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(仮)埠頭に死す by 伊部晴美(日活映画『赤いハンカチ』より その2)
タイトル
埠頭に死す(仮題)
アーティスト
伊部晴美
ライター
伊部晴美
収録アルバム
N/A(『赤いハンカチ』OST)
リリース年
1964年
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説明の都合上、『赤いハンカチ』のプロットを書きます。いま、一度タイプした「簡単に」という文字を削除しました。簡単にはいかないにちがいありません! いっそ、プロットに添ってサンプルを並べて音を聴いていく形にするか、と方向転換しました。

忘れそうなので先に書いておきますが、「赤いハンカチ」という曲が何度も出てくることをのぞけば、この映画のタイトルが『赤いハンカチ』である理由は見あたりません。「あの娘がそっと涙を拭いた」ものも、拭かないものも、赤いハンカチの端っこすら画面には出てきません。

もうひとつお断り。トラック・タイトルは、「赤いハンカチ」をのぞき、すべてわたしが恣意的につけた仮のものです。

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◆ お豆腐やさーん! ◆◆
冬の夜、神奈川県警の三上次郎(石原裕次郎)と石塚武志(二谷英明)という二人の刑事が、横浜港の埠頭で麻薬の運び屋(榎木兵衛。この人もまた顔を見せてくれないとさびしく感じる日活脇役のひとり)を逮捕しようとしますが、逃走されてしまいます(冷静に考えると、捜査の山場で容疑者の逮捕が予想されるときに、刑事二人しかいないというのは変なのだが!)。

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逃げる男、榎木兵衛

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追う男たち、石原裕次郎と二谷英明

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消えたバッグ

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おでん屋

運び屋は逃走の途中でトラックにはねられてしまいます。事故現場には麻薬が入っていたはずのバッグが見あたらず、二人の刑事は近くで商売していた屋台のおでん屋のオヤジ(森川信)が怪しいとにらみ(じっさい、人通りがぜんぜんない場所で商売するのは奇妙!)、署に連行して尋問します。

サンプル 埠頭に死す

朝になっても森川信はなにも話さず、ただ「娘が心配しているだろうな」と呟きます。それを聞いて、裕次郎がひとりで森川信の家に向かいます。

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以下は、刑務所のような長い煉瓦塀に沿った道で豆腐屋が商売をしているところに、路地から浅丘ルリ子があらわれる、この映画における彼女のファースト・ショットの音です。ささやかな断片にすぎず、たいした意味はありませんが、わたしの趣味でアップしておきます。

サンプル お豆腐屋さ~ん

この石原裕次郎が路地を歩くショットは印象的です。なんだか変な感じがするので、よく見ると、画面奥に向かって裕次郎がキャメラから遠ざかる形で歩いていくだけでなく、キャメラ自体も移動車に載せて画面手前に向かって後退させているのです。つまり、倍の勢いで裕次郎がキャメラから遠ざかる絵になっているのです。

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若い監督の「野心」なのか、変わったことをしようという間宮義雄撮影監督の提案か、そのへんはわかりませんが、このショットを特別なものにした意味は想像がつきます。舛田利雄としては、このシークェンスは重要なポイントなのだと、観客の注意を促したかったのでしょう。

なぜ重要か。アクション映画、犯罪物語の形式をとっているが、これはじつはラヴ・ストーリーなのだ、という宣言ではないでしょうか。だから、ヒーローがヒロインに出会う瞬間、ひと目で恋してしまう瞬間を強調したのでしょう。

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「わたしのおみおつけ、とってもおいしいんですよ」

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「うまい! へそまで温まる」

裕次郎は森川信の家の勝手口に立ったまま、浅丘ルリ子に豆腐のみそ汁をごちそうになり、出勤するする彼女についていきます。

サンプル 道すがら

ヒロインもまた、ヒーローのことを好ましい男と感じたことがこのシーンに表現されています。いやまったく、この一連のシークェンスの浅丘ルリ子はすばらしく、ヒーローといっしょに男の観客もみな彼女に恋をしてしまいます。『渡り鳥』シリーズで、いつもヒーローを見送って、滝さん、といって涙をこぼしていたのは、もう昔のことなのだということも強く感じさせます。

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◆ あなたは自分を赦せるんですか? ◆◆
裕次郎が出かけているあいだに、二谷英明は、あいつは大学出のエリート警官で、射撃もオリンピック候補の腕前、出世のためには強引なこともする、だが、俺はたたき上げだ、おまえの気持はわかる、などと慰めるようなフリをして、森川信の不安をかき立てます。

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拘留許可が下りたのか(このへんは昔の映画なのであやしい。不当逮捕の可能性も感じる)、森川信は移送されることになり、二谷英明に付き添われて護送車に乗ろうと歩いている途中で、二谷を突き倒し、その銃を奪って逃走しながら発砲します。

起きあがった二谷は森川信に向かって突進し、石原裕次郎は銃を構え、森川信に狙いをつけます。二谷が森川信にタックルした瞬間に、裕次郎も発砲します。その弾丸は容疑者の心臓を撃ち抜いてしまいます。

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査問の結果、過失と判断が下され、石原裕次郎と二谷英明は、容疑者の娘、浅丘ルリ子をその勤め先に訪ね、謝罪します(ここで、二人とも地方に飛ばされることになった、というが、神奈川県警管轄の「地方」とはどこなのか、神奈川県民としては気になる!)。

サンプル お悔やみ

このシークェンスの浅丘ルリ子も、やはり、昔とはまったくちがう女優なのだと感じさせます。そして、このときはじめて浅丘ルリ子を見た二谷英明もまた彼女に恋をしてしまったことが、目つきと表情でわかります。

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「過失? そういえば、あなたは自分が赦せるんですか?」

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「わたしは赦しません。父を殺したのはあなたです」

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かくして状況はできあがり、ここからがほんとうの意味でのドラマのはじまりです。

◆ 北国の春もゆく ◆◆
それから四年、とあっさり時間がたって、石原裕次郎は雪の舞う山でダム工事をやっています。東北か北海道か、そういう設定のようです。ここだけは「赤いハンカチ」の「北国の春もゆく日」というラインに義理立てしたのではないでしょうか。

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サンプル 赤いハンカチ(飯場ヴァージョン)

それにしても、なぜ日本人はさすらうときに北の地を選ぶのか? アメリカだと、どこかに逃避行といえば、古来「国境の南」と決まっています。『長いお別れ』のテリー・レノックスもそうしたし、シナトラもdown south of the border, down in mexicoと歌っていますし、スティーヴ・マクウィーンとアリー・マグロウも、サム・ペキンパーの『ゲッタウェイ』でメキシコを目指して必死で逃げました。カナダやアラスカにさすらうのは稀な例外でしょう(『アラスカ珍道中』をその例としていいのかどうかちょっと迷う)。

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日本の場合、南にさすらってしまう話はあまりないと思います。獅子文六の『てんやわんや』がどこか四国の暖かいところに逃避する話でしたが、あれは自身の戦争中の体験をもとにしたからでしょう。佐世保まで流れる『東京流れ者』や、『大海原を行く渡り鳥』(雲仙)、『波涛を越える渡り鳥』(香港、タイ、ラオス)といった渡り鳥シリーズの一部が、南の土地に流れますが、多数派はやはり北にさすらいます。

なにか「国民的暗黙の合意」のようなものが、この裏側にあるような気がするのですが、では、その実体はなにかというと、よくわかりません。『赤いハンカチ』に表現されたように、きびしい風土によって「みずからを責め苛む」ためでしょうか?

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『赤いハンカチ』は金子信雄の代表作でもある。いきなり裕次郎の茶碗酒を奪って飲んでしまう、楽しい初登場シーン。

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神奈川県警の土屋という警部(金子信雄)が北の地の飯場を訪れ、裕次郎に、その後、二谷英明がスーパーマーケットを開き、金持ちになったことを話します。しかし警部は、その資金の出所は四年前の事件と関係があるのではないかと疑っています。彼は裕次郎をテコにして、古い事件にまつわる疑惑を解明しようとしているのです。

サンプル 警部の挑発

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「でも、あの金はいったいどこから出てきたんだ?」

いままでの映画と違って、今回は音楽が鳴っているところはすべて切り出し、MP3にしたので、なかなか前に進みません。まだ、この伊部晴美の『赤いハンカチ』スコアでいちばん好きなトラックにはたどりついていませんが、本日はここまで、以下、次回に続きます。

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by songsf4s | 2010-01-12 22:43 | 映画・TV音楽
『赤いハンカチ』予告篇(日活映画『赤いハンカチ』より その1)
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このところ、一年一年、齢を重ねるごとに、デックに積まれたカードが目に見えて減っていることを強く意識するようになってきています。若いころは、いくら明日の命はわからないといっても、それはたんなる確率の話にすぎず、実感はありませんでした。明日も生きているし、一年後も生きているし、十年後も変わらないということを前提に毎日を生きていました。

いまだって、明日も生きているし、十年後もたぶん生きていることを前提にしてはいるのですが、その裏側で、明日の朝目覚めない可能性も頭の片隅で意識しながら眠りにつきます。あるいは、数十年かけてため込んだ書物や盤に執着がなくなるという形で、明日は来ない可能性があることをはっきりと認めるようになりました。

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ギタリスト、アレンジャーのビリー・ストレンジさんが、たしか妹さんの死に際してだったと思いますが、印象深いメールをくれました。遺品を整理していたら、引き出しから、かつてご主人にプレゼントされたシルクのランジェリーが手つかずのまま出てきたのだそうです。それを見て、ビリー御大が思ったのは、楽しむべきものは生きているあいだに楽しもう、死んでシルクのランジェリーを残してもなんにもならない、ということでした。

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なにか企画を立てて突き進んでいるときはいいのですが、一連のシリーズにケリがついたあとで、しばしば、つぎはどうしようと悩んでしまいます。門松は冥土の旅の一里塚、This'll be the day when I dieとはいわないまでも、This'll be the year when I dieというつもりで、あれこれ悩まずに、好きなものを片端から見ていこう、と決めました。この映画は好きだけど、春ごろにとりあげよう、といったつまらない「計画性」にとらわれるのはもうやめにします。まあ、もうひとつのブログ、黄金光音堂もあるので、企画ものをやりたくなったら、そちらでということにします。

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◆ 十歳にして「プロトタイプ」となる ◆◆
そのようなしだいで、「死ぬ前にもまた見たい映画」シリーズの第一弾は(と、性懲りもなくまた企画にしている)、舛田利雄監督、石原裕次郎、浅丘ルリ子主演の『赤いハンカチ』です。

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日活映画をよく見るようになったのは小学校三年ぐらい、すなわち1962年ごろからです。もちろん、それ以前にも見ているのですが、小学校低学年で映画を見たところで、ただ見たというだけの意味しかなく、いまになって、あれは封切りのときに見た、などといってもたいした意味はないような気がします。

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学齢前に毎週通っていた大映や東映の時代劇は、大友柳太朗と片岡知恵蔵と市川右太衛門がゴチャゴチャになってしまい、「姓は早乙女、名は主水、ご存知旗本退屈男」なんてキメ台詞は思いだしても、えーと、あれは右太衛門か柳太朗か、どっちだ、という情けない記憶の摩滅、剥落をきたしています(調べたら市川右太衛門だった)。リアルタイムで見た、なんてエラそうなことをいっても、子どもではその程度でしかありません。

