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成瀬巳喜男監督『娘・妻・母』(東宝映画、1961年) その3

前回の枕で、当家で取り上げた池部良主演映画は『暁の追跡』だけだと申し上げました。

しかし、あとから考えたら、「横浜映画」と題した記事で、篠田正浩監督『乾いた花』にふれていて、これも池部良主演でした。他の映画と入れ込みで取り上げたので、失念してしまったしだいです。

池部良をしのんで映画を見るとなると、たとえば『青い山脈』以外にはない、という方もいらっしゃると思います。それもたしかにそうだろうとは思うのですが、いっぽうで、代表作のひとつ『乾いた花』に、切れ味するどい変化球として『暁の追跡』を組み合わせた二本立てというのも、かなりいいのではないでしょうか。

◆ 石鹸売り! ◆◆
成瀬巳喜男の『娘・妻・母』、今回は中盤から後半へというあたりです。

原節子はまた妹に引っ張り出されて、弟夫妻や妹の同僚たちと甲府に遊びに行き、仲代達矢に再会します。仲代達矢は原節子に、つぎに上京したときにまた会ってくださいと、はっきり胸の内を明かします。原節子のほうは煮えきりませんが、これは昔の女性のたしなみというもので、ノーだけでなく、イエスもハッキリ云わないだけです>現代のお嬢さん方。

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この甲府でのハイキングのシーンに流れる音楽をサンプルにしてみました。小津安二郎の『秋日和』だったか、やはり若い連中が山登りをする場面があり、そこでも似たようなスタイルの音楽が流れました。オールドタイマーなら、うん、昔の映画はこうだったね、とうなずくであろうサウンドです。

サンプル 斉藤一郎「ハイキング」

原節子と団令子が甲府に出かけている日曜に、草笛光子と小泉博の夫妻が実家を訪れ、森雅之に借金を申し込みます。家を出て夫婦だけでアパート暮らしをしたいというのです。あの杉村春子のグチと小言は、このための伏線だったのです。ゆくゆくは買い取れるのだから、というので、ここでいっているアパートはマンションのことです(そのままアパートといっておけばよかったのに、どこかの開発業者がつけたインチキな名称が定着してしまった)。

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もちろん観客は、森雅之にそんな金がないことを知っています。加東大介に貸してしまったのですから。その加東大介は、草笛・小泉夫妻の留守のあいだに、杉村春子のところを訪れています。これが親類の訪問ではなく、粉石鹸を売りに行ったのだから、われわれは愕然とすることになります。工場はどうなったのだ?

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◆ もうひとりの男 ◆◆
原節子は中北千枝子に呼び出されて、銀座にお茶を飲みに行きます。用はないんだけど、といわれて、原節子は、いいの、母の還暦のお祝いだから、ちょうど銀座に来たかった、と答えます。

また噂話だな、と思ったのですが、中北千枝子は、原節子に出戻り娘の生活ぶりを話させる役割のようです。原節子は、家のことはあまりいわず、甲府旅行が楽しかったといいます。中北千枝子は、実家だってやっぱり気詰まりだろうから(高峰秀子のことは「きつそうだけれど、悪い人じゃないわね」と断じる)出かけたくもなるわね、と受け取りますが、観客は、それだけでなく、原節子も仲代達矢のことをまんざらでもなく思っているのだな、と確認します。

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起きる出来事はみな小さなことばかりで、出来事とすら呼びにくいようなものですが、それがきれいに、整然と、有機的に結びついていくのも成瀬映画の特徴です。この『娘・妻・母』も、日常の小さなことが積み上げられて、話を断崖絶壁に追い込んでいくところは、これぞ映画的快楽といいたくなります。この快感があるから、どんなにひどい話でも最後まで見てしまうのでしょう。

脚本家は異なっても、どの映画も同じように本がていねいにつくってあり、ちょっとした会話や小さな出来事が伏線とわからぬように、さりげなく、繊細にちりばめられています。ということは、成瀬巳喜男も、溝口健二のように、執筆の段階でうるさく注文を出していたのかもしれません。

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三益愛子が孫を連れて公園に行く。なんでもないショットで、伏線だということを見逃しそうになる。すれちがう老人は笠智衆。

二人がお茶を飲みながら話していると、中北千枝子の知人が来合わせ、挨拶し、原節子に紹介されます。この知人を演じているのが上原謙ですし、映画のなかでは、いや、とりわけ成瀬映画のなかでは、無駄な人間が無駄に台詞をしゃべったりはしないので、ははあ、上原謙はなにか重要な役割を負って登場したな、とだれしも思うところです。

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◆ 楽あれば…… ◆◆
二男三女で夫婦者も多いのに、不思議に子どもの少ない家ですが(成瀬巳喜男は、猫は好きだけれど、子どもは好きではなかった?)、ともかく、家族がみな集まって、母親三益愛子の還暦を祝います。こういう祝い事のあとは、現実でも気をつけなければいけないのですが、映画のなかではなおさらです。

