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川口松太郎と溝口健二の『雨月物語』補足と訂正 付:代表作抄
 
新藤兼人監督没だそうです。享年百、赤飯を炊く年齢の大往生で、めでたい、というべきでしょう。最近のお若い方は、大往生も、赤飯もご存知ないらしく、めでたい、というツイートはついに目にしませんでした。

当家では、以前、新藤兼人映画で面白いと思ったものは一本もない、と書きましたし、いまさら口を拭う気もありません。わたしにとってはきわめて相性の悪い映画監督のひとりで、もはや、見てみようという好奇心も起こりません。

ひとつだけ気になったことがあります。新藤兼人は脚本家としても傑出していた、という意見をいくつか見ました。それ自体についてはなにも考えはありません。なにかいうほどの数は見ていないのです。しいていうと、市川崑の『暁の追跡』のときに、新藤兼人の脚本がひどいと書いたほどで、とにかく苦手なのです。

いや、新藤兼人がすぐれた脚本家かどうかは知りません。しかし、その新藤兼人によるすぐれた脚本のなかに、鈴木清順監督の『けんかえれじい』を入れるのには、おおいなる抵抗、違和感があります。

当家では何度も鈴木清順映画をとりあげ、そのつど強調しました。鈴木清順は、脚本をまったく重視しない監督であり、彼の最初の仕事は、脚本をずたずたにして、自分らしい映画の土台へと変換することである、と。

鈴木清順映画ではプロットはあまり意味をもたず、重要なのは、なにを描くかではなく、どう描くか、です。ストーリーではなく、視覚的なディテールに重心の大半がかかっているのです。

以上は鈴木清順映画一般に通じる大原則。もう一点あります。なにで読んだのか忘れてしまったのですが(木村威夫の『映画美術』かもしれない)、そのような清順の手によって、いつものように、脚本などクソ食らえと大改変した『けんかえれじい』の試写を見て、新藤兼人が激怒した、という話が伝わっているのです。

脚本を書いたご当人が激怒するようなものを、その人の脚本の代表作に算入するのはどんなものでしょうか。映画の出来がよかったからといって、脚本がよかったと、まっすぐに逆算するのは賛成できません。

とりわけ、鈴木清順のように、台本なんか会社が寄越すもの、そんなもので映画は撮れない、自分の映画は自分のやり方で撮ると公言している監督をつかまえて、手放しで脚本をほめたりすると、監督も、脚本家も、双方ともに腹を立てるのではないでしょうか。

◆ 原作ならず ◆◆
てなことを枕に、今回は石原裕次郎の映画を、と思っていたのですが、なにしろ相手は三時間半の大作、ただ見るだけでもおおごと、サウンドトラックの切り出しだって、2GBのwavファイルを相手に悪戦苦闘して、今日は準備が整いませんでした。

ツイッターで最近フォローしてくださった方が、先日の溝口健二と川口松太郎の記事について、背景情報を寄せられたので、今日はそれをもとに訂正と補足をしておきます。

多くの溝口健二映画のシナリオを書いた依田義賢の『溝口健二の人と芸術』という本がありまして、わたしも若いころに読んだのですが、中身は忘れてしまいましたし、当家の溝口=川口シリーズの冒頭に書いたように、一昨年、蔵書をほとんどすべて整理したときに、映画関係の本も手放してしまいました。

で、その本によると、『雨月物語』は、映画の企画と小説が同時進行だったのだそうです。返信のツイートにも書きましたが、アーサー・C・クラークが、スタンリー・キューブリックと共同でシナリオを書き、映画とパラレルで小説を執筆した『2001年宇宙の旅』と同じパターンです。後年の露骨な商業主義ノヴェライゼーションとは、いくぶんかニュアンスが異なりますが、しかし、箱に入れるなら「原作」ではなく「ノヴェライゼーション」です。謹んで訂正させていただきます。

お浜が映画では生き延びたのは、会社からの注文があってのことだったと依田義賢は証言しているそうです。会社といったって、溝口健二の映画に注文をつけられるのは、永田雅一しかいなかったのではないでしょうか!

アーサー・C・クラークの小説とスタンリー・キューブリックの映画では、とりわけエンディングのニュアンスが大きく異なったように、『雨月物語』も映画と小説では結末が異なり、後味も大きく異なっていました。たんなる偶然かもしれませんし、そこに映画と小説の本質的な違いがあらわれるものなのかもしれません。

◆ 人情馬鹿列伝抄 ◆◆
溝口=川口シリーズを書いた直接の動機は、溝口健二の映画を見たからではなく、いまやほとんど売れないと古書店の番頭氏が保証した、川口松太郎の本を数冊まとめて読み返し、もったいないなあ、いいものがたくさんあるのに、と思ったからです。

○人情馬鹿物語
いろいろあったものの、結局、川口松太郎は『人情馬鹿物語』の作家、というところに落ち着いたように思います。若き日の作者自身と思われる「信吉」という作家志望の青年と、その師匠である講釈師の悟道軒円玉(実在)をめぐる人々の、古風な義理と人情のあやなす連作短編です。

なぜ作家志望の信吉=川口松太郎が講釈師の弟子になっていたかというと、円玉は躰が弱く、この物語ではもう講釈はやめて、速記本作者になっていたからです。そして、講談速記が発展したものが、時代小説であり、大衆小説のひながたなのだ、というのが、大衆文学の歴史では常識となっています(講談社の最初の社名は「大日本雄弁会講談社」といった。講談速記本からスタートした)。

たしか半村良が『雨やどり』のあとがきで、これは川口松太郎の『人情馬鹿物語』に範をとった連作短編であり、オマージュなのだという趣旨のことを書いていて、それでまだ学生だったころに『人情馬鹿物語』を古本屋であがないました。