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その情けない子どもが、ようやく天地左右の区別がつくようになり、あれは俺のミニチュアだ、といえるようになったのは小学校四年のときだと、いまふりかえって感じます。人はいつ人として十分な条件を備えるか? わたしの場合は年齢が二桁になったときだったと思います。

小学校四年、1963年にはじめてシングル盤を買いました。A面がリトル・ペギー・マーチのI Will Follow Him、B面がサム・クックのAnother Saturday Nightという変則カップリングで、ペギー・マーチにはもうあまり興味がありませんが、サム・クックはいまでも好きなシンガーのひとりですし、この曲のドラムはハル・ブレインその人でした。同じころに兄が買ってきたボビー・ヴィーのRubber Ballも、デル・シャノンのHats Off to Larryも、いまでも好きな曲です。だから、「あいつは俺のミニチュアだ」といえるのです。

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映画についても、このころになって、いまのわたしにもわかる嗜好を見せはじめます。わけもわからずに、毎年数百本ずつ見ていた(簡単に計算できる。東宝だけを毎週見ても年間百本、邦画五社を全部見れば五百本になる。わたしの場合、松竹はオミット、大映東映もしだいに遠ざかり、東宝を中心に、日活が月に一、二度、洋画も月に二、三度だから、週に五本前後のペースだったと推計できる)のが、なにか効果があったのか、いまのわたしから見ても、うん、その映画が好きだというのはわかる、といえるものがあらわれます。

1966年に日活通いをやめるまでに見た(おそらく)二百本ほどの映画のうち、もっとも印象深かったのは、1964年正月、小学校四年のときに見た『赤いハンカチ』です。

◆ 二種類の「赤いハンカチ」 ◆◆
またしてもすでに残り時間僅少、本題にはとうてい入れそうもありません。今日はサウンドトラックの切り出しと編集に手間取ってしまいました。せっかく切り出したのだから、サンプルをお聴きいただきましょう。

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そういえば、前回の『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』のサンプルは、どのトラックもハイペースでダウンロードされていて、いったいなにがお気に召したのかと不思議に思っています。

いや、考えてもはじまらないので、『赤いハンカチ』のサンプル第一弾にいきましょう。当然ながら、一番手はメイン・タイトルです。

サンプル 『赤いハンカチ』メイン・タイトル~石原裕次郎の赤いハンカチ

お聴きになればわかりますが、このメイン・タイトルはやや変則的なスタイルになっています。ガット・ギターのインストゥルメンタルではじまって、それでいくのかと思っていると、途中から石原裕次郎歌う「赤いハンカチ」がはじまるのです。

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『赤いハンカチ』は、さきに歌のほうがヒットして、それにあやかって映画が生まれたのだそうですが、盤と映画ヴァージョンでは、大きくニュアンスが異なっています。

赤いハンカチ(盤)


この二者を聞き比べただけではどうということはないでしょうが、映画を見ると、なぜ映画用の歌が、ああいうニュアンスになったのかがよくわかります。盤のままでは映画のタッチと乖離を起こしてしまうでしょう。『赤いハンカチ』とは、一言でいえば「甘美なる沈鬱」の映画だからです。

そのへんのことは次回以降の「本編」で書くことにします。本日は予告篇のみでした。

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by songsf4s | 2010-01-11 23:33 | 映画・TV音楽
一対一のブルース by 西田佐知子(日活映画『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』より その2)
タイトル
一対一のブルース
アーティスト
西田佐知子
ライター
梅本たかし、望月弘
収録アルバム
西田佐知子歌謡大全集
リリース年
1960年
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前回もちょっとふれましたが、『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』のスコアを書いたのは山本直純です。コンダクトも作曲者自身である可能性が高いと思います。

テレビのレギュラー番組をもっていたり、CMに出演したりしていて、なんだかよくわからない印象のある人ですが、山本直純の日活アクションへの貢献は大きく、まだ評価があがっていくだろうと思います。

こういうことというのは半分は運不運なのですが、山本直純がたまたま鈴木清順監督の『殺しの烙印』のスコアを書いたというのは、いまになってみればきわめて重要です。『殺しの烙印』は、映画のみならず、スコアとしても海外にファンがたくさんいるからです。

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われわれの目から見れば、いくぶんバランスを失しているのですが、どうであれ、Naozumi Yamamotoの名前を忘れても、Seijun SuzukiのBranded to Killのスコアを書いた作曲家、といえば通じてしまうというのは、やはりおおいなる強みです。伊福部昭が海外でも有名なのは『ゴジラ』のおかげであるように、多くの人が見た映画のスコアを書いたというのは、名刺がわりになるのです。

もちろん、いくら有名な映画のスコアを書いても、それがつまらなければ一顧だにされません。まだ現在のようなフルスコアのCDがリリースされる前に、映画から音楽を切り出してブートの殺しの烙印OSTを配布していたサイトがありましたが、そういうファンがいても不思議はないほど、『殺しの烙印』のスコアは印象的です。フルスコアのCDのリリースは遅きに失したというべきでしょう。

◆ 山本直純とは何者ぞや? ◆◆
山本直純が不思議なのは、メディアを通じたパブリック・イメージだけではありません。スコアを聴いても、どういうバックグラウンドの人なのか、想像がつかないのです。『殺しの烙印』は、『死刑台のエレベーター』ほどではないにしても、ほぼ純粋な4ビートのスコアで、その点が海外でも人気が高い理由のひとつになっています。

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『殺しの烙印』のスコアを聴くと、もともとはジャズの人か、なんていいそうになるほど、4ビートの楽曲に違和感がありません。では、『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』はどうか? 基本的なトーンはラテンです。

この二本の映画スコアを聴いても、芸大で伝統音楽の作曲と指揮を学んだというバックグラウンドは浮かんできません。そのへんが、確固たる「自分の音楽」があり、それが映画スコアにも反映された武満徹とはまったくちがうし、伊福部昭ともタイプの違う映画音楽作曲家です。しいていうと、佐藤勝の系統というべきヴァーサティリティーの持ち主といえるでしょう。

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クラウンにルノーに果てはオート三輪とくるのだから、ロケ・ショットは車を見ているだけでも楽しい。

でも、佐藤勝にはまだ「本籍は伝統音楽」という感触があるのに対して、山本直純は「本籍なし」という印象を受けます。『殺しの烙印』と『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』の二本なら、なんとなくある「集合」に収まる感じがするのですが、ここに『男はつらいよ』なども加わるわけで、そこから芸大出の伝統音楽作曲家の像を結べといわれても困ります。

要するに、山本直純というのは「そういう人」なのでしょう。たまたま音楽を職業にするには芸大出身は便利だったのであり、たまたま上野の音楽学校には「ユニヴァーサル音楽科」という学科がなかったので、伝統音楽を選択しただけなのだろうと思います。そして、映画音楽ほど強い雑食性のあるユニヴァーサルな音楽ジャンルはなく、ちょうどうまくこの作曲家のキャラクターがはまりこんだのでしょう。

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『東京流れ者』同様、基地の町が使われているが、この映画では福生で撮影されたショットが出てくる。

◆ ラテン対位法 ◆◆
順番なので、スコアの一番手はメイン・タイトルです。

サンプル 「Main Title」

アヴァン・タイトルの撃ち合いに決着がついたところで、タイトルがはじまり、その文字の「下敷き」になって、赤木圭一郎が病院に搬送され、苦しみ、治療を受けている映像につけられた音楽です。この曲はラテン・タッチはなく、いわば「日活調」とでもいうべきムードになっています。

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タイアップというのはいまでも広くおこなわれているが、昔は露骨だった。香月美奈子が赤木圭一郎の前でストッキングを穿くと……。

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赤木圭一郎は香月美奈子が放り出したストッキングの袋を取り上げて引っ繰り返し……。

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「へえ、三枚入りかい」などとよけいなことをいう!

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「そうよ。一枚がダメになってもスペアがあるから便利なの」と香月美奈子。いまになると、こういう映画内コマーシャルも楽しく見られる!

二曲目は典型的なラテン、といっても、マンボなんだかチャチャなんだか、わたしにはよくわかりません。「疑似ラテン・ア・ラ・ニッカツ」といっておきましょうか。

サンプル スコア「Two Killers」(仮題)

映画から切り出したので台詞が多くて失礼。でも、台詞入りは台詞入りで楽しいのではないでしょうか。西村晃の中国人ギャングの命令で、宍戸錠と赤木圭一郎が、二本柳寛扮する日本人ギャングを殺すシーンの音楽です。

この映画のスコアのなかで、わたしはこの曲がいちばん好きです。曲の善し悪しよりも、こういう殺しのシーンなら、たいていの人は、遅めで、音数の少ない、サスペンスフルなサウンドをつけるでしょう。それなのに、山本直純は軽快なラテン・ミュージックを選んだわけで、こういう対位法こそが映画音楽のもっとも重要で基本的なテクニックです。

以前にも書きましたが、ヒチコックのたしか『逃走迷路』で、夫が死んだことをその妻に知らせに行くと、その家ではラジオから軽快なダンス・ミュージックが流れていて、訪問者はその音楽をバックに、ご主人が亡くなりました、と告げるシーンがありました。テレビ放映の日本語版では、ここに静かな音楽を入れていて、なにやってんだ馬鹿野郎、音楽監督の意図がぶち壊しじゃないか、と怒り狂いました。カウンターは芸事万般に通じる基本理念なのですが、それがわからない野暮天もたくさんいるのです。

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ピントが浅丘ルリ子ではなく、ジューサーにいっているこのショットもタイアップくさい。そもそもひとり暮らしの浅丘ルリ子がこんなにジュースを飲んではいかんと思う!

