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鈴木清順監督『野獣の青春』(1963年、日活)その1

前回の「細野晴臣、松本隆、鈴木茂の『夏なんです』」では、久しぶりにtonieさん、キムラセンセという友人たちの揃い踏みになり、やっぱり、このへんになると、みなさん一言も二言もあるのだなあ、とニヤニヤしました。

ご両所、やはり世代がちがうので、距離の取り方が明確に異なっています。tonieさんにとっては、大滝詠一と細野晴臣は、どっちがどうだというような存在ではない、というのは、なるほど、そうなんだろうなあ、です。切り離して、どっちが好ましいのと、そういう見方はしないのだと納得しました。

キムラセンセとわたしは同年代なので、センセのおっしゃりたいことは、わたしがいいたいことに近似しています。この数日、人の悪口を言うのはやめよう、気に入らないものには口をつぐむにかぎる、いつまでも喧嘩腰でものを書いていると、後生が悪い、と考えるようになったので(「後生鰻」という噺を思いだしたりして! あのサゲはすごい!)、当時、細野晴臣のヴォーカルについてどう感じていたかは、できるだけ婉曲に書いたにすぎず、じつのところ、おおむねセンセと同じように感じていました。ライヴで歌わなかったのは、ご本人も、われわれと同じように感じていたからだろうと想像します!

センセも同じように変化されたようですが、ここからが時間経過の玄妙さ、シンガーとしての資質に恵まれた大滝詠一に対する関心はやがて薄れ、当時は「素人の余技」のように思っていた細野晴臣の歌のほうが、ずっと近しいものに感じられるようになるのだから、長く生きてみるもの、というか、長生きなどするとろくなことはないというべきか、言葉に詰まるわが感覚の妙なる変化であります。

さっき、散歩していて、細野晴臣の歌のことを考えていたら、だれかべつの人の顔がボンヤリと脳裡に浮かんできました。なんだなんだ、なにがいいたいんだ、と自分をせっついたら、バンと映画タイトルが出ました。『戸田家の兄妹』。小津安二郎の太平洋戦争直前の映画です。

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その映画のなにが問題かというと、佐分利信の台詞まわしです。これがとんでもない棒読みなのです。そういえば高倉健も、若いころは赤面するような台詞まわしでした。たぶん、それがかえってよかったのです。スターには、脇役のような技術はいりません。佐分利信や高倉健が大成したのは、技術ごとき瑣事に煩わされない大きさがあったおかげでしょう。小津安二郎が、大根といわれていた原節子のことを、けっしてそんなことはない、と擁護したのも、つまりはそういうことでしょう。技術は杉村春子にまかせておけばいいのです。

細野晴臣のぶっきらぼうな「棒読みスタイル歌唱」は、些末な技術とはもっとも遠いところにある、なんらかの価値を秘めていたのだと思います。秘められちゃっているのだからして、われわれが(そしてご当人も!)その魅力の「発見」に手間取ったのも、まあ、無理もないことだったのではないでしょうか。

◆ 「青春」とはなんだ! ◆◆
さて、本日からまたしばらくのあいだ、恒例の鈴木清順映画です。

『野獣の青春』の英訳題はYouth of the Beastというのだそうです。なんだか落ち着きの悪いタイトルだなあ、と思ってから、それをいうなら、そもそも日本語の原題からして、イメージ喚起力のない、不出来なタイトルなのだということに思いいたりました。

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では、内容がそういうものだから、やむをえずそういうタイトルが選ばれたのかというと、これがそうでもないというか、ぜんぜん無関係じゃないのかなあ、という話なのです。まあ、主人公を「野獣」と呼ぶのは、べつにけっこうだと思います。でも、青春のせの字もないでしょう、この映画には。

やっぱり、宣伝部が「タイトルに愛、青春、哀しみ、このどれかが欲しい」とかなんとかくだらないことをいったのじゃないでしょうか。で、たぶん、企画段階では、この映画の原作者・大藪晴彦の大ベストセラー・ハードボイルド小説(というより、ヴァイオレンス小説と呼ぶべきだろうが)『野獣死すべし』にならって、たとえば『野獣の復讐』などといっていたものに、突然、どこからともなく「青春」があらわれ、取り憑いてしまったのではないでしょうか。かくして、意味不明タイトル一丁あがり。

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日活時代、鈴木清順監督がタイトルを決めた映画というのはあるのでしょうか。まあ、撮影所のメカニズムからいって、その可能性はほとんどないだろうと思います。だって、企画は上から下りてくるものであって、せいぜい、複数の企画のなかからどれを選ぶかの自由しかなかったのだから、タイトルを選ぶどころではないでしょう。

ここからは、あとで書き加えているのですが、タイトルについて、鈴木清順監督と主演の宍戸錠のご両人が、インタヴューでふれていました。やっぱり、だれもが「どうして『青春』なんだろう」と思うのでしょう。

まずエースのジョーはいきなり、つぎのようなスクリプトを示しました。

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これがオリジナル・タイトルだったそうです。たしかに、このほうがまだしも内容に即しています。清順監督はどうかというと、なぜこのようなタイトルになったのだ、ときかれて、わたしが想像したとおり、「さあ……」とおっしゃっていました。会社が決めることだから、監督は興味がないのです! プログラム・ピクチャーですからね。最後に「まあ、日活は若者のための映画をつくっていたから」と笑っておしまい!

◆ 「清順ぶり」の発現 ◆◆
学齢前から小学校にかけて、そうとは知らずに見た映画はべつとして、鈴木清順という監督の名前を覚えてから最初に見たのは、『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』です。この映画がおおいに気に入ったので、1972年2月終わりから3月にかけての、池袋文芸座地下での、鈴木清順シネマテークに行くことにしました。

『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』に興奮したティーネイジャーにとって、あのシネマテークで見た20本のうち、期待したものにもっとも近かったのは『野獣の青春』でした。『くたばれ悪党ども』と同じ年につくられ、同じく宍戸錠が主演するアクション映画でした。

野獣の青春 trailer(英語字幕)


日活時代、鈴木清順が注目されることはほとんどなかったようですが、あとから読んだものによると、一部の評論家が、この監督はなにかをやろうとしている、とはじめて感じたのは、この『野獣の青春』のときだったそうです。同じ年に製作された、同系統の『くたばれ悪党ども』ではないのです。

たしかに、自分の好みを棚上げにして、演出という側面で見ると、『野獣の青春』のほうが、ハッとさせられる瞬間が多くあります。『くたばれ悪党ども』にも魅了されるショット、シークェンスはあるのですが、一歩ひいて、作品史として見るならば、太字で書くべきはやはり『野獣の青春』でしょう。

今日はまったく時間が足りず、まだなにも書いていないに等しいのですが、例によって「予告篇」というこことで、次回から本格的に『野獣の青春』で噴出しはじめた「清順ぶり」のディテールを見ていこうと思います。


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by songsf4s | 2010-08-30 23:58 | 映画
藤田敏八監督『八月の濡れた砂』(日活映画)その4

視覚的ディテールに表現されたことを、ひとつの意図に添って並べられた一連の有意味なものとして解釈、再構成するのは、ずいぶんエネルギーのいることで、こんなことを日常的にやっている映画評論家というのは、エラいものだと嘆息が出ます。

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ダイニチ映配のロゴなど記憶になかった。冒頭、いきなりこれが出てくるのだから、ああ落日、とため息が出る。

『八月の濡れた砂』を再見して、ほんとうによかったと思います。見れば見るほど味わいの深まっていく、素晴らしい映画だと再認識しました。しかし、それを言語化するのはまたべつの話で、すっかりくたびれてしまいました。それは、お読みになっているお客さんも同じではないかと思います。

でも、今回はゲーム、ただのお遊びのロケ地話なので、気楽に書きます。みなさんも肩の力を抜いてください。

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NKロゴも微妙に変化してしまった。ゴールドだぜ、ってクレジットカードじゃないのだから、なにもいいことはない!

ところで、『八月の濡れた砂』には関係ないのですが、前回の記事のためにクリップを探していて、たまたま見かけたものを貼りつけます。

あじさいの歌


とくに世評の高い映画ではありませんが、わたしは十回以上再見しています。作品の出来からいえば『陽のあたる坂道』のほうが上でしょうが、たんに好みでいえば、『あじさいの歌』は、石坂洋次郎原作のものとしてはもっともいい映画だと思っています。芦川いづみもこの映画のときがいちばん好きです!

◆ 「大木果実店」と「濱勇商店」 ◆◆
すでに書いたように、『八月の濡れた砂』を再見しようと思いたったのは、「『狂った果実』その3」のロケ地散歩で取り上げた、鎌倉の御成通りと由比ヶ浜通りの交叉点にある果物屋(わたしが知っている時期にはすでに営業形態は八百屋だった)が、『八月の濡れた砂』にも登場するのではないか、というご意見をいただいたからです。

まず、『狂った果実』の該当のショットと、昨年、わたしが撮影したそのロケ地の現況の写真をご覧いただきましょう。

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両側の店は『狂った果実』から半世紀以上たった現在も営業中。ただし、果物屋のほうは経営がかわったのか、「大木果実店」ではなく「浜勇」となった。この新しい店名には撮影のときに気がついたので、比較的最近の変化ではないだろうか。

つづいて、『八月の濡れた砂』の果物屋のショット。これは清が食料品店の二階にある自室から外を見る「見た目」ショットで、なにげなく下を見たら、同級生の和子が通りかかったので、声をかけるというシーンです。

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たしかに、果物屋ないしは八百屋の店名は「濱勇」と読めます。しかし、問題があります。鎌倉由比ヶ浜の八百屋のほうは、1970年代はじめには、「濱勇」ないしは「浜勇」という店名ではなかったような気がするのです。『狂った果実』のときと同じ「大木果実店」であったかどうかまでは記憶がありませんが、「濱勇」ではなかっただろうと感じます。

また、濱勇という店は湘南から三浦にかけて何軒かあり、わたしは他にすくなくとも二店舗あることを知っています。とりあえず、ここまでのところ、『八月の濡れた砂』に登場する「濱勇商店」が、『狂った果実』に登場する大木果実店(撮影当時)と同一の店かどうかは判断できず、ほかの手がかりから考えることにしました。

◆ 田越川と逗子マリーナ ◆◆
そもそも、わたしはロケ地を気にするほうだと思うのですが、『八月の濡れた砂』に鎌倉が出てきたという記憶がなかったのです。まあ、記憶なんて頼りにならないものですが、でも、鎌倉だとはっきりわかるショットがあれば、ちゃんと記憶に刻み込んだはずです。

開巻からずっとここまで、ロケ地を特定できたかといえば、否です。ずっと気にして見ていても、どこだかわからなかったのです。海岸線も鎌倉のものではありません。やっと見覚えのある場所が出てくるのは、上述の果物屋のショットの直後、健一郎が和子と橋ですれちがうシーンでのことです。

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これは逗子の田越川(たごえがわ)ではないか、と思ったのですが、百パーセントの確信はもてないうちにショットが切り替わってしまいました。スクリーン・キャプチャーで見れば、ちゃんと書いてあるのがわかるのですがね!

