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和風ハロウィーン怪談特集4 中川信夫監督『怪談かさねが淵』(新東宝、1957年)

今宵は、『牡丹燈籠』に引きつづき、再び三遊亭圓朝の怪談噺の映画化です。

『牡丹燈籠』にも元があったように、『真景累ヶ淵』にも原話があります。いちおう「実話」ということになっている、下総羽生村で起きた悪魔憑きの事件から生まれたもので、「累物語」など、さまざまな名前で呼ばれる話から派生した落語です。

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また、落語のほうには、通称「古累」という、より原話に近い版がありますが、もう高座にかけられることはめったにないでしょう。わが家にある「古累」の録音は、先代林家正蔵(彦六の正蔵)によるもののみです。

このあたりの原型にまでさかのぼってみたい方には、高田衛『江戸の悪魔払い師』をお薦めしておきます。東横線の「祐天寺」という駅がありますが、あの祐天寺の開祖、祐天上人がエクソシズムをしちゃいます。

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中川信夫監督による映画『怪談かさねが淵』は、川内康範(作詞家として知られるあの人。わたしらの世代にとっては「月光仮面」の原作者といったほうが通りがいい)の脚本で、例によって長い噺を端折るために、大幅なプロット改変をおこなっています。

◆ 下総羽生村累ヶ淵、発端の場、宗悦殺し ◆◆
三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』は、はじまったときと、終わったときでは、場所も時代も人物もまったく異なっているという不思議な物語で、現在、口演され、知られている噺は、だいたい最初の三分の一までのどこかの場をダイジェストしたものです。

映画版『真景累ヶ淵』も、落語のほうで「宗悦殺し」といっている発端の場から、もっとも有名な「豊志賀の死」を挟んで、「お久殺し」と通称されているところまでを素材に脚色しています。

映画版は、下総の羽生村からはじまるように改変していて、圓朝版では江戸に住んでいる深見新左衛門も、盲目の鍼医者にして金貸しの皆川宗悦も、ともに江戸ではなく、羽生村の住人です。

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雪の降る寒い夜、深見新左衛門の家に貸金を取り立てに行った宗悦は、酔った新左衛門と口論になり、誤って斬り殺されてしまいます。新左衛門は下男に命じて、宗悦の亡骸を累ヶ淵に沈めます。

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ここまでは落語と同じなのですが、ここからは大きく改変し、登場人物を減らして、簡略化にこれつとめています。深見新左衛門は奥方に肩を揉ませていて、ふと振り返ると、それが宗悦に変わっているのを見て、おのれ迷ったかと斬りつけてしまいます。しかし、よく見れば、それはやはり奥方で、すでに事切れていました。

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宗悦の幻影にまとわりつかれた新左衛門は、錯乱して刀を振りまわし、外を歩いているうちに、宗悦の骸を沈めた累ヶ淵にたどりつき、宗悦の幻影を斬ろうとして水にはまって死んでしまいます。

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新左衛門にはひとり息子・新吉がいて、下男はこの赤ん坊を江戸に連れて行き、新左衛門が昔世話をした、羽生屋という小間物屋の前に、新左衛門の子であることを示す守り袋を添えて置いていきます。

◆ 因果の縁はせかんど・じえねれえしよんへと ◆◆
落語では、新左衛門には二人の息子がいて、これがべつべつに育ち、複雑に運命の糸がからんで話が進んでいきますが、映画は時間の都合で簡略化したのでしょう。同様に、宗悦にも二人の娘がいたのですが、これまたお累という一人娘に簡略化されています。

えー、例によって、そろそろ未見の方は読まないほうがいいくだりに入ります。年経て新吉はおとなになり、羽生屋で手代として働いています。落語では同僚の娘、じつは宗悦の次女と恋仲になるのですが、そこは略され(おかげでこの娘は命をまっとうする)、映画では羽生屋の一人娘に惚れられます。

お久の実の母はすでに亡く、若い義母がいて、これが近所の呉服屋の息子を娘の婿にしようとしているのですが、お久は新吉が好きなので、この縁談に困り抜いています。

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お久は、豊志賀(じつは宗悦の娘のお累)という師匠に富本を習っています。お温習い会があった夜、お久が稽古の本を忘れたので、新吉は夜更けに豊志賀の家にとりにいき、以前から新吉に懸想していた豊志賀に誘われて、わりない仲になってしまいます。