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原節子は、上京した仲代達矢と会います。こんどこそ二人きり、正真正銘のデートで、上野の美術館などに行ったりします。西洋美術館のロダンの像の前にたまたま上原謙がいて挨拶するのですが、しばらくたってから、原節子は笑いだし、いぶかしがる仲代達矢に説明します。このあいだ、知らぬ間に見合いをさせられたことにいま気づいた、というのです。

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わたしもボンヤリ者なので、原節子にいわれて、そうか、あの銀座のカフェで紹介されたのは見合いだったのか、とやっとわかりました。見合いではなく、偶然の出会いで、あとで仲代達矢と原節子をめぐって争うのかと思っていたのです。

この夜、原節子と仲代達矢は、ほんの軽いもので、あいまいに描かれるのですが、キスをします。へえ、原節子もこういうシーンをやったことがあるのかと、妙にドキドキしました。

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原節子としてもじつにめずらしいラヴ・シーンだが、当家でもはじめてこういうシーンをキャプチャーした。しかし、これはキス・シーンといえるのかどうか。たんに二人の人物の顔が重なっただけのショット、という言い方もできるような……。

家に帰る道で、原節子は妹・草笛光子に出くわします。彼女はずっと姉の帰りを待っていたところで、近くの店に入って用件を話します。例のアパートの一件で、森雅之が貸し渋るので、こんどは姉に借金を頼んだのです。いやはや、まったく罪な百万円です。

今日はスピードアップするぞ、と思ったのですが、相変わらずのスロウペースでした。成瀬巳喜男のペースにはまったようです。次回でなんとか『娘・妻・母』をまとめたいと思っています。


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by songsf4s | 2010-10-12 23:57 | 映画
成瀬巳喜男監督『娘・妻・母』(東宝映画、1961年) その2

よるべない、たよりない、やるせない、成瀬映画はこの「三無」です。かつてだれか口の悪い映画人が「成瀬巳喜男じゃなくて、やるせなきおだ」といったそうですが、ほんとうに、つらい映画ばかりよくつくったものです。

先日『めし』をとりあげたせいだと思うのですが、仔猫を手の中に収めた夢を見ました。目が覚めた瞬間、『めし』に猫が出てきた意味が直感的にわかったような気がしました。ひとつは壊れてしまいそうな頼りなさ、ひとつはこのか弱い生き物を保護しなければならないという意識、ひとつははかなさです。

『めし』の原節子は、仔猫のなかに自分を見、夫を見、そしてこの宇宙とこの人生を観照したのでしょう。

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◆ 「おまえたち夫婦の女中はごめんだよ」 ◆◆
外道なことを云うようですが、成瀬巳喜男の映画は音だけにして聴くと、おそるべきものです。怖い台詞が山ほど詰め込まれていて、うへえ、ムヒョー、ドヒャーの三種ぐらいではとても追いつきません。

たとえば、小泉博と草笛光子の夫婦が帰宅すると、杉村春子の小言がはじまります。

「いつもいつも二人で待ち合わせて帰ることはないじゃないか。近所の人がなんて云っているか知ってんの。英隆、聞いてんのかい? あたしももう六十すぎたんだからね、いつまでもおまえたち夫婦の女中はごめんだよ。だいたい薫さんだって、結婚したら幼稚園やめるって約束じゃなかったの。子どもができるまで、できるまでって、あんたたち子どもつくらないつもりじゃないのかい?(後略)」

いやはや、これを杉村春子が絶妙のタイミング・コントロールでいうんですからね、もうへこたれるなんてもんじゃありません。なんでこんな映画を見てるんだろうと首をひねっちゃいます。それでも最後まで見せるのが成瀬巳喜男のすごいところです。

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アメリカ映画なら、プレヴューで観客がみな不快だと文句を云い、プロデューサーがこの台詞のカットを監督に命じるに決まっています。成瀬巳喜男の海外での評価が上がっていったのは、人生のこの精細にしてリアルなスケッチが、世界的に見てきわめて稀な映画要素だったからでしょう。

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◆ 他人の鏡 ◆◆
ふと、『娘・妻・母』を「噂話映画」と名づけたくなりました。家族や知人たちが、そこにいない人物の噂をするシーンが山ほど出てくるのです。

原節子が墓参りに出かけた留守に(いや、これも母親がそういうだけで、墓地のシーンなどは一切ない)、彼女の友人の中北千枝子が坂西家を訪れ、母親と話していて、原節子の再婚の可能性を問います。

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いっぽう、原節子は弟・宝田明のスタジオで写真を撮られています。再婚話のあとだから、だれしも見合い写真を思うところですが、訪ねてきた三女の団令子に、宝田明は、フィルムがあまっただけ、と云います。

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このあたりから、みなで夕食に行こうと一決し、原節子が家に電話をかけるところまでをサンプルにしました。ほとんどは台詞がかぶっていますが、それはそれで面白いのではないかと思います。

サンプル 斉藤一郎「スタジオ・モンド」

こういう音楽はどのあたりに分類するのか、まあ、ラウンジなのでしょうが、昔の日本ではこういう、あまり強烈ではないブロウ・テナーをリードにしたムード音楽が流行ったことを思いだします。サム・テイラーとかね!