一読、なるほど、と納得がいきました。いずれも、なんともいえず胸にしみる話柄ですし、古い東京のおもかげが行間に揺曳するところにおおいなる魅力があります。

半村良は、連作『雨やどり』と同じ登場人物による続篇に『新宿馬鹿物語』というタイトルをつけました。

○続・人情馬鹿物語
『人情馬鹿物語』は、のちに代表作といわれることになるわけで、評判も悪くなかったのでしょう。続篇が生まれています。

続篇も基本的には正篇と同じような雰囲気で、引き続き悟道軒円玉も登場しますが、すこし時代の下った話も入っていました。やはり、正篇ほどの密度、完成度とはいきませんが、しかし、正篇が気に入った読み手には十分に満足のいくものでした。

○非情物語
タイトルが示すように、『人情馬鹿物語』と同様の連作短編形式をとり、同様に、やるせなくなるような人の情けの物語が集められていますが、悟道軒円玉の時代ではなく、大東亜戦争後の時代を背景にしています。

息子の川口浩から聞いたものを書いたという「親不孝通り」という短編は、それこそ、川口浩とその夫人の野添ひとみの主演で映画化したらよろしかろうという話です。浩は、親父の小説は古い、と批判したそうですが、彼がこの話を書きなよと語った物語は、結局、川口松太郎的な、『人情馬鹿物語』的な結末を迎えます。

川口松太郎は身辺の人物を題材にした短編をたくさん書いているので、当然、幼なじみの溝口健二も何度か登場しています。『非情物語』収録の「祇王寺ざくら」には、溝口健二や依田義賢と遊びに行った祇王寺での出来事が描かれています。

また、大映専務としての執務の様子を描くくだりもあり、古い日本映画を愛する人間には興味深い付録になっています。

○しぐれ茶屋おりく
連作短編と長編の中間のような形式の、各章読み切りの短編をつないだ長編です。

明治の中頃(だったと思う)、吉原の妓楼の女主「おりく」が、妓楼を養女にゆずって、鐘ヶ淵のあたりの寂しい場所に料理茶屋を開き、努力によって店を繁盛させながら、時代の変転が気に入らず、店を閉じるまでの物語です。

おりくは、若いときに吉原の妓楼に買われながら、主人に気に入られ、結局、見世には出ないまま、主人の囲われものになります。その没後、女だてらに妓楼を経営しますが、養女が大きくなり、婿を迎えたので、なかば引退するようにして料理屋を開きます。妓楼を営んでいたころは身を慎んでいましたが、茶屋を開いてからは、もういいだろうと、これまでの人生の報酬として、おりくは男道楽を自分に許します。

したがって、話はおおむね、おりくが惚れた男たちの肖像という形になるのですが、しかし、これまた、人と人のつながりというのは摩訶不思議だなあ、というところに落ち着く、いかにも川口松太郎らしい話材ばかりです。

浅草生まれなので、川口松太郎は芸事をよく知っています。当然、落語や講釈にもくわしく、彼の語り口自体にそれが血となって流れていますが、『しぐれ茶屋おりく』では、もっと直接的に、芸人たちの肖像という形で表現されています。

とりわけ、おお、と思ったのは、おりくの若き日の回想に登場する三遊亭圓朝です。圓朝ですよ!

おりくの亭主は寄席が好きで、おりくもやがて芸に深い関心を抱くようになります。亭主から圓朝の『塩原多助一代記』がいかにすばらしいかをきかされたおりくは、晩年の圓朝がこの長い続き物を高座にのせたときに、毎晩通い詰めて圓朝の芸を堪能します。

この連作のなかで、圓朝が登場する短編は、プロットとしてすばらしいわけではないのですが、圓朝の姿がなんとも慕わしく、これほど噺家の高座姿を筆に乗せるのがうまい作家はほかにいないのではないかと感じます。

三遊亭圓朝は1900年没、川口松太郎は1899年誕生、どう考えても、川口松太郎は圓朝の高座を知るはずがありません。しかし、おそらくは悟道軒円玉あたりから、くわしく話をきいたのでしょう、じつに真に迫った圓朝の肖像が描かれています。なんせ、安藤鶴夫も一目をおいた作家ですからね。

○古都憂愁
これまた連作短編ですが、背景になったのは、いつもの東京下町ではなく、タイトルが示すとおり京都です。

川口松太郎は大映の専務だったので、撮影所のある京都にしばしば滞在したようで、『古都憂愁』は、いわば京の芸妓をあつかった『人情馬鹿物語』です。

当然ながら、こちらにも溝口健二は登場します。同じ浅草生まれでも、川口松太郎は東京と京都を行ったり来たりしていましたが、溝口健二は戦前から京都暮らしでした。そして、こちらに収録された溝口健二がらみの話は、溝口自身の映画『お遊さま』のロケをめぐる物語なので、溝口ファンは目をお通しになったほうがよかろうと思います。ううむ、そんな話があったのか、とちょっと感銘を受ける短編です。

いま思い出しましたが、半村良の『ながめせしまに』に収録された諸篇の一部は、『古都憂愁』に範をとったもののように感じます。


そろそろ時間切れ、なんの準備もなく、手元に該当の本のないまま(引越準備で大部分は段ボールに収めてしまった)、エイヤッと乱暴に書いてしまい、ちょっと恥ずかしいようにも思うのですが、このブログはもともと音楽をあつかっていたもので、それが映画を扱うのも逸脱、小説となるとさらに守備範囲からはずれるので、勢いのついた時でないと書きにくく、一気にやってしまいました。

上掲のほかに映画(成瀬巳喜男監督、長谷川一夫、山田五十鈴主演)や芝居にもなった『鶴八鶴次郎』は、おおかたの人の認める代表作ですし、中篇『風流深川唄』も、感銘の深いものでした。川口松太郎らしい話柄とはいいかねますが、代表作に数えられることもある『皇女和の宮』も、一気に読ませる長編です。

そのうち、映画と込みで『鶴八鶴次郎』を取り上げられるといいのですが、それより『蛇姫さま』でしょうかね!


