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夏の日々はカラフルな凧とともに飛び去り フランク・シナトラのSummer Wind
タイトル
Summer Wind
アーティスト
Frank Sinatra
ライター
Johnny Mercer, Heinz Meier, Hans Bradtke
収録アルバム
Strangers in the Night
リリース年
1966年
他のヴァージョン
Wayne Newton, duet version with Julio Iglesias by the same artist
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今日は各地で暑さがぶり返したようですが、当地もおそるべき猛暑で、敬老の日の行事で倒れる人でも出るのじゃないかと思ったほどです。

もういくらなんでもタイトルに「夏」とついた歌を取り上げるのは苦しいか、なんて思いかけていたのですが、どうしてどうして、今年の夏はそんな甘いものではないようです。

予定していた夏の終わりの歌は残り2曲、今日はその片方、Summer Windを軽くいってみます。オリジナル記事は、以下の三本です。

Summer Wind その1:Frank Sinatra
Summer Wind その2:Frank Sinatra
Sommervind:Grethe Ingmann

最後のグレタ・イングマンのSommervindは、シナトラのSummer Windの原曲で、デンマーク語で歌われています。オリジナル記事をご覧になればわかりますが、Apacheをヒットさせたヨルゲン・イングマン(そのため、オリジナルのシャドウズ盤はアメリカではヒットせず、それが祟ったか、シャドウズがアメリカでブレイクすることはついになかった)の当時の夫人で、どうみてもローカル版レス・ポール&メアリー・フォードです。

オリジナル記事にも書いたとおり、フランク・シナトラのSummer WindはアルバムStrangers in the Nightに収録されていますが、ハル・ブレインをはじめとする若手のエースたちのプレイではないと考えられます。

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ネルソン・リドルのアレンジによるアルバムの進行中に、Strangers in the Nightが大ヒットしたために、シングルがアルバムを乗っ取る形でアマルガムをつくったために、メンバーが異なるのです。Summer Windはネルソン・リドルのアレンジなので、プレイヤーもリドル・セッション常連の古手レギュラーたちと推定されます。

サンプル Frank Sinatra "Summer Wind"

サンプルのアクセス数から見て、当家のお客さんにはシナトラ・ファンはあまりいらっしゃらないようですが、シナトラが好きだろうと嫌いだろうと、ハリウッドのサウンドのすごさは上ものには左右されないので、いつも満足させてくれます。

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いや、シナトラの完璧主義のおかげで、プレイヤーは最初のテイクをノーミスでキメなければいけないし(フランク・シナトラのレコーディングでは、通常、テイク1のみで、テイク2はないものと思わなければいけない)、場所はユナイティッド・ウェスタン、エンジニアはビル・パトナムか、またはリー・ハーシュバーグやエディー・ブラケットなどのパトナム門下生たちなので、つねにハイ・レベルの音です。Summer Windで卓に坐ったのはリー・ハーシュバーグだとされています。

◆ ウェイン・ニュートンのカヴァー ◆◆
グレタ・イングマンのオリジナル盤は、いちおう聴くことは聴きましたが、とくに面白い出来ではないので、サンプルは略します(例によって、HDDから削除してしまった!)。いちおう、YouTubeにクリップがありますが、スピーカーを傷めそうなイヤなノイズがするので、貼りつけませんでした。それでも聴いてみたいという方は、YouTubeで検索なさってみてください。

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ほかに、ウェイン・ニュートンのヴァージョンがあります。これまたハリウッド録音と思われるので、サンプルにしました。

サンプル Wayne Newton "Summer Wind"

クリス・モンテイズと同系統の、薄くて軽い邪魔にならない声で、暑いときには悪くないと思います。ウェイン・ニュートンは「ラス・ヴェガスの帝王」なのだそうですが(まあ、シナトラもディノもいないから、繰り上げということ)、こういう声の人が年をとると、どういうことになるのかと思います。あまり聴いてみたい気はしないのですが……。

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Summer Windにもシナトラにもまったく関係ないのですが、今日は記事が短いので、最近見て、思わず頬がゆるんだ写真を拝借して貼りつけます。

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女性は河内桃子、したがってオリジナル・ゴジラの撮影におけるスナップということになる。