◆ 「ゼロの女」 ◆◆
こんどはスコアから離れ、もうひとつの挿入曲、西田佐知子の「一対一のブルース」をどうぞ。

西田佐知子「一対一のブルース」(映画ヴァージョン)


西田佐知子「一対一のブルース」(盤)


映画のクレジットでは「佐智子」となっています。まちがいではなく、初期はこの文字を使っていたようです。じっさい、この曲はごく初期の録音のようですが、どうも、三種類のヴァージョンがあるようで、わけがわかりません。ノーマルなスタジオ録音が50年代のものと62年のシングル用のものがあり、そのあいだに、1960年の映画ヴァージョンがある、ということのようです。いや、まちがっていたら、訂正をお願いします。わたしにはよくわからないのです。

おわかりでしょうが、この時点ではまだ「コーヒールンバ」も「アカシヤの雨」も生まれていなくて、要するにただの「西田佐智子」だったのであり、「西田佐知子」というスターになる以前の歌なのです。

わたしは、子どものころは歌謡曲が好きだったのです。その「歌謡曲」とは、たとえば、こういうムードの曲のことです。あの演歌なる代物はどこから湧いてきたのでしょうか。あれとビートルズが表裏をなして、わたしは音楽としての日本を「退去」するハメになりました。日活映画には、演歌がのさばる以前の正しいニッポン大衆音楽に出合えるという付録があります。

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あんまりジュースをつくりすぎたので……

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赤木圭一郎が飲みに来た、わけではなく……

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先日は失礼とわびに来たのだが……

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デート、のようなものに誘われてしまった。

それはさておき、いきなり話を小さくしますが、この「一対一のブルース」って曲は、なんともわからない歌詞になっていて、目がまわりました。

「一対一の恋をして」という以上、ほかに、「一対二の恋」とか「一対三の恋」とか「五対五の恋」とか「八対七の恋」とか、さまざまなパターンがあると、暗黙のうちに措定されているわけでしょう? それって「あり」なんでしょうか。わたしはいきなり混迷に陥りました。

やっぱり、ふつうは「八対七の恋」なんてものは存在しないと考えると思います。一対一ではないといっても、せいぜい「二対一」が関の山、「三対二」になると蓋然性のレベルはガタンと落ちます。なんだってわざわざ、一対一の恋などと、わかりきったことをいっているのでしょうか。

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西村晃扮する香港ギャングは銀座の洋装店の二階を根城にしているという設定が笑える。洋装店の名前が「ルガー」というのがすごい。そのとなりが中華料理屋というのはなんだか妙だが、ここに西村晃の子分である藤村有弘が巣くっていて、内部で二軒がつながっている。

ここで想像力と同情心をフルスロットルにしてみました。一対一とは「男女イーヴン」という意味かもしれません。でも、こっちの橋にも悪魔が待ちかまえています。「男女イーヴンではない恋」というのを措定しないと、この概念は成立不能です。恋において、男女がイーヴンではないとはどういう状況か、そこにたどりつくまえに、わたしの想像力は短絡しました。

それはともかく、わたしの耳は「ゼロの女」というフレーズにひっぱられて、ビヨーンと伸びましたね。わたしだったら、この曲には「ゼロの女」というタイトルを付けますよ。「一対一のブルース」なんていわれても、イマジネーションを刺激されません。

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潜入捜査官(草薙幸二郎)はトランペットを吹く! でも、背後を見ると、ドラムの配置が変。スネアが見えるところにあってはいけないし、ハイハットは20センチほど下げてもらいたい。

◆ ラヴ・テーマ、のようなもの ◆◆
さて、またまたrunning out of timeとなってきたので、以下、積み残したスコアをまとめてどうぞ。すべて映画から切り出したもので、台詞やらSEやらが入っていたりします。もちろん、タイトルもわたしが恣意的につけたものです。

サンプル スコア「Waterfront」(仮題)

サンプル スコア「Kinda Love Theme」(仮題)

サンプル スコア「Baby Let's Pretend」(仮題)

WaterfrontとKinda Love Themeは同じ曲です。一回で録ったもののべつの部分をそれぞれの場面に嵌めこんだのではないでしょうか。汎用性のあるムーディーな曲としてつくられたのでしょう。こういうクラリネットやハーモニカの使い方にも、日活らしいタッチが感じられます。なぜか、というところまでは考究しませんが。

ラズベリーズのヒット曲からタイトルを拝借したBaby Let's Pretendは、前出Two Killersと並ぶこの映画の代表的なラテン・タッチの曲です。チャチャ風のリズムとパセティックなトランペットの組み合わせが、いかにも日活らしいムードを生んでいます。

この曲の最後にバシバシ、バシッとSEが入っていますが、これは、恋人のフリをするために無理矢理キスをした赤木圭一郎を、浅丘ルリ子が張り倒した音です。ふつうなら一撃ですむはずが、二往復プラスだめ押しの一打という念の入れようで、しかも、一、二発ほんとうにあたったのではないかという、キツいビンタです。

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監督に指示されて、浅丘ルリ子は「そんなにぶつんですか?」と抵抗したのじゃないでしょうか。浅丘ルリ子ファンのわたしとしては、一発だけにしておいて欲しかったと思います!

日活アクションではめずらしいことではありませんが、『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』も、音楽が楽しい映画でした。いえ、日活アクションのスコアも、山本直純のスコアも、これが最後ではなく、またほかのものを取り上げることになるでしょう。

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拳銃無頼帖 抜き射ちの竜 [DVD]
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日活映画音楽集~スタアシリーズ~赤木圭一郎
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西田佐知子 ボックスセット
西田佐知子歌謡大全集
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by songsf4s | 2010-01-10 23:14 | 映画・TV音楽
黒い霧の町 by 赤木圭一郎(日活映画『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』より その1)
タイトル
黒い霧の町
アーティスト
赤木圭一郎
ライター
水木かほる、藤原秀行
収録アルバム
『日活映画音楽集 スタアシリーズ 赤木圭一郎』
リリース年
1960年
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松がとれたあとはどうするのか、まったく腹案がなく、そのときになればなにか思いつくだろうと思ったのですが、ぜんぜんなにも思いつかず、ちょうど見ようと思っていた映画を見て、それをそのまま書くことに(万やむをえず)なりました。

しばらくは企画を立てて、準備をするといった形ではなく、そのときそのときのインプロヴ、思いつきで選んでいくことになりそうです。

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◆ 「化け」おおせた映画 ◆◆
『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』は、拳銃無頼帖シリーズの第一作で、公開時ではなく、ずっと後年にテレビではじめてみました。

製作の順番通りに見ていない人間の勝手な思いこみですが、この『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』は、赤木圭一郎が「いかにも赤木圭一郎らしいキャラクター」を確立した映画のように感じます。数年後に鈴木清順監督の『素っ裸の年齢』を見て、面白い映画ではあるものの、「赤木圭一郎ができあがる前の映画」と感じました。

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じっさいには、『素っ裸の年齢』が1959年、『拳銃無頼帖』が1960年なのだから、ほとんど同じ時期に撮られています。いや、それをいうなら、赤木圭一郎はスターになったかと思うともう死んでいたというぐらいで、主役としての「実働」はほんの一年半ほどなのだから愕きます。

それでもなお、役者はやはり「化ける」時期があり、赤木圭一郎は1959年と1960年のあいだのどこかで「化け」、のちのち語りぐさになる役者へと変貌したのだと感じます。後追いのファンとしては、その「化け」おおせた映画が『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』ではないかと思っています。

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いや、そうじゃないかな、と思って二十年ぶりに見返してみたのでありまして、まあ、外れてはいなかった、というだけです。わたしだけの思いこみかもしれないから、干支でもあることだし(カンケーないか)虎の威を借る狐をやって、渡辺武信の『日活アクションの華麗な世界』をいま引っ繰り返してみましたが、赤木の章の冒頭で、以下のように明快に断じていました。

「〔赤木圭一郎は〕この年(1959年)の内に二本の主演作を持つようになるが、彼がダイアモンドラインの一翼をになう日活“第三の男”となるのは翌年2月の『抜き射ちの竜』(野口博志監督)まで待たなくてはならない」

そういう感じなのでしょうね。『抜き射ちの竜』の赤木圭一郎には、すでに「できあがった」魅力があります。

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◆ 宍戸錠の古典的敵役 ◆◆
赤木圭一郎が演じる剣崎竜次は、相手を殺さず、肩を撃ち抜くだけというガンマンで、冒頭、ある組織のボス(とあとでわかる)と対決し、相手を仕留めるものの、ヘロインの禁断症状に襲われ、菅井一郎(小津安二郎の『麦秋』のイメージとそれほど矛盾しない)の病院に担ぎ込まれます。ここまでがアヴァン・タイトルとタイトル。

ひと月後、病院に高品格を筆頭とする、赤木が斃したボスの子分たちがやってきて、騒動になりかかりますが、赤木の治療費を出した男というのがやってきて、拳銃の腕でこの連中を追い払います。これが宍戸錠扮する「コルトの銀」というのだから、え? ですわ。

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まあ、エースのジョーというわけにはいかないから仕方ありませんが、いまになると、シリーズ違いなど気にせずに、こちらでもエースのジョーとしておいてもらいたかったと思います。渡り鳥シリーズじゃないからと思っていても、やっぱり「コルトの銀」といわれると、気分の片足が三センチばかりズルッとなり、そのたびに体勢を立て直さねばなりません!

というくらいで、宍戸錠は「主人公に惚れたライヴァル」という「いつもの役」で、いつものように台詞にもスタイルにも気を配っています。海外の宍戸錠ファンは、エースのジョーの本領は、主役のときではなく、こういうライヴァル役のときにあるということを知らないのだから、じつにお気の毒なことと同情しちゃいます。子どものころ、宍戸錠にあこがれたのは、主役としてではなく、「どうも野暮用が多くてな」などとボヤく殺し屋ぶりがじつに楽しかったからです。

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藤村有弘の包丁の一撃を食らいそうになって、茶碗と箸を持って逃げる「コルトの銀」=宍戸錠。ただし、よく見ると、この直前の、坐ったままで包丁をよけたショットでは手ぶら。あとになって、茶碗と箸を持っているほうが面白いと思ったのだろうが、直前のショットを修正する手間はかけなかったらしい。

今回、笑ったのは、飲食物がらみのショットでの工夫です。こういうところに宍戸錠の映画物知りぶりと、その知識を自分の演技にアダプトするすぐれた適応力があらわれています。早川ポケット・ミステリーを片端から読んで、しばしば自分で台詞をつくった人だから、視覚的アクセサリーにも神経質だったのです。

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宍戸錠は、ただ漫然と立っているなどというムダなことはしない。ここではじつに上品にお茶をいただいている殺し屋をやっている!

◆ 豪華絢爛多士済々の悪役陣 ◆◆
宍戸錠が赤木圭一郎の治療代を払ったのは、彼のボス、香港のギャング「楊三元」(西村晃)の意を体してのことで、義理ができた赤木は楊の手下として働くことになります。

この映画の西村晃は、彼の日活脇役史のなかでも特筆に値します。「わたし、美術品でも、女でも、一流、好きです」という中国語訛りの日本語が、宍戸錠のアメリカ風キザと好対照をなして、うれしくてうれしくて頬がゆるんだり、手を叩きたくなるシーンの連続です。

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藤村有弘(左)と西村晃。片や「中国語風怪しい日本語」の大家、片や名優、この二人の片言日本語合戦には、スタッフが笑い死にしそうになったにちがいない。いや、当人たちも吹いてしまっただろう。たぶん、こういうのは現代ではpolitically incorrectだろうから、二度と味わうことのできない芸である。

西村晃の懐刀が、中華料理のシェフに身をやつしている「張」(藤村有弘)で、これがまたうれしくなるようなキャラクターです。宍戸錠に料理のことで侮辱されるや、いかにもおそろしげな肉切り包丁でいきなり斬りつけちゃったりするし、麻薬取引ともなれば、先頭に立って現場指揮を執ります。

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この香港ギャングの日本側のパートナーだったのが二本柳寛(小津安二郎の『麦秋』のキャラクターとはぜんぜん違う! 『麦秋』では杉村春子の息子、原節子の結婚相手!)とくるわけで、悪役陣はじつに層が厚くて、日活アクションの愉楽ここにあり、です。

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あの時代の日活プログラム・ピクチャーなので、とんでもなく意外なことが起こるわけではなく、赤木圭一郎は、ギャングのくせに、結局、悪いことはせず、香港ギャングと二本柳寛の一味を破滅させ、浅丘ルリ子に「待ってるわ」といわせて、エンドマークを引っ張り上げるのでした。

