹、金子信雄の悪の三羽烏。安部徹が善人を演じた映画が少なくとも2本あるらしいが、どちらも見たことがない。ぜひ見てみたいものだ! 金子信雄や二本柳寛の善人は何度か見たが、安部徹は悪役しか見たことがない!

◆ 変なキャラクターの変な言動 ◆◆
話は、弟・青山恭二の晴れ舞台へと収束していきます。裕次郎が甘んじてリンチを受けた結果、ヤクザ者や音楽ゴロとはすべて話がついているので、もうたいしたことは起きそうもないのですが、そこが「母もの映画」、そっちのほうの決着をクライマクスにもってきています。

兄の石原裕次郎が病院から逃げだし、どこかに行ってしまったために、心から兄を信頼していた青山恭二はパニックに陥り、これではオーケストラの指揮などできない、などと子どものようなことをいいます。

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この弟のキャラクターがかなり子どもっぽく設定されているし、青山恭二という俳優の持ち味もまた気弱そうなところにあるので、日活映画を見慣れた人間なら「青山恭二がやりそうな役だ」と思うのですが、それでも、ここはおおいに引っかかりました。そんな馬鹿なことがあるかよ、兄は兄、コンサートはコンサート、まったく次元がちがうだろうが、です。

結局、周囲に説得され、お兄さんはかならず見つけ出すから、といわれて、青山恭二は指揮台にあがるのだから、なんのためにダダをこねたのかもわかりません。ダダをこねたことが、その後の展開にまったくなにも影響を与えないのです。変なシナリオ!

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またしても時間が足りず、もう一回、『嵐を呼ぶ男』を延長させていただきます。次回は間違いなくエンド・マークにたどり着けます。


by songsf4s | 2009-11-23 23:58 | 映画・TV音楽
嵐を呼ぶ男 by 石原裕次郎(日活映画『嵐を呼ぶ男』より) その1
タイトル
嵐を呼ぶ男
アーティスト
石原裕次郎
ライター
大森盛太郎、井上梅次
収録アルバム
『嵐を呼ぶ男 日活映画サウンドトラック集』
リリース年
1957年
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『嵐を呼ぶ男』が大ヒット作であることは前回の『予告篇』で書きましたが、すぐれた作品かというと、ちょっと言葉に詰まります。

こういうときには、よそさんの助けを借りるにかぎります。『日活アクションの華麗な世界』の上巻で、渡辺武信は(やはり出来自体は褒めずに!)以下のように大ヒットの理由を分析しています。

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あの時代の気分をどちらが理解していたかといえば、もちろん、『嵐を呼ぶ男』の公開時に十九歳だったという渡辺武信のほうであって、幼児にすぎなかったわたしではありません。そうお断りしたうえで、まずはわたしなりにヒット要因を考えてみます。

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◆ 母ものプロット ◆◆
渡辺武信は日活アクション初期の、とくに石原裕次郎が演じたヒーローを「孤狼型ヒーロー」と「家庭型ヒーロー」に分け、『嵐を呼ぶ男』を後者に算入しています。そういう二分法でいえば、たしかにそのとおりだろうと思います。

そして、ヒットの理由のひとつは、そこにあるのではないでしょうか。もうすこし細かくいうと、石原裕次郎演じる『嵐を呼ぶ男』のドラマー、国分正一には家庭があり、父はいないものの、母や弟と同居し、自分につらく当たる母を大事に思い、弟の面倒をよく見る人間です。

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兄のことを取りなす次男(青山恭二)と、まったく取り合わない母(小夜福子)、そして、ふれくされる「ヤクザな」長男。

これが大ヒットの最大の要因ではないかと思います。家庭をもたない「孤狼型ヒーロー」(当家で過去に取り上げた日活アクションでいえば、『東京流れ者』『拳銃は俺のパスポート』『霧笛が俺を呼んでいる』などがこのタイプにあたる)の映画は、どれも前回書いたわが家の騒ぎのように、一家総出で見に行くようなものではありません。巨大な鬱屈を抱えた若年層をなだめるタイプの映画です。

例によって、性格づけだの属性だのを洗い流し、骨組みだけを見れば、『嵐を呼ぶ男』は、「瞼の母」に代表される「母もの」のような気がします。目の前にいるのだから、この「新・瞼の母」の主人公は、母を求めて物理的な放浪はしませんが(だが、家にも落ち着けない)、「心理的彷徨」を強いられています。

「彼が求める母」はそこにいないか、あるいは、彼の存在を認めないのだから、いないも同然、したがって、「発見しなければならない母」だということにおいて、『嵐を呼ぶ男』は「瞼の母」と本質的に懸隔がありません。

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裕次郎がなにをしても、母は悪いほうへと解釈する。なんにだって受け取りようというのはあるものだと感心するほど意地が悪い!

もちろん、「瞼の母」だけでヒットするなら、『嵐を呼ぶ男』ではなく、『瞼の母』をつくればいいのであって、石原裕次郎は番場の忠太郎を演じることになってしまいます。だから、骨組みの周りの肉付けも重要で、それが渡辺武信が指摘したような、ドラマーという属性や、芸能界という舞台であり、そこに「瞼の母」を流し込んだことで、大勝利を得たのでしょう。

◆ 異例のスコア ◆◆
『嵐を呼ぶ男』はひどく古めかしいプロットの映画です。当家ですでに取り上げた映画でいえば、『狂った果実』『拳銃は俺のパスポート』『霧笛が俺を呼んでいる』といった作品にくらべると、泥臭いというか野暮ったいというか、土着のにおいが濃厚にある映画です。これより前の石原裕次郎主演作、たとえば『狂った果実』や『俺は待ってるぜ』などとくらべると、『嵐を呼ぶ男』は、時代意識としては後退した映画です。

ただし、その古めかしい「瞼の母」的構造から目をそらす、新しい要素がこの映画にはあります。音楽です。旧来のオーケストラ音楽も使われているし、小編成のストリングスによる叙情的な「キュー」もあるのですが、全編に渡って鳴り響いている支配的サウンドは、スネア・ドラムのパラディドルです。

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これは革命的というか、生涯に見た映画を思いだして、よーく考えてからこのセンテンスを書いているのですが、こんなにスネアのパラディドルばかりが聞こえる映画はほかにありません。そして、このスネア・ドラムの派手な4分3連や16分が、この古めかしい骨組みの映画に斬新な感触を与え、すばらしい躍動感を生み出しています。

とりわけ、演奏シーンではなく、普通のシーンに使われたときに、このスネア・ドラム(およびその付録としてのアップライト・ベース、ピアノ、ヴァイブラフォーン、テナーサックスのサウンド)は、画面を強く突き動かす原動力になっています。わたしが知るかぎり、このように、スネア・ドラムのパラディドルを大黒柱として組み上げられた映画スコアはほかにありません。

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このシーンではキャメラはクレーンに載って動くのだが、背後ではスネア・ドラムのパラディドルが鳴り響いている(隣の部屋で裕次郎が叩いているという設定で、スコアではなく「現実音」だが)。このキャメラの動きとスネアが気持ちよくシンクしているところが、映画ならではのエクサイトメントなのである。

スネア・ドラムを大きくフィーチャーしたスコアとしては、モーリス・ジャールの『史上最大の作戦』がありますが、あれはテンポの遅い、静かなマーチング・ドラムであって、『嵐を呼ぶ男』のような、画面を前へと強く突き動かし、観客をエクサイトさせるタイプのものではありませんでした。

◆ 非音楽的脚本 ◆◆
原作とシナリオは監督の井上梅次ですが、遠慮せずにいえば、プロットは穴だらけだし、音楽映画なのに、音楽の知識があるとは思えない処理が目立ちます。

たとえば、留置所の石原裕次郎を請け出しにいって、彼がそこらの棒きれで鉄格子を叩くのを聴き、北原美枝が「荒削りね」といい、その兄である岡田真澄が「うん、荒削りだ」とこたえます。

嵐を呼ぶ男 冒頭付近ダイジェスト


でも、たかが鉄棒を叩いただけで、荒削りとかそうでないとかいうのは、わたしには奇妙に聞こえます。表現のレベルに達するプレイではないのだから、精確か不精確かのどちらかしかないでしょう。粗いだのなんだのいうのは、トラップに坐って、他のプレイヤーとちゃんと曲をやったときに、全体の構成やフィルインのつくりが下手だとか、そういうときに出てくる言葉ではないでしょうか。ちなみに、この鉄棒を叩く音はじっさいにはライド・シンバルを使っていて、精確なタイムでプレイされています。明らかに一流ドラマーのプレイ。粗くないのです!

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留置所のシーンにはフランキー堺がカメオで出ている。「太鼓なんてのを叩くのは馬鹿だけだ」という台詞が楽屋落ちだということは、当時は常識だっただろうが、いまではもうわかる客のほうが少ないだろう。

しかし、なんといえばいいんでしょうね。ここが映画の摩訶不思議なところなのですが、小説だったらぜったいに見逃されないであろう、プロットや台詞の無数の欠陥が、映画ゆえにどんどん「なかったもの」にされていくのです。なぜチャラになるかといえば、石原裕次郎が暴れ、北原美枝が「凛々しい女」ぶりをふりまき、芦川いづみが可憐だからです。

そして、忘れてはいけないのは、小説ならば「スネア・ドラムの4分3連が派手に鳴り響いた」でしかないものが、映画ではじっさいの音としてわれわれの聴覚を揺さぶることです。ただの文字と、ほんもののスネア・ドラムの4分3連のあいだいには、無限の距離があります。文字ですむものならば、だれがわざわざ音楽を聴くものか!