さて、団令子はここで、次姉の草笛光子にアパート探しを頼まれたことを長姉と次兄に告げます。しかし、宝田明は、あのはっきりしない男が母親に別居するなどと云えるものか、と懐疑的で、妻の淡路恵子も、ホントにおとなしい方ね、と夫に同意します。団令子も同意しつつ、でも、あれで勤評闘争なんかになるとすごく張りきっちゃうんだって、といいます。

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昔の映画を見ていると、ときおり耳から入っただけでは意味のわからない言葉が出てきます。「きんぴょう」ってなんだ、でした。小泉博は中学の先生という設定なので、なにか教師の労働運動に関わる言葉だろうと思いましたが、知らないのはわたしだけのようで、ATOKはあっさり変換しました! いつも、おまえは古い言葉を知らないね、と馬鹿にしていたATOKにやられてムッとなりましたぜ。いや、古い言葉ではなく、まだ生きている言葉だから変換したのでしょう。「勤務評定闘争」の略だそうです。

あっちで噂話、こっちで噂話、『娘・妻・母』では、噂話で人物像が形成されていくのです。そういう映画というのはめずらしいのではないでしょうか。

団令子は酒造会社の宣伝部に勤めていて、そのポスターなどのためにカメラマンの次兄のところをしばしば訪れているのですが、この日は、あとから来た同僚の太刀川寛が、もうひとりの男・仲代達矢を伴ってきて、初対面の原節子に、甲府工場の醸造技師と紹介します。

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当然ながらわれわれは、原節子と仲代達矢のあいだにロマンスが生まれるという展開を予想します。じっさい、その夜、一同うちそろって食事に出かけ、そのあとでいったナイトクラブでは、踊れないという原節子と仲代達矢だけがテーブルに取り残され、観客は、やっぱりな、と思うことになります。

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◆ 家族という債権者 ◆◆
楽しい時間を過ごし、土産にイチゴのショートケーキを買って妹とともに帰ると、原節子は兄に呼ばれます。

高峰秀子の伯父・加東大介の新たな借金の申し込みはいったん断ったのですが、森雅之の留守中に、加東大介は家にまで押しかけて、いかに苦しいかを姪に訴えます。ここで、以前貸した金は、家族にはいわずに家を抵当に入れて借りたものだということが、高峰秀子のグチのようにして明らかにされます。

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もう森雅之に貸す金はないのですが、そこに百万円をもった妹が転がり込んできたため、兄は無考えにも、妹に金を貸すように勧めます。全額ではおまえも不安だろうから、五十万でどうだ、それなら毎月の利子は五千円、生活費がそっくり出る、いまどき銀行にあずけたってろくな利子は付かない、俺が間に入っているのだから、元金は補償する、おまえに迷惑をかけるようなことはしない、などといいます。

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観客はみな、家を抵当に入れて金を借りた人間が「元金は俺が補償する」もないものだ、まずいなあ、と顔を覆ってしまうのですが、成瀬映画では、登場人物は、毅然と拒否したりはできません。

いや、この状況では、現実の話だったとしても、やっぱり、拒否はむずかしいでしょう。兄の家にやっかいになっている身なのに、現金をたくさんもっているという妙な立場にあるところに、金をくれというのではなく、貸して利子を取れという話ですからね。イヤだと思っても、返答を先延ばしにするぐらいしかできることはないでしょう。あとは、この家を出て行くかです。

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「兄さんの話、なんだったの?」「ううん、なんでもないの」

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かくして、『めし』に引きつづき、『娘・妻・母』でも、原節子は「三界に五尺の身の置きどころなし」であることを痛感します。


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by songsf4s | 2010-10-10 23:56 | 映画
成瀬巳喜男監督『娘・妻・母』(東宝映画、1961年) その1

成瀬巳喜男の映画は、ついこのあいだ、『めし』をとりあげたばかりですが、先日、『娘・妻・母』を見たので、印象が薄れないうちに書いておこうと思います。

この十数年はすっかり無精になり、また、劇場の椅子に坐りつづける体力もなくなってしまったため、シネマテークに行くことはめったになくなりました。三十代なかばをすぎてからいったのは、鈴木清順、小津安二郎、そして成瀬巳喜男の三人、および監督単位ではなく、日活アクションの特集と、石原裕次郎の連続上映ぐらいです。