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これも同じく一作目のスナップ。左端の巫女姿は河内桃子、その右の神主姿は平田昭彦。



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フランク・シナトラ
Strangers in the Night (Dlx)
Strangers in the Night (Dlx)



ウェイン・ニュートン
Danke Scheon/Red Roses For A Blue Lady
Danke Scheon/Red Roses For A Blue Lady
by songsf4s | 2010-09-12 23:55 | 夏の歌
Tattler by Ry Cooder
タイトル
Tattler
アーティスト
Ry Cooder
ライター
Ry Cooder, Russ Titelman, Washington Phillips
収録アルバム
Paradise and Lunch
リリース年
1974年
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タイトルにfoolだのsillyだのと入っている曲だけでも、すでに無量大数のトラックがあるので、わざわざ歌詞のなかに出てくるだけのものを選ぶこともないのですが、この特集のそもそもの動機は、季節プロパーにこだわっていては永久に持ち出せないアーティストへと、当ブログのフォーカスをシフトすることでした。

ライ・クーダーには、たとえば、Fool for CigaretteやMarried Man's a Foolのように、タイトルにfoolが織り込まれ、歌詞もなかなか面白い曲があります。しかし、ライのアルバムの「アメリカ音楽史研究フィールドノート」みたいな側面には、わたしはあまり関心がありません。

そういう立場からいうと、ライの馬鹿トラックのなかでは、Tattlerがもっともよくできていると感じます。

◆ 木の上に追いつめられる男 ◆◆
天は二物を与えず、サウンドがいいと、歌詞はえてして退屈なのですが、さてこの曲はどうなりますやら。ファースト・ヴァース。

Whenever you find a man
That loves every woman he sees
There's always some kind of woman
That's a-puttin' him up a tree
Now that kind of man
He ain't got as much sense as a mule
You know, everyone don't love you
They're just a-playin' you for a fool

「どんな女にでも惚れてしまう男のそばには、かならず男を尻に敷く女というのがいるものだ、そういう男っていうのは、ラバほどの知恵ももっていないものだ、だれだって、そういう奴のことが好きなわけじゃなくて、ただからかって遊んでいるだけなのさ」

ふと思いついた落語ヴァージョン。

「えー、あいだにはさまって、毎度馬鹿馬鹿しいお話でご機嫌をおうかがいいたします。その、なんでございますなあ、世の中には、どんなご婦人を見ても、つい、ふらふらとあとについていってしまう殿方というのがございますな。またよくしたもので、そういう殿方には、男なんぞは人くさいとすら思っていないご婦人というのがついているものです。そういってはなんですが、まあ、そういう殿方というのは、ラバほどにも、ものごとをわきまえていらっしゃらない。ご婦人方のほうでも、べつにその御仁に惚れるというわけではなく、ただもてあそんでいるだけなのございます」

というようにしたほうが、話がわかりやすいし、この歌詞のムードをストレートに伝えているような感じがしたのですが、さていかに。

put one up a treeは成句で、「追いつめる」の意だそうです。猫のケンカを観察していて気づいたのですが、不意を襲われて立ち向かう体勢ができないと、高いところ、たいていは樹上に逃げる習性が猫にはあるようです。めずらしいメス同士のケンカでも、縄張りへの侵入者は死にものぐるいで梅の木に駈けのぼりました。しかし人間は、クマにでも出くわさないかぎり、木の上に逃げたりはしませんねえ。put one up a treeというのは、狩猟民族的発想の成句のような気がします。

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Ry Cooder "Get Rhythm." 10" 45 r.p.m. EP, WEA, 1988. W8107TE. ライ・クーダーのGet Rhythmの4曲入りシングル。10インチという昔のミニアルバムのサイズなのに、45回転という変わり種。中身はLPのものと同じで、ロング・ヴァージョンだったりするわけではない。

◆ 男たる者…… ◆◆
以下はコーラス。

Mmmm, oh, no,
It's not hard for you to understand
True love can be such a sweet harmony
If you do the best that you can

「だれにだって簡単にわかるだろうけれど、真の愛とは素晴らしいハーモニーになるものだ、できるだけのことをしさえすれば」

ヴァースとコーラスがきちんとつながっていなくて、意味不明です。これでは落語ヴァージョンも出ません!