ここいらまでくると、落語とはずいぶんちがう展開で、原作を知っていると、かえって混乱するほどです。兄弟がべつべつの女を相手にするはずが、映画では新吉が一手に引き受けるようになっています。

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新吉は結局、豊志賀の家に泊まり、翌朝、お店〔たな〕に戻ります。たとえ一番番頭が岡場所にいっても夜更けにはお店に帰るもので、手代風情が無断で外泊するなどということは現実にはありえませんが、脚本家は新吉を羽生屋から追い出したくて、強引にそういう展開にしてしまったようです。

娘が縁談を嫌がるのは新吉に気があるためとにらんでいる義母は、新吉の朝帰りに、これ幸いとばかり、いきなり暇を出してしまいます。困った新吉は、結局、豊志賀の家に転がり込み、夫婦のような生活がはじまります(落語では、ここは新吉の兄の役どころ)。

◆ 渡辺宙明のスコア ◆◆
後半に入る前に、ここで休憩。今回は無精せずに、映画からサウンドトラックを切り出しました。

『怪談かさねが淵』のスコアを書いた渡辺宙明(=「みちあき」また「ちゅうめい」とも)は、さる方面では非常に有名な作曲家です。「忍者部隊月光」「人造人間キカイダー」をはじめとする実写の特撮ドラマ、「マジンガーZ」などのアニメの音楽をたくさんつくっているのです。

新東宝映画を見ていると、ほかに作曲家はいないのか、といいたくなるほど、渡辺宙明のクレジットばかり見ることになります。石井輝男作品などにはきわめてモダンなスコアを提供していて、じつに興味深く、いずれ正面からとりあげたいと思っています。

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もちろんフルスコア盤などないので、以下はすべて映画から切り出したものです。すべてモノーラル、タイトルもわたしが適宜つけました。

サンプル 渡辺宙明「怪談かさねが淵メイン・タイトル」
サンプル 渡辺宙明「二十年後」
サンプル 渡辺宙明「陣十郎死す」

「メイン・タイトル」はその名の通り、オープニング・クレジットで流れるテーマです。「二十年後」は、発端の宗悦殺しから二十年たって、成長した新吉が登場する羽生屋の場面で流れます。「陣十郎死す」はクライマクスの人死にが重なる場面(後述)のものです。

渡辺宙明オフィシャル・サイト

◆ 豊志賀の死 ◆◆
ある日、豊志賀=お累は、棚から落ちてきた三味線の撥で額にケガをします。これが思いのほか深刻で、キズは治るどころかだんだん広がり、膿み爛れていき、豊志賀は病みついてしまいます。

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富本の師匠などというのは、器量がいいと男の弟子がついて繁盛するものなので、亭主面した若い男が居座っていては男の弟子は寄りつかなくなります(と噺家は説明する)。そういうふしだらな師匠のところに嫁入り前の娘はやれないというので、女の弟子もいなくなってしまいます。

ひとりお久だけは見舞いに通ってくるのですが、年増の豊志賀としては、新吉をとられるのではないかと心配で、お久を嫌います。お久のほうはいよいよ義母の無理強いに困じ果て、ひそかに新吉を呼び出して相談します。

ここに落語には出てこない大村陣十郎(丹波哲郎)という浪人がいて、お久の縁談の相手の腰巾着をしています。陣十郎は豊志賀に横恋慕していたのですが、すっかり面相が変わったのであきらめたのか、色ではなく、欲で動くようになります。

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陣十郎はお久と新吉の逢いびきの仲立ちをするいっぽうで、豊志賀にそれとなくそのことを知らせます。二人が逢っている料理屋に駆け込んだ豊志賀は、匕首を振りまわして大暴れし、結局、階段から落ちて気を失います。

これで豊志賀はすっかり衰え、いっぽうお久はいよいよ縁談がイヤになり、ここに陣十郎が暗躍して、新吉と駆け落ちする手はずを整えてやります。

そろそろエンディングに入るので、ご注意を。

ストーリー・ラインは再び落語に重なります。駆け落ちの前に、直しに出した豊志賀の三味線をとってこようと新吉は出かけます。新吉と職人が話していると、三味線の絃がぷつんと切れます。ゆるめてある絃が切れるとはめずらしい、といっていると、そこへ頭巾をかぶった豊志賀があらわれ、二人は驚きます、