ひと目で、これは逗子だ、と思ったのは、セーリングに出発するときのショットです。

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これは逗子マリーナでしょう。これで、すくなくとも1ショットは逗子で撮影されたことがわかりました。

◆ 商店街 ◆◆
逗子マリーナでロケをしたのだから、ほかのシーンも逗子で撮影した可能性があるという前提に立って、清の家も逗子でのロケだと仮定してみましょう。商店街は文字であふれているものです。なにか手がかりがあるはずです。

わたし自身が見覚えているのがいちばんいいのですが、残念ながら、逗子はわたしにとってはエアポケット、むしろJR東逗子駅周辺のほうが、友だちが住んでいたせいでよく知っているほどで、逗子を遊び場にしたことはかつて一度もなく、通り一遍のことしか知りません。

冒頭、早苗をいったん無人の海の家に入れ、清は家に帰って彼女のために着るものをもっていこうとします。

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この風景を見ても、店の名前を見ても、これがどこだかは判断できませんでした。でも、店名さえあれば、いまはウェブの時代、検索することができます。こういう場合、有効なのはありふれていない名前の店です。

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傷が癒えてから、健一郎が清の家を訪れるシークェンスもある。

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あちこちのロケをつぎはぎにしたのではなく、現場を忠実に生かしたと仮定して、前述の「濱勇」が鎌倉由比ヶ浜にあるとすると、このショットではすぐ向こう側に江ノ電の踏切が見えなければいけないはずだが……。

ヴィデオはありがたいもので、映画館だったら見落としてしまうであろうディテールをたしかめることができます。清が住んでいるものとして撮影された家の隣に、変わった名前の理髪店があったのです。検索したところ、ありがたいことに、この店はまだ営業していました。

バーバーショップ ヘンケル

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これで住所がわかったので、こんどは地図検索です。

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上(北)にJR横須賀線と逗子駅、目的の場所は真ん中下の「花里生花店」のあたり。

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上の地図を拡大。

なんのことはない、JR逗子駅から真っ直ぐ延びている目抜き通りでした。いまは庇があって印象がまったく変わってしまっただけです。清の家として撮影された食料品店もまだありますが、ただし店名は異なります。いや、映画では店名を変えたのかもしれませんが。

映画のなかでは「富士」とだけ読めた店は、地図によれば「富士トーイ」といい、玩具店のようですが、つい最近、閉店したと書いているブログがありました。

そして肝心の「浜勇」、これもちゃんと映画のなかに出てくる位置にありました。映画のなかでその隣に見えていた花里生花店も営業中。40年以上、同じ場所で同じ商売をしているのだから、商店というのはたいしたものだと思います。おかげでロケ地を特定できました。

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ということで、『狂った果実』に登場した店が『八月の濡れた砂』にも登場したのか、という設問の答えは、残念ながらネガティヴでした。たぶん、鎌倉由比ヶ浜の店は、1971年の時点でもまだ、「大木果実店」の名前で営業していたのではないかと思います。

残念ながら、『狂った果実』に出てきた店が「最後の日活映画」である『八月の濡れた砂』にも登場した、という面白い仮定は成立しませんでした。しかし、DEEPさんがそのような疑問を呈されたおかげで、この映画を再見することができてよかったと心から思います。どうもありがとうございました>DEEPさん。

忘れてはいけないのは、資料を提供してくださった〈三河の侍大将〉Oさん。今回もおんぶにだっこで記事を書かせていただきました。お世話になりっぱなしで恐縮です。

◆ 警察、海、断崖 ◆◆
さて、わたしに解決できたのはここまでです。つまり、逗子マリーナ、田越川(のたぶん下流、京急新逗子駅に近いあたり)、逗子銀座商店街の三カ所のみで、あとはよくわかりません。地元の方ならすぐにわかるところも多いのではないかと思うので、コメント欄でご教示いただけたらと願っています。

とりわけ引っかかるのは警察署です。

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警察署。右側の立て看板の文字の最初は「逗子」のように見える。

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キャメラが切り返すと、背後に架線が見える。車輌が見えればJR(あの時代にはまだ国鉄だったが)か京急か判断できたのだが。でも、なんとなく京急のような気がする。

逗子警察の位置はよく知っています。これは昔から変わっていません。映画のなかの警察はそれとはべつの建物で、すぐ近くに線路が見えます。当てずっぽうをいうと、京急新逗子駅近くに、分署のようなものがあったのではないでしょうか。逗子署は駅からちょっと離れていますから。

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ロケ地の判明しなかったショットを並べてみた。

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思ったより書くことの多かった『八月の濡れた砂』はこれで完了です。こういう強いエモーションの共鳴を引き起こす映画を見たあとというのはむずかしいもので、つぎの映画をどうするか悩みます。とりあえず、音楽ものをはさんで、そのあいだに考えることにします。

それにしても、昨日今日のお客さんの多さはどういうことでしょうか。やはりツイッターのせいなのか、それとも関係ないのか……。


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日活映画音楽集 藤田敏八
日活映画音楽集~監督シリーズ~藤田敏八
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by songsf4s | 2010-05-14 23:53 | 映画
藤田敏八監督『八月の濡れた砂』(日活映画)その3

昨夜、更新したあとで、『八月の濡れた砂』をご覧になっていない方は、前回で話が終わっていることがおわかりにならなかったかも知れないと思いました。あれでほぼエンディング、あとはキャメラが空撮に切り替わり、エンド・タイトルが出るだけです。

コンテクストにおける役割、意味合いは異なるにせよ、やはり、『狂った果実』のエンディングを意識していたのだと思います。

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『狂った果実』エンディング直前の空撮ショット

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『八月の濡れた砂』エンド・タイトル

◆ 同級生? ◆◆
わたしにとって『八月の濡れた砂』はめずらしいタイプの映画です。最初に見たときより二回目のほうが、二回目のときより三回目である今回のほうが、ずっと面白く感じられたのです。

なにもわかっていない子どものころに見た映画はべつとして、それなりの年齢、たとえば高校生以後に見た映画のいいものは、初見のときの印象が強く、それが再見で強まることはあまりありません。再見はたいていの場合、「快感の追体験」なのです。

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この映画がつくられた1971年、わたしは高校三年生でした。劇中の彼らと同学年なのです。この映画を見たのは公開時ではなく、すこしあとのことですが、その時点ではまだ、登場人物たちが自分と同じ年齢に設定されていることが、無心にこの映画を見ることを妨げたのだと思います。この映画が撮影された町の山ひとつ向こうの町に住んでいた時期だったこともあって、フィクションを楽しむための、ちょうどよい距離感をつかめなかったということもあるでしょう。

わたしは、くそまじめではなかったにしても、基本的には法律を遵守する子どもだったので、彼らの振るまいは、若いころにはおおいに抵抗がありました。いや、健一郎(村野武範)が、「世間」という枠組に殴りかかる気分には共感しましたし、車を強奪したりといったことは了解の範囲でした。でも、レイプには抵抗があったのです。

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この映画が描いたレイプは、それ自体を表現しようとしたものではないことが、だんだんわかってきました。この『八月の濡れた砂』シリーズの一回目に書いたように、それは「世間と狎れ合うことへの強い拒絶の意志」をあらわすものだったのです。

『八月の濡れた砂』に出てくる性行為はすべてレイプです。しかし、「画面の外で」起きたこととして間接的に表現される早苗の集団暴行以外は、「なかば合意のもの」あるいは「時間をかければ合意されたかもしれないもの」です。彼らは、相手が同意の可能性をほのめかしても、それを拒否し、不同意のまま強行してしまうのです。

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清は深夜、シフトレバーを折ってしまったために真紀がおいていったままの車に行き、シートに坐っているうちに眠りに落ちてしまいます。明け方、目が覚めると、早苗がいて、車に乗り込んできます(サンプルをアップした「朝霧の再会」はここで流れる)。早苗はシートを倒し、

「しないの、お姉さんにしたようなこと?」

といいますが、清は折れたシフトレバーをもてあそび、「俺はまだ顔を洗っていないんだ」といって、早苗の挑発には乗りません。女が積極的になると、男は鼻白む、という意味かもしれませんし、たんに「そういう気分にはなっていない」だけかもしれません。でも、この映画の大きな文脈においては、ここで清は、合意による狎れ合いを拒否した、と解釈することもできます。

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いや、単純に、ここで早苗の挑発に乗ってしまえば、彼女が永遠に優位に立つことになるのを、清は直感的に見抜いたのかもしれません。あるいは、のちに明らかにされることですが、集団暴行にあったことを、彼女がどのように受け止めているかが不確かで、それがわかるまで彼は身動きできなかったのかもしれません。

彼らの振るまい(清と健一郎のレイプはニュアンスが異なるのだが)の意味が明瞭になるにつれて、初見のときにあった違和感は薄れ、おおいなる共感へと変わりました。最初は「抵抗感はあるが印象に残る映画」だったものが、つぎには「日活末期の見るに足る佳作」となり、今回は「日本映画史上屈指の秀作」と考えるようになりました。

ほんとうに人間の感覚というのはおかしなものだと思います。若いころには共感の妨げになった環境の近似が、年をとってみたら、共感の大きな理由に変じていたのです。

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彼らとわたしは、たんに年齢と生活圏が近かっただけで、似たような生活をしていたわけでもなければ、共通の世界観をもっていたわけでもありません。でも、きっと同じ体臭をもっているだろうと思います。

『八月の濡れた砂』に描かれた世界は、わたしが生きた世界によく似ているし、わたしには「かつてあの空気を吸って生きていた」という明確な記憶があります。そして、その「空気」は、いまとなっては自分自身の過去のように愛おしく、そして哀しいのです。『八月の濡れた砂』もまた、『乳母車』のように、「いつまでも終わってほしくない、ずっとこの世界にいたい」という強い思いをもたらす映画でした。

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◆ スコアの果たした役割 ◆◆
日活映画では、音楽が重要な役割を果たしてきましたが、この「最後の日活映画」も、その伝統の掉尾を飾るにふさわしい音楽の使い方をしています。ただし、日活黄金時代の音楽とはずいぶん隔たったところで成立しているのですが。