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◆ フランク・シナトラと石原裕次郎 ◆◆
たしかに、渡辺武信が『日活アクションの華麗な世界』で批判しているように、石原裕次郎やライヴァルのドラマーを演じる笈田敏夫の動きは、音ときちんとシンクしていませんし、二人ともドラマーらしい手首の使い方はしていません。

しかし、これはだれがやってもむずかしいでしょう。俳優が演じることがもっとも困難なミュージシャンはドラマーです。リストを柔らかく使うことだけで訓練(まあ、「慣れ」ぐらいでもいいが)を要しますし、音と矛盾しないように速いパラディドルを叩くのも楽ではありません。まして、スネアからタムタムに流し、スネアに戻して、左手はスネアのまま、1拍目と2拍目の表拍だけ、右手はフロアタムでアクセント、なんてプレイを音と矛盾なくやるなんて、素人には不可能です。

これは日活だからダメとか、井上梅次の演出が手抜きだといったレベルのことではありません。ほぼ同じころ(1955年)、ネルソン・オルグレンの小説を映画化した『黄金の腕』(音楽監督エルマー・バースティーン)で、フランク・シナトラがドラマーを演じましたが、やはり、尻がむずむずするようなスティックの扱いでした。

まあ、『黄金の腕』のほうは演奏シーンが少なく、短いパッセージながら、どれもきちんとシンクさせてはいます。また、「サイド・スティック」(スティックをヘッドの上に寝かせ、ヘッドに一方の端をつけたまま、リムを叩くプレイ)のような、左手首の返しを必要としないものを使うといった細かい気遣いも見せています(シナトラのコーチをつとめたシェリー・マンの進言か)。

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『黄金の腕』のフランク・シナトラ。左手首を使わないサイドスティック・プレイをやらせるというのはグッド・アイディアだった。

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だが、レギュラー・グリップに持ち替えた瞬間、箸をちゃんと持てない俳優を見ているようでガックリする。せめて、もっと先端を余さないと……。

でも、フランク・シナトラは不世出のシンガーであって、不世出のドラマーではないからして当然ですが、左手首の動きが見えた瞬間、これではスネアは叩けないことが一目でわかってしまいます(『すべてをあなたに』でドラマーを演じた俳優は、左手首はコチンコチンに固まっていたが、シンクはほとんど完璧にやっていた。手首が硬いというなら、チャーリー・ワッツのような「プロ」ということになっているドラマーでも信じられないほど硬いので、凡庸なドラマーを演じているのなら、手首の返しの硬軟はどうでもよい)。

俳優には、レギュラー・グリップでの左手首の返しはリアルには演じられません。モダーン・グリップにすればごまかしがききますが、あれはロック・ドラマーのやるもので、すくなくとも昔のジャズ・ドラマーはモダーンは使いませんでした。

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よけいなことだが、『黄金の腕』には、かつてウェスト・コースト・ジャズの全盛期にはフルーゲル・ホルンおよびトランペット・プレイヤーとして大活躍し、のちにハリウッドを代表するアレンジャーとなった、ショーティー・ロジャーズがコンダクター役で出演している。シナトラがヘマをし、スタジオを飛び出しても、なにもなかったように、スタンバイしていたシェリー・マンに、ストゥールに坐るように指示し、平然と録音を続行するところは、なんだか妙にリアル。現実にもあったことなのだろう!

だから、石原裕次郎の「ドラミング」については、とくに批判するようなものではないと思います。俳優にしては左手首をまずまず柔らかく返していて、むしろ感心してしまいます。その点では、『黄金の腕』のフランク・シナトラよりいい出来でした。問題は、演奏シーンが多く、音と動きがシンクしていないことです。

こういうことというのは、井上梅次だとか、石原裕次郎だとか、日活だとか、そういう局所的な問題ではなく、日本映画界全体の、あるいは、ひょっとしたら、われわれ日本人の心性そのものに根ざすものかもしれず、特定の作品の批評にはなじまないような気がします。

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ちょっと前に、記事本文ではなく、ラリー・ネクテルの訃報のコメントに書いたのですが、日本映画で、俳優の手と音のシンクという面で脱帽したのはたった一度、『さらばモスクワ愚連隊』での、加山雄三のピアノだけです。あとはまあ、呆れるほどいい加減で、見ていられないものばかりでした。

これも以前書いたことの繰り返しですが、『アマデウス』の俳優のように、ピアノのレッスンを受けてから撮影に入る(だけでなく、あらゆるシーンが完璧にシンクしていた!)なんてことは、観念としても、コストとしても、日本ではありえないことなのでしょう。

どうも、ややネガティヴな方向に入りこみましたが、次回もさらに『嵐を呼ぶ男』のスコアについて考えをめぐらせてみるつもりです。

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by songsf4s | 2009-11-18 23:58 | 映画・TV音楽
嵐を呼ぶ男 by 石原裕次郎(日活映画『嵐を呼ぶ男』より) 予告篇のみ
タイトル
嵐を呼ぶ男
アーティスト
石原裕次郎
ライター
大森盛太郎、井上梅次
収録アルバム
『嵐を呼ぶ男 日活映画サウンドトラック集』
リリース年
1957年
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あとから考えると、「『霧笛が俺を呼んでいる』その1」で、ずいぶん大束なことを書いてしまったようです。こんなセンテンスです。

「山本直純による『霧笛が俺を呼んでいる』のスコアは、ほぼすべて4ビートです。それ以外の音楽というと、赤木圭一郎が歌うテーマ曲と、クラブ・シンガー役の芦川いづみが歌うシャンソンぐらいでしょう」

その後、細かくシーンを検討していくなかで、「ほぼすべて」はちょっと誇張がすぎたな、と頭をかきました。半分ほどが4ビート、残りはストリングスなどによる叙情的な「キュー」、あるいは4ビートの部分をプレイしたのと同じコンボによる、歌謡曲的なもの(たとえば城ヶ島に向かうシークェンスに流れる、主題歌のインスト・ヴァージョン)などです。

これだって、「4ビートを大々的に利用した映画スコア」であることに変わりはないのです。表現は修正するべきですが、「日活は世界でもまれに見るほど4ビートのスコアを生み出したスタジオである」という考えに変わりはありません。

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◆ 一家総出する評判かな ◆◆
もうこの記事のタイトルはご覧なのだから、ごちゃごちゃいわずにここらで話に入ります。今日から、日活アクションの「非日本的」絵作りよりも、「非日本的スコア」のほうにポイントおいて、『嵐を呼ぶ男』を見ていきます。舞台は東京なので、『霧笛が俺を呼んでいる』のように、ロケ地のことで長広舌をふるうようなことはないでしょうから、せいぜい3回ぐらいで終わる予定です。

当時は知りませんでしたが(なんたって、この映画が公開されたとき、わたしはまだ四歳だった!)、石原裕次郎が国民的スターになったのは、この『嵐を呼ぶ男』の大ヒットのおかげなのだそうです。まあ、そんなことはどこのサイトにも書いてあるから、どうでもいいようなものですが、なるほどね、それでああなったか、と思ったことがあります。

嵐を呼ぶ男 主題歌 動画なし


しばしばネタにしているわが老母に、『嵐を呼ぶ男』があるけれど、見てみるかい、といってみたのです。そうしたら、「あのときは、店に人たちまでみんなつれて、そこの日活にうちじゅうで見に行ったね」といっていました。

なんだか、昭和三〇年代のにおいが濃厚にするでしょう? 昔は夜遅くまで商売していたので、その日はきっと早じまいしたのです。田舎から集団就職でやってきた住み込みの店員、通いの店員、わが家の四人、合わせるとあのころは十人になるかならないかでしょうか。

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きっとみんなで簡単な夕食をかきこんで、ぞろぞろと夜の町に繰り出したのです。目指すは巷で大評判の若者、石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』がかかっている日活直営館です。木造モルタル二階建て、典型的な戦後の映画館でした。

ところが、わたしはそのときのことをぜんぜん記憶していないのです。『嵐を呼ぶ男』を子どものころに見た記憶はあります。しかし、そんな大人数で見に行ったなんて、かけらも覚えていません。たぶん、この映画を記憶したのも、封切りのときではなく、その後の再映を母親と一緒に見たときのことでしょう。

あのころは、しじゅう母親といっしょに日活に裕次郎を見に行っていました。なにしろ、わたしが通う公立小学校では、日活に行ってはいけないことになっていて、ひとりでは裕次郎も宍戸錠も見られなかったのです。

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おかげで、行けるものならなんでも行こうというさもしい根性が生まれ、兄にくっついて、吉永小百合映画までたくさん見ました。子どものころだって、やっぱりアクションのほうがはるかに好きだったので、『若い人』とか『光る海』とか『非行少女』とか『キューポラのある町』とか『潮騒』とか『伊豆の踊子』とか(これはほんの氷山の一角)、そういうのはあまり興味がなかったのですが、同時上映でアクションものを見られることもあったので、兄が連れて行ってやろうかといえば、ぜったいに断りませんでした。

◆ フル・スコアの登場 ◆◆
本題のつもりだったものが、書いてみたらやっぱり枕のようでしたが、こんどこそ本題。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、最近、『嵐を呼ぶ男』のフル・スコアがCD化されました。オリジナル・テープにもどってのマスタリングなので、びっくりするような音です。

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ただし、石原裕次郎唄う主題歌や冒頭のジャズ喫茶のシーンに出てくる平尾昌章の歌は入っていません。「スコア」のみ、といいたいところですが、音楽映画なので、純粋なスコアともいえず、いわゆる「現実音」、劇中で鳴っている音楽も多数収録されたものです。まあ、今回から数回にわたる『嵐を呼ぶ男』の記事では、純粋なスコアか「現実音」かということには、あまりこだわらないつもりです。

その「スコア」(といってしまいます)を聴いて、何度も見た映画なのに、へえー、こんなだったかねえ、と感心してしまいました。国外では石原裕次郎の知名度が低く、映画自体が字幕付きDVD化の対象になっていないため(それにくらべて宍戸錠の需要の大きいこと! 宍戸錠の新しいDVDがリリースされるというと、大騒ぎになる)、まだ海外からの評判が聞こえてきませんが、いずれアメリカでも、このスコアのすごさが理解されるでしょう。『殺しの烙印』における山本直純のスコア(こちらは海外でも「クールなスコア」として有名)より十年前だということに、ギョッとするはずです。

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1950年代のハリウッド映画のスコアをざっと聴けば、『嵐を呼ぶ男』を世界映画史のどこに位置づけるべきかがわかります。大森盛太郎は、いずれ、アレックス・ノース、ショーティー・ロジャーズ、エルマー・バーンスティーンといった、ハリウッドのジャズ・スコアのパイオニアたちとの比較で理解されることになるでしょう。

以上、今日は野暮用ばかりで時間がとれず、予告篇のみでした。次回からはもうすこしがんばります。

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by songsf4s | 2009-11-16 23:59
『乳母車』(石原裕次郎主演、田坂具隆監督、1956年日活映画)の美術 その5
 
ついさっき知ったのですが、今村昌平の『にっぽん昆虫記』の英語タイトルは、The Insect Womanというのだそうです。

今村昌平の映画だということを知らないで、仮にこれがAIPを通して逆輸入されたとしましょう。いや、ありえない仮定ですが、仮定だからいいじゃないですか。なにも内容に関する資料がなく、いますぐ邦題をつけろっていわれたらどうします?