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具合が悪そうなので、新吉は駕籠を呼んでもらいます。そして、豊志賀を駕籠に乗せ、垂れを下ろしたところに、乳母がやってきて、お累さん(豊志賀)が死んでしまった、と泣き崩れます。

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そんな馬鹿な、いま駕籠に乗せたところだ、と垂れを上げると、豊志賀の姿はなく、三味線の撥だけがありました。

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◆ そして誰もいなくなった ◆◆
ただアホみたいにプロットを書きつらねているだけですが、たまにはそういうのもいいでしょう。いよいよエンディング、未見の方はいくらなんでも切り上げ時です。

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新吉「わたしたちは二人だけですが」女中「でも、いまこちらさんがお高祖頭巾の女の方とご一緒にあがっていくのを見ましたが……

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新吉はお久を連れて、故郷の羽生村へと逃げます。陣十郎に、なんといっても金がものをいう、といわれたお久は、家から五十両をもってきたのだから、乗り物でもやとえばいいと思うのですが、かえって足がつくと怖れたのでしょうか。

累ヶ淵にたどり着いたところで、お久は、もう歩けないとしゃがみ込んでしまいます。新吉はすこしでも先に行きたいので、お久を背負うことにします。

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お久を背負った新吉が、ふと振り向くと、それはお累の膿み爛れた顔に変わっています。驚いて新吉は腰を抜かし、お久を投げ落としてしまいます。たまたまそこに鎌があり、お久は足をケガしてしまいます。

新吉は、お累ではなく、お久だったことに気づいてあわてるのですが、鎌をもったとたん、またお累の醜い顔が見え、手にした鎌で斬りかかります。お久、お累、お久、お累とめまぐるしく変化し、結局、新吉はお久を殺してしまいます。

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そこに陣十郎があらわれ、気が触れたか新吉、といいます。陣十郎の狙いはお久がもちだした五十両、あっさり新吉を殺して金を奪って立ち去ろうとします。

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すると、あっちに豊志賀、こっちにお久、向こうに逃げれば新吉、こちらに逃げれば(お互い面識なしの赤の他人なのに)宗悦と、そこらじゅう亡霊だらけ、メチャクチャに刀を振りまわしているうちに、杭を斜めに切り、そのするどい先端にみずから覆い被さって、陣十郎も死んでしまいます。

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◆ 因果なきところに応報あり ◆◆
圓朝の長い噺は、おおむね因果応報物語で、昔から圓朝といえば因果応報かつ勧善懲悪というようにいわれています。しかし、子細に検討すると、奇妙なところがあります。

『真景累ヶ淵』の場合、豊志賀=お累がじつに憐れです。彼女は、深見新左衛門に理不尽に殺された宗悦の娘です。それなのに、仇の息子の新吉に惚れただけでなく、あっさり捨てられてしまい、無惨な最期を遂げます。作者が金貸しを恨んでいた、ぐらいしか、お累がひどい目に遭わねばならない理由は思いつきません。しいていえば、みずから新吉を誘った色好みの罪でしょうか。昔はそういう倫理観があったかもしれませんが、現代の目で見ると、それくらいしかたなかろう、です。

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お久も、新吉に殺されるに値する罪を犯したとも思えません。彼女になにか非があるとしたら、親が決めた縁談を壊して、好きな男と逃げたこと、その男には内縁の妻があったことぐらいです。映画には出てきませんが、宗悦と見間違えられて、深見新左衛門に殺される按摩にいたっては、ただの行きずりで、まったく罪がありません。

そう考えると、圓朝の世界を単純に「因果応報」という言葉で言い表すのにためらいが生まれます。「因果のないところに応報だけが無数に生まれる不条理世界」というほうが、まだ『真景累ヶ淵』の実体に近いのではないでしょうか。

いやまあ、この世はいずれにしても理不尽、不条理、そうでなければ、人が出会って、憎んだり、愛したりもしない、ともいえるので、「因果応報」ははじめから条理の通ったものではないのかもしれませんが。

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高田衛『新編 江戸の悪霊祓い師(エクソシスト) 』(ちくま学芸文庫)
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by songsf4s | 2010-10-30 23:58 | 映画
(仮)キャバレー・ブルー・クイーン by 飯田信夫(新東宝映画『暁の追跡』より その3)
タイトル
キャバレー・ブルー・クイーン
アーティスト
飯田信夫
ライター
飯田信夫
収録アルバム
N/A(『暁の追跡』OST)
リリース年
1950年
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このところFC2のブログはまったく更新できず、当家も匍匐前進になってしまったにはいろいろいな理由があるのですが、とりわけ古書をオークションに出す準備に時間をとられています。