成瀬巳喜男もブック・チケットを買って、何日も通ったので、代表作といわれるものの多くを見ました。しかし、成瀬巳喜男は作品数が多く、ずいぶん見たつもりでも、未見のものがまだたくさんあります。いまいちばん見たいのは『秋立ちぬ』という映画なのですが、調べてみたら、これがまだDVDにもなっていなくて、劇場で見るしかないようです。

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◆ オールスター・キャスト ◆◆
さて、今回の成瀬巳喜男映画は、やっとつい先日、はじめて見た『娘・妻・母』です。美術はいつものように中古智、照明も成瀬組の石井長四郎ですが、キャメラは成瀬巳喜男後期のレギュラー安本淳であって、玉井正夫ではありません。脚本は井出俊郎と松山善三、音楽は斉藤一郎です。

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おもな舞台になる坂西家は東京の郊外(代々木上原という想定らしい)にあり、還暦になろうとしている母(三益愛子)、どこかの企業の部長である長男(森雅之)、その妻(高峰秀子)、二人のあいだの学齢前の息子、そして、酒造会社で働く独身の三女(団令子)という家族構成です。

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坂西家にはほかに、日本橋の大店に嫁に行った長女(原節子)、次女(草笛光子)、すでに結婚してべつに一家を構えている、カメラマンの次男(宝田明)がいます(宝田明のスタジオは銀座裏あたりの設定か)。

草笛光子の夫は小泉博、その母は杉村春子、宝田明の妻は淡路恵子、カメラマン宝田明のところに仕事に来るモデルが笹森礼子、ほかに仲代達矢、加東大介、上原謙、笠智衆、中北千枝子(ひょっとしたら成瀬巳喜男映画最多出演女優)、太刀川寛などが出ています。脇役が豪華で正月映画かと思ってしまうキャスティングです。

このような家族構成と配役で、ちょっとしたことから坂西家が崩壊し、一家離散となるまでの物語が『娘・妻・母』です。

◆ 二男三女の生活ぶり ◆◆
日本橋の商家に嫁いだ長女・原節子は、姑とのあいだがうまくいかず、数日前から実家に身を寄せています。この映画での原節子は、『めし』の里帰りした妻とはだいぶ異なり、同じような状況にありながら、達観しているというか、あきらめているというか、ふてぶてしいとすら云いたくなるほどで、夫や婚家に未練を残していません。

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次女の草笛光子は自分も保母として働きながら、教師をしている夫の小泉博、義母の杉村春子と小さな家に三人暮らしをしています。

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次男の宝田明はカメラマンとして活躍し、元モデルの妻は喫茶店を経営していて、こちらも繁盛し、同じDinkでも、舅姑のいない二人だけということもあって、草笛光子のところとはだいぶちがう派手な生活ぶりです。

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『娘・妻・母』はこのような状況設定ではじまり、原節子が里に帰っているあいだに、夫が同業者組合の慰安旅行で行った伊豆で事故に遭い、死んでしまったことから話が展開しはじめます。

◆ またまた未亡人 ◆◆
原節子と高峰秀子という、二人の大物女優が出演していて、ビリングも分け合っているのですが、原節子が未亡人になったことで、彼女が中心になっていくことが冒頭でわかります。

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香典をどうするかで、宝田明のところが勝手に金額を決めたために、草笛光子のところで姑が嫁に嫌みをいうなどという、どこの家でも、いつの時代でもありそうなエピソードが挿まれます。こういう小さな描写も、それぞれの家庭の経済状態や、草笛光子と杉村春子の嫁と姑の関係を明らかにし、のちに起きることの伏線になっているところは、成瀬映画らしい細やかさです。

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葬式のあとは、日曜なのか、原節子をのぞいて、坂西家の人びとが集まって話しているシーンで、ここで坂西家の経済状態が明らかにされます。父は資産を残さず(三益愛子いわく「お父さんはああいう人でしたからね」。いやはや、このなんでもない台詞のじつにリアルなこと!)、残ったのは土地と家だけ。

宝田明が「二百坪というところか」といいますが、長男の森雅之は「とんでもない。百六十だ」と訂正します。こんな話もどこの家でも交わされるでしょう。三女は坪いくらとして、ひとり頭どれくらいの金額になるかを計算します。戦前に生まれ育った人は、長子相続が頭にこびりついているので、戦後は兄弟平等だということを観客に念押しする役割もあるのでしょう。

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ここらで、この映画のテーマは「家」と「金」と見当をつけました。

そして、この長女のいない「非公式な家族会議」の場で、彼女が離縁されると明らかになります。大事に育てられ、あんな大家の奥さんにおさまった人は、いまから働いて自立するといっても無理だ、ということで、森雅之が家長として「当面、俺が面倒を見るよ」といいます。