AIPだから、ロジャー・コーマンかな、と思いますね。昆虫といっているのだから、ピーター・カッシングがヴァン・ヘルシンク教授、クリストファー・リーがドラキュラといういつものパターンとはちがうようです。『恐怖の蠅男』みたいに、人間と昆虫が合体したモンスターの話の可能性が高いでしょう。

ということで、『戦慄! 昆虫女軍団』なんてんでどうでしょうか。AIPはいつもこんな調子でしょ? おいおい、単数だぞ、軍団はないだろう、などという、わたしのように細かいことにこだわる人がいらっしゃるかもしれませんが、英語のことをゴチャゴチャいうようでは、輸入会社の宣伝担当はつとまりません。細かいことはこの際抜き、それらしいタイトルで、そっち方面の客の目を惹くことが大事です。

で、これが蓋を開けてみたら、今村昌平の『にっぽん昆虫記』だったらどうします? ひっくり返りますよ。

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なにいっているんだかおわかりにならないかもしれませんが、わたしはThe Insect Womanというタイトルから、AIPの恐怖映画を思い浮かべたというだけです。すごいタイトルですよ、これは。アメリカ人は、このタイトルを見てどういう映画を想像するのやら!

いえ、アメリカの輸入会社を責めているわけではありません。そんなことをいったら、日本がこれまでにつくってきた無礼千万な邦題の亡者がよみがえってきちゃいますよ。こちらはすでに百万回かそこらやったわけで、あちらが一発殴り返すぐらいのことは当然です!

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今回で『乳母車』は終わりなので、いままで使いどころがなかったものの、絵としては好きなショットを脈絡を無視して、ところどころに置かさせていただく。芦川いづみが石原裕次郎に宛てて手紙を書く場面で、夏休みになって鎌倉はにぎわっています、という言葉の絵として登場するのが、まさに芋を洗う砂浜と、由比ヶ浜通りのペイジェント。ぱっと明るくなるいいショットである。

◆ 斉藤一郎のスコア ◆◆
適当な置き場所が見つからなくなったので、ここに書きます。斉藤一郎による『乳母車』のスコアのなかには、好みのものがいくつかありました。いま確認の時間がないのですが、たしか、今日これからふれる、デパートの屋上のシーンで流れたものは、いい曲、いいアレンジ、とおもいました。

斉藤一郎は、すでに当家で取り上げた小津安二郎の『長屋紳士録』のスコアを書いていますし、『お茶漬けの味』『宗方姉妹』など、ほかにも小津作品の仕事があります。また、成瀬巳喜男の代表作のひとつ、『山の音』のスコアも書きました。

◆ ポータブル・セット ◆◆
さて、長々と見てきた『乳母車』のセットですが、何杯と勘定できる大物はもうないので、今日は小さなセットを見て手じまいにします。

九品仏の駅から新珠三千代の住む家への途中にある、という設定で、数回にわたって登場する角があります。ここで曲がると新珠三千代の家、曲がらないと九品仏へ行く、といった説明がされます。

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左側にあるものはなんなのだろう、と思っていたのですが、よく見れば昔の電電公社のマークがあって、電話ボックスとわかりました。木製の電話ボックスというのは、あの時代にはそれほどめずらしくなかったのだろうと想像します。

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しかし、いいところに電話ボックスがあったものだ、それとも、電話ボックスがあったから、この角を使ったのか、なんて思っていたのですが、新珠三千代がこの電話ボックスから電話をかけるショットが出てきたところで、なーんだ、そうか、と笑ってしまいました。

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電話ボックスなんて、つくって運んでくればいいだけで、はい、そのあたりにおいて、もうすこし左、などとやって、監督とキャメラマンが最適と考える位置に固定すればいいのです。

その証拠が、上の新珠三千代のシーンです。たぶん、キャメラが置かれた側の壁は、このときはずされています。そうしないと撮りにくいショットです。

ということで、この四角い木箱も、やはり木村威夫美術監督の指示で、日活の大道具がつくった「セット」にちがいないと見ます。

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これまた本文とは関係ないのだが、九品仏のロケはじつにいいシークェンスになっている。山門は移動で捉えているが、この寄りがすばらしいテンポで、えもいわれぬ快感がある。移動車を押すのは撮影助手の仕事だろう。この撮影で移動車を押した助手は、いい撮影監督になれただろうか。

◆ 不思議なロケとセット ◆◆
映画にはつくる側のさまざまな都合というのがあるようです。ときおり、なんでここでスタジオに移動するの、そのままロケで撮ればいいじゃないの、と思うことがあります。

ジェイムズ・ボンドのどれか、ドクター・ノオだったか、ショーン・コネリーとアースラ・アンドレスの場面で、キャメラを切り返すたびにロケとスタジオのショットが交互に入れ替わり、ひどくイライラしました。どちらかの衣裳(といっても水着だけだったが!)に正面から見ると綻びがあったとか、なにか不都合なものが写っていて、あとからスタジオで追加撮影したのだろうと想像します。

『乳母車』も、そういうものがあります。すでに見た鎌倉駅プラットフォームのセットも不思議といえば不思議ですが、列車と人の両方をいっしょに撮影する場合は、煩瑣なことがたくさんあるようなので、そうした事情だったのだろうと推測します。

そういうシーンはまだあります。状況を説明します。学生の石原裕次郎はいろいろアルバイトをやっていて、そのひとつはデパートのアドバルーンの上げ下ろしのようです。そのアルバイト先のデパート(日本橋高島屋でロケ)に、芦川いづみを呼び出して、談判をするという場面があります。

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というように、ロケに行ってそれなりのショットを撮っているのに、途中からセットにつないでいます。木村威夫は鎌倉駅のセットについて、「こまかい芝居が必要なところでは」といっているので、ここもそういうことなのかもしれません。でも、とりあえず、素人には事情を推測しかねるつなぎ方です。木村美術監督も例によって「ピックアップは退屈だ」とボヤいたことでしょう。

◆ 「自分だけの寸法」 ◆◆
木村威夫美術監督の話を読んでいると、へえー、はあー、そうなんだー、の連発です。とりわけ、わたしのような門外漢が感銘を受けるのは、人それぞれに寸法がある、という見識です。

以前、ちょっとふれましたが、木村威夫は、小津安二郎映画に登場する日本間について、通常の日本間の寸法ではない、小津さんと浜田(辰雄、美術監督)さんが、試行錯誤を重ねてたどり着いた寸法だ、あのセットはただごとではない、と喝破しています。

こういうことをいう人は、自分もただごとではない寸法でセットをつくっていたのです。ご覧あれ。

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この家には暖炉がふたつある。ひとつは以前にも写真をお見せした宇野重吉の書斎のもの(上)、もうひとつは、玄関脇のサロンのようになった場所にあるもの(下)である。奥行きは多少異なるかもしれないが、縦横は同じサイズだろうと感じる。こういうことをしていると、映画のなかから暖炉だけ拾い出してみたくなってくる!

この暖炉は、わたしには大きすぎるように見えます。しかし、美術監督は、これより小さくすると貧相になる、まるで立川あたりの米軍ハウスの暖炉だ、富裕な人種の邸宅らしさを出すのは、この寸法なのだ、といっています。見直してませんが、このあとの、田坂具隆監督、木村威夫美術監督、石坂洋次郎原作、石原裕次郎主演の映画、『陽のあたる坂道』でも、やはり、このサイズの暖炉が出てきたようです。

バーカウンターの高さも自分の寸法がある、とか、木村威夫の不思議な世界の話は尽きませんが、『乳母車』はこれにてエンド・マークとします。しかし、木村威夫美術監督には、すぐに再登場していただくつもりです。

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石原裕次郎が住む下宿の場所は、たんに「下町」というだけで、とくに想定されていなかったと木村威夫はいっている。この川縁は下宿のすぐ近くと想定されているようだが、どうも佃島のように思われる。

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田坂具隆の「クセ」なのかもしれないが、人物に寄って会話を捉える段になると、突然、スタジオへと切り替わってしまう。小津安二郎はスクリーン・プロセスを徹底的に嫌ったが、わたしも、こういうつなぎ方は居心地悪く感じる。キャメラが引くと、またロケに切り替わるのだから、なおさらだ。

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by songsf4s | 2009-11-05 23:41 | 映画
『乳母車』(石原裕次郎主演、田坂具隆監督、1956年日活映画)の美術 その4

このところ、当家のほうでは、かつてのメインラインだった、1960年代のポップ・ミュージックが登場することはめったになく、ハル・ブレインにすら言及しない日々がつづいています。

そういうのをやめたわけではなく、ご存知の方はご存知のように、黄金光音堂なるブログのほうに舞台を移しています。ほんとうはあちらでは主として映画をあつかうつもりだったのですが、相次ぐ訃報への対応をしているうちに、いつのまにか役割が入れ替わっていました。

これまたご存知の方はご存知のように、猫ブログというのをやっていまして、こちらも最近は「猫音楽」というのをテーマにしています。今日の更新では、ついにあちらでもハル・ブレインが登場しました。われながら、いつ出るか、と思っていたのですがね。

また、黄金光音堂は、今日はエリー・グリニッチ追悼を休んで、自分で自分にクイズを出題しました。これがかなりキツい問題で、この程度の解答しかできないのか、という感じでした。共通一次なら合格すれすれの微妙なところです。

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問題のレベルは高い、と申し上げておきますが、なんで俺はこのブログなんかに来て他人の書いたことを読んでいるのだ、ほんとうは俺が書くべきだ、と自負なさっている方は、ぜひ挑戦してみてください。内蔵データベースの大きさを験されますぜ。まあ、全問正解という方はいらっしゃらないだろうと思いますよ。いえ、答えはまだわたしも知らないので、正解かどうかはこれから検証するのですが!