セカンド・ヴァース。

If you marry the wrong kind of woman
And you get where you can't agree
Well, you just as well could get your hat
And let that woman be
But a man oughta make a good husband
And quit tryin' to lead a fast life
Goin' about dressin' up other women
Won't put clothes on his own wife

「まちがった女と結婚してしまい、どうにも折り合いがつかなくなったら、帽子をかぶって出ていったほうがマシかもしれない、しかし、男というものはよき夫でなければならず、自堕落な暮らしはやめなければならない、よその女を着飾らせて連れ歩くのでは、自分の女房に服を着せることにはならない」

to put clothes on oneで成句かと思ったのですが、辞書にもクモの巣にもそれらしいものは見あたりませんでした。よって、字句通りに、よその女に入れをあげていては、女房に満足に服を着せることもできない、といったあたりの意味と解しておきます。

fastというのは面白い形容詞ですが、すでにEarly Morning Rainでふれているので略します。

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Ry Cooder "Slide on Dropdown D," bootleg live CD. このブート・ライヴにも、74年録音のTattlerが収録されている。

◆ 所詮、この世は男と女 ◆◆
コーラスと間奏をはさんで最後のヴァースへ。

Well, there's lots of good women
Who wants to marry and they want to live well at home
But they're afraid they'll might get hold of a rowdy man
Who can't let other women alone
And there's lots of good men wants to marry
And they wants to live well at home
But every time they turn their back
There's another man there askin'
"Darlin, is he gone?"

「世の中には、結婚して家庭に入り、いい暮らしがしたいと思っているけれど、よその女にちょっかいを出さずにはいられない乱暴者をつかんでしまうのではないか、と心配している淑女たちがたくさんいる、片や、結婚していい家庭を築きたいと思っている紳士たちもたくさんいる、でも、彼らが背を向けるたびに、『ダーリン、旦那は出かけたかい?』という男がいるものなのだ」

なんだか落語は落語でも、ちょっと「バレ」がはいって、「札入れ」や「風呂敷」(江戸下町言葉を使う落語国では「ふるしき」と発音する)といった、古今亭志ん生が得意としたものに近くなってしまい、おやおや、です。フランス艶笑コント風。ご同輩、どうも男と女というのはもめごとが絶えませんな、というボヤキの歌なのでしょう。

ライ・クーダーはめったに曲を書かず、ほとんどがカヴァーですが、その楽曲選択には顕著な傾向があります。Mexican Divorce, Married Man's a Fool, He'll Have to Go、Big Bad Bill Is Sweet William Nowといった、男女間のありように関する、苦笑まじりの大人の皮肉なコメント、といった歌詞の曲です。Tattlerの三人の作者のうち、だれが作詞にかかわったのかはわかりませんが、いずれにせよ、ライ好みの歌詞になっていると思います。

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ライのギターは、ストラトキャスターにテスコのピックアップを取り付けたものだというが、たしかに、この写真を見ても、ピックアップはフェンダーのものには見えないし、そもそも位置がおかしい。

◆ クレジット ◆◆
このアルバムにはトラック単位のクレジットはなく、アルバム全体のものとして、以下のメンバーの名前が書かれています。

Milt Holland: Drums, Percussion
Jim Keltner: Drums
Russ Titelman, Chris Etheridge: Electric Bass
Ronnie Barron: Piano, Organ
Red Callender, John Duke: Bass
Plas Johnson: Alto Sax
Earl Hines: Piano on "Ditty Wah Ditty"
Voices: Bobby King, Gene Mumford, Bill Johnson, George McCurn, Walter Cook, Richard Jones, Russ Titelman, Karl Russell
String Arrangements: Nick DeCaro
Horn Arrangement: George Bohanon
Cornet: Oscar Brashear

f0147840_23333790.jpgTattlerには管は入っていないので、リズム・セクションとストリング・アレンジのニック・デカロだけが関係あります。ベースはフェンダーしか聞こえないようなので、レッド・カレンダーやジョン・デュークも無関係で、ラス・タイトルマンかクリス・エスリッジなのでしょう。作者のひとりであるタイトルマンのほうの可能性が高いかもしれませんが、音からはなんともいえません(エスリッジのプレイは死ぬほど聴いたはずなのに!)。