『八月の濡れた砂』のスコアは、8ビートとそれ以外のもの、という2種類に分けられます。8ビートについては、ドラムのグルーヴが好みではないし、とりたてて面白いわけでもないので、ここでは言及しません(ただし、こういうタイプの音楽は、さる方面では発掘対象になっているらしい)。

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面白いのは、メイン・テーマおよび主題歌という2種類のメロディーの各種ヴァリアントです。すでにサンプルにしてありますが、重複をいとわず、もう一度リストをあげておきます。

サンプル 『八月の濡れた砂』メイン・テーマ

サンプル 『八月の濡れた砂』より「朝霧の再会」

サンプル 『八月の濡れた砂』より「海へ」

サンプル 『八月の濡れた砂』主題歌(movie edit)

この4トラックのなかには、石川セリが歌った主題歌「八月の濡れた砂」のヴァリアントはないので、今回、新たにサンプルをアップしました。

サンプル 「波に浮かぶ恋人たち」

これは前回ふれた、清と早苗が一緒に泳ぐシーンで流れます。

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さらにもう1トラック、こちらはメイン・テーマのヴァリアント。健一郎がヤクザたちにやられて、家で寝ている場面で流れるものです。

サンプル 「失望のボサノヴァ」

「朝霧の再会」がオーボエやヴァイオリンをリード楽器にしているのに対し、こちらは、冒頭部分ではハーモニカをリード楽器にしているので、より叙情的なサウンドになっています。さらにいうと、『狂った果実』の「ラヴ・テーマ」(というタイトルはわたしが勝手につけたのだが、正式タイトルの確認は手間がかかるので略)をも想起させます。いや、スコアを書いたむつひろしにその意図があったかどうかはなんともいえませんけれどね。

こうしたスコアのリリシズムが、シーンの味わいを決定しているケースもありますし、映画を見終わったときの後味も、スコアによる部分が大きいと感じます。

清は二度にわたって真紀を犯そうとします。最初は未遂、クライマクスは既遂ですが、どちらのシーンでも、リリカルな「メイン・テーマ」が流れるところが、この映画のスコアの特徴といえます。ふつうなら、こういう場面ではちがうタイプの音楽をつけるでしょう。

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とりわけ、前回くわしくふれた、早苗の向ける銃に健一郎が対峙する場面の、あの曰く言い難い叙情性は、村野武範の表情と「メイン・テーマ」のサウンドが融合して生まれたものです。音楽がなければ、あそこまでパセティックにわれわれの心に迫ってくることはなかったにちがいありません。

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◆ むつひろし=松村孝司 ◆◆
『八月の濡れた砂』のスコアは、映画音楽を得意とした作曲家(たとえば佐藤勝)の手になるもののような、四方八方に目を配った精緻な仕上がりのものではありません。しかし、「メイン・テーマ」と主題歌の二つのリリカルなメロディーを使ったヴァリアントで押し通すという方針のおかげで、映画の印象を左右するほどのものになっています。

しかし、それだけの仕事をした人のことが、調べてもよくわからないのです。いや、「昭和枯れすすき」と「グッド・ナイト・ベイビー」という、二曲のメガヒットの作者であることはいいでしょう。そして、作曲のかたわら、楽曲出版社の経営もしていたということまではいいのですが、それ以外のことはほとんどわからないのです。映画関係のデータベースで調べたかぎりでは、ほかに映画スコアはないようです(『八月の濡れた砂』一本しかスコアを書いていないこと自体、重要な情報だが)。どなたか、むつひろしのディスコグラフィーやバイオをご存知の方、ご教示いただければ幸いです。

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石川セリ歌う主題歌「八月の濡れた砂」は、エンディング・タイトルで流れます。この映画にふさわしいメロディーであり、サウンドだと思いますが、歌詞もおおいに気になります。みごとに映画を象徴しているのです。ラッシュを見てから書いたのでしょうか? あるいは脚本を読んでから書いた? どうであれ、着きすぎもせず、離れもせず、うまく映画の世界とパラレルになるように書かれた歌詞だと感じます。

思い出さえも残しはしない あたしの夏は明日もつづく

というところで、そうだよなあ、と思います。ドラマティックになにかが起きる、始まりと終わりのある世界ではなく、なにが起きても痕跡は残らず、輪郭の弱いロウ・コントラストの世界がつづくのです。

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なお、主題歌のイントロとオブリガートに使われている楽器は「アルパ」というものだそうです。名前が示すようにハープの一種で、音は一般的なハープよりアタックが強く(いや、この曲ではそのようにプレイしただけかも知れないが)、それがこの曲に微妙な味わいを加えています。

いや、ホント、微妙な味ですなあ。あるときはムード歌謡のように聞こえたり、べつの部分ではブラジル音楽のように聞こえたり、色合いが繊細に変化していくところにおおいなる魅力があります。

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『八月の濡れた砂』を再見しようと思いたったのは、そもそも、どこで撮影されたのかを確認するためでした。そして、この三回目でその問題にもふれるつもりだったのですが、濃密な映画を相手に格闘して疲労困憊してしまったため、今日はここまでとし、もう一回だけ延長させていただきます。引っ張ってしまってすみませんね>DEEPさん。次回、かならずあの店にふれます。でも、結論は予想通りではありませんよ。



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日活映画音楽集 藤田敏八
日活映画音楽集~監督シリーズ~藤田敏八
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by songsf4s | 2010-05-13 23:54 | 映画・TV音楽
藤田敏八監督『八月の濡れた砂』(日活映画)その2

『八月の濡れた砂』は、生起する出来事を中心にした形で、一貫した流れのあるシノプシスを書きにくい映画です。その点こそが、この映画の本質だからです。

いえ、出来事は起きます。起きはするものの、完全にデッドな、残響のない場所で音を鳴らしたように、起きた瞬間に消えてしまい、なにも残らないのです。

◆ 強奪と監禁とリンチ ◆◆
清が浜にいるときに、早苗がやってきて、あれを見ろ、といいます。そこには車があり、そのそばでは、以前、彼女をなぶりものにした大学生たちが麻雀をしています。清は義憤に駆られ、四人の大学生たちにケンカを売るものの、劣勢になり、そこへ村野武範も加わって乱戦になったところ、早苗が彼らの車を奪い、もうひとりの友だちも含め、四人は早苗の別荘に行きます。

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早苗の別荘(木骨構造の疑似チューダー様式!)に着くと、空き巣狙いがいて、彼らはこの男(山谷初男)を捕らえます。しかし、警察は呼ばず、縛りあげてなぶりものにします。健一郎が男の髪の毛を剪ると、早苗が面白がって自分でやるのを見て、健一郎はイヤな顔をし、この「遊び」に興味を失います。早苗がこの男を犬のかわりに飼うなどといっているところに、姉の真紀が帰ってきて、男を解放し、この遊びは終わります。

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健一郎たちは奪った車を海にもっていき、沈めてしまいます。これでこの一件はおしまい、だれもなにか重大なことがあったとはみなさず、車のことも、こそ泥のことも、あとかたもなく消えてゆきます。

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早苗の家から帰る車中の三人は、不機嫌な表情で黙りこくっている。いろいろやって遊んでみたが、べつに面白くもなかったのだ。

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健一郎は、元の同級生・修司(剛たつひと)が、和子(隅田和代)とプラトニックな付き合いをしているのが気に入らず、早くやっちまえ、もたもたしていると俺がやっちゃうぞ、とけしかけます。

ある夜、修司は浜辺で和子に襲いかかり、健一郎と清はその様子を目撃します。翌日、和子が自殺したことがわかり、その場では、さすがに健一郎も心が動いたような表情を見せます。

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清は同級生二人のひめごとを見るのを嫌がるが、健一郎は「実況中継」で様子を伝え、しまいには髪の毛をつかんで無理矢理直視させる。

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でも、葬儀のあと、健一郎と清は海に行き、「死にたいな」といって断崖から飛び込みますが、二人とも浮かんでしまい、「そう簡単には死ねないものですね」と笑う。これで和子の死はおしまい。なにも残さずに忘れられます。

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なにかを死に値するほど重大に受け取る和子の世界と、死にたいな、といって気軽に断崖から飛び込み、死ねないものだと笑う健一郎と清の世界は、ここでするどい対比を成します。彼らのまわりでは、日々、なにかの出来事があったり、自分たちで事件を起こしたりしているのですが、それはみな、なんの痕跡も残さずに消えていってしまうのです。

◆ 大人は忘れない ◆◆
唯一、尾を引くのは、健一郎と母親の愛人とのあいだの確執です。

ある日、健一郎が町を歩いていると、いきなり三人のヤクザ者が襲いかかり、さんざんに健一郎をぶちのめします。

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家で療養しているところに、母親の愛人がやってきて、あれこれ話しているうちに、「三人のヤクザを相手に暴れたか」といいます。健一郎はだれにも相手の人数をいっていませんでした。これで、以前、バーで健一郎にからかわれた腹いせに、この男がヤクザたちを雇ったことが知れます。

傷が癒えると、健一郎は清の家に行き、海に行っているといわれ、浜辺にやってきます。ここで彼は、向こうから歩いてきた女の子の肩にいきなり腕をまわし、強引にシャワー室のほうに連れて行きます。飲み物ならつきあうといったのだと女の子はあらがいますが、健一郎はおかまいなしに一儀におよびます。

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ここでも、健一郎の行為はなんの波紋も残しません。ことが終わると彼女は黙って去っていき、健一郎もなにごともなかったかのようにシャワー室から出、清を探しに行きます(話の順序としては、このあとに前述の、修司が和子を襲い、和子が自殺するエピソードがおかれている)。

◆ 「俺はこだわってるんだ」 ◆◆
話はちょっと前後しますが、清は早苗と泳いでいるときにたずねます。

「なあ、やられたときのこと、いまでも思いだすか?」
「忘れたわ」
「そんなことないだろ、忘れるなんて」
「忘れたわ」
「俺はこだわってるんだ。なあ、正直にいえよ、好きなんだぜ、俺」

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この会話は、清の古めかしい女性観を示すものとも、あるいは、女を知らない彼の幼さを示すものと受け取ることもできます。むろん、そういう意味も込められているでしょう。しかし、この映画全体の文脈においてみると、わたしには、これが「起きた出来事の実在性の証明」を希求する心をあらわしているように思われます。

清の身に起きたことは、みな痕跡をとどめずに消えていきます。彼は、消えないもの、この現実が確固たるものである証明がほしいのです。だから、せめて心惹かれる少女には、集団レイプという異常な体験に深く傷ついて「ほしい」のです。それは清にとって、この現実の実在性を証明するものだから、彼はあえて彼女の気分を害することも辞さないのです。