◆ 川向こうへ ◆◆
のんびり日本シリーズなんか見ていたので、残りあと2時間。今日は枕なんか書いている余裕はないのに、なにをやっているのやら。

さて、「美術監督・木村威夫といっしょに見る『乳母車』」シリーズ、本日は4回目、いよいよ舞台は行く着くところまで行き着きます。宇野重吉の妻、山根壽子が家を出て、それとほぼ時を同じくして、新珠三千代のほうも宇野重吉と別れようと決意し、「『乳母車』の美術 その3」でお見せした奥沢の「妾宅」を引き払って、弟の下宿の空いている部屋に移ります。

新珠三千代の弟の石原裕次郎と、宇野、山根夫妻の娘である芦川いづみは、宇野-新珠のあいだにできた赤ん坊、彼らから見れば、姪、妹の行く末を案じ、なんとかこの三すくみを打開しようと、騙すようにして、関係者を石原裕次郎および新珠三千代の下宿に集めることになります。

まずは、娘に騙されて車に乗せられた山根壽子の様子から。

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橋を見せるのは、これから川向こう、宇野重吉、山根壽子が、普段なら足を踏み入れない場所に行くことを暗示するためです。大げさにいえば「異界」との境界を越えたという意味です。

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車が止まったのも工場らしき建物の前、そこから着飾った二人は狭い路地に入っていきます。

◆ 半プライヴェート空間 ◆◆
芦川いづみがおとなった先は、女性たちが造花作りの内職をしている裏長屋で、思わず、さぞご不快であろう、と山根奥様の心中を案じてしまいます!

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ここから伊佐山三郎撮影監督は、木村威夫が「道楽でつくった」という二階建てセットをクレーンによるワンショットで見せます。田坂監督が「木村くん、ここはクレーンだね。うん、きみの狙いで撮ってやるよ」といったのだそうな。伊佐山キャメラマンは「ここだけ調子が崩れるんだよなあ、木村くん」とボヤいたとか。

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あとから宇野重吉がやってきて、山根壽子同様、これまた逃げ場を失った恰好で二階に押し上げられ、全員が腰を落ち着けるまでの流れも、クレーン撮影で捉えられています。じっさいに九尺(約二・七メートル)の高さに組んだセットに、四間のクレーンをあげ、ライトもあげ、撮影スタッフも二階に上がるので、画面に映らない部分を入れると倍以上の広さになり、こういうセットは見えないところで金を食うのだと美術監督はいっています。だから「道楽でつくったセット」なのでしょう!

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◆ 論理の破綻と視覚の防波堤 ◆◆
石坂ディベート小説としては、関係者が一堂に会し、事態の収拾と打開を話し合うこの場面は、物語の山場です。しかし、何度見ても、宇野重吉の父がいったことの意味がわからず、なんだか、うやむやなままに散開した印象が残ります。解決ではなく、謝罪の場に終わっているのです。

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木村威夫によると、宇野重吉は、むずかしい、むずかしい、といっていたそうです。たしかに、なにも実質的なことをいわず、なにか意味のあることをいったように見せかけ、この苦しい場面から、最後に残ったささやかな威厳を失わずに脱出する、という状況なので、むずかしいに決まっています!

このプロットは小説も、映画も、ここで躓いて佳作になり損ねました。でも、「木村くん」が「道楽でつくった」二階建てセットと、せっかく美術監督ががんばったのだから、このセットを十全に生かして撮影しようという、田坂監督と伊佐山撮影監督の愛情のおかけで、映画的興趣は保たれ、それが物語の論理の崩壊から、観客の目をそらす役割を果たしています。

ここが小説と映画の根本的に異なるところです。いえ、小説だって、華麗なレトリックという、映画にない武器を駆使して、破綻を回避することができるわけですがね。

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残り30分。写真の加工と貼り付けの時間が必要なので、本日はここまで。次回には『乳母車』を完結させるつもりです。
by songsf4s | 2009-11-03 23:59 | 映画
『乳母車』(石原裕次郎主演、田坂具隆監督、1956年日活映画)の美術 その3

よけいなことばかり書いているから、つい、肝心なことを忘れてしまいます。クリップを見つけておいたのに、過去三回の『乳母車』の記事には埋め込みそこなってしまいました。

しかし、よくしたもので、今日はこのクリップに登場するセットのことです。邦画のクリップはすぐに消されてしまうので、ご興味のある方はお急ぎあれ。まだアップされたばかりだから見られるのであって、そう長生きはできないかもしれません。



◆ 戦後民主主義的妾宅 ◆◆
昨日の記事の最後のほうで、芦川いづみが重大な決心をする、と書きましたが、その結果が上記のクリップです。娘が父親の愛人の家に行くなんていうのは親たちにとっては予想外のことで、このへんが石坂洋次郎式というか、関係者がディベートすることによって打開策を見いだすという、戦後民主主義のプロパガンダのような展開です。

そのへんのことを考えはじめると、ブログがいくつあっても足りなくなるので、ちょっとつま先を湯につけただけでアチッといって引き返します。今回の『乳母車』シリーズは、木村威夫のデザインを見るのが主眼です。

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なんと呼ぶのが適切なのかわからないまま、「愛人」だなんていっていますが、わたしが子どものころには「二号」さんという呼び方があったし、さらに昔は「妾」といったのはご存知の通り。妾宅といえば、芝居のほうから「見越しの松に舟板塀」ということになっています。玄冶店よりも、(現代のではなく)大昔の根岸や向島のほうにありそうな造りですな。

じっさいにそんな造りの妾宅があるかどうかは別として、そういうイメージは厳としてあるのだから、フィクションではそれをどう処理するか、考慮を要します。美術監督がその点について明言していますが、思いきって開放的な造りにしたというのです。

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それがもっとも端的に効果を発揮するのが、姉のところに尋ねてきた石原裕次郎が、姉の「旦那」である宇野重吉が来ていることを知って、思わず生け垣のあいだからのぞいてしまうシークェンスです。家のなかの造りも三間続きで、すべて開け放すことができますが、外部に対しても、この「妾宅」は開放的な造りになっているのです。

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石坂洋次郎の話というのは、ものすごく単純化すると、「話せばわかる」という「哲学」を土台にし、その信念を広めるためのものです。芦川いづみも両親、とくに母に対して、きびしい意見をいうし、外に行っても、思ったことをしまっておくことはしません。「話せばわかる」はずだから、どんな場面でも腹蔵なく話し合うのです。先述したように、ディベート・ストーリー、民主主義物語なのです。

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ストーリーのベースが「開放」なのだから、この家には、黙阿弥だかだれだか歌舞伎作者がつくった「妾宅」のイメージとは、対極にあるデザインが適用されたのです。だから、宇野重吉は鎌倉の豪邸にいるときとはうってかわって、この「妾宅」では文字どおり「アット・ホーム」な表情で、ママゴトのような「家庭生活」、ふつうの夫、ふつうの父を楽しむのです。

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赤ん坊をあやすのに使っていた紙風船が外に飛び出し、外にいた裕次郎が拾って投げ返す。裕次郎に宇野重吉の人柄を観察させるためのシーンだろうが、開放性を強調する結果にもなっている。

新珠三千代にいわれて、庭のしその葉を摘むという、鎌倉の豪邸ではぜったいにしないであろうことを、あえてここで監督がさせたのも、そういう意図でしょう。見えない仕切りで分断された鎌倉の家の「表」と「奥」の多重構造は、この家にはありません。美術監督・木村威夫がどこまで意識的にやったかはわかりませんが、「閉鎖」と「開放」というキーワードでデザインしたことだけは明白に伝わってきます。

◆ 鎌倉のセット2 ◆◆
今日はべつのセットを見る余裕はないので、前回割愛した部分をお見せします。

状況を説明しておきます。山根壽子が家を出る決心をし、すっかり身支度を調えたところに夫が帰ってきます。山根壽子は、終電に乗るつもりでいるのですが、夫に断りもなしに出て行くわけにはいかないので、書斎で話すことになります。

しかし、呼んであった車がやってきて、若い女中が判断に困り、女中頭にお伺いをたてに、厨房にやってきます。このへん、まったく無言なのですが、状況は明快に伝わってくるという、映画的快感があります。

それはさておき、ここで観客は、「あっ、ちゃんと食堂と厨房もあるんだ」と軽く愕きます。そこからキャメラは女中頭の動きを1カットで追い続けるところで、あ、このセットはひとつながりなのか、ともう一回愕くことになります。一階については、ほとんど丸ごと家を造ってしまったようなセットなのです。

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ここは食堂、厨房、食堂、玄関ホールと、ワンショットで撮っている。食堂が見えるのはこのシークェンスだけだが、ちゃんと「プラン」どおりの位置につくったことを示している。予算がない、が木村威夫美術監督の口癖だが、それでも、昔の撮影所がつくる映画は、これくらいのセットを作れるだけの余裕があったのだ。

by songsf4s | 2009-11-01 23:55 | 映画
『乳母車』(石原裕次郎主演、田坂具隆監督、1956年日活映画)の美術 その2

今夜は、ハロウマス、万聖節あるいは諸聖人の祝日の前夜、すなわちハロウィーンです。町のあちこちに「ハロウィン」なんていう、寸詰まりの気色の悪い言葉がばらまかれて、十月はおおいに悩まされましたが、これでああいうものはすべて撤去されるので、助かります。

Halloweenというスペルを見ればわかることですし、それでわからないトンチキも、英和辞典を見れば、アクセントは第三シラブルのeにあり、ここには長音記号もついているので、まちがえたくても、どうにもまちがえようのない仕組みになっています。妥当な表記は「ハロウィーン」以外には考えられません(発音にはヴァリエーションがあるので、「ハローウィーン」までは許容範囲)。「ハロウィン」なんて、いったい、どこにアクセントを置いて発音する気なのでしょうか。「ハ」ですか? ご冗談でショ。

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それはともかく、ハロウィーンに合わせて、映画を一本見たのです。すでに一昨年にご紹介した、Adventure of Ichabod and Mr. Toadです。あのときは、現物を見ずに、小説とYouTubeのクリップだけで書きましたが、今回はアニメのほうもちゃんと見ました。30分あまりの短いものなのです(ふたつの異なる話をつなげて70分ほどの映画にしている)。

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一昨年の記事を修正したほうがいいと思った箇所がありました。イカボッド・クレインの性格設定です。罪のない人間を騙した人間がいい目を見る、後味の悪い話だと書きましたが、アニメではさすがにその点を修正していたのです。イカボッド「も」下心たっぷりな俗物という、イヤな奴に変えられていたのです!