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by songsf4s | 2012-06-01 23:54 | 書物
『雨月物語』と『祇園囃子』──川口松太郎による溝口健二映画の原作小説二種 後篇
 
溝口健二監督『祇園囃子』(1953年、大映)と、その原作である川口松太郎の『祇園囃子』の関係は、『雨月物語』以上に微妙だと感じます。プロットはほぼアイデンティカルで、「忠実な映画化」といえるほどなのですが、しかし、後味は異なるものでした。

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祇園の芸妓・美代春(木暮実千代)のもとに、昔の客と朋輩だった名妓のあいだにできた娘、栄子(若尾文子)がやってきて、舞妓になりたいと頼みます。

美代春は妹分をもちたいのは山々ではあるものの、舞妓ひとりを一人前にするには大金が必要で、その投資を回収するには時間がかかり、途中でやめられでもしたら大損害になるため、慎重に栄子の意思をたしかめます。だれか確実な保証人をたてるのが手順ですが、栄子の没落した父(進藤英太郎)は、あれこれといって、ついに判を押しません。

溝口健二『祇園囃子』冒頭


美代春はそれでも栄子の境遇に同情し、また、自分も旦那を持たず、頼り身寄りがないので、栄子を妹分にして、舞妓に育てます。映画では、垢抜けない少女が、稽古に通い、身なりも変わり、だんだん美しくなっていく過程が描かれています。

美代春は「吉君〔よしきみ〕」という茶屋の女将から、栄子を一人前に育て、着飾らせるための費用を借りるのですが、この女将はその金を楠田(河津清三郎)という「車輌会社」(小説によれば鉄道車輌の製造会社らしい)の常務から借りたというので、美代春はあとで驚くことになります。茶屋に借りをつくるのはともかく、旦那でもない客から借りるのは本意ではなかったのです。

視覚的には、前半は若尾文子が美しく粧っていく過程がポイントですが、プロットのロジックとしては、芸妓、舞妓(あの方面にはまったく不案内でこの二者の区別はつかないのだが)というのは、花代だけでは生活が成り立たず、「後援者」を必要とする、むくつけにいえば、男に買ってもらわねばやっていけない、ということが描かれています。

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もうひとつ、若尾文子演じる栄子(のちに美代栄と名乗る)が「アプレ」だということも示唆されます。アプレとは「アプレゲール」の略、辞書には「(フランスapres-guerre)戦後、特に第二次大戦後に育った、昔からの考え方や習慣にとらわれない人たちをいう。戦後派。アプレ。⇔アバンゲール」とあります。

ただし、川口松太郎の原作では「アブレ」と書かれています。昔だから、こういう訛りというのはいかにもありそうで、誤植ではないだろうと思います。昔の年寄りはデパートを「デバート」、アパートを「アバート」などといったもので、それと同じようなものでしょう。

アプレの栄子は、花街のしきたり、前近代性に対して、何度か疑問を呈し、異議を唱えます。「そしたら、お座敷でお客はんが強引に口説きはったら、基本的人権を無視したことになりまっしゃろ」などというわけです。当然、これは後半への伏線です。

車輌会社の楠田は栄子が気に入り、旦那になりたいという意思を示します。いっぽう、楠田は運輸省(のように思われる)の役人を口説き落とし、重要な案件の認可をもらおうと画策しているところで、この役人は、美代春姐さんに一目惚れします。

京の舞妓は、その時期になると、東京に行って演舞場で「東おどり」を見ないと肩身が狭いのだそうで、楠田は栄子を東京に誘い、栄子は姐ちゃんも一緒ならというので、美代春もともに東京に行きます。

これは旅費滞在費、さらに二十四時間ぶっ通しの花代まで払うので、おおいに金のかかることのようで、楠田のほうはもう栄子の旦那になったつもりでいますが、栄子のほうは、まだ楠田を旦那と定める決心がついていません。

築地の旅館で、役人は美代春の酌でくつろぎ、さておもむろに口説こうというかまえになったとき、楠田は別室で栄子を抱きすくめ、無理に一儀に及ぼうとしますが、栄子は抵抗し、楠田の唇を思い切り噛んでしまいます。

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これが案外な大怪我で、大事な客をしくじりそうになった「吉君」の女将(浪花千栄子)は、非公式の「ふれ」を出して、他の茶屋にも美代春と栄子を呼ばないように圧力をかけます。

楠田の側は、自分の欲望はさておき、大事なのはここ一番の切所に来た商売のほうで、なにがなんでも役人を口説き落とさなければならないところに追いつめられているため、楠田の部下(菅井一郎)は、吉君の女将を通して美代春に、役人と枕を交わすように圧力をかけます。

吉君の女将の怒りが解けなければ、祇園町での芸者稼業は立ちゆかず、美代春は役人と寝て、女将の勘気をときます。しかし、美代春がなにをしたかを察した栄子は、座敷に出られるといわれても喜ばず、美代春を嘘つきとなじります。

みんな嘘つきばっかや、京都の名物も、世界の名物もみんな嘘や、お金で買われるのが上手な人間が出世して、下手なのがうちみたいにボイコットをされるのやないか、もう厭や、躰を売らないと舞妓できんのやったら、うちやめる、姐ちゃんも芸者やめて、と栄子は泣いて頼みます。

美代春は、この暮らしに狎れきった躰やさかい、いまさらどうしようもないけれど、あんたの躰だけはきれいに守ってやりたいとおもっているのえ、と諭します。そして、先夜、栄子の父が来て、二進も三進もいかずに金に困っているというので、栄子に黙って工面してあげたことを告げます。