◆ あっちの百万とこっちの百万 ◆◆
高峰秀子には伯父(加東大介)があり、プラスティック成型をする町工場を経営しています。加東大介は資金繰りに苦しんで、親類縁者をまわってあちこちから金を借りているらしく、森雅之にも利息を渡したおりに、工場の設備更新の資金百万円の融資を依頼しますが、とても無理と断られます。百万は十倍して現在では一千万の見当でしょう。

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この映画は間接的な描写が多いのですが、離縁された原節子が実家に戻るところも直接には描かれません。三女の団令子が次男の宝田明に電話して、その話をします。そのときに団令子は、和子姉さん(高峰秀子)たら、さっそく女中さんをやめさせちゃったのよ、なんていいます。いやはや、小姑のうるさいこと。

原節子は微妙な位置にはまりこむことになります。彼女の庇護者である母はまだ健在です。しかし、一家の主婦は兄嫁、この微妙な力関係のなかで、居場所を見つけるのはえらく気骨が折れるなあ、と溜息が出てしまいます。

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兄嫁に、よろしくお願いします、と挨拶しておき、後刻、原節子は母と二人だけのときに、自分は女中部屋を使わせてもらうといいます。そして、毎月五千円を家に入れることにします。母は、それは多すぎるといいますが、原節子は、あたし、お金もってるの、百万円、といいます。死んだ夫の保険金で、「これがわたしの全財産」と説明します。

この話をたまたま子どもがきき、子どもだから無分別にほかの家族にも話してしまいます。まあ、いずれわかることでしょうが、なし崩しに知れていったせいもあって、この百万円は結果的に不幸の種になります。

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まだ設定と冒頭の展開を書いただけで、本格的に話が動きはじめるのはこれからなのですが、残りは次回に。最初のうちは、未亡人原節子の運命を描く話なのかと思ったのですが、じっさいにはそれほど単純な構造ではありませんでした。

◆ 斉藤一郎のスコア ◆◆
『娘・妻・母』の音楽は斉藤一郎です。当家で過去に取り上げた映画としては、成瀬巳喜男『浮雲』田坂具隆『乳母車』、そして小津安二郎『長屋紳士録』のスコアを書いています。

作品数が多いからだともいえますが、斉藤一郎は、成瀬巳喜男映画としてはほかに『流れる』『放浪記』『山の音』『晩菊』『稲妻』『おかあさん』『乱れる』など、代表作、有名作の多くの音楽監督をつとめています。

古い映画の喫茶店やバーなどのシーンで流れる現実音はいつも面白いのですが、それは次回ということにして、今回は素直にメイン・タイトルをサンプルにしました。

サンプル 斉藤一郎「『娘・妻・母』メイン・タイトル」

こういうサウンドを聴いていると、昔の映画を見ているなあ、という気分になれます。


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by songsf4s | 2010-10-09 23:54 | 映画
メイン・タイトル by 斎藤一郎(東宝映画『浮雲』より) その2
タイトル
メイン・タイトル
アーティスト
斎藤一郎
ライター
斎藤一郎
収録アルバム
N/A(『浮雲』OST)
リリース年
1955年
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日本語のアルファベット表記が実用的ではないということは何度も繰り返し書いていますが、またも困った例にぶつかりました。ある日本映画のリストに、Enjoというのがありました。「援助? 俺が知らない最近の映画か」と思って通り過ぎようとしたら、市川雷蔵だというので、数秒考え、「ああ、『炎上』か!」とわかりました。これはEnjohと書いて、誤解を回避するべきものでしょう。

もうひとつ、これは読めなかったわけではありませんが、The Demon of Mount Oeというのも、やっぱりそうなるか、と笑いました。これも市川雷蔵のもので、『大江山の酒呑童子』のことです。以前にも、「大江」というのはアルファベットでどう書くのかと疑問に思ったことを書きましたが、やはり「Oe」になってしまうようです。

「オエ」と吐いているみたいで、わたしが大江という苗字だったら、アルファベットで書きたくないなあと思うでしょう。O'e、Oh'e、Ooe、O'o'e、あれこれ工夫しても、どうにもアルファベットにしようのない音だと思います。「大井」も同様です。これが太田なら「Ohta」とあれば読めるのに(Otaでは読めない)、母音がつづくとチンプンカンプンになるのだから、不思議なものです。

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◆ セットにつぐセットの連続 ◆◆
中古智美術監督は、『成瀬巳喜男の設計』のなかで、成瀬巳喜男という人は、セットにかかった金のことで文句をいったことはなく、つねに美術監督を擁護したと回想しています。といって、予算を気にしなかったわけではなく、残業はゼロで、毎日、定時に撮影を終えたそうです。

オーヴァータイムをしない監督だと、会社は助かりますが、逆にスタッフは金銭的に大変で、同じように定時に終えた小津安二郎のスタッフは苦労したと、厚田雄春撮影監督が回想していました。冗談半分かもしれませんが、「貯金をして」から撮影に入ったのだとか!