つまり、くだらない人間が二人、つまらないことで争うだけの、どうにも感情移入のしようがない話になってしまったのです。結句、ビング・クロスビーのナレーションはうまいな、だなんてところに落ち着いてしまうのでした! 賞美のしどころは、一昨年の記事でも取り上げた、ビング・クロスビー歌うHeadless Horsemanという曲だけです。

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いちおう、一昨年のハロウィーン特集(とはいわずにEvil Moon特集として、ハロウィーンを目指しているということは伏せておいた)で取り上げた曲を一覧しておきます。

Halloween Theme by John Carpenter
Monster Mash by Bobby "Boris" Pickett & the Crypt Kickers
Friend of the Devil by Grateful Dead
I Put a Spell on You by Alan Price Set
Clap for the Wolfman by the Guess Who
Wolfman Jack by Todd Rundgren
Moonlight Feels Right by Starbuck
Purple People Eater by Sheb Wooley
Something Following Me by Procol Harum
(Ghost) Riders in the Sky その2 by the Ventures
(Ghost) Riders in the Sky その1 by Vaughn Monroe
Bad Moon Rising by Creedence Clearwater Revival

音楽的に考えても、やはりベストはジョン・カーペンターの「ハロウィーン・テーマ」でしょう。もちろん、盤ではなく、映画のスコアとして聴くべきです。

◆ 柴垣、建仁寺垣 ◆◆
さて、本題。前回に引きつづき、木村威夫による『乳母車』の美術、今回は「セット拝見」です。最初に登場するセットは、鎌倉にあると設定されている、宇野重吉、山根壽子、芦川いづみ親子の家です。

わたしは鈍感なのか、注意力散漫なのか、はたまた「室内方向音痴」なのか、一度見たぐらいでは、セットのことが頭に入らないことが多いのですが、今回、久しぶりに『乳母車』を見直し、やっと「プラン」(平面)がわかってきて(まだ曖昧なところが残っているが)、このセットの規模の大きさに愕きました。

いや、もうすこし正確にいうべきでしょう。キャメラが人物の動きを追えるようにするためか、じっさいの「プラン」どおりに部屋が並べてあり、バラバラに組んだセットを映画のなかで接続しているわけではないということです。明らかにセットが別立てとわかるのは、二階にあると設定された芦川いづみの部屋ぐらいでしょう。

まず、家の周囲、二度ほど登場する、おそらくは門を出てすぐの場所と想定されているであろう角。

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両側は柴垣です。昔にくらべれば減ったでしょうが、鎌倉にはまだかなり柴垣の家がありますし、建仁寺垣も目につきます。どちらかというと、建仁寺より柴垣のほうが多いでしょう。一軒、これはまた、と感嘆する柴垣を知っているのですが、ああいうものを維持するのは大変だろうと思います。

いま思いだしましたが、成瀬巳喜男の『山の音』でも、山村聡の義父と原節子の嫁が、柴垣に沿って歩くショットがあります。この映画の美術監督である中古智が、二階堂のほうで撮影したと書いていました。やはり、柴垣があると鎌倉らしい雰囲気になると、美術監督たちは考えるのでしょう。

◆ 宇野重吉邸 門と玄関 ◆◆
つづいて、門と玄関の外。

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不思議なことに、右側は建仁寺垣、左側は柴垣という垣根のチャンポンになっている。こうして静止画にして眺めないかぎりわからないような違いなので、ちょっとした手違いを見切って撮ってしまったか?

ここは夜間でしか登場しないので、セットかロケか判断しかねます。何度も登場するわけではなく、ディテールはわからないのだから、ロケですませた可能性が高いように思います。

以上のシーンは、昼間、父の浮気のことをきいた芦川いづみが、(なにも説明されないが)早く父が帰ればいいのに、という思い入れで、外を見に出てきた、というものです。キャメラといっしょに芦川いづみの動きを追います。

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家に入った芦川いづみは、いったんは自室に行こうと階段を上りかけるが、長唄をうたう母親の声を聞きつけて、引き返す。

玄関の造りは、やはり気を遣うところでしょう。明らかに裕福な家庭なのですが、大きな式台のある日本家屋ではなく、洋風にしています。こういう選択にはつねに強い意味が込められているものなので、こちらもそのつもりで見る必要があります。

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このドアを境にして、セットを分離することも可能だろうが、他のシーンから類推するに、どうやらそういう処理はせず、ひとつながりになったセットにしてあるように思われる。

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廊下の突きあたりに籐の椅子が二脚と小テーブルがある。後段で明らかにするが、向かって左が夫の書斎兼応接間、右側が妻の居間という構造になっていて、田坂具隆監督は、その中間に芦川いづみを坐らせた。

◆ 「奥様」のいる場所としての「奥」 ◆◆
廊下の奥に遠く芦川いづみを捉えたキャメラは、こんどは切り返して和室のなかを見せます。これが凝っているのです!

あとでわかることですが、このふた間続きの「奥」は、さまざまな面ではっきりと「表」とは区別されています。ここでいっている「表」と「奥」というのは、武家屋敷におけるなかば公の場(表)と、私的な空間(奥)のそれぞれを指す意味なのですが、まさに、この「和」の空間は「奥」の造りになっています。ただし、夫婦の寝室はここには出てきませんが。

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芦川いづみが黙って籐の椅子に坐り、見やった先に母が三味線を弾きながらうたっている。この背景はわからないものだらけ。襖や障子があるべき位置に立てられているのは「葭戸」(よしど)だそうな。記憶をまさぐってみたが、現物を見たことはないようで、ほかの映画で見たような覚えがあるだけ。金持ちの家、それも、あるタイプの家庭にだけあるものだろう。秋になったら取り外してしまうのだから、一般家庭には無理。天袋の下に同じ柄の戸(天でも地でもないから「中袋」?)があるが、こんなものも無知にして知らない。

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こちら側にも葭戸。現実にも贅沢なのだろうが、見た目もよい。畳の黒いへりを見せたくないと映画関係者はみないうが、木村威夫も畳を隠すために敷物を使った。

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へりは黒くない。目立たせないように、緑か茶のものを使ったのだろう。

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山根壽子が芦川いづみの前に坐ったので、キャメラは逆方向に切り返すが、ちゃんと反対側もセットがある。取り外せるようにしてあったのだろうが、一階部分はほぼ丸ごと家を建てるようにしてつくったことがこのあたりでわかってくる。

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ちゃんと向こうに玄関があるのだから、灯りもつく。殿様、宇野重吉のご帰館で、女中頭が玄関に出てきたのだ。

◆ 応接間兼リスニング・ルーム ◆◆
女中頭が旦那様を迎えに出るだけで、妻も娘も立ち上がらないのは、やはり戦後の映画だからでしょうね。戦前なら、一家全員で出迎えたにちがいありません。

宇野重吉は家に入るとすぐに左に曲がって、書斎か応接間と思われる部屋に行きます。妻が出てきて部屋の灯りをつけたり、上着を受け取ったりするのですが、そのとき、玄関脇のドアではなく、右手のほうからあらわれます。これもあとでわかるのですが、ちゃんと廊下とこの書斎をつなぐドアがあるのです。

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お食事は、お風呂は、ときく妻に、夫は、これを一枚聴いてからにしようと、今日買ってきたレコードを示し、キャビネットのふたを開けます。

このふたが透明プラスティック、正面パネルの一部も透明プラスティックで、ターンテーブルの様子が見えるようになっています。これは木村威夫の特製だそうで、じっさいにそういう商品が登場したのは、この映画から数年後のことだとか。

べつのシーンから、このオーディオ・セットがよく見えるショットを拾いました。

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これを見ると、どうやらターンテーブルが二連になっているらしい。SP盤の時代だから、クラシックなどの長い曲を聴くにはそのほうが便利だったのかもしれない。

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せっかくの透明キャビネットだから、伊佐山撮影監督は一瞬だけ、回転するターンテーブルを捉えた。

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最初は「変な位置に坐るなあ」と思ったが、まだステレオではなく、モノーラルの時代だから、スピーカーはひとつしかないのだと気づいた! 宇野重吉という俳優がそういう印象を与えるところがあるのだが、なんだか、家ではいたたまれないようなようすで、この椅子だけが彼の居場所のように見えてしまう。

◆ 塔の上の姫君 ◆◆
久しぶりの長尺記事になってしまい、お疲れでしょうが、付随的なことはさておき、三者三様の居場所のあり方だけはひととおり見ておくことにします。最後は二階にある芦川いづみの部屋です。

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海を眺めながら、彼女が一大決心をしていたことがつぎのシークェンスでわかる。

ちょっとした眺めの部屋です。背景はここも書き割りではなく、スクリーン・プロセスです。波が打ち寄せ、人影が動いています。

しかし、これはどこを写したのでしょうか。よその土地でロケされた可能性もありますが、とりあえず鎌倉での撮影と仮定します。河口らしいものが見えますが、鎌倉で湾曲した海岸線のなかほどに河口があるとしたら、滑川しか考えられません。そこまではいいとして、では、キャメラはどこに置かれたのか、です。あれこれ考え合わせると、材木座の光明寺の裏山ではないでしょうか。ほかに都合のよい高台を思いつきません。

グーグル・マップ

◆ 音楽のメタファー ◆◆
夫の宇野重吉は、ちょっとしたオーディオ・セットをもつクラシック音楽ファン、妻の山根壽子は三味線を弾き長唄なんぞをたしなむ、娘の芦川いづみの部屋にはアップライト・ピアノが置かれている、というように、物語がはじまって早々に、三人のキャラクターが音楽的に塗り分けられています。

これは明らかに意図されたものです。とりわけ、「洋」の夫と「和」の妻の空間が、廊下をはさんで鋭利に分断されていることが、偶然のはずがありません。しかし、それではそこからなにか明快な方向付けが得られるかというと、そんなことはありません。ただ単に、二人のあいだにある距離があることだけが視覚的に感得されるにとどまります。

いや、それでいいのです。簡単に底が割れては、シンボリズムではなく、説明になってしまいます。ここは、この一家に起こる波乱を予感させれば十分であり、それが豪儀なオーディオ・セットと三味線の対比の意味でしょう。

またしても、石原裕次郎登場には至らず、相済みません。次回、一大決心をした芦川いづみは、第二のセットで裕次郎に出会うことになるでしょう。
by songsf4s | 2009-10-31 23:55 | 映画
鎌倉駅と『乳母車』(石原裕次郎、芦川いづみ主演、田坂具隆監督、1956年日活映画)

なんだかくどい話になってしまいましたが、「狂った果実 by 石原裕次郎 (OST 日活映画『狂った果実』より) その2」と、「Nikkatsuの復活 その2」で、二度にわたってふれた、鎌倉駅の階段について、今日は決着をつけようと思います。