うちにあるのはほとんどすべてが昭和以降のものなので、「古書」とは呼べず、たんなる「セコハン」にすぎません。一握りしかない大正以前の本で、ややめずらしい一冊がこれ。

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この本は、ちょっとした成り行きから、自分で値をつけて買ってきたものです。いや、正確には、懇意な古書店で数冊の古書の値踏みをした報酬として安価に譲ってもらったのです。四半世紀前のことで、もういくら払ったかは忘れてしまいましたが、当然ながら、現今の相場よりはるかに安い価格にしました。なんたって買い手はわたし自身なのだから、ふっかけたりはしません!

そんな若いときに古書価がわかっていたのかといわれそうですが、すくなくとも現在よりはよく知っていました。この矢野目源一訳の『吸血鬼』元版は、はじめて見るものでしたが、これはそれなりの値打ちがあると考え、一冊抜いていいといわれたその権利を、この本に適用することにしたくらいですから、最低限の知識は持っていました。

そのときの値踏みでも、書店主に損をさせてはいけないという思いと、あまり高すぎて売れなくても意味がないという配慮がせめぎ合って、呻吟してしまいましたが、オークションも似たところがあります。あまり安く売りたくはないけれど、高すぎて売れなくては意味がありません。

いやまあ、高いから売れない、安いから売れる、というものではなく、ウソみたいに高くつけているところがそれなりに売れていたりするから、無茶苦茶というか、世の中は面白いというか、わけがわからないのですが。

◆ ハリウッドの先を越しそこなう! ◆◆
古書の話は次回にでもゆっくりすることにして、今日は『暁の追跡』を最後まで見ることにします。

前々回にも書きましたが、『暁の追跡』という映画は、池部良と水島道太郎という二人の巡査の対立が、あまりにも観念的、図式的で、ドラマとしてはちょっときびしいものがあります。個人や集団の対立はドラマのエンジンになりうるのですが、この映画では、利害の対立でもなければ、魂のせめぎ合いでもなく、観念の対立にすぎないので、見ていて恥ずかしさに赤面してしまいます。

その中間にいる伊藤雄之助は、警察官であることに自嘲的で、ちょっといい加減なところがあり、交番で銃を暴発させ、同僚に軽いケガをさせて免職になってしまいます。銃の扱いがあまりにも粗雑で、こんな警官がいるはずがあるかよ、と思ういっぽう、現代の警官にもとんでもない事件を起こす不心得者がときおりあらわれることに思い至り、こんなものかもな、という妙な気分になります。

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ここからの展開がまたちょっと不思議なのです。寮の部屋で荷物をまとめながら、伊藤雄之助がトランペットをもてあそんで、「こんなことなら、もうちょっとこいつを練習しておけばよかったよ。あいつは雇ってくれるかな」などというのです。

まあ、プレイヤーもピンキリで、ずいぶんいい加減なのがいたようなので、「こんな設定はありえない」などとはいわずにおきます。その他大勢として突っ立ち、よくわからないときは音を出さないようにしていれば、お情けで給料をもらえるかもしれません。しかし、あの時代のビッグバンドでは、譜面を読めないと無理のような気もやはりするのですが……。

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そして、池部良が雨の日に警邏していると、「ブルー・クイーン」というキャバレーの裏口から伊藤雄之助が声をかけ、いまはここにつとめている、ちょっと寄っていけと誘います。このキャバレーのバンドが演奏している「現実音」として2曲が流れます。つづけて出てくるので、ファイルを切らず、2曲をまとめてあります。また、例によって、タイトルはわたしが恣意的につけたものにすぎません。

サンプル 「キャバレー・ブルー・クイーン」

ほんの少ししか聴けない最初の曲はなかなかホットで、飯田信夫音楽監督は、ちょっとばかり尖鋭なセンスをもっていたのかもしれません。ブルース・コード進行になりそうでならないところが、面白いような、肩すかしのような、妙な気分になります。服部良一の影響があったのかもしれませんが、この曲でのスタイルはずっとハードで、思わず「ムムッ」と身構えてしまいました。昔の音楽をなめてかかると、ときおり、尖鋭な時代性にもろに突き刺されてしまうことがあります。