「あたしは親も兄弟もないさびしい女やけど、人間の情けだけはもっているつもりや」と美代春はいい、「人間なんていくらお金や地位があっても、ひとりきりやったら、みんな心細うてさびしいもんや」と栄子を諭します。

二人は、お互いがいることに満足を感じ、同時に、ある諦念のもとに、稼業に戻っていくところで映画は終わります。

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原作もほぼ同様のプロットで、二人が蹉跌を乗り越えて稼業に戻るところで終わっているのですが、映画とは微妙にニュアンスが異なっています。

どちらかというと、小説のほうが、栄子をわが娘にしたいと願う美代春の心が、なめらかに飲み込めるように思います。こうしているわけにはいかない、あたしは働きに出る、でも、あんたは舞妓がいやなら、やめていい、という美代春の、栄子の一本気な気性とまだ男を知らない躰を守ってあげたいという心情が、無理からぬものに思えるのです。

映画でも小説でも、冒頭で、一人前の舞妓ができあがるまでにはたいへんな投資が必要であり、昔のように借金で舞妓の躰を縛ることのできない時代なのだから、たしかな身元引受人が必要だということが描出されています。

それなのに、最後にいたって、美代春は、栄子の父に金をやって娘と縁を切らせるだけでなく、それまでの投資すらもうどうでもよいと考え、ただ栄子を自分の娘にしたい、栄子の好きなようにさせたいと願うわけですが、そこのところが、そうだなあ、とすんなり思えるのは、原作のほうなのです。

すこし戻りますが、栄子が楠田に怪我をさせ、その結果として、美代春と栄子が祇園で商売できなくなる、というのは川口松太郎版も溝口健二版も同じです。

映画では、その解決策として、楠田が賄賂攻勢をかけている役人と美代春は枕を交わすことになります。こちらのほうが、原因と結果をわかりやすくつなげてある、といえるでしょう。楠田に被害を与えたのだから、楠田の利益になることをして、謝罪するわけです。

ひるがえって、小説では、楠田の一件それ自体より、むしろ吉君の女将の怒りが問題で、女将の要求している、べつの客に美代春は躰を売ることになります。

これはどうでしょうねえ。映画は観客にわかりやすい形にしたのに対し、小説のほうは、花街の構造を示す形にしてあるというあたりでしょうか。

そして、映画では、このときの花代と、栄子の父に工面してやるものは、直接にはつなげられていないのに対し、小説では、このときの五十万がそのまま栄子の父に渡されたように描かれています。それで、美代春は名実ともに栄子の「母」になるのです。

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小説より映画のほうが、エンディングの流れがスムーズですが、感銘を受けたのは小説のほうでした。以下、小説のエンディングあたりを省略しつつ書き抜きます。

「うちかて親も姉妹もないやろ。間違いだらけな女やけど、人間の情だけは持っているつもりや。情に縋って生きて行けたら、案外気楽にいけるのやないやろか」
「………?」
「もし栄子がほんまの子になってくれたら、五十万は安いもんや」
「うん」
(略)
 宇治の佐藤に躰を売って五十万の金を造った。そして二人は親子になった。同時に、栄子の髪は『割れしのぶ』から『福わけ』に変った。処女を失った証明の髪飾りだ。
「旦那を持って女になりました」
 と、吹聴する飾り方を、怪しまない習慣の世界が、大都会の真中に存在する。哀れな貧しい親子だけが、不合理な風習に反抗して、
「美代栄の水揚げの旦那はうちや」
 と、美代春は笑っている。
「襟替えの時の旦那もお母ちゃんや」
 と、栄子は笑ってつぶやいたが、笑い切れない淋しさを、肩の上に乗せながら、悲しい稼業を続けて行った。


作家は「笑い切れない淋しさ」と云っていますが、映画を見たあとでこちらを読むと、心が明るくなるように感じました。花街のしきたりに負けた格好ですが、それでも、小説のほうが、一矢を報いた感覚があります。

それは、美代春が栄子の躰を買ったという比喩にあらわれています。二人は、祇園のしきたりを逆手にとり、自分たちのやり方を偽装して、自分たちの気持と栄子の躰を守るのです。

そして、美代春自身は、金で躰を売ったというネガティヴな行為を、生きることを肯定するためのなにものかに変換し得たことが、小説では明快に描かれています。

『雨月物語』とは異なり、『祇園囃子』の脚本は依田義賢単独です。脚本家の考えというのも計算の外におくわけにはいきませんが、『祇園囃子』の映画と小説のニュアンスの相違は、やはり川口松太郎と溝口健二の資質の違いに由来するような気がします。

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現代国民文学全集〈第15巻〉川口松太郎集 (1957年)
現代国民文学全集〈第15巻〉川口松太郎集 (1957年)
by songsf4s | 2012-05-31 23:46 | 映画
『雨月物語』と『祇園囃子』──川口松太郎による溝口健二映画の原作小説二種 中篇
 
溝口健二の『雨月物語』の記憶を反芻するとき、どの場面を思い浮かべるかというと、なによりも湖水を渡る舟のシークェンス、そして、森雅之が家に帰り、妻の名を呼びつつぐるっとまわって戻ると、ちゃんと囲炉裏に火が入って、田中絹代が夫を迎える場面です。

先年の再見では、侍女たちが廊下に灯を点して、(溝口健二がデザインを嫌ったという)朽木屋敷がほんのりと明るくなる場面と、岩風呂のショットからキャメラが移動で地面を見せ、すっと湖面を見渡す草地にたどり着き、森雅之と京マチ子が戯れている、というシーンにも感銘を受けました。

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映画と小説はまったくべつのものだな、と改めて思いました。以上の四つの場面のうち三つは、小説ではとくにポイントでもなく、強調されてもいないのです。