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田坂具隆監督の『乳母車』に、この階段が出てくることはちゃんと記憶していて、いつかそちらを確認するといいながら、ここまで引っ張ってしまったのは、ひとつにははるか昔のテープが傷んで見られなかったためです。いえ、VHSではスクリーン・ショットをとれないので、見られても同じことですが。

やっと借金を返済する気になって、『乳母車』を見たはいいのですが、見終わって、スクリーン・ショットを格納するフォルダーを開けたら、まったくなんにも撮れていないことがわかり、一昨日も昨日も更新できませんでした。

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VOBをAVIに変換するといいのではないか、なんて思い、DVDdecrypterとGordian Knotでやってみたのですが、昔はオーケイだったGordian Knotが、新しいヴァージョンではなぜかエラーばかりでダメでした。

ではプレイヤーを替えるかというので、ほかのものを試したところ、VLCでうまくいったものの、これも問題ありでした。ひとつは、マウス・クリックしか方法が見あたらず、キーボード・ショートカットがわからないため、ひどく面倒だということ。もうひとつは、吐き出される静止画がPNGで、JPEGよりサイズが大きくなってしまい、HDDを圧迫しかねないことです。PNG→JPEGの一括自動変換は可能ですが、できればよけいなパスはかませずに済ませたいものです。

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そうこうしているうちに、一度はダメだったGOMプレイヤー(ほかのことはともかく、キャプチャーに関するかぎり、これがいちばん手際よくできる)でのISOイメージからのキャプチャーが、なにも設定変更などしないのに、なぜか以前のようにちゃんとできるようになり、話はぐるっと輪を描いて元に戻りました。

はじめからGOMでやろうとしたのに、それがうまくいかなくて、リッピングやらAVIへの変換やら他のプレイヤーのインストールやら、その他、あれこれと大騒ぎをしたのに、これはどういうことだよ、でした。

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まあ、あれこれインストールしているうちに、なにかDLLでも書き換わって、GOMのトラブルを引き起こしていた原因が除去されたのでしょう。だから、ジタバタしたのもまったくのムダではなかったということにしておきます!

◆ 階段話はつづく ◆◆
さて、鎌倉駅の階段です。昔の記事をご覧あれといっても、だれもご覧なぞしてくださらないのは目に見えているので、冗漫ながら、『狂った果実』の階段と、わたしが撮った最近の階段の写真を、古いキャプションごと、ここに再掲します。

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この階段を囲む鉄の手すりもまったく記憶がない。最近の改装ではなく、大昔に作り替えたのだと思う。やはり裕次郎が主演した『乳母車』に、芦川いづみが、家を出る母親をこのプラットフォームで見送るシーンがあったが、いつかチャンスがあったら、ここが映っていないかどうか、あの映画を確認してみたい。

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東京方向に向かって撮影している。したがって、背後が逗子・横須賀方向。平日の午前中だからこんな写真が撮れたが、週末になると、ここはつねに大混雑。

さて、その確認の結果はつぎのようなものでした。いや、そのまえにシテュエーションを説明しておきます。宇野重吉扮する夫が、外に女(新珠三千代)をつくり、子供まで産ませたことを知っていながら、妻の山根壽子は夫を苦しめようという気持と、経済的な理由から問題を放置していました。しかし、娘の芦川いづみにそのことを責められ、結局、家を出ることになります。

その決定的な夜、母が出て行った直後に帰宅した芦川いづみが、母を止めようとあとを追って鎌倉駅に駆けつけ、東京行き終電車に乗ろうとしていた山根壽子を連れ戻そうとするという場面です。

鎌倉駅での最初のショットは、芦川いづみが改札を通るというだけのなんでもないものですが、これだけでわたしは「あれ?」となってしまいました。

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現在の鎌倉駅では、このように改札を通る人間が、直角に曲がって線路下の通路に入る場所は、一カ所しかありません。江ノ電との連絡改札口です。

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はじめは、この赤い線のように芦川いづみが歩いたと考えた。この図は、表駅から裏駅(江ノ電側)に向かって見ている。したがって、右が東京方面、左が逗子・横須賀方面。手前が下り1番線、向こうが上り2番線である。つまり、以下の写真のキャメラと同じ向きになっている。

そのように仮定して以後のショットを見ていくと、またしても「あれ?」と疑問が湧いてきます。

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背後にテアトル鎌倉(映画館、現存せず)が見えているので、上り二番線にレンズを向けていることがわかります。しかし、江ノ電との連絡通路を通ってきたのなら、芦川いづみの動きから考えて、逆向き、すなわち一番線側、表駅側が見えなくてはいけないのです。

そういう細かいことにはこだわらなかったのかもしれません。しかし、もうひとつの可能性は、わたしはまったく記憶していないものの、通路と直角になる改札口が昔はあったのだということです。こちらのほうが可能性が高いでしょう。なぜなら、芦川いづみの家は江ノ電沿線ではなく、材木座あたりにあるという設定だと想像されるからです。

だから、江ノ電は使わず、タクシーかバスで駅に着き、表駅の改札から構内に入り、現実の鎌倉駅での人の動きを正確になぞった結果、ああいうキャメラの動きになったのだと考えるほうが自然のように思います。

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つまり、このシークェンスでの芦川いづみも、『狂った果実』の石原裕次郎および津川雅彦とほぼ同じ動線をたどってプラットフォームに立ったということです。ただし、裕次郎たちは下り1番線の電車に飛び乗ったのに対して、芦川いづみは、上り2番線に向かって立つ母親に声をかけるというところで、向きが逆方向になったわけです。

◆ 「ロケ嫌いの田坂組」 ◆◆
そもそも、『乳母車』を再見しようと考えた理由は、『狂った果実』冒頭で捉えられていた階段の手すりの形に見覚えがなかったからです。

しかし、その後、木村威夫の『映画美術』で、『乳母車』では、階段のセットをつくった、ああいうものは「ピックアップ」といって、現実にあるものをコピーするだけの作業だから、退屈きわまりない、といっているくだりを見つけ、それなら、どのようにロケとセットをつないだのか確認したいと思ったのです。そのことは「Nikkatsuの復活 その2」という記事に書きました。

さて、細かくこのシークェンスを検討して、へへえ、と唸りましたね。うっそー、そういう風につないじゃうのー、てなものです。ちょっと重複しますが、また鎌倉駅プラットフォームに戻ることにします。

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テアトル鎌倉の表には『?人船』と『オセロ』というタイトルが見える。1956年の映画ということで調べたら、前者は稲垣浩監督、三船敏郎主演の『囚人船』、後者はソ連映画だとわかった。洋画邦画をチャンポンでかけていたらしい。

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ここまでは鎌倉駅でのロケです。以下はスタジオでのショット、木村威夫が、「実物をコピーするだけだから面白くもなんともないが、仕事だからまじめにつくった」というセットでの撮影になります。

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背景は書き割りではなく、スクリーン・プロセスによる合成。スタジオだからと思っていると、ここで上り電車が入線してきてギョッとする。

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木村威夫が、山根壽子に「よろけ縞」の着物を着せた、といっているが、それがこの着物。よろけたような曲線だからだろう。手ぬぐいなどにも使われる伝統的な柄。いや、ここで愕くのは、美術監督が衣裳のデザインもしたということだ。ほかの映画では、森英恵と衣裳の相談をしたといっているので、やがて分業化されるのだろうが、ただし、森英恵にいろいろ注文をしているので、衣裳デザインは美術監督の職掌という原則に変わりはなかったのだろう。

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もはや当初の目的などどうでもよくなってしまったが、はじめはこの手すりの形を確認したかったのだ!


◆ 終電のあとで ◆◆
お読みになっている方もお疲れでしょうし、わたしもキャプチャーと写真の並びの確認でくたびれましたが、鎌倉駅のシーンだけは一気にやってしまおうと思います。

結局、芦川いづみは麹町の「叔母さん」の家に行くという母を止められず、悄然と帰路につきます。

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そこへ、遅れて駆けつけた宇野重吉が姿を見せるのですが、これがやはり正面や背後からではなく、左手から斜めにフレームに入ってきます。

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こういうところまで細かく演出する監督とキャメラマンが、俳優に現実とは異なる動線をたどらせる可能性は低いので、やはりわたしが記憶していない改札口が昔はあったにちがいありません。

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父と娘が改札に向かって歩きはじめると、灯りが消される。終車が行くと、最後の乗降客を追い出すように灯りが消されるのはいまでも変わらない。だから、リアリズムなのだが、ここではシンボリズムでもある。

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向こうに見えるネオンサインは「ステーション食堂」と読めるが、記憶にない。

美術監督自身が回顧してくれると、映画の見方も変わるもので、今回の再見ではなんども「へえ」と思いました。せっかくだから、「美術監督・木村威夫といっしょに見る『乳母車』」をもう少しつづけたいと思います。なんたって今回は裕次郎の出番がなかったわけで、このまま終わりにするのはどうにも具合が悪いですしね。

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by songsf4s | 2009-10-29 23:57 | 映画
想い出 by 石原裕次郎(『ゴジラの逆襲』『太平洋ひとりぼっち』『狂った果実』の訂正と補足 その2)
タイトル
想い出
アーティスト
石原裕次郎 (OST)
ライター
清水みのる作詞、寺部頼幸作曲、久我山明編曲
収録アルバム
武満徹全集 第3巻
リリース年
1956年
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前回にひきつづき、本日も、Oさんに提供していただいた資料にもとづく過去の記事の訂正と補足です。今日は『狂った果実』です。

武満徹全集の解説を読んで、おっと、こりゃまた大間違い、と頭を掻いたのは、劇中で石原裕次郎がウクレレを弾きながら歌った曲は、〈狂った果実〉ではなく、〈想い出〉というタイトルであり、作曲者はクレジット・タイトルに記されている佐藤勝でもなければ、武満徹でもなく、寺部頼幸だということです。

f0147840_23525522.jpg寺部頼幸はスティール・ギターおよびギター・プレイヤーで、戦後、弟の寺部震が率いるココナッツ・アイランダースというハワイアン・グループなどでプレイしたそうです。このへんのことはまったく不案内で、たいしたことが書けず、どうも相済みませぬ。調べてもコンプリヘンシヴな記述は見あたらず、

http://www9.plala.or.jp/matchnet/bond.html
http://www.alani-aloha.com/alani_cd60405.html
http://blog.livedoor.jp/abegeorge/archives/50841352.html