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この最初の曲のようにハードなものを、「現実音」としてではなく、純粋なスコアとして、東京アンダーワールドの風景と重ね合わせることができたら、『暁の追跡』は日本映画史のターニング・ポイントのひとつに勘定されたにちがいありません。市川崑監督、飯田信夫音楽監督、ともに大魚を逸しましたな。

いや、ハリウッドだって、クラブの場面などでの現実音ではなく、スコアとして4ビートが使われるようになるのは1950年代後半のこと。それに数年も先立って、日本がジャズ・スコアの映画なんかつくってしまっては秩序破壊かもしれません。いや、「時間線擾乱罪」で「タイム・パトロール」に摘発される恐れなきにしもあらず。呵々。

◆ 廃墟の美 ◆◆
『暁の追跡』は「視覚の愉楽」、eye-candyに充ち満ちた映画で、ストーリーラインを追わずに、画面だけ見ているぶんにはまったく退屈しません。

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『暁の追跡』はクライム・ストーリーではあっても、ディテクティヴ・ストーリーではないので、謎解きの興味はまったくのゼロ、事件の首謀者はあっさり割れてしまいます。じっさい、どういう手がかりから首謀者と本拠が判明したのか、よくわからないうちに、いつのまにか払暁の大捕物へ向かって動きだすものだから、観客は面食らってしまいます。

とはいえ、清洲橋を渡った川向こうでの捕物劇は、舞台がすばらしくて、おおいに楽しめました。こういう場合は、百万言を費やすより、キャプチャーを見ていただいたほうがいいでしょう。

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まだ空襲で破壊された廃墟がそれなりに残っている時期だったのでしょうが、それにしても、よくまあ、これほど魅惑的な舞台がみつかったものだと思います。映画はロケーション・ハンティングで決まる、とまでいう人がいますが、『暁の追跡』の場合は、まさにその通りだという気がします。

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どんなことでも人の噂は当てにならないもので、自分の目と耳でたしかめないかぎりは、作物の善し悪しなどいえるものではありません。

たしかに、「映画としての評価」などと正面を切った物言いでは、『暁の追跡』はとくにいい作品とはいえないでしょう。でも、そういう表向きのことはうっちゃって、ただたんに見ていて楽しいか楽しくないかというレベルでいうなら、これはもうすばらしい視覚的愉悦で、こんなに楽しいロケーション・ショットが連続する映画はほかに思いつかないほどです。そういう映画の重要性を伝える文章をいままで目にしたことがなかったというのは、ちょっと考えこんでしまいます。

いや、『暁の追跡』のロケーション・ショットにおおいなる美をみいだすのは、多くの人と共有できることではないかもしれません。ふつうはストーリー・テリングを重視するもので、その面では『暁の追跡』は不出来です。

それでもなお、世の中には、他人の意見だの「定説」などにはまったく興味を持たず、自分の感覚しか信じない論者というのがいるものです。変な音楽や変な小説や変な映画のことが、葡萄のツルを伝わってくるのはよくあることなのに、『暁の追跡』のように、そういうネットワークからこぼれてしまうものがあるのは、じつにもったいないと思います。

この映画の視覚的卓越性、都市を捉える目の鋭さをいままで知らなかったとは、まったくもって不覚でした。いや、こういうことがあるから、定評のない映画を見てみようという気になるのですが。

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暁の追跡 [DVD]
暁の追跡 [DVD]
by songsf4s | 2010-03-12 23:56 | 映画・TV音楽
メイン・タイトル by 飯田信夫(新東宝映画『暁の追跡』より その2)
タイトル
メイン・タイトル
アーティスト
飯田信夫
ライター
飯田信夫
収録アルバム
N/A(『暁の追跡』OST)
リリース年
1950年
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『暁の追跡』という映画で愕くのは、ふつうの映画ならセットにするだろうというシーンのほとんど、または、すべてがロケーションで撮影されていることです。もちろん、絵からはセットかロケかを判断できないものもありますが、窓のある部屋、つまり、窓外の風景が見える室内シーンは、すべてロケーションです。