朽木屋敷の廊下の場面は小説にはありませんし、湖水を見晴るかす草地の戯れもありません。当然でしょう。どちらもきわめて視覚的で、映画ならではの場面です。

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危険な陸路を避けて、舟で湖水を渡る場面も、その途中、海賊に襲われた犠牲者に出会って、船幽霊と勘違いする場面も原作にあります。しかし、これまた当然ながら、映画だけに可能な幽玄の美の表出であって、文字であのようなものを表現するのはきわめて困難です。

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故郷に帰りついた森雅之が、土間を通って家をぐるっと回って田中絹代を見つけるところも、小説にはありません。あれは宮川一夫がいうように、映画だからこその場面でした。

小説ではどうなっているか? 戦いの決着がつき、秀吉の軍勢が引き上げてしずかになった故郷に源十郎がたどりつく描写から入って──

 (略)丁度、日の暮れ合いで灰色の炊煙がうっすりとたゆたい、戦火を免れ得た幸福が四辺〔あたり〕を包んでいる。胸を躍らせて戸を引きあけると、ほの暗い土間の片隅に、宮木が釜を燃やしていた。
「無事だったか」
 土間へ駆け込みざまにいった。いいながら躰を抱いて炉端へ上った。宮木の面に血の気がなく、少しやつれて青く見える。


このとき、息子は眠っているのですが、源十郎もやがて旅の疲れで寝入ってしまいます。目が覚めると、息子が泣いていて、お母ちゃんはどうした、ときくと、死んじゃったと答えます。

視覚的な側面はさておき、話の持って行き方についても、小説はストレートすぎると感じます。映画では、翌朝、庄屋がやってきて、源十郎に、おまえの子どもをあずかっていたが、昨夜いなくなってしまい、驚いて探していた、ここにいたのか、と安堵し、そのときに源十郎に宮木の死を告げます。このほうが印象的な話の運びです。

このような、ワン・クッション入れる処理というのは考え出すのに時間がかかるものなので、雑誌掲載の締め切りに追われているときは、ストレートな持って行き方に流れやすいのだろうと想像します。依田義賢と川口松太郎による脚本は、原作の瑕を修正したものになっています。

映画は、源十郎、藤兵衛、お浜、そして宮木の亡霊が、焼き物に汗を流すところで終わっています。しかし、原作ではそのさらに先、後日談が語られています。

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源十郎は、若狭が褒めちぎったように、ほんとうに才能のある陶工だったようで、その道で名を成します。

(略)が、二人とも、もう二度目の妻は求めなかった。宮木を埋めた石の下の土を掘って素地を作り、薬をかけて窯で焼いた。鰥男がせっせと働き、美しい信楽焼を、無数に作って諸国にさばいた。宮木の性格に似てつつましやかな壺もあれば、阿浜に似て強く気丈な大皿も出来た。青薬を華やかに散りばめた平鉢が焼けると、市へは出さずに愛蔵し『若狭』という銘をうってその発色を楽しんだ。

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そして、源十郎は、後水尾天皇の即位にあたって、調度の一部を焼くことになります。これを届けに京に上る途次、大溝で泊まった源十郎は、平鉢『若狭』をもって、朽木屋敷の跡におもむきます。

三十年前をしのぶよすがは見あたらず、わずかに残っていた鞍馬石(「京都市鞍馬山に産する閃緑岩の石材名。通常鉄さび色をした自然石のまま庭石に用いられる」と辞書にある)の上に、『若狭』をおき、なみなみと酒をそそぎます。

「三十年の歳月が過ぎて私も老いた。どれほど老いても去らないのはおまえと過した十日の暮らしだ。みじめな私の生涯に一点の灯を点じた美しい花だ」

と若狭の霊に語りかけ、細く閉じていた目を開けると、平鉢にそそいだ酒はなくなっていて、源十郎は、飲みほしてくれたか、と喜びます。

これは、溝口健二版『雨月物語』とは正反対の結末といえるでしょう。映画のほうは、源十郎は宮木の墓を守って後半生を生きることになる、と印象づけて終わっています。源十郎にとってどちらの女性が重要だったか、という決定的なポイントで、小説と映画はまったく異なっているのです。

『雨月物語』をふくむ「和風ハロウィーン怪談特集」というシリーズを書いていて、『牡丹灯籠』と『雨月物語』は対照的だと感じました。どちらも、女としての歓びを知らぬままに死んだ若い娘の亡霊が、これは、と見込んだ男に取り憑く話ですが、片や『雨月物語』では、男は亡霊に取り殺される前に逃れ、片や『牡丹灯籠』では、使用人の裏切りのために、男は亡霊に取り殺されます。

しかし、その記事にも書きましたが、三遊亭圓朝の原作とは異なり、山本薩夫の映画『牡丹灯籠』では、萩原新三郎は、穏やかな、幸せそうな顔で死んでいるのです。

映画版『雨月物語』では、亡霊の若狭は疎まれ、源十郎は妻の宮木(こちらも亡霊になっているのだが)のもとに帰って幸せに暮らしたような印象を与えるエンディングになっています。

しかし小説版『雨月物語』のエンディングは、山本薩夫版『牡丹灯籠』(脚本は『雨月物語』と同じ依田義賢)のほうに近いニュアンスです。亡霊に取り憑かれることを、かならずしも否定的にはとらえていないのです。

同じシリーズの「小林正樹監督『怪談』より「耳無し芳一の話」その2」という記事で、亡霊に取り憑かれた経験というのは、一種の「愛の記憶」なのだということを、稲垣足穂の『懐かしの七月――別名「世は山本五郎左衛門と名乗る」』や『耳無し抱一の話』や山本薩夫版『牡丹灯籠』を例にして書きましたが、川口松太郎の『雨月物語』もまた、亡霊を肯定的にとらえるエンディングになっていたのです。