などを参照したにすぎません。こういう人のキャリアには面白い逸話がいっぱいあるのではないかと、鼻がうごめきます。

ということで、Oさんのご厚意により、かつては映画から切り出したものやら、YouTubeのものやらをご紹介したものを、ここにはじめて、遠回りせず、高音質、フル・ヴァースのヴァージョンへとグレードアップしてお届けできることになりました。

2010年4月追記
以下のサンプルは正しくは「狂った果実」(佐藤勝作曲)です。「想い出」と取り違えてアップしてしまったのですが、記事の前後関係を壊さないために、削除せずにおきます。「想い出」の低音質サンプルは「狂った果実」その1においてあります。

サンプル 石原裕次郎〈想い出〉

これをもって懸案解決、と宣言したいのですが、じつは、まだかすかに疑問が残っています。こういうミニ・アルバムが存在することをはじめて知ったのですが(10インチ盤か?)、ここに〈リコール ツー マイ メモリー〉というトラックが収録されていて、作曲は寺部頼幸、作詞は石原慎太郎となっています。なんだか気になります。〈想い出〉の歌詞ちがいヴァリアントの可能性なきにしもあらずです。ご存知のかたがいらしたら、ぜひコメントをどうぞ。

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もうひとつ引っかかるのは、佐藤勝作曲、石原慎太郎作詞の〈狂った果実〉という、シングルになった曲はなんだったのか、ということです。これが映画のなかで使われていれば、まったく問題がないのですが、映画の挿入曲は〈想い出〉だけ、〈狂った果実〉という映画と同題の曲は、映画と同じスタッフの手になるものでありながら、映画に登場せず、というのでは、傾げた首が折れちゃいますよ。

◆ やや趣の異なる共作形態 ◆◆
『太平洋ひとりぼっち』とおなじく、『狂った果実』のスコアも、単独クレジットではなく、佐藤勝と武満徹の共作となっています。このとき、佐藤勝は黒澤明の『蜘蛛巣城』で忙しく、とうてい他の映画を抱え込む余裕がなかったということですが、親しくしていた中平康の監督第一作で断りきれず、師匠の早坂文雄のところに出入りしていた武満徹の助力を仰いだのだといいます。武満徹にとっても、これが本格的な映画音楽第一作となりました。

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解説によると、作業の分担は、まず佐藤勝が主題歌を書き(結果的にこれは使用されず、そのメロディーはインストへと再利用された)、武満徹が佐藤の構成案にしたがって、メイン・タイトル以下の大部分の曲を書いたのだそうです。オーケストレーションはふたりが分担し、コンダクトは佐藤勝がおこなったとのことです。

プログラム・ピクチャーなので、スケデュールにまったく余裕がなく、撮影に先行して録音された曲も多かったそうで、ノーマルな共作とはいいかねますが、これまた、『太平洋ひとりぼっち』と同様、結果的にうまくいったのだから、ものをつくるというのは、つくづく一筋縄ではいかないと痛感します。

またまたどこかの星団か恒星のような名前がついていますが、以前、映画から切り出してサンプルにした曲を中心に、高音質ヴァージョンをアップしておきました。

以下はサンプル
〈メイン・テーマ〉
〈DB4-M4〉
〈DB8-M8〉
〈メイン・テーマ〉(unused)

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◆ 「オンリーさん」というもの ◆◆
武満徹全集の解説を読んでいて、えっ、そういう解釈があるのか、と驚いた箇所がありました。『狂った果実』で北原三枝が演じた女性のことを「人妻」と書いていたのです。あれは人妻ではなく、「オンリーさん」または、それに類する女性でしょう。

「オンリーさん」という言葉がすんなりわかる人はもう少ないかもしれません。進駐軍(米軍)関係者と短期契約を結んだ愛人のことです。進駐軍関係者というのは、軍人および軍属です。軍属とはなんぞやなどといいはじめると、どんどん話が長くなるので略しますが、あの映画で北原三枝を囲っていた外国人は、軍人には見えず、軍属ないしは、それに近いビジネスマンだろうと思います。横浜のベース・キャンプにかかわるビジネスをしている金回りのいいアメリカ人という、当時にあってはごく自然な設定と見て大丈夫です。

鎌倉駅のプラットフォームでばったり会ったときに、彼女が津川雅彦に対して自分の素性を隠そうとしたのは、結婚していることを知られたくなかったからではないでしょう。売春類似の行為をしていることを知られたくなかったのです。あの当時の観客なら、大多数はひと目でそう解釈したはずなのですが、時代が下って、進駐軍関係者を対象とした短期専属契約売春というものが身のまわりからなくなると、それがわからなくなってしまうのでしょう。

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なぜ、裕次郎扮する兄が、弟の恋人を強引に奪ったのか、という点に関しても、北原三枝を外国人と結婚したただの人妻だとみなしてしまうと、あの一連の流れを自然に解釈できなくなるでしょう。セリフのなかでも暗示されているように、堅気の女ではない、という明確な認識があったからこそ、裕次郎は直裁に彼女に肉体関係を迫るのでしょう。

そしてそのときに、世間知らずの弟にこういう性悪女は御しきれない、この女狐から弟を守ってやるのだ、というエクスキューズを自分に対してしているのです。観客も、相手はオンリーさんだから、裕次郎の行為に眉をひそめたりはしません。盗人にも三分の理、裕次郎の考えも、それなりに筋が通っていなくもない、と感じるのです。

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北原三枝をふつうの人妻とみなすと、裕次郎の行為の意味は異なったものになってしまい、ひいては、映画全体の構造が変わってしまうのではないかと危惧し、またしても、音楽ブログとしては出過ぎたことを書いてしまいました。ご容赦を。

◆ 過去の映画の未来 ◆◆
Oさんと対話していて、いやホントにねえ、困ったことですねえ、と嘆息しました。以下、勝手にOさんの私信の一部を引用します。

「最近では海外でも古い日本映画を容易に見れる環境になっており(中略)、みんな驚くのが、日本では有名な作品がLPやCDなどでフルスコアが音源化されていないこと。欧米の物と遜色のないほどの優れたスコアの数々が埋もれたままになっているのは、マスターテープの不在とかの物理的な問題があるにせよ、音楽文化の成熟度の違いでしょうか? もっと多くの海外の人々に日本映画のサントラに関心を持ってもらって、より多くのスコアが日の目を見ることを切望しております」

まったく同感です。すぐれたスコアがまたまだ大量に眠っているはずで、われわれも気づいていない佳作秀作もあるにちがいありません。

海外のブログやフォーラムをのぞいている方はご存知でしょうが、日本映画に対する海外の需要は無視できない大きさになってきています。それなのに、Oさんも嘆かれているように、世界映画史に記録されるような作品ですら、OSTがリリースされていないことがあるのです。たとえば、『東京物語』や『晩春』、『雨月物語』や『流れる』などといった、日本映画の代名詞ともいうべき作品のフル・スコアが存在しないのです。外国人に、どうしてOSTがないのだ、といわれても、われわれだって答えようがありませんよ。

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日本映画界に人がいれば、機は熟した、もはや海外の配給会社にまかせてはおけない、日本の会社が主体となって、積極的にプロモーションをおこなわなければ、ビジネス機会は失われる、と読んでいるはずですが、はて、どうでしょうかねえ。第一歩は、YouTubeの積極的な活用、具体的には、トレイラーの英語版を大量につくり、YouTubeに流すことです。これをやれば、日活アクションなんか、まだまだどんどん売れるでしょう。

いや、こういうことを書いていると虚しくなってくるので、もうやめます。日本映画界が鋭敏であったことなど、かつて一度もなかったのだから、今回もきっと世界の需要を読みそこない、対応をまちがえるだろうという予感がします。わたしにやらせてくれれば、いろいろなことができるのに!


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オリジナル・サウンドトラックによる 武満徹 映画音楽
オリジナル・サウンドトラックによる 武満徹 映画音楽
(『狂った果実』は、サウンドトラックではなく、ボーナス・ディスクに武満徹のこの映画の音楽に関するコメントが収録されているのみ)


武満徹全集 第3巻 映画音楽(1)
武満徹全集 第3巻 映画音楽(1)
武満徹全集 第3巻 映画音楽(1)
by songsf4s | 2009-07-19 23:55 | 映画・TV音楽
メイン・タイトル (OST 『太平洋ひとりぼっち』より)
タイトル
メイン・タイトル
アーティスト
N/A (OST)
ライター
芥川也寸志または武満徹
収録アルバム
N/A (OST)
リリース年
1963年
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漢字の間違い、言葉の用法の間違いはまだしも、ひらがなの間違いというのは、かなり恥ずかしいものだと思います。「は」を「わ」と書くのが典型ですが、しかし、言葉は間違いによって変化するという実証例であるかのごとく、「こんにちわ」は大手を振ってまかり通っています。遠からず「これわペンです」と書くようになるのではないでしょうか。

わたし自身、「ず」と「づ」はよくわからなくなります。そもそも、国語審議会もよくわからなかったらしく、理屈の上からは間違いとするべきものを正しいとし、正しいと考えられるものを間違いとしています。たとえば「跪く」は、言葉の大もとから考えていくと「ひざまづく」のはずですが、「ひざまずく」としなければいけないそうです。理屈に合わないことは不快ですが、ルールではそうなっているのです。

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「大通り」はひらがなで書くと、「おおどおり」ですが、「おおどうり」と書く人もいます。まったくもって母音は面倒ごとのはじまりで、わたし自身も「扇」と変換するつもりで「oogi」とタイプしてから、ちがった、といってタイプし直したりします。

前々回の『ゴジラ』のときには、日本語のアルファベット表記の規則は変だ、あれでは読めないということを書きましたが、そのときに例に挙げたものの一部は、長音の対象外だということに、あとになって気づき、「こんにちわ」並みのひどい間違いだと赤面しました。

「i」は「a」「e」同様、長音の変則規則の対象外だということを、わたしはきちんと理解していなかったのです。知らなかったのはわたしだけでしょうが、「o」と「u」は長音も兼ねるという無茶苦茶な変則ルールをつくったために、こちらも勘違いするのだといいたくなります。

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一国の言語の規則を定める機関がまじめに仕事をしないと、国民が努力しても、ごくごく基本的なレベルで大間違いをするわけで、これはルールのほうが間違っているのだ、といいたくなります。まあ、「ときょ」という首都をもつ国だから、しょーがネーか、と諦め気分ですけれどね。関西に行っても、「おさか」に「きょと」に「こべ」とくるのだから、逃げ場がない!