◆ 遊びだよ、たんなる、なんにも起こりゃしない ◆◆
母親の愛人(ないしは未来の義理の父)の亀井が、ヨットを新しくした、一度乗らないかと誘い、健一郎は承知します。その日、健一郎は清を誘い、清は早苗を誘い、早苗を監視するために姉の真紀もついてきます。

いざ出発という段になって、健一郎は猟銃を亀井につきつけ、母とともに桟橋に置き去りにします。

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船上では、つねに見えない緊張はあるものの、しばらくは目立った出来事はありません。食事のあとで、健一郎が赤ペンキの缶を引っ繰り返し、ペンキがこぼれだしたところから、緊張関係がおもてに表れはじめます。

真紀をのぞく三人は、面白がってキャビン全体を赤く塗ってしまいます。これはいわば「血祭」であり、さらなる行動へのスプリングボードとなります。

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健一郎は、言葉を使わずに目とボディーランゲージだけで、清に、いまこそ童貞にサヨナラするときだ、と言い聞かせます。

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清は目の前の早苗に視線を向けますが、健一郎は「ちがう、外のが先だ」と、デッキにいる真紀をやれといいます。清は一瞬ためらい、早苗は「ダメ」と止めますが、意を決して、キャビンをあとにします。

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健一郎は真紀に襲いかかりますが、清は依然としてためらい、健一郎に叱咤されます。

「おまえが先だ」と清を促し、健一郎がどくと、するどい悲鳴が聞こえ、二人が振り返ると、早苗が銃を構えて立っています。

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しかし、清は一瞬、躊躇するものの、ふたたび真紀のほうに向き直り、健一郎は清を守るように、早苗が向ける銃口に相対します。

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このときの村野武範の表情がじつにすばらしく、それがこのシーンを生彩のあるものにしています。むくつけにいえばたんなるレイプ・シーン、それなのに、この涙が出るようなリリシズムはいったいなんなんだ、と思います。つまりは、「撃てよ、俺は死んでもいいんだ」という、ギリギリの突っ張り方に、われわれは感銘を受けるのだと思います。

◆ 思い出さえも残しはしない ◆◆
いっぽうで、早苗の向こう側にあるものは複雑で、簡単には引っ張り出せません。まず、目に見えるものをいえば、銃はいうまでもなくファリック・シンボル、男そのものです。そのファリック・シンボルをもって、少女がレイプの現場にあらわれるとは、どういうことか? ひとつの解釈は、この男たちの祭、通過儀礼への擬似的な参加です。

早苗自身が集団暴行を受けた過去があることを考えれば、この銃は復讐であり、同時に哀しみの象徴でしょう。愛しているとまではいえないにせよ、好ましくは思っていた男が、彼女の敵と同じふるまいをしているのです。

結局、早苗は引き金をひけないまま、清はことを終わり、早苗を見、羞恥と悔恨の表情を浮かべます。早苗は唇を噛み、キャビンに戻ります。

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清と交代した健一郎もことを終わると、銃声が聞こえます。キャビンの側壁に穴が開き、海水が吹き込み、早苗はもう一発、側壁に発射します。

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デッキでは、横たわったままの真紀に背を向け、健一郎と清が索漠とした表情で海を眺めています。

清は童貞を失い、健一郎は死ぬか生きるかの瞬間を通り抜けた直後なのに、その波紋はたちどころに消え去り、またこれまでと同じぬるい時間が二人を包みます。

ヨットハーバーを出発するとき、健一郎が銃で亀井を脅したことを気にしているだろうと、清は真紀と早苗を安心させます。

「遊びだよ、たんなる、なんにも起きやしない」

そして、たんなる遊びをやってみたら、やっぱり、なんにも起きやしなかったのです。

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もう一回、『八月の濡れた砂』を延長し、音楽の効果とロケ地について書くつもりです。

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日活映画音楽集 藤田敏八
日活映画音楽集~監督シリーズ~藤田敏八
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by songsf4s | 2010-05-12 23:57 | 映画
藤田敏八監督『八月の濡れた砂』(日活映画)その1

今後は、ほぼ毎日、なんらかの形で更新するようなことをいっておいて、さっそくその翌日に休んでしまい、申し訳ありませんでした。rssをご利用になっていないお客さんは、わたしの「宣言」をお信じになって、0時台にご訪問されたようで、カウンターの数字を見ながら恐縮してしまいました。

残り一時間でなんとかしようとあがいたのですが、5曲ほどについて、YouTubeにあるか否かとか、すでにMP3にしてあるかどうかとか、どれがマシなマスタリングであるか、などとやっているうちに時間切れになってしまいました。テキトーにやるつもりだったにもかかわらず、生半可な形ではやりにくいものだと痛感しました。

◆ R指定、だろうか? ◆◆
「『狂った果実』その3」に寄せられたコメントで、DEEPさんが藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』にふれられています。その内容については後述しますが、このコメントをきっかけに、しばらく再見していない『八月の濡れた砂』を見ようと思いたちました。

予告篇


『八月の濡れた砂』はセックスにかかわる表現が頻出する映画で、それを回避してなにかをいうことはできそうもありません。そのような言辞をお読みになりたくない方は、この記事はここらでお切り上げになるようお勧めします。いつもは上半身の話しかしないようにつとめていますが、今日ばかりは、それではすまないでしょう。

サントラ盤からのサンプルは、すでに「むつひろし『八月の濡れた砂』スコア」という記事でご紹介していますが、映画そのものを取り上げるにあたって、改めて同じものをあげておきます。

サンプル 『八月の濡れた砂』メイン・テーマ

サンプル 『八月の濡れた砂』より「朝霧の再会」

サンプル 『八月の濡れた砂』より「海へ」

サンプル 『八月の濡れた砂』主題歌(movie edit)

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奇妙なポスター。右の男優は村野武範だが、左の男優は顔が見えない! 顔は見えないが広瀬昌助ではないだろう。撮影開始当初、『八月の濡れた砂』の主演は沖雅也だったが、事故でケガをして広瀬昌助に代わった。ということは、これはクランクインの前後に撮った写真のうち、沖雅也の顔がわからないもの、ということか? なんとも不思議なことをしたものだ。DVDのパッケージに使われているものなど、ほかのスティルを使えばよかったのに。

◆ 二人の少年、二つの典型 ◆◆
夏の明け方、バイクを乗りまわしていた清(広瀬昌助)は、海岸で向こうから若者をおおぜい乗せた車がやってくるのを見て、船の陰に隠れます。若者たちは少女(テレサ野田)を砂浜に投げ出し、下着を放り投げます。

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海で体を洗っている少女・早苗に、清は「何人にやられたんだ」と声をかけ、家まで送ってやるとバイクに乗せます。まだだれもいない、兄の経営する海の家に少女をいったんおろし、家に帰って早苗のために兄嫁のワンピースをくすねて海の家にもどると、早苗はすでに去っていました。

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こんなふうにシノプシスをダラダラ書いても仕方ありませんね。もっと簡略にいきます。かつて高校をやめてどこかにいっていた健一郎(村野武範)が町にもどって、清をはじめとするまだ高校に通っている同級生や、母親、その再婚相手の議員、そして清が浜辺で知り合った少女・早苗と、その姉の真紀(藤田みどり)といった人物がからんで、輪郭線の弱いストーリーが展開します。

なんだかくだらないことを書いているなあ、と嫌気がさし、いま、トイレに行き、さらにコーヒーを淹れてきました。混乱した思考を整理するには、トイレ、風呂、台所、この三カ所に行くのが最善です。今回もちゃんと道筋を見つけて帰ってきました!

『八月の濡れた砂』は、愛おしく、痛ましい映画です。それはこの映画が、われわれの多くが若いときに通り抜けることを強いられた苦痛を描いているからです。

二人の十代の少年のいっぽう、高校を退学した健一郎は、自分のまわりのルール、ないしは「世間」という名の集合体が、自分より先に生まれたというだけの理由で、自分を拘束することに腹を立て、ことあるごとにその枠組に殴りかかり、蹴りを入れます。

もうひとりの清は、健一郎が好きで、ちょっと尊敬すらしているし、同時に心のどこかで怖れてもいます。家では口うるさい兄に反抗するでもなく(両親はすでに亡くなっているという設定だろう)、暇なときには海の家を手伝うし、雨の日にはテレビ講座でコンピューター・プログラミングの勉強をする、「将来が存在することを前提にして」日常を送る少年です。

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健一郎(左=村野武範)と清(広瀬昌助)

健一郎はすでに女を知っていて、世間を馬鹿にし、明日のことなど考えもしません。清はまだ女を知らず、世間を畏れ、明日のこと、つまり少年にとっては「大人になってからのこと」を心配して生きています。

この「セックス」という境界線の手前にいる少年と、向こう側に行ってしまった少年が、二人そろって「日常」という名の、ヌラヌラと手応えのない怪物に敗北する物語が『八月の濡れた砂』である、といっていいでしょう。

◆ 狎れ合わない心 ◆◆
清と健一郎、二人の違いは冒頭で提示されます。上述のように、清は、明け方の浜で不審な車を見たとき、船の陰に隠れ、若者たちが去って、安全をたしかめてから、早苗に近づきます。

健一郎は、アヴァン・タイトルで学校の校庭にあらわれ、大声をだします。清が校庭に出てくると、サッカーボールを教室に向けて蹴り上げます。

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藤田敏八監督は、ていねいに二人の少年のキャラクターを描いていきます。

清が海の家を手伝っているときに、早苗の姉だという女・真紀がやってきて、清は彼女の車に乗り込みます。どこへ行くのだ、というと、決まってるでしょ、警察よ、というので、清は濡れ衣を着せられて腹を立てると同時に、怯えを見せます。

しかし、警察署まで来ると腹が据わり、清は、俺はなにもしていない、身の証を立てられる、もしも間違いがわかったら、あんたどうする、と開き直り、結局、真紀をやりこめます。

真紀が「ただ脅すだけのつもりだった」と謝ると、清は彼女をどけ、車を運転して海辺へ行きます。「どこに行くの?」といわれると、「決まってるだろう。こんどこそ、警察に突き出されてもしかたのないことをやるんだ」といい、道路から折れて山の上の空き地に車を止め、真紀に襲いかかります。

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暴れる彼女を押さえ込もうと、狭い車内でくんずほずれつしているうちに、清は足でシフトレバーを折って気が抜け、「やーめた」と笑ってしまいます。この強さと弱さ、冷酷さとやさしさのモザイク模様が、この清という人物を規定しています。