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◆ まずは主役の歌各種とりまぜ ◆◆
ストーリーを知っている映画を見直すときには、当然、目は画面の端に向かい、耳も活溌に働かせます。

この映画のスコアは山本直純、挿入曲は赤木圭一郎歌う「黒い霧の町」と、西田佐知子の「1対1の女」、これはそれぞれライターが異なります。

日活アクションではよくあったことですが、この映画も、スコア、挿入曲、ともに楽しい出来で、独立したOST盤とまではいわないまでも、たとえば拳銃無頼帖シリーズだけのOST盤をリリースしてもいいのではないかと感じます。

スコアのハイライトは次回ということにして、挿入曲をYouTubeで探してみました。

黒い霧の町(盤)


霧笛が俺を呼んでいる~黒い霧の町(ライヴ with 宍戸錠)


どちらも映画とは異なるので、いちおう、映画から切り出した純粋なOSTをサンプルにしてみました。この「黒い霧の町」は劇中二度流れますが、これはその最初のほう、中間部で流れるヴァージョンです。

サンプル 赤木圭一郎「黒い霧の町」(映画ヴァージョン1)

今日は野暮用があったり、夕方から取りかかったものの、頭がちゃんと働いていなかったために、音楽の切り出しに時間がかかってしまい、残りは明日ということにします。スコアもお楽しみに。


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日活映画音楽集~スタアシリーズ~赤木圭一郎
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by songsf4s | 2010-01-09 23:46 | 映画・TV音楽
三たび『乳母車』と鎌倉駅、そして久生十蘭
 
いよいよクリスマス本番ですね、なんていう挨拶は日本では依然として通用しないのでしょう。25日の夜、スーパーマーケットに行ったら、ちょうど鳥だのチーズだのピザだのを片づけ、蒲鉾や伊達巻きや数の子を並べているところでした。この切り替えの速さには、商売の必然とはいえ、ちょっとばかり鼻白みます。

「クリスマスの十二日間」ははじまったばかりで、年明け六日まではホリデイ・シーズンなのですが、われわれにはわれわれ固有の文化があり、それと衝突する部分は、輸入の際に刈り込まれてしまうということなのでしょう。十二月二十五日には固有の年中行事がないからオーケイ、でも、年末から年明け七日までは予定が詰まっていて、外国文化の入りこむ余地はないのです。

一昨年も、そんな理屈を書いて、ちょっとだけクリスマスのカーテン・コールをやりましたが、今年も一本だけ、クリスマスの十二日間、すなわち、年明け六日の「顕現祭」までを背景にした映画を取り上げるつもりです。

◆ tonieさんの2009年 ◆◆
昨日、当家のレギュラー・コメンテイターのひとり、tonieさんに、今年おおいに楽しんだ曲というのをちょうだいしました。

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わたしにそういうことをいわれたくはないでしょうが、でも、やっぱり「とっ散らかった」選曲ですねえ。このなかでちょっとだけ意外だった(いや、これだけばらけていると、ほんとうに意外なものなどないのだが!)のは、ジェシー・ベルヴィンです。エスター・フィリップスを男にしたようなキャリアをたどったこのシンガーは、ちょっと興味深い存在です。

星野みよ子の「Oka no Hotel」は、tonieさんの冗談です。この『ゴジラの逆襲』の挿入曲を当家で取り上げたとき、タイトルがわからなくて、わたしが歌詞からでっちあげた仮タイトルが「丘のホテル」なのです。ほんとうは「湖畔のふたり」というタイトルなのだという訂正は、この記事に書きました。

tonieさんはわたしよりずっとお若いので、近年のものもお聴きになっています。それがダイアン・バーチなのでしょう。ジョニ・ミッチェルとマリア・マルダーの中間というムードで、なかなかけっこうだと思います。ドラムも、実現の仕方については疑問なきにしもあらずですが、意図は明快に伝わってくるプレイです。昔のようにピッチの高いスネアのチューニングも好みです。スネアはやっぱり、ピーンといえばカーンというくらい高くないと気分が昂揚しません。

ザ・ピーナッツの3曲のうち、2曲は民謡を現代的にアレンジしたもので、なかなか楽しい出来です。この盤を取り上げていた海外ブログもありました。モスラのおかげですねえ。

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リック・ネルソンの2曲は、どちらもギターを聴いてしまいます。Don't Breathe a Wordのほうは、ドラムが不思議です。リッチー・フロストってこういうドラミングをするのでしょうか。だとしたら、誤解していたことを謝っちゃいます。だれか別人だとしても、候補が出てきません。アール・パーマーやハル・ブレインのようには聞こえないのですがねえ。だれなんだかさっぱり見当がつきません。これをサンプルにしましょうかね。

サンプル Rick Nelson "Don't Breathe a Word"

よく思うのですが、ラジオで聴くのと同じように、自分で選んだものより、ひとが選んでくれたものを聴くほうが楽しいようです。

◆ さてわが家では ◆◆
さて、当家の2009年を回顧すると、鬱と体調不良による一カ月の休みではじまる散々な年で、よく年末まで生きていた、などと大げさなことをいいそうになります。明日はないかもしれないというのが、どういう感覚かよくわかりました。いっぽうで、父親の死を見て、すこしだけ死が怖くなくなりました。

こうなってくると、思ったことをそのまま書こう、明日は死んでいるかもしれないのなら、遠慮などしても無意味と、悪く腹が据わってきます。まあ、もともと、世間様のいうことなど馬耳東風でしたが!

目をつぶると、芦川いづみが鎌倉駅の通路を歩く姿が見えてきます。何度も見た映画なのに、今年見た映画でもっとも印象に残ったのは『乳母車』です。急いで付け加えますが、傑作のなんのといっているわけではありません。同じ田坂具隆監督の、姉妹編といいたくなる『陽のあたる坂道』のほうが、破綻がなく、ずっと出来がいいと思います。

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でも、毎度申し上げるように、好きとか嫌いとかのレベルに降りてくると、子どもか猫のようなもので、器量不器量、出来の善し悪しなどはどうでもよくなってしまうのです。『乳母車』がもっとも「印象に残った」というのは、評論的なレベルでの「作品の出来」をあれこれいっているわけではないのです。たんに、いくつか、たまらなく愛おしいショットがあるだけです。

まずなによりも、夜の鎌倉駅のシークェンスです。「鎌倉駅と『乳母車』」という記事を書いたときに、もちろん、何度も繰り返しこのシークェンスを見ましたし、スクリーン・ショットも何十枚もつくりました。

やはり、そういうことをすると、映画館で見たり、ヴィデオを流して見ているのとは、ちょっとちがう見方になっていくのでしょう。だんだん、昔の鎌倉駅のディテールというか雰囲気がよみがえってきて、まるでジャック・フィニーの『ふりだしに戻る』の主人公のように、失われた過去がさわれそうなほどリアルに感じられてきました。

プラットフォームに立つと、向こうにテアトル鎌倉が見えるのも大きな魅力です。あの映画館はいつごろなくなったのか忘れてしまいましたが、わたしが頻繁に鎌倉駅を使った1970年代にはまだありました。

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また、母親を見送った芦川いづみが悄然と歩いていると、父親がやってきて、肩を並べて通る改札の向こうには、駅前のネオンサインが見えます。このショットにもやはりノスタルジーを感じます。

今回、『乳母車』を見直して、かつては気づいていなかった「映像に封じ込められた時代」の封印を解いたような気分でした。それだけ年をとったのだと思います。

◆ Duran's Wake ◆◆
ノスタルジーなどというものは、極度にプライヴェートなもので、こういうことをお読みになっても無意味だろうとは思うのですが、わたしに書く自由があるように、みなさんにも読まない自由があるので、つづけさせていただきます。

「夜の鎌倉駅」というと、わたしのなかには確固たるイメージがあります。それは、昭和三三年発行の「別冊宝石第78号 久生十蘭、夢野久作読本」に収録された座談会で語られている、久生十蘭の通夜の鎌倉駅です。

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久生十蘭という人は、エッセイというものを書かず、みずからを語らなかったことで知られています。いまになれば、そういう考えはもっともだと思いますが、若いころは「作り手は作物だけ残せばいい」とは達観できず、やはり人物にも興味があったので、この宝石の座談会と、同じ追悼号に収録された今日出海や幸子夫人の回想をおおいなる関心をもって読みました。

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この座談会を手に入れたのは二十歳前後、鎌倉に住んでいるころだったので、ひと気のない夜更けの鎌倉駅を明確に頭のなかに思い描きながら読みました。もちろん、あのころは改築以前、ここで語られているのと同じ旧駅舎です。貨物エレベーターというのは、プラットフォームの外れ、逗子寄りにありました(いまもあるかもしれない)。

f0147840_0112226.jpg『肌色の月』の封切日だとありますが、これは久生十蘭の遺作(といっても、途中から幸子夫人が書き継いだものらしいが、継ぎ目はわからない。長年、十蘭の口述筆記をやったせいか、スタイルが似てしまったらしい。この追悼号に収録された夫人のエッセイも、締めくくりが十蘭のような突き放した文章になっている)を映画化したものです。

土岐雄三はそうはいっていないのですが、『肌色の月』の封切りだった(MovieWalkerによれば1957年10月8日、十蘭が没したのは10月6日)ということと、鎌倉駅が水浸しだったということから、わたしの頭のなかでは、テアトル鎌倉に『肌色の月』がかかっているイメージができあがってしまいました。

もちろん、そのころ、わたしは幼児、鎌倉の駅や町のことも知りはしませんが、それでもよすがとなるものは、後年、毎日のように見ていたので、想像に困るということはありません。

久生十蘭が没したのが1957年、乳母車が封切られたのが1956年、わたしの頭のなかで「昔の鎌倉駅」として、両者が二重露光され、ほとんど手に取れそうなほどソリッドなイメージに成長したのだと感じます。身体半分ぐらいは、『乳母車』の夜の鎌倉駅に入りこんでしまったような気分です。全身入れたら楽しいだろうなあ、と本気で思います。

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今年見た映画でもっとも強く印象に残ったのは『乳母車』だったというのは、そういうことです。身勝手な人間だから、映画としての出来などほったらかしで、自分の快感原則のみでものをいっているのにすぎないのでした。


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リック・ネルソン
Very Thought of You/Spotlight on Rick
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久生十蘭『肌色の月』
肌色の月 (中公文庫 ひ 2-1)
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久生十蘭短篇選 (岩波文庫)
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もっとも新しい久生十蘭精華集。好ましい選択である。
by songsf4s | 2009-12-26 23:27 | その他
嵐を呼ぶ男 by 石原裕次郎(日活映画『嵐を呼ぶ男』より) その4
タイトル
嵐を呼ぶ男
アーティスト
石原裕次郎
ライター
大森盛太郎、井上梅次
収録アルバム
『嵐を呼ぶ男 日活映画サウンドトラック集』
リリース年
1957年
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小林旭の『渡り鳥シリーズ』を何本かご覧になった方は、かならずといっていいほどキャバレーのフロア・ショウがあり、そのダンサーもいつも同じ女性だということに気づかれたはずです。演ずるは白木マリです。

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渡り鳥シリーズのどれだったか、白木マリが牧場で働く(ウェスタンなのだ!)堅気の女になるのがありました。変だな、フロア・ショウはないのかよ、と思ってみていると、回想シーンで、元はダンサーだったことがわかり、ちゃんと踊ってみせます。これには大笑いしました。マンネリ化を自覚し、それを逆手にとったセルフ・パロディーだったのでしょう。

柴田錬三郎がおなじようなことをしています。『江戸群盗伝』で万事めでたく解決し、惚れた女(というか、お姫様)と結ばれた主人公が、『続・江戸群盗伝』の冒頭では、幸せな生活に退屈しきっているというのは笑いました。

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子どもはいざ知らず、大人としては、「その後、二人は幸せに暮らしました」なんていう結末には、ほう、その後って、どれくらいの年月だよ、明確に数字をあげてもらおうじゃないか、と物言いをつけたくなります。

「その後」の耐用年数というのは、平均すると数年じゃないかと思いますよ。たとえ、現実に「その後、二人は幸せに暮らしました」になったカップルがあっても、この「その後」はすぐに終わり、またさらに異なった「その後」があるのが人生というものです。

またしても脇道の脇道に入りこんでしまいました。渡辺武信によると、のちに日活アクションのおきまりの景物となる白木マリのフロア・ショウは、じつは『嵐を呼ぶ男』がお初なのだそうです。知りませんでした!