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これはどういうことでしょうか。わたしに思いつくのは、ジュールズ・ダッシンの『裸の町』の影響かもしれない、ということぐらいです。あの映画も全編ロケーションでニューヨークの町を捉えています。若き市川崑も、東京を「裸の町」として描いてみたかったのではないでしょうか。

シネマ・ヴェリテ的犯罪物語というのは、1950年にあっては時代の最先端だったのだろうと想像します(『暁の追跡』は『裸の町』の二年後に公開された)。これでドラマ作りがフリーフォームだったら、ヌーヴェル・バーグになってしまうのですが、まさか、そこまでぶっ飛んではいません。しかし、徹底したロケーション撮影はすばらしい効果をあげていて、わたしはおおいに楽しみました。

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勝鬨橋。こんなところで水泳をしているのに仰天する。戦後しばらくのあいだ、大川が澄んでいたという話を読んだことがあるが、1950年でもまだ泳げるほどきれいだったのだろうか?

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勝鬨橋をわたって月島に向かう池部良。いつだったか、月島ですしを食べたあと、ちょっと歩こうといって、池部良とは逆のコースをたどって、銀座を経由して新橋から電車に乗って帰ったことがあった。十分に歩ける距離だが、この映画は真夏の話で、そんなときに日陰のない勝鬨橋を歩いてわたりたくない! ついでにいうと、『乳母車』と同じように、この映画でも「橋」は異界への通路として扱われている。

◆ 立体としての東京 ◆◆
不審者を追跡して死なせたり、同僚の伊藤雄之助が拳銃を暴発させて首になったり、いくつかの事件が重なって池部良は転職を決意します。転職事情はいまとはずいぶん異なり、戦友を訪ねてまわる池部良のすがたに、へへえ、といってしまいました。派遣会社の中間搾取がないのはけっこうですが、真夏の東京を歩きまわるのは、見ているこちらも疲労感を覚えます。

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成瀬証券と山二証券の現況は下の写真を参照されたい。突き当たりに見える窓が二連になった建物は日証館で、これも無事である。日証館に突き当たったところで右に曲がれば、左側、日証館の並びに東京証券取引所が見える。むろん、取引所の現在の建物は見るに値しないし、映画の舞台にも使いようのない凡庸なデザインである。

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兜町はクラシックなビルがほとんど消えてしまったが、山二証券と成瀬証券は奇跡的に無事である。撮影は2009年10月。映画のキャメラ位置とは逆方向から撮った。

池部良は兜町のあとで有楽町にまわり、ビルの屋上で友人に会います。そのビルはすでにオープニング・シークェンスに登場しています。

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池部良の背後に日劇と朝日新聞が見える。これでこのビルの位置がわかる。

このビルの屋上で友人と話していて、池部良は、線路を挟んだ向かいのビル、すなわち、オープニング・シークェンスで内部を見せたビルで、人が争っているのを目撃し、急いで駈けつけます。

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池部良がその部屋にたどりついたときには、人の姿はなく、机や椅子が倒れ、薬品の瓶とこぼれた粉末が発見されます。この薬品(台詞では「劇薬」といっているが、なんらかの事情で「麻薬」という言葉の使用を避けただけだろう)によって、最初の不審者の逃走と、この一室が結びつけられ、さらに末端の売人の逮捕で(ここにも池部良が噛んでいくところで、いくらなんでも偶然がすぎると感じる)、背後の組織の姿が浮かび上がってきます。

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いやまあ、プロットの重要性は相対的に低いので、その点は気にしないでください。肝心なのは目に見えるもの、視覚表現のほうです。ここに書いた仕事探しから、事件現場の発見にいたるシークェンスも、セットはなく、すべてロケーションと思われます。

職探しのシークェンスでは、キャメラは新橋署管轄の外に出て、もう少し広い範囲で東京を捉えます。この一連の絵からも、やはりジュールズ・ダッシンの『裸の町』に近似したアティテュードが読み取れ、それがこの映画の最大の美点だと感じます。

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◆ 矛盾する被写体 ◆◆
わたしは町を捉えた映画が好きなので、『暁の追跡』は冒頭からそういう映画だと感じ、だとしたら、もっともだいじなことは、当然、「いかに町を撮影したか」であり、そこに着目しました。そして、冒頭に書いたように、途中から、室内のショットの撮り方が気になりだしました。