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健一郎の母親(奈良あけみ)は酒場をやっていて、議員(渡辺文雄)の情婦になっています。健一郎は清をつれてその酒場にくると、渡辺文雄が建設省の役人をつれてやってきて、なれなれしく「健ちゃん」などと話しかけるので、おもちゃのナイフを突きつけ、「おい、俺のお袋をどうやってたらしこんだんだよ」と罵倒します。

行動は心理の表出です。やがて明らかになりますが、健一郎は男と女が馴れ合うことを嫌っています。プラトニックな交際をしている元の同級生たちに、「さっさとやっちまえ」とけしかけ、清にも、おなじことをいいます。男女が愛をはぐくんだりするのは、彼の性には合わず、恋愛感情をともなわない性行為だけを信じているのです。

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これも意味は明瞭です。男と女が馴れ合うことと、人が「この世間」と狎れ合うことはパラレルなのです。健一郎は世間を敵とみなしているから、当然、女と馴れ合うことも拒否しているのです。女をくどいてたらし込む男は、この世もくどいてたらし込んで、あぶく銭を稼いだりするのです。これが、健一郎が母親の愛人を嫌い抜く理由です。

まだ『八月の濡れた砂』は、愛おしく、痛ましい映画である理由を示せるところにまできていませんが、無理せずに、今日はここまでとさせていただきます。

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by songsf4s | 2010-05-11 23:50 | 映画・TV音楽
木村威夫追悼 鈴木清順監督『刺青一代』その3
 
今日聴いたもの。

・先月録音されたラスカルズのリユニオン・ライヴ。
・『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』のOST

ラスカルズのライヴは、いやはや、でした。だってねえ、おじいさんたちがロックンロールしているだけですから。わかるでしょう? 名前が書いてなかったら、だれも見向きもしないような音楽です。

女声コーラス隊は音を外しっぱなし、Cavarierも声が出ていなくて別人のよう、おそらくは高音をヒットできないためだと思いますが、ピッチもしばしば外していて、聞き苦しいったらありません。まあ、ストーンズやビーチボーイズよりはずっとマシですが、それはストーンズがひどすぎるだけのことであって、ラスカルズがいいという意味ではありません。

ディノ・ダネリはそこそこ叩いていますが、スネアのピッチが低すぎて、若き日のキレのよさ、さわやかなサウンドとはまったく異なり、鈍重そのもの。

昔を今になす由もがな、一度土に還ったものを、いまさら霊おろしなんかするなよ、灰は灰に、です。いや、あの場にいて、みんなが元気で動いているのを見るのは、それなりの感懐があったでしょうが、要するに同窓会であって、音だけ聴いてもどうなる代物じゃござんせん。

ファンとしては、こういうふうに文句を垂れたいものでしょうが、こんな代物のURLを書くと悪法に引っかかる恐れがあるので、各自、自助努力なさってください。わたしは三カ所見つけました。おはようフェルプスくん、the rascals reunion live 2010といったキーワードで探したまえ。

それに対して、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』のOSTは、推薦してくださった〈三河の侍大将〉に気をつかうわけではなく、素晴らしい盤でした。さすがは佐藤勝、きっちりつくってあります。気力のあるときに映画も見て、記事にしたいと思います。問題は映画ですねえ!

◆ 三色殺戮 ◆◆
さて、前回はクライマクスの前半部分で終わってしまったので、今日は後半です。

高橋英樹がカフェを出ると、神戸組の見張りがさっそく注進に走ります。その話の運びよりも、注進に走る男の表現方法が面白いのですが、そのスピード感は、スクリーン・キャプチャーではお伝えできません。ともあれ、この注進のせいで、神戸組は準備万端整えて高橋英樹を迎え撃つことが、事前に観客に明らかにされます。

ここからは文字ではなく、スクリーン・キャプチャーでいくしかありませんが、音だけでもいかがかと思い、映画から切り出してサンプルをつくってみました。

サンプル 「血潮と白狐」

高橋英樹が神戸組に乗り込むところから、河津清三郎を討ち果たすまでのシークェンスです。途中、音楽がなくなり、剣の音などの効果音だけになりますが、そういう部分もカットしてありません。わたしがとくに面白いと感じたのは、0:41あたりから下でグルグルいっている音です。たぶん、ピッチの異なる二つのティンパニーを小さく鳴らしているのだと思いますが、はっきりとはわかりません。なにを使ったのであれ、面白い音です。

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河津清三郎に妻を人質にとられ、山内明は採掘権の譲渡書に署名するように迫られます。

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いきなりこのショットが出てきたときは、なんだこれは、と思った。

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キャメラが引き、書類が見えてやっと朱肉だったとわかる。わかったのはいいが、朱肉をクロースアップで撮るとは、やっぱりふつうの人ではない。

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河津清三郎(左)と山内明

そこへ、親分、と大声がし、注進が座敷を走り抜けてきます。高橋英樹がすぐそこまで来たのです。

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高橋英樹が乗り込んでくるところは、完全な芝居がかりで、それに合わせて屋敷の構造も奇妙に歪められます。

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稲妻が光るなか、キャメラは横移動で、いったい何間あるのか、長い障子を見せる。

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刃が突き出されるのを予想しながら、高橋英樹は室内に入りますが……。

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襖を開けても、開けても、無人の部屋がつづくばかりで、敵の姿は見あたりません。なぜ襖は青いのか? そういうのを愚問というのです。もちろん、これが鈴木清順の映画だからに決まっているじゃないですか。

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信号じゃあるまいし、とは思うが、青から黄色に変わったら、案の定、手槍が突き出された。

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高橋英樹はやっとのことで、囚われている山内明と伊藤弘子を見つけだしますが、なかなか近づけず、八方に白刃をふるって血路を切り開きます。せっかく伊藤弘子に短刀を突きつけているのだから、それで高橋英樹を脅せばいいのに、と思うのですが、われわれ同様、河津清三郎以下の悪党たちも、高橋英樹のパワーとスピードに呆気にとられ、なすべきことを忘失してしまったのでしょう。

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山内明に拳銃をわたして逃がせば、あとは暴れるだけ、となります。

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「おう、ブタ野郎ども、〈白狐の鐵〉が相手になってやる、どっからでもかかってこい!」

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映画を見ているときにはわからなかったが、キャプチャーしてみれば、斬られたのは榎木兵衛だった。

三下どもを蹴散らすと、画面のムードはまたしても一変します。櫓を組んでアクリル板を敷き詰めたセットでの、その筋では有名なショット。相手は親分の河津清三郎。

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とまあ、大量にスクリーン・キャプチャーを使いましたが、プロットはどうでもいい、どう表現するかが鈴木清順映画では重要なのだ、という意味がおわかりいただけたかどうか。ふつうじゃない、ということだけはなんとかお伝えできたように思うのですが……。

あれこれと駄言を弄したくなりますが、ちょうど時間切れ、理屈をいうのはまたの機会とさせていただきます。

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by songsf4s | 2010-05-08 23:56 | 映画
木村威夫追悼 鈴木清順監督『刺青一代』その2
 
以前、ハチドリはあの小さい体で、どうやってメキシコ湾を横断して渡りをするのかという話を読んだのですが、いま確認しようとしたら、ふだんよく開いているその本が見あたりませんでした。このところの整理のために、どこかに一時的に避難しただけなのですが、それがどこだったか……。

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今日は一気に『刺青一代』のクライマクスにいきたいのですが、これがメキシコ湾並みに巨大で、一気に渡れるかどうか心許ないのです。二度に分けるのはシャクだけれど、結局、そうなるかもしれません。

毎度のことですが、今回も話は全部書いてしまうことになるでしょう。ストーリー重視で、なおかつ、この映画をご覧になる予定がある方は、お読みにならないほうがいいと思います。

いや、鈴木清順映画においては、プロットのプライオリティーは極端に低いのです。カラー映画ならまずなによりも色彩、つぎに画角などのショットのデザイン、編集でのつなぎ方、こうしたもののほうに重要性があります。そして、『刺青一代』のクライマクスは、まさに色彩最優先の映像なのです。

◆ 後半のプロット ◆◆
小松方正に騙されて金を失った高橋英樹と花ノ本寿の兄弟は、鉱山の採掘をしている山内明経営の土建会社に雇われることになります。

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トラックに便乗してきた高橋英樹と花ノ本寿の兄弟

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キャメラは荷台の下から動かず、頭の高品格と仕事をさせてくれと頼む高橋英樹のやり取りをそのまま捉える。

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それはいいのだが、その間にもどんどん荷台から丸太が投げ落とされ、ものすごい音をたてて転がっていくのがなんとも可笑しい。不思議な演出をする監督である。

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ここでプロットを錯綜させる要素がいくつかあります。花ノ本寿が山内明の妻である伊藤弘子に惚れ込み、彼女の暗黙の了解のもとに、入浴中にデッサンし、それをもとに仏像を彫り、それをきっかけにこの恋が周囲に知られてしまうのが第一点。

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花ノ本寿は通りかかった伊藤弘子に惹かれ、あとを追ってしまう。

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駅で小松方正が車輌を降りてきて、入れ替わりに伊藤弘子と和泉雅子が乗り込む。

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小松方正は、前日、騙して金を巻き上げた花ノ本寿が向こうから来たので、しまった、と思うが、花ノ本寿のほうは小松方正などまったく眼中になく、伊藤弘子だけを見ている。花ノ本寿の心理を強調するうまい小技で、いかにも細部の工夫で見せた監督らしい演出である。

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花ノ本寿があからさまに伊藤弘子を見つめるので、和泉雅子がその様子に気づき、ははあ、と覚って微笑む。

山内明は、自分の組はヤクザではない、土建会社である、という剛直な人間で、鉱山の仕事をとりたいヤクザの組と敵対することになる、というのが第二点。

高橋英樹と花ノ本寿の兄弟は、殺人を犯したので、もちろん警察からも追われているのですが、高橋英樹を抹殺しようとした彼の組からも、当然ながらつけ狙われています。組から三人の刺客がやってきて、山内明を邪魔者とみなす組にわらじを預けます。これが第三点。

以上がクライマクスで収斂します。

山内明の土建会社で事務を執っている小高雄二(和泉雅子をわがものにしようとしているので高橋英樹を目の敵にしている)が、敵である河津清三郎に内通し、高橋英樹と花ノ本寿に疑いがおよぶように偽の証拠を残して坑道を爆破し、さらに山内明を狙撃します(というか、わざと外したのだから脅迫が目的だが)。

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小高雄二。こういう役はお手のもの。いかにも陰険で卑怯そうに見える!