『人情馬鹿物語』なんていう小説を書いたせいで、「人情作家」などといわれるようになったため、川口松太郎は「人情」ということについて、何度か書いています。『雨月物語』は、川口松太郎という作家の深いところから出てきたものではなく、職業作家の「業務」として書かれたものでしょうが、最後に、「人の情け」を語る作家らしく、源十郎の若狭への慕情を噴出させたな、と感じます。そして、川口松太郎版『雨月物語』の最大の美点は、このエンディングにあります。

では、溝口健二はなぜこの結末をとらず、宮木のあたたかい愛情を強く印象づけるエンディングにしたのでしょうか。

作品の解釈に作者の私生活を持ち込むのは邪道ではありますが、わたしに思いつくのは、溝口健二の夫人が精神疾患で長い病院生活を送っていたことぐらいです。いや、げすの勘ぐりを許していただくなら、宮木を演じた田中絹代への愛、ということも関係があったのかもしれません。

どこの家庭とも同じように、いや、それ以上かもしれませんが、川口松太郎の家庭にもさまざまな波乱があったようですが、彼には愛妻があり、四人の子女に恵まれました。それに対して溝口健二は、波乱を起こす家族すらない生活でした(戦前、妻ではない同居女性に刺されるなんていうことはあったが!)。

いや、つまらない解釈で恐縮です。わたしに思いつくのは、二人の家庭生活の落差ぐらいしかなかっただけです。ものを作る人間としての、二人の資質の違いというのを見なければいけないのに!

タイトルにあげているにもかかわらず、いっかな『祇園囃子』にたどり着けませんが、次回はまちがいなく!


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現代国民文学全集〈第15巻〉川口松太郎集 (1957年)
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by songsf4s | 2012-05-25 23:46 | 映画
『雨月物語』と『祇園囃子』──川口松太郎による溝口健二映画の原作小説二種 前篇
 
以前にも書いたかもしれませんが、溝口健二と川口松太郎はともに浅草の生まれで小学校が一緒、戦後、永田雅一が大映の社長に就任したときに、二人は永田に呼ばれ、わたしを助けてくれと頼まれたのだと、川口松太郎は書いています。

川口松太郎は以後、大映の撮影所長や企画担当専務をつとめながら、作家活動をつづけます。大映勤務のかたわらに書いた『新吾十番勝負』は、大川橋蔵主演で映画化され、ヒット・シリーズとなりました。わたしがしじゅう大映と東映を見ていた時代のものなので、そのうち数本を公開時に見た記憶があります。はじめから、映画化を念頭に書かれたものなのでしょう。

先年、蔵書を売り払ったとき、まだこれからも読み返すからと残した作家が十数人いますが、そのなかに川口松太郎もあり、もっているものはすべて残しました。そのときに、古書店の人と話したのですが、いまどき、川口松太郎の本は売れないそうで、やはりな、でした。そうなると、売ってもゼロ円付近、そのくせ、あとで買い直そうと思ってもむずかしいので、売らずに残すことにしました。

案の定、引越からさして時間もたたないのに、もっていた数冊をすべて読みましたが、そのなかに角川書店の「現代国民文学全集」という叢書の『川口松太郎集』という巻がありました。

これは三段組で読みにくいので、未読のまま何十年ももっていたものです。近所の古書店で買ったもので、見返しに「50」と鉛筆で値段が書いてあります。文学全集のたぐいは、ほとんど「つぶし」(廃棄処分)にされるので、生き残ったものもこの程度の値段でした。まあ、「立て場」(古紙の取引場)で仕入れるため、安いので有名な本屋で買ったのですが。

あまり本を処分しすぎて、読むものがなくなってしまったため、結局、この三段組も読んでみました。いままでほうってあったので気づきませんでしたが、以前、映画を見ていて、ああ、そうだったのか、機会があったら読んでみようと思った、溝口健二の『雨月物語』と『祗園囃子』の原作が、両方ともこの巻には収録されていたのです。

ということで川口松太郎の原作と溝口健二の映画化を比較してみました。溝口健二の『雨月物語』については、当家では過去に記事として取り上げています。

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溝口健二の『雨月物語』は、上田秋成の『雨月物語』中、「蛇性の婬」と「浅茅が宿」の二篇にもとづいていますが、直接の「原作」は、これを換骨奪胎した川口松太郎の小説『雨月物語』である、ということは、前掲の記事に記しました。

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今回、川口版を読んで、やはり、秋成版は映画とは遠い関係であることを確認しました。いや、こうなると、上田秋成版オリジナル『雨月物語』も再読しなければいけないと思ったのですが。

しかし、むろん、小説と映画は、表現形式も異なれば、受容者に受け取ってもらおうと目指すものも異なっています。原作とその映画化なのだから、当然、似たようなプロットではあるのですが、それぞれの目指すところにしたがって、異同があるのが当然です。

以前の記事で、溝口版『雨月物語』の背景となっている戦は、織田勢と浅井方の戦いなのか、その後の羽柴秀吉対柴田勝家の戦いなのか、映画でははっきりしないと書きました。川口松太郎の原作には、小説だからふつうはそうなりますが、明快に書いてありました。

ここで描かれているのは、後者の秀吉対勝家の戦いで、藤兵衛(小沢栄太郎)がにわか武者になって駈けまわるのは、有名な賤ヶ岳の決戦なのだそうです。

映画を思い浮かべつつ原作を読んでいくと、映画化に必要な省略や追加、そしてささやかな変更ばかりで、途中までは、おおむね忠実に原作をなぞったのだな、と思いました。

川口松太郎の小説のほうは、淡々と源十郎(映画では森雅之)と宮木(田中絹代)、藤兵衛(小沢栄太郎)とお浜(水戸光子)の運命の転変を描いているのに対し、溝口健二の『雨月物語』は、彼のいう「絵巻物」、撮影監督の宮川一夫のいう「墨絵」として、奥の深い視覚的な美を生み出している、という重心の置き方の違いを感じるだけでした。