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白木マリのことが気に入った石原裕次郎は、ちょっとした遊びをしかける。はじめはTaboo風(だからフロア・タムを叩いている)のミディアム・スロウの曲をプレイしていたのだが、いきなりアップにテンポ・チェンジをしてしまうのだ。

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勝手にテンポを変えられて、白木マリは一瞬、ダンスをやめてしまうが、それはカウントのためであって、すぐにテンポを合わせてダンスを再開する。現実にこういうことが起きれば、こんなに長くカウントせずに、すぐにテンポを合わせてしまうだろうが、映画表現としては、説明的に長くなるのはやむをえない。どうであれ、このシーンは、この映画で音楽が有効に利用された稀な場面だった。

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『嵐を呼ぶ男』では、白木マリは石原裕次郎のライヴァルである笈田敏夫扮するドラマーの恋人になったり、マネージメント会社のボス・安部徹(Movie Walkerのデータベースは、この役を市村俊幸が演じたとしている。まさかね! どう見ても「ブーちゃん」のタイプではない。Movie Walkerはキネ旬の古い資料をベースにしているところがいいのだが、古い資料のミスをそのまま引き写した結果が市村俊幸なのだろう)の情婦になったり、それと並行して石原裕次郎にも色目を使ったりで、なかなか忙しい女です。

なぜこれほどさまざまなことをひとつの役に押しつけたのかは不可解で、これもまたシナリオの欠陥に思えるのですが、どうであれ、白木マリは狂言まわしとなって、さまざまな転換点にからんでいきます。

◆ 安直和解 ◆◆
青山恭二のコンサートの会場で、白木マリは北原美枝に話しかけます。わたしのせいで「正ちゃん」(石原裕次郎)は安部徹の配下に痛めつけられることになった、彼はあなたのことを愛しているのに、金子信雄に脅されて身を退いたのだ、と明かします。ついでに、母親につらく当たられるのをすごく悲しんでいるなどとも話します。

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こういう処理は子どものころにたくさん見たので、懐かしくはあります。第三者の証言によって、主人公が甘んじて受け入れた汚名がはれるというのはよくあるエンディングのパターンですし、じっさい、効果を上げるからパターン化したのでしょう。

でもねえ、これを柱の陰で母親がきいて、思わず涙を流し、わたしはひどい母親だったと手のひら返してしまうのはどんなものでしょうか。これしきのことでみずからの非に気づく母親なら、そもそもはじめから、この親子のあいだにはなにも問題は起きなかったにちがいありません。弟のコンサートという派手な場面にからませて、親子の和解をするという、作り手の都合に合わせただけの、なんともはや、おそろしく安にして直な和解案です。

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ただし、公平にいって、『愛染かつら』が大ヒットしたのも、『君の名は』が大ヒットしたのも、そして、見たことがないので友人の言の受け売りですが、『冬のソナタ』が大ヒットしたのも、こういう臆面のない、恥知らずな安直さにあったわけで、客はこの解決を好んだのでしょう。わたしは願い下げですがね。

◆ シンフォニック・ジャズ・スコア! ◆◆
青山恭二がオーケストラをコンダクトするシーンは、アルフレッド・ヒチコックの『知りすぎていた男』のように、オーケストラそのものになにか仕掛けがあるわけではないので、それほど有効なショットにはならず、背景でしかありませんが、周囲の人びとの動きと、ステージをカットバックで見せることで、それなりの緊迫感はつくっています。

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ここで使われる音楽ですが、会場の入口のポスターに「シンホニック・ジャズ」(「ホ」は恐れ入るが!)とあるとおり、ガーシュウィンのRhapsody in Blueを意識したものになっています。ここはやはり、そうあってほしい、というか、この映画の気分からいって、それ以外にはないと感じます。

ただし、大森盛太郎か井上梅次か、はたまたそれ以外のだれかのアイディアかわかりませんが、そうしたディテールが(とりわけ当時の観客に)どの程度理解され、評価されたかは心許ないところです。だから、映画製作者はだれにでもわかる『愛染かつら』式安直さを選択してしまうのであって、そこは理解していますが、でも、やはり賛成はできないのです。

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いえることはただひとつ、作品が腐らないようにするためには、ディテールで手を抜かないことが重要であり、安直さに流れることをつねに戒めていれば、後世の評価を受けるチャンスがめぐってくる、ということだけです。

「後世」を構成するひとりとしていえば、ここになんのひねりもないストレートな伝統音楽ではなく、シンフォニック・ジャズをもってきたことは、この映画の数少ない美点のひとつと感じます。大森盛太郎音楽監督の発案であれ、最終的な判断は監督にあるので、ほかのことはともかく、この点に関しては井上梅次監督にも頭を下げておきます。シナリオは目も当てられない出来ですが、スコアに関するかぎり、『嵐を呼ぶ男』は日本映画史上屈指の秀作なのです。

サンプル1 シンフォニック・フラグメント1(トラック17)

サンプル2 シンフォニック・フラグメント2(トラック18)

サンプル3 シンフォニック・フラグメント3(トラック19)

サンプル4 シンフォニック・フラグメント4(トラック20)

いや、もちろん、当時の日本のオーケストラだから、レベルの高いパフォーマンスとはいいかねます。同じ地面で後年の、あるいは海外のオーケストラと比較できるプレイではありません。でも、音楽監督の意図を頭のなかでイメージし、現実の音を補正して聴くぐらいのことは、音楽ファンならだれだってできることです。

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◆ 『嵐を呼ぶ男』と『陽のあたる坂道』 ◆◆
わたしは日活が大好きだし、石原裕次郎を信奉したりはしないものの、彼があの時代のもっとも魅力的な俳優のひとりであったことには、まったく異論はありません。でも、こういうシナリオには、やはり気分が暗くなります。いや、『嵐を呼ぶ男』が大コケにコケたならいいのですが、爆発的にヒットしたのだから、撮影所の歩みという観点から見ると、やはり禍根を残したと感じます。

「いい映画」「よくできた映画」ではなくても、どこかに突出した魅力があればそれでいい、とは思います。この映画でいえば、石原裕次郎の身のこなしと、スネア・ドラムを中心とした派手で躍動的なスコアの結びつきは、いま見てもきわめて魅力的ですし、当時にあっては、かつて日本映画に存在しなかった「斬新なエクサイトメント」と受け取られたであろうことは容易に想像がつきます。

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だから、大ヒットしたのも、まあ、当然といえます。でも、こういう穴だらけの不出来な映画がヒットするというのは、じつに不幸なアクシデントであり、未来の致命的な蹉跌の序章でもありました。

必要なのはヒットであって、秀作ではない、ヒットさえすればそれでいい、というのは、長いスパンで見れば、みずからの首を絞める観念です。結局、日活はこの罠にはまったのだと考えます。日活にかぎらず、日本映画全体が、というべきでしょうが。

ヒットの理由を明確に分析できるなら、ヒットさえすればそれでいい、という考え方でもやっていけるでしょう。問題は、ヒットの理由というのはつねに分析困難であり、たとえ分析できたとしても、応用はほとんど不能という点にあります。そして、映画にかぎらず、成功はつねに失敗の母です。

『嵐を呼ぶ男』は、細かく検討すると、ほとんどいいところがなく、肯定できるのは、1)題材の選択、2)大森盛太郎のスコア、3)石原裕次郎の圧倒的な魅力ぐらいしかありません。映画作りの根本において、気に入らないことだらけです。それだけに、映画は論理や言葉ではなく、視覚と聴覚なのだということを改めて痛感させられる作品だということもいえますが、でも、要するに、たんなる「まぐれ当たり」にすぎません。

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『日活アクションの華麗なる世界』によると、『嵐を呼ぶ男』はこの年の興行収入ベストテンに入る大ヒットだったものの、トップは同じ石原裕次郎主演でも、田坂具隆監督の『陽のあたる坂道』のほうだったそうです。

『嵐を呼ぶ男』は石原裕次郎が決定的にブレイクした大ヒット作、ということはだれでもいうので、もういいでしょう。たいした意味はありません。『陽のあたる坂道』にはかなわなかったという事実のほうが、重要な意味をもっています。

日活首脳陣は、この年に経営方針を考えるための好材料を二つも手に入れたのに、分析を間違ってしまったのでしょう。井上梅次はさておき、たとえば、舛田利雄のような商業的に安定した成績を上げる職人は貴重な存在ですが、いっぽうで、田坂具隆的な方向性をもつ監督、メイン・ストリートのそのまたど真ん中を行く「作家性」のある監督を生む努力をしていれば、ロマンポルノはなかったにちがいありません。いや、そのまえに、鈴木清順を、よりによって『殺しの烙印』を理由に馘首するような撮影所にはならなかったでしょう。

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by songsf4s | 2009-11-25 23:48 | 映画・TV音楽
嵐を呼ぶ男 by 石原裕次郎(日活映画『嵐を呼ぶ男』より) その3
タイトル
嵐を呼ぶ男
アーティスト
石原裕次郎
ライター
大森盛太郎、井上梅次
収録アルバム
『嵐を呼ぶ男 日活映画サウンドトラック集』
リリース年
1957年
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なんだか、『嵐を呼ぶ男』その1でも、その2でも、映画自体はあまり褒めなかったというか、どちらかといえば、けなしっぱなしですが、今回も、結局、シナリオの穴を列挙することになってしまいました。

考えてみると、井上梅次という監督とは相性がよくなくて、見たのはほんの数本ですが、どれもあまり気に入りませんでした。相性はどうにもならないので、井上梅次ファンにはごめんなさいして、シナリオ欠陥探しをつづけます。

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わたしが最終的に強調したいのは、シナリオがどれほどひどくても、それがヒットかミスかに影響を与えないという、偶然ないしは時の勢いというものの恐ろしさのほうなので、どうかあしからず。

あ、もうひとつ、勝因分析を誤るのはよくあることだし、状況は刻々変化することを忘れるのは人間のつねである、ということも日活の歴史は教えてくれます。昨日の真実は今日はもうガラクタなのです。