同時に花ノ本寿と伊藤弘子の危うい関係も表面化して、花ノ本寿はどこかに逃げ、山内明は高橋英樹を妨害工作の容疑者として監禁します。伊藤弘子は仕事以外のことに興味のない夫をなじりますが、この措置には、高橋英樹を保護する意味もあったことがあとで明らかになります。

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高橋英樹をつけ狙う元の組の刺客が、地元の組の人間に伴われ、山内明のところにやってきて、高橋英樹を渡してほしい、といいますが、山内明は、彼らは犯罪者だから警察に引き渡す、といって取り合いません。

いったんは飯場を逃げ出した花ノ本寿が戻ってきて、兄と一緒に逃げようとしますが、そこへ山内明があらわれ、おまえたちのような犯罪者がいると迷惑する、金をやるから新潟へ行け、そこにこれこれの船があり、その船長は俺と旧知だから、満州に連れて行ってくれるだろう、といいます。

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二人はいったん港町のほうに行きますが、花ノ本寿はどうしてももう一度だけ伊藤弘子に会いたいといい、兄は仕方なくそれを許し(刺客のひとりが近くにいることを弟に気づかせないようにするところが面白い)、松尾嘉代のカフェで待つことにします。

カフェの二階の部屋から外を見る高橋英樹と、鏡台の前に坐った松尾嘉代の描写から、二人が閨をともにしたことがうかがわれるのですが、ここでの松尾嘉代の満ち足りた表情がじつに色っぽくていいのです。

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花ノ本寿は電車に乗ろうとして、小松方正に見つけられ、ヤクザ者たちに捕らえられてしまいます(ここで伊藤弘子を追って花ノ本寿が小松方正がすれちがった以前のシークェンスが生きる)。

いっぽう、山内明は土建業者の会合のために、神戸組の河津清三郎の屋敷に行きますが、談合はまとまらず、破談になってしまいます。そこへ騙されて伊藤弘子がやってきて、庭に暴行を受けた花ノ本寿が倒れているのをみとめ、抱き起こします。

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伊藤弘子は山内明とともに捕らえられ、花ノ本寿は、高橋英樹の居所を云えといわれて、おまえたちの組の者を殺したのは兄ではない、自分だ、と明かして、刺客たちに斬られてしまいます。

高橋英樹がカフェで待っているところに、高品格をはじめとする鉱山の仲間が瀕死の花ノ本寿を運んできます。「親方と奥さんが神戸組に……」という弟の言葉に、俺が助けに行くと請け合います。

◆ 橋を渡って向こう側へ ◆◆
ここから先は、ほとんどセリフがありません。東映任侠映画同様、敵対する組に殴り込みをかけるわけですが、ほとんど正反対といってもいいほどニュアンスが異なります。駈けだす高橋英樹の背中に「組」という荷物はありません。自分を裏切り、自分の愛する者に害をなす連中を討ち果たすことだけが目的であり、なにも背負っていないのです。

いや、そんなことはどうでもいいのです。肝心なのは、『花と怒涛』の新潟の景と同じように、ここからは「この世の出来事」ではなくなる、ということです。『花と怒涛』より明快に、芝居がかりで転換するので、鈴木清順映画に馴れていない人でも、はっきりと「異界」に入ったことがわかるでしょう。

どこで異界に入ったか? じっさいにご覧になればすぐにわかりますが、河津清三郎の屋敷で花ノ本寿が斬りつけられたところからです。斬られた直後に、画面左から赤くなっていくのですが、そんなことが現実にあるはずがなく、リアリズム描写ではないことはわかりますし、清順ファンなら「はじまったな」と思うところであり、かつての池袋文芸座での回顧上映なら、客からかけ声がかかり、拍手が起こるところです。

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斬殺シーンの赤は、つぎのショットにも引き継がれ、高橋英樹が弟を思って見つめる空は真っ赤に染まる。

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松尾嘉代がもったレコードがパリンと割れる。「不吉な予感」という名前のクリシェだが、ここはクリシェを使うべき場面。映像表現はだれにでも了解できるものではないが、論理はすべて了解可能な形で描かれているのである。

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このあとの、カフェで待つ高橋英樹と松尾嘉代の描写も「あの世」に入っていますが、カフェに運ばれてきて花ノ本寿が息を引き取ったところからは、文字どおりあの世で、常識に囚われていては、ここから先のシークェンスは理解不能です。

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高橋英樹に松尾嘉代が傘を渡すところからは完全に芝居がかりで、ここで映画はさらに「あの世」に入りこみます。

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ついで、橋の手前で、向こうから橋を渡ってくる日野道夫との殺陣(敵ではないのだからここは理屈が通らないのだが、例によって、ただ出てくるだけではつまらない、という調子で、たんに観客に対する目くらましとして演出された場面かもしれない)があり、刀を受け取って、高橋英樹は橋を渡ります。これはまさしく橋懸かり、橋の向こうは「あの世」の本舞台です。

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やはりクライマクスの核心にはたどり着けず、入口どまりでした。もう一回『刺青一代』をつづけることにします。



刺青一代 VHS中古
刺青一代 [VHS]
刺青一代 [VHS]
by songsf4s | 2010-05-07 23:56 | 映画
木村威夫追悼 鈴木清順監督『刺青一代』その1
 
(枕の6パラグラフを削除しました。あしからず)

◆ 「ただあるだけ」のプロット ◆◆
さて、鈴木清順=木村威夫シリーズ、今回の『刺青一代』は三本目です。三本やれば追悼の形はととのうというものです。

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今回も重要なセットは二杯だけで、簡単にいきそうな気がするのですが、それは前回の『花と怒涛』も同じだったのに、五回におよんでしまったのだから、さっとやる、といっても、われながら信用できません!

ざっとプロットを書いておきます。例によって、話はあまり重要ではありません。なにを語るかよりも、どう語るかのほうにアクセントがあります。

時は昭和の初め、渡世人の高橋英樹は敵対する組の組長を殺しますが、直後に、自分の組に抹殺されそうになったところを、美学生の弟に救われます。弟も殺人者になってしまったため、高橋英樹は自首するという考えを捨て、満州に逃げることにします。

『花と怒涛』のシノプシスとまちがえているのではないか、ですって? いえ、ほぼ同じなだけです。『花と怒涛』では潮来から東京に逃げ、それから満州に渡るために新潟に行きますが、『刺青一代』では出発点が東京なので、新潟にたどり着く前の、どことも明示されぬ日本海側の港町と、その近くの鉱山が舞台になります(ロケは主として銚子でおこなわれたらしい)。

高橋英樹と弟の花ノ本寿(「はなのもと・ことぶき」と読む)はこの港町で、小松方正に満州に密航させてやると騙されて金を奪われ、働き口を求めて近くの鉱山に行きます。ここで採掘をしている組の親方が山内明、その妻が伊藤弘子、妹が和泉雅子、人足頭が高品格、という配置で、美学生である花ノ本寿は伊藤弘子に惚れて、話を面倒にします。和泉雅子のほうは高橋英樹が好きになってしまいますが、高橋のほうは自分はヤクザ者だからと相手にならず、酒場女の松尾嘉代に親しんだりします。

とりあえず、このへんまででよろしいでしょうかね。いずれにしろ、プロットはそれほど重要ではなく、この話をどのような映像で見せたかのほうに意味があります。

◆ 小さな工夫の連打 ◆◆
おかしなもので、あとからふりかえると、どうしてこの監督が日活時代にあれほど不遇だったのか理解に苦しみます。しいていえば、「すべてが」大多数の観客の了解の範囲に収まるべきプログラム・ピクチャーにおいて、その枠外のことを山ほどやったために、娯楽派、芸術派、どちらの陣営の目にも美点が見えなかった、というあたりでしょうか。セクショナリズムといっては適切ではないかもしれませんが、客というのはみずからをジャンルに閉じこめてしまうものなのでしょう。

『刺青一代』という映画は、話自体はどうということもないのですが、その映像たるや、冒頭からもう、うへえ、の連発です。

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ただ男の裸が並ぶだけでも尋常ではないのに、立っている人間を、90度キャメラを傾けて横長の画面に収めるというのは、おいおい、です。

まあ、こういう「威し」は二面的な結果を伴うので、とりあえず深入りせず、最初に見たときは驚いた、とだけ書いておきます。

話に入って最初のシークェンスは、高橋英樹が対立する組の嵯峨善兵組長を襲うところです。

川縁に傘を差して向こうむきにしゃがんでいた高橋英樹が、人力車の音に振り返って立ち上がります。高橋英樹の傘に書いてある組の名前と、人力車の提灯に書いてある組の名前がちがうため、これからなにが起こるかは、たいていの客に伝わります。

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画面左から高橋英樹の傘がフレームイン、画面右からフレームインしてきた車夫の笠が高橋英樹の傘に押されて後退する、という表現を見ただけで、なぜこの人が不遇だったのだ、と首をかしげます。

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まあ、会社の上層部が認めないのはやむをえないとして(でも、同じ時期に今村昌平には好き勝手につくることを許しているのはなぜなのだ?)、映画評論家はこういう映像表現を見ないのか、といいたくなりますが、そこで、当時の評論家の大多数は、日活のプログラム・ピクチャーなど見なかったのだということを思いだします。でも、しつこく食い下がってしまいますが、加藤泰を賞賛した人たちも、鈴木清順は見なかったのでしょうかね?