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奥から手前に、成瀬巳喜男、森雅之、高峰秀子

さて、『浮雲』の美術です。中古智美術監督は、これほどセットの杯数が多くて、仕事に追いまくられた映画はなかったと回想しています。全部で二十数杯にはなったはずだといっています。

仏印の邸宅の広い階下、同食堂、森雅之の家、山形勲の家、高峰秀子のバラック、新興宗教の家、病院、屋久島の家、旅館が四つ、加東大介の店、岡田茉莉子のアパート、ラーメン屋、ミルクホール、船室、屋久島の家の外、同じく室内、屋久島の営林署室内というように、たしかに相当の杯数になります。

室内のセットも多数ありますが、例によってオープン・セットもたくさんあったせいで、杯数がふくらんだようです。製作年から考えて、当然、闇市はないので、マーケットはオープン・セットだということはわかります。

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いわれないとわからないのは、伊香保の旅館の外にある階段がオープン・セットだということです。監督がクレーンでいきたいというので、クレーンで撮れる階段をつくったのだそうです。いや、階段だけならまだしも、階段に沿った家の外壁をつくらねばならず、これまたちょっとしたセットです。

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◆ 岡田茉莉子のアパートのデザイン ◆◆
視覚的にもっとも面白いセットは、森雅之が転がり込む(当人は「引っ張り込まれた」と主張する!)岡田茉莉子のアパートです。

なんだか妙に廊下の天井が高くて、ふつうに見られる安アパートの造りとはずいぶんちがいます。それだけでなく、アパート室内の造りも変わっていて、ここも天井が高く、ノーマルな雰囲気ではありません。

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『成瀬巳喜男の設計』を読んで、はじめて、ああいうデザインになった理由がわかりました。これは倉庫の建物を転用したアパートという設定なのだそうです。倉庫のなかを小間に割っているのです。なるほど、そういうデザインになっているし、天井の高さもそれで納得がいきます。

◆ 仏印シークェンス ◆◆
東京はべつとすると、ロケをおこなったのは伊豆と鹿児島だそうです。

ヴェトナムのダラットでのシークェンスは、三島や伊豆のどこかの山中でおこなったと回想しています。吊橋はありものではなく、中古智デザインになる東宝製造のものだそうです。

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仏印シークェンスには金子信雄も出演している。こういう映画なら、さすがの金子信雄も善人を演じているのだろうと思いたくなるかもしれないが、高峰秀子に不気味がられてしまうイヤな奴の役!

大変なのはヤシの木。鹿児島ロケハンのときのことなのか、指宿に南方の植物を栽培している植物園があり、貨車一台分の葉っぱを買って東京に送ったのだそうです。そして、丸太と葉をもって伊豆の山に入り、目立つところに立てたというしだい。ヤシの樹皮は杉皮だそうです。

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右手前の像が東京で作ってもっていった飾りだというのは簡単に想像がつきますが、背後に見える寺院は絵だそうです。中古智美術監督は詳しいことはいっていませんが、ガラス・マット・ペインティングではないでしょうか。モノクロ映画のいいところは、絵の合成がバレバレにならないところで、このショットも違和感なく収まっています。

ちょっと意外なロケは、伊香保温泉の風呂場です。てっきりスタジオだと思っていたら、これが伊豆の湯ヶ島でのロケなのだというのでびっくりしました。よほど監督の好みのたたずまいだったのでしょう。

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映画のなかでは、長い階段を上ったてっぺんにあると設定されている風呂ですが、じっさいには、逆に長い階段を下ってたどり着く、川べりの風呂場だったのだとか。

屋久島の家並みも伊豆でロケされたものだそうです。ただし、家がきれいに整いすぎているので、石を載せた板葺き屋根にしたり、ずいぶん加工したと中古智美術監督は回想しています。

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◆ 北はどっちだ? ◆◆
『赤いハンカチ その2』の記事で、「さすらい」の南北のことにふれ、日本の場合、「さすらう」となると、北を目指すのが暗黙の了解といえるだろうと書きました。

さすらい、漂い、流れていく『浮雲』では、森雅之と高峰秀子は、沖縄が日本ではなかった当時は最南端だった屋久島へとたどり着きます。つまり、「南にさすらった」例外である、といえるのでしょうか。そういいきるのは、ちょっと早計に思えます。

この映画でもっとも強く印象に残ったのは、ほんの一瞬映るだけの、屋久島へ向かう船での寄り添った二人のショットです。

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これを見てなにを感じますか? わたしは「寒さ」です。じっさい、高峰秀子はおそらく肺炎(または肺結核)にかかっていて、鹿児島の旅館でひどく寒がります。それが反映されていることも間違いありませんが、それにしても、お互いに暖めあうように寄り添った二人の姿は、なんとも寒々としています。日本の最南端に向かうというより、最北端に向かうような絵です。