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窓がある室内のショットは、ほぼすべてのケースで、ロケーションであることが明白にわかるように撮っています。はっきりとはわからないものでも、窓外の立ち木の枝葉が風にそよいでいて、ロケだろうと推測できるようになっています。ここでは、そういうショットをいくつか拾ってみます。

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昭和25年の映画なので、フィルムの質はあまり期待できないのですが、そのわりには、暗い室内と明るい屋外を捉えたショットは、どれもほぼうまくいっていて、すごいものだな、と思いました。いや、見るほうは感心するだけですみますが、現場は艱難辛苦の、どこまで続く泥濘ぞ、だったのかもしれません。ほんとうに、矛盾する二つの被写体をよくもまあきれいに同じショットに収めたものです。それが全編にわたってつづくのだから、いやもう、現場の苦労を想像すると、こちらまでつらくなってくるほどです。

◆ トントントンカラリっと ◆◆
前回は挿入曲のひとつ、李香蘭(山口淑子)の「夜来香」をとりあげましたが、今回はスコアから一曲。メインタイトルです。

サンプル 『暁の追跡』メイン・タイトル

『暁の追跡』の音楽監督である飯田信夫は、わたしが知っているものとしてはほかに『秀子の車掌さん』『鶴八鶴次郎』『雪崩』といった成瀬巳喜男作品でもスコアを書いています。

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飯田信夫作でもっと人口に膾炙した曲は「トントントンカラリっと、隣組」という徳山璉の「隣組」でしょう。戦時下の生活をすごした方たちにとっては不快かもしれませんが、わたしは戦後生まれなので、この歌が好きです。歌謡曲史上もっともキャッチなーメロディーと歌詞の組み合わせではないでしょうか。一度聴いただけで覚えてしまいます。

隣組(部分)


もう一回だけ延長して、『暁の追跡』のクライマクスのロケ・シークェンスを見ることにします。


暁の追跡 [DVD]
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by songsf4s | 2010-03-06 23:53 | 映画・TV音楽
夜来香(日本語ヴァージョン) by 李香蘭(新東宝映画『暁の追跡』より その1)
タイトル
夜来香
アーティスト
李香蘭
ライター
黎錦光、佐伯孝夫(追加日本語詞)
収録アルバム
N/A(『暁の追跡』OST)
リリース年
1950年(日本語ヴァージョン)
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前回の『浮雲』その2でふれた中古智美術監督は、シベリア抑留から解放されて帰国してみたら、東宝はかの大争議のさなかだったそうです。どうやらそのおかげのようですが、新東宝で数本の仕事をして、そのなかに市川崑監督、池部良主演の『暁の追跡』がありました。

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たったそれだけの縁で、『暁の追跡』を見てみました。市川崑の大ファンというわけでもないので、それほど期待していなかったせいもあるのですが、この映画にはちょっと驚きました。『暁の追跡』を特筆大書で紹介した文章というのは見たことがなく、市川崑修行時代のエチュードてなあたりか、ぐらいの軽い気持で見てしまったのです。

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◆ ストーリーテリングを阻害する議論 ◆◆
池部良は新橋駅前交番に勤務する警邏巡査、その班長が水島道太郎、同僚に田崎潤と伊藤雄之助がいます。

夏の払暁、水島道太郎が、路上で不審な取引をしていた男を交番に連行し、自分の傷の手当てのために、池部良にその男をあずけます。たまたま長時間勤務で注意散漫になっていた池部良は、一瞬の隙に、その男に逃げられ、必死で追跡します。男はガード脇の工事足場を伝って線路に出て逃走するものの、足をとられて転倒し、列車にはねられて死んでしまいます。

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この男は麻薬密売組織の末端だったことがわかり、菅井一郎を主任としたチームがこの組織を追い詰め、壊滅させるというのが骨組で、警邏警官にすぎない池部良は、ちょっとした偶然から、この事件に深くかかわることになります。

プロットとしてはそんなところで、とくに目を見張るようなものではありません。水島道太郎が組織論を振りかざし、池部良がヒューマニズムの側に立ち、むやみに生硬な議論をくりかえす新藤兼人脚本にはおおいにめげます。新藤兼人の映画が面白いと思ったことが生涯にただ一度もない人間の偏見かもしれませんが、でも、そりが合わないというのはどうにもなりません。