どうしてもそのへんがわかりません。プログラム・ピクチャーはすべて評価の外、というのならやむをえませんが、東映については、すでにプログラム・ピクチャーを評価する機運があったのに、日活はそうではなかったという矛盾が、あの時代には子どもだった人間には、いまだに理解できません。東映任侠映画は左翼方面に受けたから厚遇されたのではないか、なんて嫌味をいいたくなります。

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人間万事塞翁が馬、なにが災いし、なにが幸いするかわからないので、運不運のことをいっても意味はありませんが、この時期の鈴木清順の映画を多くの人が見ていれば、『殺しの烙印』と『ツィゴイネルワイゼン』のあいだにポッカリ口を開けた十年のブランクはなかっただろうと、残念でなりません。

◆ 「木村キャバレー」に比肩する「木村カフェ」 ◆◆
『刺青一代』第一のセットは、高橋英樹の弟、美術を学んでいる花ノ本寿の下宿の部屋です。襖や障子をただそこに置くということをしない木村威夫です、ここもデッサンを襖にして、画学生らしい部屋をつくっています。

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弟は留守で、高橋英樹は持参した金を下宿のおかみさんに託して、迎えに来た長弘にともなわれて人力車に乗りますが、理不尽にも、自分の組の長弘に殺されそうになり、争っているところに、帰宅途中の弟が来合わせ、兄を助けようとした弟は、長弘を殺してしまいます。

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清順映画にかぎらず、日活映画にはしばしば弟を異常なまでに可愛がる兄が登場しますが、なかでもこの『刺青一代』の高橋英樹が演じる兄ほど、弟を思う人物はないでしょう。脚本の段階では弟の比重は小さかったそうですが、できあがった映画では、彼の前後をわきまえない一途さが話を前に進める(または話をこじれさせる)エンジンの役割を果たしています。

満州へ逃げようとした兄弟は、日本海側のどこかの港町にたどり着き、密航を助けてくれるはずの人物がいるというカフェを訪れます。

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それほど凝っているわけではないし、木村威夫にしてはわりにノーマルなデザインですが、わたしはこのセットが大好きです。美術監督自身、うまくいったと自賛していましたが、やはり、そういうグッド・フィーリンの問題なのでしょう。「こういう店があったら行きたいな」と思いますものね。

映画の見方はさまざまですし、わたし自身、ひとつの見方しかしないわけではありません。しかし、子どものころから映画館へと自分を向かわせた最大の要素は「そこにいる感覚」または「そこへ行きたいという憧憬」だったのだと思います。

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高橋英樹と花ノ本寿はいったん店を出かかるが、警官と私服刑事と鉢合わせしそうになり、店に舞い戻る。刑事はバーカウンターまできて、松尾嘉世に不審者を見かけないかときく。バーカウンターが緑色にぬられているのは、もちろん、たまたまそうなったわけではなく、ふつうにやるのが嫌いな木村威夫美術監督の好み!

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警官たちが去ると、小上がり(カフェに小上がりがあるのだ!)から降りてきた小松方正が、松尾嘉世に「塩をまいておけ」というと、間髪を入れず松尾嘉世がイヤな客である小松に塩を投げつけるのがじつに楽しい!

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古い日本映画を見ているときは、とくにそれを思います。『乳母車』と鎌倉駅のことを書いたのは、そのような、映画がもたらす「あそこにいたい」という感覚のことをいいたかったからです。

まだほんの冒頭だけですが、本日はここまでとさせていただきます。つぎはなんとか、この映画でもっとも重要なセットにたどり着きたいと思っていますが、そうはいかないかもしれません!



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by songsf4s | 2010-05-04 23:58 | 映画
木村威夫追悼 鈴木清順監督『花と怒涛』その5

『花と怒涛』の音楽(奥村一。この作曲家にはもうすこし面白いスコアがある)はそれほど印象的ではないのですが、いちおうサンプルをあげておきます。

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「メイン・テーマ」(奥村一)および主題歌「花と怒涛」(作詞・杉野まもる、作曲・古賀政男)

スコア全体はとくにマイナーを強調しているわけではありませんが、小林旭の歌う主題歌はストレートな演歌です。なんだか、冒頭のメイン・テーマと歌とそのあとのセグメントのつながりがぎこちなく、「政治的配慮」の産物か、という気がしてきます。早い話が、歌が浮いていて、前後のスコアとの整合性が悪いのです。でも、どこかに歌を嵌めこむ必要があったのでしょう。

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『花と怒涛』より、スティル。映画とはアングルが大きく異なるため、「十二階」の位置が右に移動している。映画では薄暗がりでのシーンなので、こちらのほうが川地民夫の頓狂な扮装がよくわかる。

◆ 襖やら障子やら襖障子やら ◆◆
『花と怒涛』は、本体の話はいちおう前回でおしまいなのですが、木村威夫の日本間のデザインを中心に、少々落ち穂拾いをします。

もちろん、設定に左右されることなので、いつもそうできるわけではないでしょうが、木村威夫は障子や襖に凝るタイプの美術監督です。素直な障子のほうがすくないくらいで、たいていの場合、なにかしら工夫してあります。

まずは賭場から。小林旭は雨で仕事に出られない日に、飯場で花札をして仲間たちを裸にむしった金をもって賭場に行きますが、いい目が出ません。そこへ小林旭に岡惚れしている馬賊芸者の万龍姐さん(久保菜穂子)がやってきて、壺振りの隣、小林旭の向かいに坐って「加勢する」という場面です。

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宮部昭夫(左端)と久保菜穂子のあいだに見える窓障子にご注目。宮部昭夫の左に見える窓障子はパターンを変えてある。こういう風に同じものをつづけないのも木村威夫らしい。

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小林旭が大勝ちして去ったあとに、マント姿とは一転して渡世人風になった川地民夫が賭場に入ってくる。こういう襖と障子の合いの子はなんと呼ぶのか知らないし、料亭などの建築では一般的だったのかどうかも存ぜず。すくなくとも、わたしの目にはありふれたものには見えない。

小林旭が博打で仲間から金を巻き上げ、賭場に行ったのは、金を増やして、みんなで芸者を上げて気晴らししようというもくろみでした。別室で仲間が騒いでいるのを聞きながら、万龍姐さんに世話になった礼をするところで、それがわかります。

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料亭の一室。久保菜穂子が中庭をはさんだ向かいの部屋で騒ぐ連中に目をやる(以下二葉も同じシークェンス)。

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キャメラが引くと、凝っているのは障子ばかりではなく、この料亭のプラン自体も複雑なことがわかる。コの字型に庭を囲んでいるわけではなく、なんとも変な曲げ方をしている!

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◆ ドームに収めた(?)土間の造り ◆◆
小林旭はただの人足だったのですが、ひょんなことから「村田組」の小頭に取り立てられることになり、村田卯三郎(山内明)の家に行きます。この家がまた奇妙なのです。

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村田組の正面。こういう風に障子をずらっと四間も並べる表口というのも、あまりお目にかからないと思うのだが……。

広い土間に接した座敷の隣には、腰が海鼠壁になった土蔵のようなものがあります。いや、「ようなもの」ではなく、分厚い扉と壁が見えるショットがあるので、まさに土蔵なのでしょう。

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暗いので、ディテールが見えるように、「オーバー」気味に加工した。

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べつのシークェンス、小林旭が山内明を討つ場面で、厚い扉が見える。

そして、広い土間の一角には井戸があります。

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小頭たちに指示を伝える場面での井戸。人物は深江章喜(奥)、山内明(背中)。ここでも深江章喜の向こうに土蔵の扉。

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この井戸も、小林旭と山内明の対決で効果的に利用される。

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左手の障子に、綱を切られて釣瓶が落ちた余勢で廻りつづける滑車の影が映る。

ふつうなら家のなかにはない土蔵と井戸を、母屋ごとひとつ屋根の下に収めた、とでもいう造りなのです。こういう造りをする地方があるのでしょうか。それとも木村威夫の独創なのでしょうか。わたしには見当もつきません!

◆ さらに料亭 ◆◆
ふつうに見ていると気づかないようなところでも、木村威夫は変わった障子のデザインをやっています。小林旭が小頭に取り立てられたのを祝う宴席の、上座を狙ったショット。

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障子紙を加工したのか、ただ白いのではなく、影がついている。左から山本陽子(まだ大部屋だったのだろう。このシーンに出てくるだけで、セリフもなければクレジットもない)、久保菜穂子、小林旭、長弘(代貸)。

同じ料亭のべつの部屋。久保菜穂子にしつこく迫っている宮部昭夫。いや、そういうことではなく、襖をはじめとするデザインをご覧あれ。

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電灯の笠には葡萄の葉の模様。鈴木清順は小道具をどんどん片づけてしまうクセがあるので、木村威夫としては、片づけたくても片づけられない小道具に凝ってみた、かどうかは知らない。

これまた同じ料亭の部屋という設定なのだと思いますが、手打ちの席でのイカサマ博打をめぐるもめごとで、山内明が宮部昭夫に詫びを入れるため、市会議員・嵯峨善兵のもとに長弘代貸が訪れる場面。

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これだって、そうとう変わったデザインだと思いますよ。

◆ 最後はやっぱり居酒屋〈伊平〉 ◆◆
〈伊平〉の構造についてはすでにしつこく追求しているのですが、デザインのディテールについてはあまりふれなかったので、そういうショットを並べてみます。

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右に見える額には、ちゃんと「伊平さん江」と書かれている。映画ではそんなところまでわからないのだが、現場でなにがあってもいいように準備してある!

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この襖紙も変わっている。『悪太郎』のときと同じように、西洋壁紙を使ったのではないだろうか?


以上で正真正銘、『花と怒涛』シリーズはおしまいです。次回はすぐにつぎの木村威夫作品にいくかもしれませんし、そのまえに、音楽ものをひとつふたつやるかもしれません。

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鈴木清順監督自選DVD-BOX 弐 <惚れた女優と気心知れた大正生まれたち>
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by songsf4s | 2010-04-29 23:57 | 映画
木村威夫追悼 鈴木清順監督『花と怒涛』その4

『花と怒涛』、今日はクライマクスの新潟の場面を見るのですが、そのまえに『花と怒涛』の前回から持ち越している宿題、居酒屋〈伊平〉のプランについてです。

二度、まったく異なった撮り方で登場する小上がりはふたつあるのか、それとも、同じものに異なった印象を与えただけか、という問題。

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最初は久保菜穂子を小上がりに坐らせ、キャメラは裏口側から正面入口方向に向けられている。

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二度目は逆方向から捉えている。玉川伊佐男は裏通りを背にしている。

結論、小上がりはひとつだけ、裏口の脇にある、です。こんどは大丈夫!