◆ 愚かさの連鎖 ◆◆
すこしストーリーラインを追います。

石原裕次郎は、音楽業界ゴロである金子信雄が、裕次郎が属すバンドのマネージメントをしている北原美枝に横恋慕しているのを利用し、自分を売り出してくれたら、仲を取り持ってやると約束します。しかし、いっしょに暮らすうちに自分自身が北原美枝に恋してしまい、約束を反故にしてしまいます。

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取引成立、カンパーイ。でも、こういう風にプロットを発展させるのは、主人公のキャラクター設定と矛盾しているように感じる。

裕次郎には音楽学校で作曲を学んでいるまじめな弟・青山恭二がいます。母は音楽家など職業ではない、次男には会社員になって欲しいのに、長男が悪い影響を与えているといいますが、それをいうにはもう遅すぎるでしょう。

音楽学校へ行くのは、ふつうは音楽家になるためであって、サラリーマンになるならべつのコースを選んでいなければいけないのは、だれだってわかることです。文句をいうならコースを選択するときであって、コースを選択し終わったあとでは無意味です。シナリオ・ライターはこういう矛盾に気づかないのでしょうか? それとも、そういう分別すらない愚かな人間として、この母親を描きたかったのでしょうか。不可解。

さて、この弟が非常に優秀で、アメリカの財閥(と解釈した)が新たにはじめる新人作曲家奨励プログラムの第一回に選ばれ、自分の曲を発表するチャンスを与えられます。ここまでは、失速寸前ではあるものの、まあいいとします。

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青山恭二(右手前)

問題は、これをネタに、金子信雄が裕次郎に威しをかけることです。北原美枝をあきらめないと、弟のコンサートを妨害するというのです。金子信雄の役が非常に影響力の強い音楽評論家だということは何度も強調されますが、それにしても、ワン・ショットのコンサートをどうやって妨害するというのか、そのへんの説明がありません。せいぜい、あとで雑誌や放送でボロクソにけなすぐらいのことでしょう。そういう迂遠なことでは、遅かりし由良之助です。

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音楽評論家・金子信雄はテレビのレギュラー番組をもっていて、そこであれこれと綾をつけたりする。アナウンサーは阿井喬子! Jun、クラシカル・エレガンス、といっていたセクシー・ヴォイスのあの人、例の深夜放送のDJである。クレジットには、NTVと出るので、このときは現役のNTVアナウンサーだったようだ。

いろいろ想像をめぐらせてみましたが、わたしにはさっぱりわかりません。あの時代には音楽評論には影響力があったのでしょうか。信じがたいですね。わたしの知っている日本では、そんなことが起きるはずがありません。音楽評論も映画評論も、客の気分やサイフの開閉にはなんの影響も与えなかったし、いまも無関係でしょう。せいぜい、スキャンダルでも暴いて、裏側から追い落とすぐらいのことしかできないだろうと思います。

◆ 批評? そんなものは犬にでもくれてやれ ◆◆
北原美枝と敵対するマネージメント会社のボス、安部徹はダンサーの白木マリを情婦にしています。脅迫のために北原美枝をあきらめた石原裕次郎は、泥酔して白木マリのアパートに泊まります。これを誤解され、安部徹の配下(もちろん高品格を含む!)にリンチにあうシーンでは、石原裕次郎はふたたび金子信雄に、弟に手を出さないと約束するなら、俺も男だ、なにをされても警察沙汰にはしない、などといいます。

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ここもプロットが亜脱臼しています。どうやって妨害するのか、方法をたしかめずに威しに屈するのは納得がいきません。妨害だ? できるものならやってみろ、評論家風情がしゃらくさい、といえば一件落着ですよ。そもそも、そういう台詞のほうが裕次郎らしいでしょう?

この映画は批評を極度に過大評価しています。批評でなにかが成功したり失敗したりなんて、ブロードウェイならいざ知らず、日本では聞いたことがありません。批評になにか力があるとしたら、そもそも日活自体が、石原裕次郎のデビューとともに倒産していたでしょう! 裕次郎が大スターになったことが、すでに批評の無効性を証明しています。映画評論家がなにをいおうと、だれも相手にしなかったからこそ、日活アクションに客が入ったのです。

しかし、またしても、視覚の刺激は論理を蹴散らします。子どものわたしが、この映画で記憶に深く刻みつけたのは、ほかならぬこのリンチ・シーン、とりわけ、コンクリート片で裕次郎の右手をたたきつぶすショットです。『嵐を呼ぶ男』というのは、長いあいだ、わたしにとっては「指をたたきつぶす映画」でした。ほかのことはみな忘れてしまいました。

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さすがは日活アクション、ヴァイオレンス・シーンは生彩がある。廃ビルのセットもムードがあるし、裕次郎の動きもいい。

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暴力を行使する者と、暴力に屈する者のあいだには、あるエロティシズムが介在することを、子どもは鋭敏に感じとったのでしょう。いまのわたしは鈍感な大人なので、そういう微細なところに隠れた真理をたちどころに読み取るセンスは持ち合わせていません。

ともあれ、シナリオ・ライターがこれほど巨大な穴を放置して安閑としていられたのは、結局、金子信雄の役柄が評論家というより業界ゴロであり、安部徹の役がマネージメント・オフィスの社長というより暴力団のボスであり、会社には暴力のプロがゴロゴロしているという設定のおかげでしょう。金子信雄が「妨害」を暗示すると、石原裕次郎も観客も、ペンではなくドスによる妨害をイメージするのです。音楽映画じゃなくて、ヤクザ映画ですな!

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左から笈田敏夫、安部徹、金子信雄の悪の三羽烏。安部徹が善人を演じた映画が少なくとも2本あるらしいが、どちらも見たことがない。ぜひ見てみたいものだ! 金子信雄や二本柳寛の善人は何度か見たが、安部徹は悪役しか見たことがない!

◆ 変なキャラクターの変な言動 ◆◆
話は、弟・青山恭二の晴れ舞台へと収束していきます。裕次郎が甘んじてリンチを受けた結果、ヤクザ者や音楽ゴロとはすべて話がついているので、もうたいしたことは起きそうもないのですが、そこが「母もの映画」、そっちのほうの決着をクライマクスにもってきています。

兄の石原裕次郎が病院から逃げだし、どこかに行ってしまったために、心から兄を信頼していた青山恭二はパニックに陥り、これではオーケストラの指揮などできない、などと子どものようなことをいいます。

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この弟のキャラクターがかなり子どもっぽく設定されているし、青山恭二という俳優の持ち味もまた気弱そうなところにあるので、日活映画を見慣れた人間なら「青山恭二がやりそうな役だ」と思うのですが、それでも、ここはおおいに引っかかりました。そんな馬鹿なことがあるかよ、兄は兄、コンサートはコンサート、まったく次元がちがうだろうが、です。

結局、周囲に説得され、お兄さんはかならず見つけ出すから、といわれて、青山恭二は指揮台にあがるのだから、なんのためにダダをこねたのかもわかりません。ダダをこねたことが、その後の展開にまったくなにも影響を与えないのです。変なシナリオ!

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またしても時間が足りず、もう一回、『嵐を呼ぶ男』を延長させていただきます。次回は間違いなくエンド・マークにたどり着けます。


by songsf4s | 2009-11-23 23:58 | 映画・TV音楽
嵐を呼ぶ男 by 石原裕次郎(日活映画『嵐を呼ぶ男』より) その1
タイトル
嵐を呼ぶ男
アーティスト
石原裕次郎
ライター
大森盛太郎、井上梅次
収録アルバム
『嵐を呼ぶ男 日活映画サウンドトラック集』
リリース年
1957年
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『嵐を呼ぶ男』が大ヒット作であることは前回の『予告篇』で書きましたが、すぐれた作品かというと、ちょっと言葉に詰まります。

こういうときには、よそさんの助けを借りるにかぎります。『日活アクションの華麗な世界』の上巻で、渡辺武信は(やはり出来自体は褒めずに!)以下のように大ヒットの理由を分析しています。

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あの時代の気分をどちらが理解していたかといえば、もちろん、『嵐を呼ぶ男』の公開時に十九歳だったという渡辺武信のほうであって、幼児にすぎなかったわたしではありません。そうお断りしたうえで、まずはわたしなりにヒット要因を考えてみます。

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◆ 母ものプロット ◆◆
渡辺武信は日活アクション初期の、とくに石原裕次郎が演じたヒーローを「孤狼型ヒーロー」と「家庭型ヒーロー」に分け、『嵐を呼ぶ男』を後者に算入しています。そういう二分法でいえば、たしかにそのとおりだろうと思います。

そして、ヒットの理由のひとつは、そこにあるのではないでしょうか。もうすこし細かくいうと、石原裕次郎演じる『嵐を呼ぶ男』のドラマー、国分正一には家庭があり、父はいないものの、母や弟と同居し、自分につらく当たる母を大事に思い、弟の面倒をよく見る人間です。

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兄のことを取りなす次男(青山恭二)と、まったく取り合わない母(小夜福子)、そして、ふれくされる「ヤクザな」長男。

これが大ヒットの最大の要因ではないかと思います。家庭をもたない「孤狼型ヒーロー」(当家で過去に取り上げた日活アクションでいえば、『東京流れ者』『拳銃は俺のパスポート』『霧笛が俺を呼んでいる』などがこのタイプにあたる)の映画は、どれも前回書いたわが家の騒ぎのように、一家総出で見に行くようなものではありません。巨大な鬱屈を抱えた若年層をなだめるタイプの映画です。

例によって、性格づけだの属性だのを洗い流し、骨組みだけを見れば、『嵐を呼ぶ男』は、「瞼の母」に代表される「母もの」のような気がします。目の前にいるのだから、この「新・瞼の母」の主人公は、母を求めて物理的な放浪はしませんが(だが、家にも落ち着けない)、「心理的彷徨」を強いられています。

「彼が求める母」はそこにいないか、あるいは、彼の存在を認めないのだから、いないも同然、したがって、「発見しなければならない母」だということにおいて、『嵐を呼ぶ男』は「瞼の母」と本質的に懸隔がありません。

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裕次郎がなにをしても、母は悪いほうへと解釈する。なんにだって受け取りようというのはあるものだと感心するほど意地が悪い!