『浮雲』は数年のスパンの物語でありながら、絵として表現されるのはつねに寒い季節で、高峰秀子と森雅之はオーヴァーコートを着、いつもなにかで暖をとろうとしています。

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これは撮影時期の制約もあったのでしょうが、「表現」のレベルでいえば、明らかに仏印との対比で、二人の心の寒暖を形にして見せたのです。

そこで南北の問題です。日本を中心に考えず、二人の心、主観に添って考えると、「心の地軸」は仏印にあることが見えてきます。彼らは、仏印では「夢を見ていた」のかもしれませんが、しかし、それはつまり幸福だったということです。

その(占領という他人の不幸を土台にした)幸福から切り離されて、不幸のなかを漂流するのが『浮雲』という物語です。だから、彼らは「日本という寒々とした北の地」をさすらうのです。

では、最後に彼らが向かった屋久島は、北なのか南なのか。それはなんともいえません。純粋に「解釈」の領域に入り込んでいくことになります。だから、あくまでもわたしの受け取り方にすぎません。こう思います。

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屋久島に向かう二人は、もうなにも希望などもっていません。森雅之は「死ぬのは痛い」から生きているだけです。高峰秀子も「ここ(森雅之のそば)で死ねれば本望よ」といいます。二人は、かつて幸せだった南の地に「帰る」幻想を抱いたのかもしれませんが、現実には、高峰秀子は病に倒れ、猛烈な寒気に襲われ、船中で暖をとるように肩を寄せ合います。

あの寒々とした二人の姿は、意図的な演出なのだと思います。南に帰るはずが、まるで日本よりさらに北に向かうようなありさまになっていくのは、きっと、幸福に対する天罰なのでしょう。二人の体は南に向かいながら、心は北へとさすらっていったように、わたしには見えました。

◆ エンド・マークのない永遠の不幸 ◆◆
この映画を見たあとで、夢を見ました。そのなかで、死んだと思った高峰秀子が蒲団の上で起き直り、浴衣の襟元を直しながら、森雅之に微笑んでいました。

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そこで目がさめて、映画がこんなエンディングだったとしたら、そのほうが怖いだろうなと思いました。そして、彼女はあそこで幸せに死んだことがはっきりと理解できました。あれ以上生きつづけたら、苦しみいや増すばかりだったでしょう。しかし、森雅之には死という逃げ場もなく、ただ冷え冷えと凍えていく罰しか残されていないわけで、なんとも残酷な映画です。

『浮雲』は、昔の映画としては稀なことに、エンド・マークが出ません。かわりにこういう文字が映されます。

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成瀬巳喜男の設計―美術監督は回想する (リュミエール叢書)
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by songsf4s | 2010-02-21 23:53 | 映画・TV音楽
メイン・タイトル by 斎藤一郎(東宝映画『浮雲』より) その1
タイトル
メイン・タイトル
アーティスト
斎藤一郎
ライター
斎藤一郎
収録アルバム
N/A(『浮雲』OST)
リリース年
1955年
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成瀬巳喜男の『浮雲』は、すごい映画だとは思うものの、好き嫌いのレベルに降ろすと、なんともいいようがありません。いえ、嫌いだということを遠まわしにいっているのではなく、ほんとうに曰く云い難いのです。

いやもう、成瀬巳喜男の作品全体も、感じていることを言語化できないまま、見ればやっぱり面白いと思うのです。暗いなあ、重いなあ、と思いつつ、やっぱり見てしまうところが、なんとも不思議です。こういう場合、きっとリズムが合っているのです。無意識裡につくり手のリズムのよさを感じているのに、それが意識の表層にのぼらないから、言語化できないのでしょう。

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◆ エキゾティカ・ジャポネ ◆◆
七面倒なことはおいておくとして、今回、二十数年ぶりに『浮雲』を見直したのは、音楽がよかったと記憶していたからです。いや、『モスラ』や『マタンゴ』に使ってもオーケイというぐらいのエキゾティカだったはずで(『ゴジラ』のときに書いたが、あの映画は、撮影監督・玉井正夫、照明・大井英史、美術監督補佐に中古智という、成瀬組のスタッフによって製作された)、それをたしかめたかったからです。

まずは斎藤一郎作のメイン・タイトルをどうぞ。

サンプル 『浮雲』メイン・タイトル

ややジャングル寄りではあるものの、アメリカ音楽の文脈におけば、りっぱにエキゾティカとして通用するサウンドです。なぜこういうサウンドになるかというと、もちろん、ストーリーに添わせたからです。

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農林省の役人である森雅之は、太平洋戦争中、軍属として仏印(フランス領インドシナ、すなわちヴェトナム)で働いています。そこへタイピストとして高峰秀子がやってきて、二人は恋に落ちるという設定で、『浮雲』は敗戦後、日本に戻ってからの二人の彷徨を描いています。