いや、川口松太郎の原作とは大きく異なり、溝口のものは、名作、秀作といわれるだけの風格のあるものになっており、その貢献の一半は宮川一夫のキャメラにあるでしょう。川口松太郎にはいい作品がたくさんありますが、『雨月物語』にかぎれば、水準作といったあたりで、代表作として指を折るわけにはいかない出来です。

以下は、未見、未読の方はお読みにならないほうがいいでしょう。

はじめて、ここは映画とは大きく異なる、と思ったのは、侍になった藤兵衛(小沢栄太郎)が、妓楼にあがって、遊女に身を落とした妻のお浜(水戸光子)に再会する場面です。

妓楼の外に出て、妻が夫をなじるのは原作、映画、ともに同じなのです。しかし、映画では、二人で故郷に帰る決心をするのに対し、原作では、お浜は「海津大崎の絶壁から身をおどらせて湖水に投じて」しまいます。

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ふうむ。なにゆえの変更でしょうかねえ。原作が、お浜を死なせてしまったのは、よくわかります。宮木、若狭(京マチ子)、そしてお浜という、女登場人物は、三人とも、戦争の犠牲になって死ぬ、としたかったのでしょう。とりわけ宮木とお浜は、ともに夫の野心と欲望の踏み台にされて死んでいくことになります。川口松太郎はそのことを書きたかったのでしょう。

では、溝口健二版では、なぜお浜を死なせなかったのか、それどころか、エンディングで、甲斐甲斐しく夫と兄を助けて幸せに生きるお浜の姿を描いたのか?

ひとつ考えられるのは、クライマクスのあとのシークェンスが、森雅之と小沢栄太郎の兄弟と男の子の三人だけというのは、あまりにもわびしくて、悲劇的な色合いが強くなってしまうことを懸念したのではないか、ということです。

川口松太郎版のエンディングは、悲劇的にならないように書かれていますが、その終わり方は映画版では採用されていないので、やわらかい終わり方をさせるために、妻たちのいっぽうを生き延びさせたのだろうと感じます。

では、川口松太郎版の結末はどうなっているか、その点も省略するつもりはないのですが、本日は時間切れ、次回、『祗園囃子』とともにそのあたりを見るつもりです。


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現代国民文学全集〈第15巻〉川口松太郎集 (1957年)
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by songsf4s | 2012-05-24 23:59 | 映画
ドゥームズデイ・ディザースター補足 半村良『収穫』

米調査「新聞、テレビは10年後に消える」

なんて記事がありました。消える、というところまではいかないでしょうが、一部の人だけが好む、取るに足らないマイナーなメディアになっているでしょう。テレビは早くなくなるべきですが、本が形を変えて生き延びるように、テレビもなにか生き残りの道を見つけるでしょう。テレビはまったく見ませんが、本は依然として毎日読んでいます。いまのところ、電子メディアに替えたいとは思いません。それしか方法がなくなればあきらめますが。

◆ 一斉職場放棄 ◆◆
『妖星ゴラス』を皮切りに、ドゥームズデイ・ディザースターを扱った映画や小説のことを書いているときに、あれもそうだったな、と思いだしながら、現物が見つからなくて取り上げなかった小説があります。半村良の処女作『収穫』です。

f0147840_23514694.jpg半村良の『収穫』もまた、小松左京の『こちらニッポン』や広瀬正の『ツィス』と同じように、人死にはほとんどありません。自然の大災害は起きないので、ディザースターとは呼びにくいのですが、『こちらニッポン』や『ツィス』と同じような味があります。

語り手は日比谷の映画館に勤める映写技師です。世界情勢は緊迫し、この半日、海外から羽田に到着した便はなく、日本を発った便はみな消息を絶ってしまったと、新聞に書かれているのを語り手は読みます。語り手がまだ二十代でひとり暮らし、テレビをもっていないことが暗示されていることにご注意。1963年ならそれも不思議ではなかったのです。

電波も共産圏からはまったく届かず、ついにフランスからの電波も途絶えたと新聞には報じられています。そこまで読んで顔を上げると、二人の映写助手が仕事の手を休め、ボンヤリしていたので、語り手はどやしつけます。しかし、助手は穏やかな笑顔で「やっと来ましたね」といいます。

語り手は館内の容子が奇妙なのに気づきます。いつもならドッと笑いが起こるところなのに、なにも反応がないのです。ロビーに行くと、売店や案内係の女性従業員も、映写助手と同じように、ポカンと遠くを見る目をしています。

ロビーのテレビのスウィッチを入れると、ブーム・マイクが垂れ下がって、そのまえでコーラス・グループがぼんやり突っ立っているのが映し出され、語り手は戦慄します。

案内係に声をかけると「早く行きましょう」といわれ、助手にも「主任は行かないんですか」ときかれてしまいます。どこへ行くというのだときくと、「だって、聞こえているでしょう……。あそこへ行くんです」といいます。

◆ 1962年のジョン・ウェイン西部劇 ◆◆
ちょっと脇道に入りますが、この映画館でいま上映しているのはジョン・ウェイン主演の西部劇だそうです。『収穫』が書かれたのはおそらく1962年、この年に製作されたジョン・ウェインの西部劇はジョン・フォードの『リバティ・バランスを射った男』とオムニバス映画『西部開拓史』の二本です。作者はどの作品とは書いていないので、好みで『リバティ・バランスを射った男』と仮定しておきます。