もちろん、「瞼の母」だけでヒットするなら、『嵐を呼ぶ男』ではなく、『瞼の母』をつくればいいのであって、石原裕次郎は番場の忠太郎を演じることになってしまいます。だから、骨組みの周りの肉付けも重要で、それが渡辺武信が指摘したような、ドラマーという属性や、芸能界という舞台であり、そこに「瞼の母」を流し込んだことで、大勝利を得たのでしょう。

◆ 異例のスコア ◆◆
『嵐を呼ぶ男』はひどく古めかしいプロットの映画です。当家ですでに取り上げた映画でいえば、『狂った果実』『拳銃は俺のパスポート』『霧笛が俺を呼んでいる』といった作品にくらべると、泥臭いというか野暮ったいというか、土着のにおいが濃厚にある映画です。これより前の石原裕次郎主演作、たとえば『狂った果実』や『俺は待ってるぜ』などとくらべると、『嵐を呼ぶ男』は、時代意識としては後退した映画です。

ただし、その古めかしい「瞼の母」的構造から目をそらす、新しい要素がこの映画にはあります。音楽です。旧来のオーケストラ音楽も使われているし、小編成のストリングスによる叙情的な「キュー」もあるのですが、全編に渡って鳴り響いている支配的サウンドは、スネア・ドラムのパラディドルです。

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これは革命的というか、生涯に見た映画を思いだして、よーく考えてからこのセンテンスを書いているのですが、こんなにスネアのパラディドルばかりが聞こえる映画はほかにありません。そして、このスネア・ドラムの派手な4分3連や16分が、この古めかしい骨組みの映画に斬新な感触を与え、すばらしい躍動感を生み出しています。

とりわけ、演奏シーンではなく、普通のシーンに使われたときに、このスネア・ドラム(およびその付録としてのアップライト・ベース、ピアノ、ヴァイブラフォーン、テナーサックスのサウンド)は、画面を強く突き動かす原動力になっています。わたしが知るかぎり、このように、スネア・ドラムのパラディドルを大黒柱として組み上げられた映画スコアはほかにありません。

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このシーンではキャメラはクレーンに載って動くのだが、背後ではスネア・ドラムのパラディドルが鳴り響いている(隣の部屋で裕次郎が叩いているという設定で、スコアではなく「現実音」だが)。このキャメラの動きとスネアが気持ちよくシンクしているところが、映画ならではのエクサイトメントなのである。

スネア・ドラムを大きくフィーチャーしたスコアとしては、モーリス・ジャールの『史上最大の作戦』がありますが、あれはテンポの遅い、静かなマーチング・ドラムであって、『嵐を呼ぶ男』のような、画面を前へと強く突き動かし、観客をエクサイトさせるタイプのものではありませんでした。

◆ 非音楽的脚本 ◆◆
原作とシナリオは監督の井上梅次ですが、遠慮せずにいえば、プロットは穴だらけだし、音楽映画なのに、音楽の知識があるとは思えない処理が目立ちます。

たとえば、留置所の石原裕次郎を請け出しにいって、彼がそこらの棒きれで鉄格子を叩くのを聴き、北原美枝が「荒削りね」といい、その兄である岡田真澄が「うん、荒削りだ」とこたえます。

嵐を呼ぶ男 冒頭付近ダイジェスト


でも、たかが鉄棒を叩いただけで、荒削りとかそうでないとかいうのは、わたしには奇妙に聞こえます。表現のレベルに達するプレイではないのだから、精確か不精確かのどちらかしかないでしょう。粗いだのなんだのいうのは、トラップに坐って、他のプレイヤーとちゃんと曲をやったときに、全体の構成やフィルインのつくりが下手だとか、そういうときに出てくる言葉ではないでしょうか。ちなみに、この鉄棒を叩く音はじっさいにはライド・シンバルを使っていて、精確なタイムでプレイされています。明らかに一流ドラマーのプレイ。粗くないのです!

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留置所のシーンにはフランキー堺がカメオで出ている。「太鼓なんてのを叩くのは馬鹿だけだ」という台詞が楽屋落ちだということは、当時は常識だっただろうが、いまではもうわかる客のほうが少ないだろう。

しかし、なんといえばいいんでしょうね。ここが映画の摩訶不思議なところなのですが、小説だったらぜったいに見逃されないであろう、プロットや台詞の無数の欠陥が、映画ゆえにどんどん「なかったもの」にされていくのです。なぜチャラになるかといえば、石原裕次郎が暴れ、北原美枝が「凛々しい女」ぶりをふりまき、芦川いづみが可憐だからです。

そして、忘れてはいけないのは、小説ならば「スネア・ドラムの4分3連が派手に鳴り響いた」でしかないものが、映画ではじっさいの音としてわれわれの聴覚を揺さぶることです。ただの文字と、ほんもののスネア・ドラムの4分3連のあいだいには、無限の距離があります。文字ですむものならば、だれがわざわざ音楽を聴くものか!

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◆ フランク・シナトラと石原裕次郎 ◆◆
たしかに、渡辺武信が『日活アクションの華麗な世界』で批判しているように、石原裕次郎やライヴァルのドラマーを演じる笈田敏夫の動きは、音ときちんとシンクしていませんし、二人ともドラマーらしい手首の使い方はしていません。

しかし、これはだれがやってもむずかしいでしょう。俳優が演じることがもっとも困難なミュージシャンはドラマーです。リストを柔らかく使うことだけで訓練(まあ、「慣れ」ぐらいでもいいが)を要しますし、音と矛盾しないように速いパラディドルを叩くのも楽ではありません。まして、スネアからタムタムに流し、スネアに戻して、左手はスネアのまま、1拍目と2拍目の表拍だけ、右手はフロアタムでアクセント、なんてプレイを音と矛盾なくやるなんて、素人には不可能です。

これは日活だからダメとか、井上梅次の演出が手抜きだといったレベルのことではありません。ほぼ同じころ(1955年)、ネルソン・オルグレンの小説を映画化した『黄金の腕』(音楽監督エルマー・バースティーン)で、フランク・シナトラがドラマーを演じましたが、やはり、尻がむずむずするようなスティックの扱いでした。

まあ、『黄金の腕』のほうは演奏シーンが少なく、短いパッセージながら、どれもきちんとシンクさせてはいます。また、「サイド・スティック」(スティックをヘッドの上に寝かせ、ヘッドに一方の端をつけたまま、リムを叩くプレイ)のような、左手首の返しを必要としないものを使うといった細かい気遣いも見せています(シナトラのコーチをつとめたシェリー・マンの進言か)。

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『黄金の腕』のフランク・シナトラ。左手首を使わないサイドスティック・プレイをやらせるというのはグッド・アイディアだった。

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だが、レギュラー・グリップに持ち替えた瞬間、箸をちゃんと持てない俳優を見ているようでガックリする。せめて、もっと先端を余さないと……。

でも、フランク・シナトラは不世出のシンガーであって、不世出のドラマーではないからして当然ですが、左手首の動きが見えた瞬間、これではスネアは叩けないことが一目でわかってしまいます(『すべてをあなたに』でドラマーを演じた俳優は、左手首はコチンコチンに固まっていたが、シンクはほとんど完璧にやっていた。手首が硬いというなら、チャーリー・ワッツのような「プロ」ということになっているドラマーでも信じられないほど硬いので、凡庸なドラマーを演じているのなら、手首の返しの硬軟はどうでもよい)。

俳優には、レギュラー・グリップでの左手首の返しはリアルには演じられません。モダーン・グリップにすればごまかしがききますが、あれはロック・ドラマーのやるもので、すくなくとも昔のジャズ・ドラマーはモダーンは使いませんでした。

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よけいなことだが、『黄金の腕』には、かつてウェスト・コースト・ジャズの全盛期にはフルーゲル・ホルンおよびトランペット・プレイヤーとして大活躍し、のちにハリウッドを代表するアレンジャーとなった、ショーティー・ロジャーズがコンダクター役で出演している。シナトラがヘマをし、スタジオを飛び出しても、なにもなかったように、スタンバイしていたシェリー・マンに、ストゥールに坐るように指示し、平然と録音を続行するところは、なんだか妙にリアル。現実にもあったことなのだろう!

だから、石原裕次郎の「ドラミング」については、とくに批判するようなものではないと思います。俳優にしては左手首をまずまず柔らかく返していて、むしろ感心してしまいます。その点では、『黄金の腕』のフランク・シナトラよりいい出来でした。問題は、演奏シーンが多く、音と動きがシンクしていないことです。

こういうことというのは、井上梅次だとか、石原裕次郎だとか、日活だとか、そういう局所的な問題ではなく、日本映画界全体の、あるいは、ひょっとしたら、われわれ日本人の心性そのものに根ざすものかもしれず、特定の作品の批評にはなじまないような気がします。

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ちょっと前に、記事本文ではなく、ラリー・ネクテルの訃報のコメントに書いたのですが、日本映画で、俳優の手と音のシンクという面で脱帽したのはたった一度、『さらばモスクワ愚連隊』での、加山雄三のピアノだけです。あとはまあ、呆れるほどいい加減で、見ていられないものばかりでした。

これも以前書いたことの繰り返しですが、『アマデウス』の俳優のように、ピアノのレッスンを受けてから撮影に入る(だけでなく、あらゆるシーンが完璧にシンクしていた!)なんてことは、観念としても、コストとしても、日本ではありえないことなのでしょう。

どうも、ややネガティヴな方向に入りこみましたが、次回もさらに『嵐を呼ぶ男』のスコアについて考えをめぐらせてみるつもりです。

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by songsf4s | 2009-11-18 23:58 | 映画・TV音楽
嵐を呼ぶ男 by 石原裕次郎(日活映画『嵐を呼ぶ男』より) 予告篇のみ
タイトル
嵐を呼ぶ男
アーティスト
石原裕次郎
ライター
大森盛太郎、井上梅次
収録アルバム
『嵐を呼ぶ男 日活映画サウンドトラック集』
リリース年
1957年
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あとから考えると、「『霧笛が俺を呼んでいる』その1」で、ずいぶん大束なことを書いてしまったようです。こんなセンテンスです。

「山本直純による『霧笛が俺を呼んでいる』のスコアは、ほぼすべて4ビートです。それ以外の音楽というと、赤木圭一郎が歌うテーマ曲と、クラブ・シンガー役の芦川いづみが歌うシャンソンぐらいでしょう」

その後、細かくシーンを検討していくなかで、「ほぼすべて」はちょっと誇張がすぎたな、と頭をかきました。半分ほどが4ビート、残りはストリングスなどによる叙情的な「キュー」、あるいは4ビートの部分をプレイしたのと同じコンボによる、歌謡曲的なもの(たとえば城ヶ島に向かうシークェンスに流れる、主題歌のインスト・ヴァージョン)などです。

これだって、「4ビートを大々的に利用した映画スコア」であることに変わりはないのです。表現は修正するべきですが、「日活は世界でもまれに見るほど4ビートのスコアを生み出したスタジオである」という考えに変わりはありません。

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◆ 一家総出する評判かな ◆◆
もうこの記事のタイトルはご覧なのだから、ごちゃごちゃいわずにここらで話に入ります。今日から、日活アクションの「非日本的」絵作りよりも、「非日本的スコア」のほうにポイントおいて、『嵐を呼ぶ男』を見ていきます。舞台は東京なので、『霧笛が俺を呼んでいる』のように、ロケ地のことで長広舌をふるうようなことはないでしょうから、せいぜい3回ぐらいで終わる予定です。

当時は知りませんでしたが(なんたって、この映画が公開されたとき、わたしはまだ四歳だった!)、石原裕次郎が国民的スターになったのは、この『嵐を呼ぶ男』の大ヒットのおかげなのだそうです。まあ、そんなことはどこのサイトにも書いてあるから、どうでもいいようなものですが、なるほどね、それでああなったか、と思ったことがあります。

嵐を呼ぶ男 主題歌 動画なし


しばしばネタにしているわが老母に、『嵐を呼ぶ男』があるけれど、見てみるかい、といってみたのです。そうしたら、「あのときは、店に人たちまでみんなつれて、そこの日活にうちじゅうで見に行ったね」といっていました。