仏印でのシーンでは、もちろんこのテーマの変奏曲が使われていますし、ほかの場面にも登場します。全部で六、七回は登場するでしょう。そのうちのひとつ、森雅之のアパートを訪れた高峰秀子が、ひとりぽつねんと物思うシーンに流れるヴァリアントをどうぞ。

サンプル 『浮雲』メイン・タイトル変奏曲

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◆ 楽しめる「現実音」 ◆◆
二十数年ぶりに『浮雲』を再見して、記憶していたテーマ曲以外にも、なかなか興味深いものがあることに気づきました。

パンパン嬢になってしまった高峰秀子の掘っ立て小屋に(たぶん義兄という設定の)山形勲が訪ねてきて、俺のうちから勝手に持っていった布団を返せ、と迫るシーンで流れる、ハワイアン・スティール・ギターによるジングル・ベルは、ほほう、でした。斎藤一郎音楽監督は、意識的に南方的サウンドを採用したのかもしれません。

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サンプル 「ジングル・ベル」

うーん、いまなら、こういうサウンドは注目ですが、昔はどうだったのでしょうか。どちらかというと古臭い音だったのか、それとも、ラジオから流れてくるという設定なのだから、「ひとひねり入った最新のサウンド」だったのでしょうか。いまになると、そのへんのニュアンスがわからなくて、隔靴掻痒の思いをします。

『浮雲』というタイトルが示すとおり、どこへ向かうでもなく、男と女がひとつの浮き輪につかまるようにして、別れるに別れられず、沈みそうになりながら、ドブ川のような世間をかろうじて漂い流れていく話なので、森雅之と高峰秀子は、しばしば連れだって散策し、また、温泉などに出かけたりします。

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両方とも死のうかという思いを抱えて行った伊香保温泉で、宿泊費が足りなくなり、森雅之はオメガの時計を売ろうと、料理屋の亭主の加東大介に相談します。その店で(おそらくラジオから)流れている音楽がまた魅力的です。

サンプル アコーディオン・インストロ

これもいまでは「新しい音」に響きますが、昔はどうだったのやら、さっぱり見当がつきません。当てずっぽうを云うなら、すくなくとも斎藤一郎が「当世風のサウンド」とみなしていたものなのでしょう。

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◆ ここで死ねれば本望よ ◆◆
こういう重い映画というのは、ふだんは見ないのですが、たまに成瀬巳喜男を見ると、やはりじわじわと引き込まれていき、なんて暗いんだ、と思いつつも、結局、最後まで見てしまいます。これはもう、映像のリズムの魔力以外に考えられません。

森雅之は「まったくどうにもならない、魂のない人間ができちゃったものさ」と自嘲し、まだなにかを期待する高峰秀子を「ぼくって人間はもぬけの殻なんだから」といって突き放します。

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高峰秀子のほうも、森雅之を軽蔑し、「見栄坊で、移り気で、そのくせ気が小さくて、酒の力で大胆になって、気取り屋で」となじります。

それでもなお、この二人は別れず、心中もせず、泥水のなかを果てしなく、あっちに流れ、こっちに漂っていく、いやはやなんとも、こいつはたまらん、という映画です。こういう骨がらみ見る者の心を腐蝕させる映画を何本も撮って(『稲妻』『流れる』『女が階段を上る時』)、それで世界的名声を得たっていうのは、考えてみると、驚異ですな。

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高峰秀子はこの映画での演技を絶賛されたそうですが、わたしは森雅之に魅了されます。ほかのだれにこの役ができたでしょうか。こんなひどい所業を働きながら、なおかつ、女が思い切ることができず、最後にはすべてを擲って、いっしょに連れてって! と泣き叫んですがりつくほどの奥深い魅力をたたえた男なんて、森雅之にしか造形できません。

この俳優を見て、これはとんでもない人だ、と思ったのは、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(没落貴族の子弟を演じた)とこの『浮雲』の二本です。不健康で投げやりな色男をやらせたら天下一品、古今無双です。

この二本から考えると、60年代の作品、たとえば黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』や市川崑の『太平洋ひとりぼっち』などは、さすがにみごとに演じてはいるものの、いっぽうで、森雅之である必然性もなく、なんだか宝の持ち腐れのような気もします。

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だれか、晩年の森雅之に、老いて落魄したジゴロをやらせてみようとは思わなかったのでしょうかね。『浮雲』の十年後を見たかったと思います。いや、わたしが知らないだけで、そういう映画があるのかもしれませんが。

重苦しい映画なので、斎藤一郎のスコアのことを書くにとどめ、一回で終わるつもりだったのですが、せっかく本をもっているのだから、中古智美術監督のコメントを紹介しようと考え直しました。ということで、もう一回だけ延長させていただきます。



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by songsf4s | 2010-02-19 23:49 | 映画・TV音楽