◆ 太平洋という名の密室 ◆◆
前回もタイトルがはっきりしない挿入曲でしたが、今回も、じつはサウンドトラック盤がないため(市川崑作品の音楽を集めた編集盤に数曲収められているらしいが、もっていない)、勝手にタイトルをつけました。また、スコアの作曲者としてクレジットされている人も二人いるため、作曲者も不明です。わたしの感触では、メイン・タイトルは武満徹のスタイルには感じられないので、芥川也寸志だろうと思いますが。

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いちおう、どういう映画かということを説明しておきます。わたしは子どものときもいまも、まったく関心がないのですが、堀江謙一という人がいます。この人物がかつて、ヨット(正確にはディンギーないしはセイル・ボートといわなくてはいけない。yochtは本来、外洋を航行できる大型帆船または機帆船を指す。『マタンゴ』の船はまさに「ヨット」)で大阪からサンフランシスコまで行ったという出来事がありました。いつのことか忘れたし、調べる手間も省きますが、1960年代はじめのことです。

当時、これは大変な快挙と騒ぎ立てられました。わたしは子どもなので、さっぱり意味がわからず、なんの関心ももちませんでした。この年になっても、だからなんだ、としか思わず、この種のこと(「冒険」と当事者とメディアが呼ぶ行為)には価値などないという考えは一貫して変わりません。

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しかし、石原裕次郎はセイリングを愛するせいか、この題材に執着し、日活とみずからの会社との共同製作で、映画化にこぎつけます。わたしは小学校四年だったことになりますが、たとえば、『愛と死を見つめて』とまったく同様に、この映画には興味ゼロでした。いや、年齢の問題ではなく、いまでも息苦しい映画は大の苦手です。

大人になり、監督が市川崑だというので、なかば義理で見たのですが、感銘が薄いだけでなく、ひどくテンポがのろくて、ヴィデオだったら、がんがん早送りするにちがいない退屈な出来でした。

いま、具体的な例が出てこないのですが、「漂流もの」という「海洋冒険もの」のサブジャンルがあります。わたしにとっては天敵のようなもので、大好きなヒチコックの『救命艇』ですら、きっと漂流ものなのだろうと、いまだに見ていないほどです。なぜ嫌いかというと、あの閉塞感に耐えられないのです。

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映画製作者は、ゴムボートや筏からカメラが動かない致命的欠陥に補いをつけようと、フラッシュ・バックを多用したりしますが、回想シーンのあいだも、ただの間借り、一時的な避難という感覚にとらわれたままで、意識は依然として「洋上の密室」にあり、フラッシュ・バックでは解放感、開放感は得られません。陸に着き、狭いボートから脱出しないかぎり、窒息しそうな気分から抜け出せないのです。

映画が舞台劇と異なるのは、編集によって、自在に、そして瞬時に時空間を移動できることです。しかし、海洋もの、とりわけ、漂流ものは、いつまでも同じ狭い空間から移動できず、わたしのようなタイプの観客は、この苦行から一刻も早く解放されたいと願うことになります。市川崑監督も、この窒息感をやわらげることにおいて特段の能力を発揮することはなく、『太平洋ひとりぼっち』は、この種のものの典型というべき、息苦しい映画です。

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◆ 広々、はろばろのサウンド ◆◆
では、なぜそういう映画を取り上げたのかといえば、ひとつの法則を発見したような気がするので、そのサンプルになるのではないかと思ったのです。どういう法則か?

「ディンギーやヨットが出てくる日本映画は音楽が面白い」

という法則です。当家で過去に取り上げた映画でいうと、やはり石原裕次郎がディンギーで帆走するショットが山ほど出てくる『狂った果実』、東宝特撮ものの一篇、大型機帆船という正真正銘の「ヨット」が出てくる『マタンゴ』がこれに当てはまります(『マタンゴ』の登場人物の一部は、当時の有名人のカリカチュアで、そのひとりはほかならぬ堀江謙一だとか)。

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ま、要するに、海に出て風を帆に受けたときの気分をあらわすような音楽をわたしはおおいに好む、ということをいっているにすぎず、それを「法則」というのは誇大もいいところですが、でも、「法則」なんてのはみな誇大なものですから、わたしが「ディンギー日本映画音楽よしの法則」を唱えたって、それほど無茶でもないでしょう。

前述のように、OST盤はリリースされていないため、すべて映画から切り出した音質の悪い断片、しかも、多くはセリフがかぶっていますが、すこしサンプルをあげておきました。じつは、すべてのサウンドトラックを切り出し、タイトルをつけて自家製のアルバムをつくったのですが、そんな大げさなものをお聴きになりたい方はいらっしゃらないだろうし、トラブルを招く怖れもあるので、控えめにしておきました。

以下はサンプル(ただし、ここで〈好天〉と仮に名づけた曲のタイトルは正しくは〈M6〉だということがわかり、改めて高音質のサンプルをアップしたので、この曲に関してはその訂正記事のほうをご参照あれ)
メイン・タイトル
北風吹く
嘆きの父
伊豆七島
好天
走れマーメイド
近くて遠き

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◆ コンビネーション・プレイ ◆◆
武満徹が嫌いということはないのですが、いたって保守的な嗜好なので、グルーヴ、メロディー、和声という次元で音楽を捉える傾向があり、以上のサンプルもまた、保守的な意味で「いい曲」を拾ってみたものです。

〈メイン・タイトル〉は懐かしい手触りがあり、おおいにけっこうです。ほんの数小節で、昔の映画を見ている気分になり、リラックスしてしまいます。こういうすばらしい音ではじまった映画が、あれほど退屈なものになったのは信じられない現象です。

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このメイン・タイトルなら、田坂具隆の『陽のあたる坂道』、滝沢英輔の『あじさいの歌』、中平康の『あいつと私』といった、石坂洋次郎原作、石原裕次郎主演、芦川いづみ共演の明朗青春映画のタイトルとして頂戴しても、ぴったりはまるでしょう。いや、わたしは『あじさいの歌』のメイン・タイトルは好きなので、べつにあのままでもいいのですけれどね(いま調べたら、『あじさいの歌』の音楽監督は小津映画の常連、斉藤高順だった。われながら好みが一貫している)。

〈北風吹く〉は〈メイン・タイトル〉の変奏曲です。このシーンにおいてみると、いっそう、この曲に組み込まれた昂揚感が明瞭になります。

〈嘆きの父〉は、大の贔屓、森雅之のセリフ入りです。企画の推進者である裕次郎は、皮肉なことに、ひどいミスキャストだと感じますが(これほど大阪弁が不似合いな俳優はほかにいないのではないか?)、森雅之と田中絹代の夫婦はおおいにけっこうでした。長生きして、年老いた森雅之の演技というのを見てみたかったと、つくづくと思います。

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森雅之

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田中絹代と石原裕次郎。市川崑は被写体をワイドスクリーンの両端に片寄せて捉えている。

〈伊豆七島〉はこの映画のスコアのなかで唯一の4ビートです。60年代前半から中盤の日本映画を見ていると、スコアのどこかに4ビートの曲を嵌めこむのは、ほとんど常識だったのではないかと思えてきます。時代の気分をあらわすものだったのでしょう。この部分は、芥川也寸志なのか、武満徹なのか、どちらなのだろうと首をかしげています。

〈好天〉は、この映画のなかでもっとも楽しい曲です。メロディー、パーカッションの使い方、アレンジ、いずれも;好ましく、文句なしです。途中、ギター・コードのストロークが出てきますが、これまた盛り上がりますし、マイナーにいくところには、ホルンのサウンドのはろばろした感覚も相まって、心地よいセンティメントがあります。

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〈走れマーメイド〉は、〈メイン・タイトル〉のアップテンポ・ヴァージョンで、直前の〈好天〉の一部に聞こえるようなアレンジが施されています。エレヴェーターに閉じこめられたようなこの映画のなかで、この2曲はおおいなる救いです。

〈近くて遠き〉は、いかにも武満徹、という曲を選んでみました。いや、シャレの好きな人間なら、お互いの役割を交換してみる、という悪戯をしかねないので、保証はできませんが、でもまあ、ふつう、武満徹の音楽といえば、だれでもこういうタイプの和声をイメージするでしょう。

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だれのアイディアだったのか、たんなる苦肉の策だったのか、はたまた、なんらかのトラブルの結果だったのか、そんなことは知りませんが、芥川也寸志のオーソドクスな音と、武満徹の屹立した個性の組み合わせは、不思議な対比をなして、おおいなる魅力を発揮しています。こういうこともあるのだから、なにごともやってみないことにはわからんな、です。

◆ 出口なし ◆◆
f0147840_2329557.jpgこういう風に、映画にはまったく魅力を感じないけれど、音楽の出来は非常にいい、というのは困惑します。映画の出来を云々する以前に、音楽がひどくて怒ってしまう、というのは(そういうのは70年代以降の日本映画にかぎられるが)まだ始末がいいといえます。憤激というのはひとつの「出口」なので、「解決」がつくのです。

でも、「いい音楽だなあ」という気分と、「このストーリー、この絵では窒息してしまう」という閉塞感の組み合わせは、出口がなくて、結論のつけようがありません。製作者側としては、苦難の末にサンフランシスコに着いたときの解放感をカタルシスと考えたのかもしれませんが、もとが実話なので、ドラマティックなところはなく、ただ単に密室から這い出て、ばたりと倒れるような、カタルシスにはほど遠い終わり方です。事実は小説よりも奇なりかもしれませんが、小説より盛り上がるものなり、ではないことがよくわかりました。

ともあれ、今回は、「映画は退屈でも、音楽はすばらしい」ということは、やはりあるものなのだなあと、サントラ・ファンにいわせれば、当然かもしれないことを痛感しました。つぎも、映画の出来は『太平洋ひとりぼっち』をホコリのなかに置き去りにするほどの圧倒的なひどさなのに、音楽は楽しいという作品を予定しています。

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この画角で吊り橋を捉えるのは、当時は新鮮だったのではないだろうか。時代が下ると、ジェイムズ・ボンド・シリーズにも、このような絵が出てきた記憶がある。




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by songsf4s | 2009-07-16 23:38 | 映画・TV音楽