何度も見直して、やっと確信がもてるというくらいですから、『日活アクションの華麗な世界』所載の見取り図があまり正確ではなかったのはやむをえないでしょう。映画館で見た記憶だけでは、とうていあの居酒屋の構造は把握できません。まして、通りがどうなって、十二階はどの方向にあるかなんて、図示することが土台無理なのです。

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居酒屋〈伊平〉略図。じつはこの店は入口のない十二階側の面でも道路に接していて、三面を道に囲まれているということが、略図をつくっていてやっとわかった。したがって、二階はもう一面のほうにも窓が切られている可能性がある。

ふつう、映画館では、われわれはセットを見て、一階のプランと二階のプランがどうなっていて、どう接続されるか、なんていうことは気にしないか、気にしても把握する閑もなくドラマは進んでいってしまうものです。

邸宅ではない小さな家の場合、階段の上のほうは、しばしば曲がっているか、または、階段自体は真っ直ぐでも、上りきった直後に曲がるようになっています。もちろん、階段の位置にもよるのですが、真っ直ぐな階段をそのままの動線で真っ直ぐな廊下につなげるだけの余裕がないことのほうが多いでしょう。

〈伊平〉も一階のプランと階段の位置から考えて、上ったところで左に曲がっているはずです。じっさい、このシリーズのその1で検討した、川地民夫の襲撃の際、小林旭はそういう形で左からキャメラのフレームに入って、階段を降りかかります。

しかし、階段をとらえたショットによると、まっすぐ廊下がつづいているわけではないものの、上りきったところにすこし余裕をもたせてあります。

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これをもとに二階のプランを考えていくと、大きな矛盾に逢着します。『東京流れ者』で渡哲也の視線の先に赤坂のタワーが見える(あれが東京タワーではないことは「『東京流れ者』訂正」に書いた)ように、『花と怒涛』では、障子をわずかにあけて外を見る小林旭の視線の先には、浅草十二階があります。

部屋の内部のようすをとらえたショットと、想定される二階のプランとをにらみ、このときの小林旭の位置を考えたのですが、どうも、十二階とは反対側を見ているように思えます。

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結局、小林旭が開けた襖の向こうにはもう一部屋あり、その向こう端に階段がある、と考えれば、画面向かって左側、十二階があると想定して、小林旭が視線を向けていた方向は正しいように思われる。ただし、こちら側に、明示的には説明されなかった窓があると想定しなければいけないが。

こんな馬鹿なことを考え、映像からそれなりに考察の土台を得られるのは、家庭用VCR登場以降のことで、『花と怒涛』が製作されたときには、このような映画の見方は想定されていませんでした。映画館で見ているぶんには、一階と二階の整合性を気にする人がいたとしても(たとえば渡辺武信のような建築家)、ドラマの進行も追わなければならないので、たとえ矛盾があっても、それを矛盾と感じることはなかったでしょう。

いやもう恐縮です。わたしはこういうことが気になるのですが、たいていの人にとっては、どうでもいいにちがいありません。わたしだって、最初に『花と怒涛』を見たときは、一階での芝居がすごく面白いと思っただけで、二階の窓がどの方向に向かって切られているかなんて、考えもしませんでしたよ。

◆ 映画からの離陸 ◆◆
さて、クライマクス、新潟の景です。新潟に向かう汽車内部の人物関係の描写は、非現実に半歩踏み込んでいます。現実からの飛翔準備、非現実への踏切板として、このシーンは演出されたのだと思います。

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キャメラはまず車窓越しに松原智恵子をとらえ、そのまま移動でつぎの車輌にいる川地民夫をとらえます(松原智恵子が居酒屋〈伊平〉の近くで人力車に乗ったところを、川地民夫が目撃するショットがあり、彼の追跡は観客も予想している)。その車輌のなかを玉川伊佐男の刑事が歩き、つぎの車輌に移ろうとしているところもとらえられます。

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ふつうなら、客車の外から移動で車内の様子を見せるなんてことはないわけで(ただし、『夜の大捜査線』では、ハスケル・ウェクスラーが空撮で車窓越しにシドニー・ポワティエを捉える離れ業をやってのけたが)、これはリアリズム描写ではありません。セットではないフリなんかまったくせず、これはセットだよ、「芝居の舞台なんだよ」とはっきりとわからせる撮り方です。つまり、ここで「映画的表現から演劇的表現に切り替えたよ」ということを観客に伝えているのだと感じます。

以上のショットで、新潟に行くことはいちおう視覚的に提示されます。でも、駅に着いたとか、改札を抜けたとか、駅からどういう交通手段を利用して、どこに向かったか、などという描写はいっさいありません。列車の松原智恵子のショットから、いきなり、菊治からおしげにあてた手紙の文面にあった「桟橋の時計台の下」へとつなげられます。

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ひとつには、すでに手紙の文面として「桟橋の時計台の下」で待ち合わせることを観客を提示したので、描写の重複を避けるという意味もあったのでしょう。もうひとつは、つぎのトリッキーなショットへの準備として、松原智恵子のすがたの印象が観客の脳裡から去らないうちに、さっさとつぎのカットに進みたい、だが、そのいっぽうで、あまりにもしつこく松原智恵子のすがたを見せて(たとえば松原智恵子が改札を抜ける、あるいは人力車に乗り込む)、トリックをわざとらしいものにするのも避けたかったのだと思います。

◆ すり替えトリック ◆◆
列車のショットのつぎに置かれる、このセットでの最初のショットは、雪の道を歩む女のうしろ姿です。考えてみると、髪結床から出てきた松原智恵子のうしろ姿も、まだ観客の脳裡に残っています。

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画面奥に小林旭らしい人影があらわれ、女がそちらに向かって急ごうとすると、積み上げられた雪の陰から人影が飛び出し、長剣を女に突き刺します。

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観客はここで、松原智恵子が川地民夫に殺されたと考えます。しかし、ほとんど詐欺みたいなものですが(最前の新潟行き列車の車内の描写には、松原智恵子、川地民夫、玉川伊佐男の三人しか登場しない)、これはひと目でいいから菊治に会いたいと追ってきた(明示的には説明されないが、高品格から小林旭の居所を聞き出したのだろう)久保菜穂子の万龍姐さんだったのです。

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駆け寄った小林旭が、「姐さん、なんだってこんなところに」というと、久保菜穂子は、お金を返したくて、といい、雪の上に投げ出された手提袋から飛び出した札束をキャメラはとらえます。

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ここで、小林旭が久保菜穂子を救おうとして渡した金があだになったことがわかり、われわれは、人生のままならなさ、好意はかならずしもいい結果をもたらさないアイロニーを思うことになります。

◆ ハッピーなような、そうでもないような ◆◆
いつまでも万龍姐さんの介抱をしているわけにはいかず、小林旭は川地民夫と対決します。雪に足を取られ、こけつまろびつの、ちょっと不格好な格闘をしているうちに、二人は穴に落ちます。

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ほとんど意識のない万龍姐さんのいまわの際のインサートが入り、その向こうで小林旭が短刀を片手に立ち上がって、ヒーローが戦いに勝ったことが間接的に示されます。

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小林旭が万龍姐さんを気遣って抱き起こそうとしたところへ、「あなた」と松原智恵子登場。

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そちらへ向かいかけて、不審げに立ち止まる小林旭。

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画面奥の暗がりから松原智恵子を尾行してきた玉川伊佐男がフレームイン。

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このあたり、映画ではなく、舞台の呼吸です。

ふりかえって刑事の姿を見た松原智恵子は、あわてて亭主のほうに駆け寄ろうとして、雪に足を取られて転んでしまいます。そのすぐ脇の穴から亡霊のようにあらわれた川地民夫に気づき、松原智恵子は逃げようとしますが、川地はその足に斬りつけます。

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女房が斬られて、小林旭はそちらに駆け寄りたいのですが、玉川伊佐男刑事のせいで、物陰から出られません。

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松原智恵子は玉川伊佐男にすがりつき、必死に亭主を逃がそうとします。

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「あなた、赤ちゃんが」という松原智恵子の言葉に、玉川伊佐男は驚きます。

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「子どもには、あなたのお父さんは満州にいる、といわせてください。刑務所ではなく」というセリフは、エヴァリー・ブラザーズのTake a Message to Maryを想起させます。「彼女には、俺はティンブクトゥーにでも行ったとかなんとか話しておいてくれ、でも、監獄にいることだけはいわないでくれよ」です。

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鬼刑事・玉川伊佐男も女の心情にほだされ、逮捕をあきらめて、死にかけた川地民夫に話しかけるような思い入れで、「もう尾形は船に乗った。なあ吉村、女房というのはいいものだなあ。傷が治ったら、あとを追って満州に渡るそうだ」と大声でいい、小林旭に逃亡を促すいっぽうで、松原智恵子の傷は浅く、心配はいらないことを伝えます。

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かくして新派芝居よろしく、松原智恵子を抱えて去る玉川伊佐男、安堵と、そして深い孤独のうちに立ちすくむヒーロー、エンドマーク。

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いやはや、「柝」〔き〕が入って、雪が降り出し、幕が下りる、なんて幻を見てしまいます。

◆ すぐ隣の異界 ◆◆
鈴木清順の映画にはしばしばそういうものが登場しますが、ふっと、部屋の外に出たら、そこは異界になっていた、という調子で、小林旭が恋女房に手紙で待ち合わせ場所と指定した時計台の一帯は、いきなりわれわれの前に「異界」として口を開けます。もうここは「この世」ではなく、他界、彼岸への「橋懸かり」なのです。

そのように考えないと、このセットはたんに「リアルではない美術」に見えてしまうでしょう。ここが、鈴木清順映画(および「枠の外に出る」と決意したときの木村威夫デザイン)を楽しめるか楽しめないかの分かれ目なのです。

これから取り上げる予定の映画が多くて、あまりたくさん例をあげるわけにはいきませんが、すでに見た映画では、『東京流れ者』のクラブ〈アルル〉のセットも、やはり鈴木清順の映画にしばしば見られる、現実のすぐ隣にポッカリ開いた「異界の穴」でした。此岸からときおり彼岸にわたることこそ、鈴木清順映画の最大の特徴といっていいほどです(『ツィゴイネルワイゼン』は映画全体が「異界の穴」のようだったが)。

木村威夫は後年、鈴木清順映画に登場するこうしたムードのシーンを「あの世」と呼んでいるので、当時も十分に承知して、リアリズムにこだわらないデザインを心がけたのだと思います。

『俺たちの血が許さない』の、小林旭と松原智恵子がひっそりと逢い引きするレストランが、この世から切り離され、異世界にポツンと存在するかのように描かれたのに似て、この新潟の景は非リアリズムの世界、この世から一歩外に出かかった世界として描かれています。

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『俺たちの血が許さない』のレストランのセット。スティル。

以前、『赤いハンカチ』その7でふれた、警察署裏のセットと同じような意味で、『花と怒涛』の新潟の桟橋は、現実の外側に造られた異界です。『赤いハンカチ』のクライマクス同様、『花と怒涛』のこのセットも、わたしの心を画面に引き込み、きわめて強い印象を残すものでした。はじめて見たときも、いまも、『花と怒涛』は鈴木清順の代表作だと思っています。

これで終わりのような気もするのですが、スクリーン・キャプチャーをとっているうちに、どのセットの建具にもなにかしら見るところがあるのに気づいたので、次回、ストーリーラインからは離れて、「木村威夫の日本間」のことを書こうと思っています。



鈴木清順監督自選DVD-BOX 弐 <惚れた女優と気心知れた大正生まれたち>
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by songsf4s | 2010-04-28 23:56