なんだか、昭和三〇年代のにおいが濃厚にするでしょう? 昔は夜遅くまで商売していたので、その日はきっと早じまいしたのです。田舎から集団就職でやってきた住み込みの店員、通いの店員、わが家の四人、合わせるとあのころは十人になるかならないかでしょうか。

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きっとみんなで簡単な夕食をかきこんで、ぞろぞろと夜の町に繰り出したのです。目指すは巷で大評判の若者、石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』がかかっている日活直営館です。木造モルタル二階建て、典型的な戦後の映画館でした。

ところが、わたしはそのときのことをぜんぜん記憶していないのです。『嵐を呼ぶ男』を子どものころに見た記憶はあります。しかし、そんな大人数で見に行ったなんて、かけらも覚えていません。たぶん、この映画を記憶したのも、封切りのときではなく、その後の再映を母親と一緒に見たときのことでしょう。

あのころは、しじゅう母親といっしょに日活に裕次郎を見に行っていました。なにしろ、わたしが通う公立小学校では、日活に行ってはいけないことになっていて、ひとりでは裕次郎も宍戸錠も見られなかったのです。

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おかげで、行けるものならなんでも行こうというさもしい根性が生まれ、兄にくっついて、吉永小百合映画までたくさん見ました。子どものころだって、やっぱりアクションのほうがはるかに好きだったので、『若い人』とか『光る海』とか『非行少女』とか『キューポラのある町』とか『潮騒』とか『伊豆の踊子』とか(これはほんの氷山の一角)、そういうのはあまり興味がなかったのですが、同時上映でアクションものを見られることもあったので、兄が連れて行ってやろうかといえば、ぜったいに断りませんでした。

◆ フル・スコアの登場 ◆◆
本題のつもりだったものが、書いてみたらやっぱり枕のようでしたが、こんどこそ本題。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、最近、『嵐を呼ぶ男』のフル・スコアがCD化されました。オリジナル・テープにもどってのマスタリングなので、びっくりするような音です。

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ただし、石原裕次郎唄う主題歌や冒頭のジャズ喫茶のシーンに出てくる平尾昌章の歌は入っていません。「スコア」のみ、といいたいところですが、音楽映画なので、純粋なスコアともいえず、いわゆる「現実音」、劇中で鳴っている音楽も多数収録されたものです。まあ、今回から数回にわたる『嵐を呼ぶ男』の記事では、純粋なスコアか「現実音」かということには、あまりこだわらないつもりです。

その「スコア」(といってしまいます)を聴いて、何度も見た映画なのに、へえー、こんなだったかねえ、と感心してしまいました。国外では石原裕次郎の知名度が低く、映画自体が字幕付きDVD化の対象になっていないため(それにくらべて宍戸錠の需要の大きいこと! 宍戸錠の新しいDVDがリリースされるというと、大騒ぎになる)、まだ海外からの評判が聞こえてきませんが、いずれアメリカでも、このスコアのすごさが理解されるでしょう。『殺しの烙印』における山本直純のスコア(こちらは海外でも「クールなスコア」として有名)より十年前だということに、ギョッとするはずです。

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1950年代のハリウッド映画のスコアをざっと聴けば、『嵐を呼ぶ男』を世界映画史のどこに位置づけるべきかがわかります。大森盛太郎は、いずれ、アレックス・ノース、ショーティー・ロジャーズ、エルマー・バーンスティーンといった、ハリウッドのジャズ・スコアのパイオニアたちとの比較で理解されることになるでしょう。

以上、今日は野暮用ばかりで時間がとれず、予告篇のみでした。次回からはもうすこしがんばります。

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by songsf4s | 2009-11-16 23:59
『霧笛が俺を呼んでいる』 その6

現今でも使うと思うのですが、かつて「文芸映画」という言葉をよく目にしました。いまもって定義を知らないのですが、「シリアス・ノヴェルを原作としたシリアス・フィルム」なんてあたりの意味でしょうか。

いや、「シリアス」にあまり力点を置かないほうがいいかもしれません。やがて「中間小説」と呼ばれはじめ、ついには「エンターテインメント」だなんて、作家がタップダンスでも踊るのかと思ってしまう、奇怪な言葉で呼ばれるようになるタイプの小説も含まれていたように思います。

たとえば、当家ですでに取り上げたものとしては、『乳母車』は「文芸映画」と呼べるのだろうと思います。もうすこしニュアンスを弱めて、少なくとも「文芸路線」ではあるでしょう。

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困ったことに、日本人のわたしでも定義に苦しんだりするのに、いまや日本映画は国際市場に散乱しはじめているため、ウェブであれこれいっている海外日本映画ファンも、「文芸映画」とはなにかを、ほんの軽い気分であれ、考えなければならないハメになったようです。

そして、どういう訳語が適用されたか? Art Filmsです。うーん、しかたないか、ぐらいの感じですね。日本映画について書かれた英文のなかに、art filmsという言葉があったとして、「文芸映画」と訳すかといえば、「芸術映画」という訳語にするのがふつうでしょう。微妙に包含する対象がずれています。

以上の事実は、英語圏には、日本の「文芸映画」に相当するものがないことを強く示唆しています。『老人と海』『普通の人々』『ナチュラル』『ドライヴィング・ミス・デイジー』(原作は戯曲だが)なんていうのは、典型的な「文芸映画」だったと思うのですがねえ。

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ああ、そうか。彼らにとって、メインストリームの小説が原作になっているか否かは、どうでもいいことなのかもしれません。映画は映画、原作は無関係、という気持でしょう。ここいらへんに、彼我の思考形態の差異があるような気がします。

◆ 謎解きからアクションへ ◆◆
城ヶ島で芦川いづみからロープの切れ端のことをきいた赤木圭一郎は、トリックのにおいをかぎ、(たぶん翌日)二人でふたたび突堤に行き、海底でロープのもういっぽうの端を見つけます。あとで説明されるところによれば、こすれて切れたように見せかけているが、じっさいにはナイフで切ったものだ、というのです。

さらに、殺されたバーのホステスが、恋人が行方不明になったことを一味の仕業と疑っていたことを、同僚のホステスが赤木圭一郎に告げます。それを赤木に告げようとして殺されたのだ、というわけです。かくして、2マイナス1の答は明々白々、赤木圭一郎の親友にして芦川いづみの恋人にして吉永小百合の兄は、死んでいない、身代わりを殺して死んだように見せかけたのだ、という結論になり、この映画がミステリーものだとするなら、ここまでで謎はすべて解決されます。

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赤木圭一郎に同僚の疑いを告げたせいで、このホステスは仕事帰りに深江章喜らに殺されそうになる。

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ここはロケ地を特定できない。背後に派手な造りの教会があるので、すぐにわかりそうなものだが……。なんだか、ほかの映画でも同じ場所を見たような気もする。

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教会ばかりではなく、歩道の造りも、下見板に鎧戸の家も、じつに非日本的。ということは、根岸ハイツのほうで撮ったのか?

こうなると、あとはアクションあるのみ。赤木圭一郎は一味のアジトであるバー〈35ノット〉(おわかりだろうが、セットを組む関係上、そんなにあれこれと場所を設定できない)に乗り込み、一暴れして、俺の言葉をあいつに伝えろ、といいます。

この揺さぶりによって、ついに親友、葉山良二が会見を承知します。観客はみな、この話は『第三の男』パターンだと読んでいるので、ここで意外の感にうたれるお人好しはまずいないでしょう。やっと結末に向かって動きだしたな、ぐらいの印象です。

◆ さらに『第三の男』へと ◆◆
赤木圭一郎は、警察の尾行に対する「ぼくよけ」のつもりなのか、吉永小百合を東京見物に連れて行くといって、ことのついでに葉山良二の隠れ家に立ち寄ります。

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ここからの一連のショットは、ドライヴに行くときのものではなく、これよりも前の、ただ見舞いに来たときのショットだが、都合でここに置いた。「編集によってどんなことでも思いこませることができる」という理論の実践である。いや、そうじゃなくて、背後に写っている町に愕いたのだ。

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市電の線路があるのはいい。なければ愕く。だるま船がたくさんあるのもいい。このころ、あそこはまだ運河として機能していたのだから。

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だが、運河の向こうはなんだ。町になっていないではないか。あんな場所に、あんな空き地があるなんて、いまになると信じがたい!

外観はロケハンのときに、たしか横浜で見つけた家を借りてロケをした、と木村威夫美術監督はいっています。外からミドルで見た葉山良二のショットは別として、あとは室内はすべて、外もアップはセットです。

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ドアにご注目。このドアは「たしか名前を書いて、よその組には使わせなかった」という木村威夫専用部材で、いろいろな映画に登場している。すでに取り上げた田坂具隆監督、石原裕次郎、芦川いづみ主演の『乳母車』に出てくる鎌倉の邸宅や、同じようなスタッフとキャストでつくられた『陽のあたる坂道』の裕次郎や芦川いづみが住んでいる田園調布の邸宅にも使われている。この波形が木村威夫美術監督のお気に召していたそうな。

いまなら、たった二度の階段のショットのために、セットをつくったりはしないでしょうが、そこがやっぱり昔の撮影所、最低限、やるべきことはやっています。そもそも木村威夫は、下手なところを借りるとかえって高くつく、セットのほうが安上がりなこともあると、現今の映画作りを批判しています。

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セット。左端に暖炉があるが、サイズは見て取れない。

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ロケ。カーテンにご注目。

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もちろんロケ。

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ロケ。ただし、緑色の鎧戸はつくってもっていったものらしい。また、はっきりとはわからないが、屋根はどうも天然スレートに思える。最近は見かけないが、天然スレートで葺くと、たっぷりとした量感のある屋根になる。

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セット。ここがわからない。ここもロケで大丈夫だったのではないだろうか。あとからの追加ショットか。カーテンもきちんとそろえてある。ということは、ロケ先にカーテンをもっていったのだろう。

赤木圭一郎は葉山良二の買収に乗らず、葉山良二は自首しろという赤木圭一郎の説得に耳を貸さず、観客の予想通り、会見は物別れに終わります、

赤木圭一郎と妹を遠く見送った直後、葉山良二は拳銃を手に家を出ます。説明はないのですが、友を買収しそこなったうえは、もはや日本に長居は無用、芦川いづみを連れて海外逃亡をするために、密かに横浜に行く、といったあたりでしょう。

二本柳寛のアジトである例のクラブ〈カサブランカ〉に行くと、網を張っていた西村晃らに追われることになります。

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地下の秘密の出入口というのがなんとも「ロマネスク」で、これはどんなものかなあ、と思いますが、作り手としては『第三の男』にもっていきたかったのでしょう。

なんだか、今日は頭が空っぽになって、あらすじを書くだけの能なしになったような気がしますが、肝心なのは文字ではなく、スクリーン・ショットなので、そちらをご覧あれ。

葉山良二が姿をあらわしたことで、もうもってまわった描き方をするわけにはいかず、話はどんどん動くので、つぎからはこちらもスピードアップするのではないかと予測しています。

吉永小百合のインタヴューがあったので貼っておきます。ドライヴのシーンにふれています。

吉永小百合 『霧笛が俺を呼んでいる』の思い出


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by songsf4s | 2009-11-14 23:58 | 映画