さらに脇道。ハル・デイヴィッドとバート・バカラックが書き、ジーン・ピトニーが歌ったThe Man Who Shot Liberty Valanceという曲がヒットしています。しかし、これは映画には出てきません。映画のために書かれ、録音されたものなのですが、パラマウントと楽曲出版社とのあいだでなにかトラブルがあったとかで、映画には使われませんでした。



べつに悪い曲ではないものの、とくによくもなく、ジョン・フォードのタッチとは水と油です。映画主題歌というのは、映画にピッタリくっつくのではなく、ちょっと距離をとった、汎用性、独立性のあるもののほうが好ましいと思います。映画のタイトルを連呼するような曲は問題外です。

◆ 銀座を行くレミングの群 ◆◆
『収穫』に戻ります。まだジョン・ウェインの映画の途中だというのに、観客が帰りはじめたのを見て、語り手は驚き、外に出てみます。日比谷の映画街はひと気がなくなったものの、晴海通り(いや、たぶん、この時代にはそうは呼んでいなかった。半村良は「電車通りに出てみると」というように、固有名詞は使っていない)は雑踏していて安心します。

f0147840_23533789.jpgしかし、よく見ると、すべての人が同じ方向、尾張町の交叉点に向かって歩いているのに気づき、また不安になります。車や都電(まだあった。オリンピック前の東京を描いた小説なのだ。それだけでうれしくなる)はまったく通らず、ただ人びとが歩く音だけがしています。

ここで広瀬正の『マイナス・ゼロ』に出てきた、戦前の銀座の描写を思いだします。主人公の時間旅行者は、車が少なくて静かだろうと思っていたのですが、あにはからんや、たいていの人が下駄を履いているので、足音がものすごくうるさいと感じるのです。

閑話休題。「電車通り」を尾張町方向に向かって歩く人びとは、まったくの無表情か、なにかすごく楽しいことでもしているような笑みを浮かべています。語り手は群衆の行方を見とどけようとします。人の群は尾張町交叉点を通過し、三原橋(このとき、下はまだ運河か?)をすぎて、まるでレミングの大群のように海のほうに向かっています。

語り手は晴海の自分のアパートにもどります。東京湾には口を開けた巨大な半球が浮かんでいて、人びとはそこにつぎつぎと飲み込まれていました。そして、その球が光り輝き、見えなくなると、つぎの球があらわれて、また人間を飲み込みはじめました。

通りにはまだ人がいますが、建物はどこも無人になってしまい、銀座に戻った語り手はデパートで高級品を漁り、空腹になったのでホテルに行きます。日比谷のホテルというと、あの時代なら日活ホテルと考えて大丈夫でしょう。

翌日、語り手は車で東京中を走りまわりますが、見かけるのは犬と猫ばかり、人間はまったくいません。桜田門で銃を手に入れ、主人公はパトカーを拝借し、サイレンを鳴らしながら走りまわります。ようやく、ひとりだけ人間を見つけますが、どうやら手術中に「事件」が起きたらしく、腹のあたりは血まみれで、語り手が駆け寄ったときには息絶えていました。

主人公は勤め先の発電機を利用してホテルに電気を送り込み、一人きりの生活をはじめます。ホテルには無線機を備え付け、東京のあちこちに、自分の居所を赤ペンキで書いて、この種の物語の登場人物がみなそうするように、生存者と接触することを生きる目標にします。

◆ 普通の人々の異常な経験 ◆◆
キリがないので、このへんでプロットを追うのは終わりにします。後半は他の生存者とのコンタクトと原因の究明なので、書かないほうがいいでしょう。

ディザースターと呼ぶのはためらいを感じますが、『収穫』もまた、『こちらニッポン』や『ツィス』と同類の「無人都市物語」であることはまちがいありません。そして、この三者のなかでは、『収穫』が最初に発表されています。

『収穫』は「SFマガジン」のコンテスト応募作で、受賞作なし、小松左京の「お茶漬けの味」(小津の映画を意識していたと思うのだが)とともに佳作入選だったと記憶しています。しかし、福島正実がなにを望んでいたかは措くとして、『収穫』は受賞に値します。

「処女作にすべてがある」かどうかは微妙なところですが、語り手が自分の平凡さを強調するところは、のちの半村良の諸作に通じます(たとえば『闇の中の黄金』)。『収穫』は、平凡であることが特殊だという物語(わかるように書くと具合が悪いのであいまいにした)で、いかにも半村良らしい設定です。

半村良のどの長編だったか(『聖母伝説』?)、主人公が百枚の中編小説を一気に書き上げ、翌朝、コンテストの締切ギリギリに郵送する描写があります。これを読むと、『収穫』は平凡な(と自分では信じている)人間の生への祈りだったことが実感されます。あまりいい心理状態で書かれたものではなく、作者はそれまでの生活を捨てようとし、その区切りとして、スプリングボードとして、ふつうの心理状態ならできないことをやってみるのです。

そのころ、川口松太郎の『人情馬鹿物語』を読んで、主人公が歌舞伎座だか松竹だかが募集した芝居台本のコンテストに応募する場面が出てくるのを知りました。半村良の直木賞受賞作『新宿馬鹿物語』(訂正。対象となったのはこの連作のうち「雨やどり」)は、川口松太郎の『人情馬鹿物語』へのオマージュとして書かれたものです。なるほど、あれがこうしてああなったか、と納得しました。川口松太郎の応募作も、やはり祈り、明日への願い、人生の区切りとして書かれたのです。

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福島編集長は、半村良の「生活」小説が気に入らなかったかもしれませんが、この作家の小説に飽きが来ないのは、ふつうの小説のように書かれているおかげです。年を経るとともに、川口松太郎の影響の色濃いことがしだいに痛感されてきました。


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by songsf4s | 2010-11-01 22:31 | 書物