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鈴木清順が『けんかえれじい』のとき、新藤兼人の脚本をずたずたにしてしまったという逸話を読み(新藤は完成試写を見て怒り狂ったとか)、さもありなん、鈴木清順と新藤兼人では水と油だ、清順があんな青臭い人間の書くことを好むはずがない、と思いました。

しかし、脚本はどこまでいっても脚本、それですむならだれもキャメラを廻したりはしません。いや、脚本に足をとられて沈没するのが大部分の映画の運命なのですが、ときには、脚本とは無関係に、勝手にどこかに飛んでいく映画もあります。『暁の追跡』は、脚本が意図したろくでもない「意味」のレベルを超えたところで面白い映画でした。

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◆ ロケーション撮影 ◆◆
中古智美術監督は、『成瀬巳喜男の設計』のなかで自身のキャリアにふれ、『暁の追跡』については、「市川さんの将来がよく出ている」と短くコメントするにとどめていますが、じっさいに見ると、なるほど、そういう感じだ、と納得がいきます。画角の取り方に精彩があり、それがこの映画の最大の魅力になっているのです。

タイトルが終わって話に入った瞬間からの1分ほどに、この若い監督の野心が刻み込まれています。以下、タイトル直後のショットからはじめて、カットごとに最低でも一葉のキャプチャーをとってみました。

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ファースト・ショット。新橋-有楽町間の風景。手前に見えるビルにご注目。その手前に高架の線路がある。

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上述のビルを反対側から捉えている。

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キャメラはこのビルの3階の一室とそのなかの人物を捉える。

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さらにもうひとりの人物を捉える。ふつうなら、こういうシーンはセットで撮影し、背景はミニチュアと書割の組み合わせだろう。しかし、この映画は徹底したロケーション主義を貫いている。

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人物が頭を下げた瞬間、窓の向こうを電車が通過して、ロケであることを証明する。

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そのビルの前を警邏中の池部良巡査が通る。

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このビルを折り返し点にして、角を回って逆方向に歩み始める。

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この家並みの捉え方に軽いショックを覚えた。手前のバラック建築のたたずまいもすばらしいし、キャメラ位置が卓抜で、なんともいえない質感と量感をたたえた絵になっている。

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池部良は警邏を終わり、新橋駅前に戻る。この旧駅舎にもちょっと驚いた。いつまであったものか知らないが、まったく記憶にない。

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駅前交番に戻った。


ショットの選択や電車の通過を利用したスムーズな編集にも感心しましたが、なんといっても、バラック建築の捉え方がすばらしいシークェンスです。家並みをこのように捉えた映画というのは記憶がありません(しいていうと、規模は異なるし、ロケではなくオープン・セットだが、『天井桟敷の人々』をいくぶん想起させる)。いや、いいなあ、と思うだけで、そのよさのよってきたるところをうまく言語化できないのですが。

◆ 挿入曲 ◆◆
新橋駅前派出所のようすはしばしば描写されるのですが、近所の商店ないしは飲食店から流れてくるのか、たいていはなにか流行歌が聞こえてきます。そのほとんどの曲がわからないのですが、夜更けになって流れるこの曲だけはわかりました。

李香蘭 夜来香 日本録音


李香蘭の「夜来香」のオリジナルは戦中の上海録音で、サウンドの出来については、そのオリジナルのほうがずっと上です。『暁の追跡』に使われているのは、サウンドがドライで奥行きのない日本録音ですが、映画のなかでは台詞や効果音に邪魔されて音が曖昧になり、結果的に盤よりも違和感のない音になっています。上海録音の中国語ヴァージョンに近いサウンドに聞こえるのです。

上海録音の「夜来香」は盤で聴いてのけぞりました。楽曲の構成も、アレンジ、サウンドも、1950年代終わりのアメリカにもっていき、たとえばコニー・フランシスが歌ってもまったく違和感がないであろうものなのです。ときおり、時代を間違えたような曲というのがありますが、「夜来香」もタイム・トラヴェラーがつくったのかと思うほど、未来のポップ・ミュージックを予言する音になっています。

夜来香 上海録音


これが太平洋戦争中のアレンジ、サウンドに聞こえますか? わたしだったら時代測定を20年ほど間違えると思います。

「夜来香」(イエライシャンと発音する)がどういう植物かについては、「花300」の夜来香ページを参照ありたし。

もう一回、『暁の追跡』のロケーション撮影を観察する予定です。
by songsf4s | 2010-02-26 23:48 | 映画・TV音楽