ミルト・ホランドもドラムとなっていますが、ライのアルバムでは、ふつうはティンバレスをプレイし、トラップ・ドラムにはジム・ケルトナーが坐ります。このコンビは史上最強のドラム・デュオかもしれません。ただし、Tattlerではティンバレスの音は聞こえません。

ライ・クーダーのアルバムでなにがいいといって、いつもドラムがジム・ケルトナーで、パーカッションにはたいていミルト・ホランドがいて、エンジニアはリー・ハーシュバーグだということです。とくに、このアルバムはまだアナログ録音のときにつくられているので、その点でも文句ありません。いくら天下のリー・ハーシュバーグでも、ディジタル・レコーディング・システムの音の痩せはいかんともしがたいのです。

◆ トラップの向こうのスウィッチ・ヒッター ◆◆
なかなか楽しい歌詞のMarried Man's a Foolをさしおいて、Tattlerを選んだ理由の90パーセントは、ジム・ケルトナーのプレイです。

いつもゴチャゴチャと弁じ立てているアール・パーマー、ハル・ブレインの二人から、ジム・ゴードン、ジム・ケルトナーとつづくハリウッド黄金時代のエースたちというのが、わたしがもっとも好むドラマーの系譜です。

f0147840_2337533.jpgこのうち、じっさいに見たのはケルトナーだけです。実物を見たドラマーでは、ホリーズのボビー・エリオット、プロコール・ハルムのB・J・ウィルソンに感銘を受けましたが、87年だったか、新宿厚生年金でのケルトナーは、その上をいく圧倒的なすごさでした。盤を聴いていても、あのころのケルトナーのプレイには、すごい、すごいと呆れていましたが、実物の動きを見て、うっそー、そんな風に叩いていたのー、とひっくり返りそうになりました。

なによりも驚いたのは、客席から見ていてもはっきりわかる、左右の手の使い方です。ふつう、右手でハイハットないしライド・シンバルを八分、四分、三連などで刻みながら、左手はスネアでバックビートを叩きます。もちろんケルトナーも、そういうプレイをするのですが、ときおり、左右の手を入れ替え、左手でハイハットの八分を刻みながら、右手でバックビートを叩くのです。これには面喰らいました。そこらの料理人をつかまえて、いつもいつも右手でばかりやっていては飽きるだろう、たまには左手で大根を千六本にしてみちゃあどうかね、なんていってごらんなさい。張り倒されますぜ。

ドラマーというのは、生まれてはじめてトラップの向こう側に坐ったときから、右手のスティックはハイハットに、左手のスティックはスネアに、とかまえるものです。それを何年もやっていれば、習い性となり、やがては本能のようなものになります。ところが、ジム・ケルトナーは、なにが本能だ、左右の交換なんか、いつでもできると主張しているのです。

ドラマーは、四肢のそれぞれを完全に別個に、と同時に、相互に協調させてコントロールできなくてはいけない、とハル・ブレインがいっています。ご説ごもっとも。ハル・ブレイン理論をロボットのように完璧に体現したのが、その弟子筋にあたるジム・ケルトナーでしょう。なにしろ、ふつうの人間の感覚に反する手足の動きをさせることにかけては天下一品のドラマーで、ライのアルバムでは、しばしばありえないパターンを使っています。

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右手がシンバル、左手がスネアというのも強固な固定観念なのですが、キックは1&3、スネアは2&4というのもまた、抜きがたいドラマーの本能です。しかし、ケルトナーは、これをひっくり返すことも、いともたやすくやります。キックで2&4、スネアは自由に装飾なんてことをやるのです。ことのついでに、キックで16分の「フィルイン」までやってみせるのだから、こっちをからかっているとしか思えません。

もうひとつ、じっさいに見て感心したのは、フィルインの際にもまったく無駄な動きがなく、上体がぶれないことです。ピッチングと同じ原理で、これが彼の正確無比のスティック・コントロールを生んでいるのでしょう。ケルトナーほどどっしりとかまえてプレイするドラマーというのを、わたしはほかに知りません。

◆ Tattlerでのプレイ ◆◆
ライ・クーダーのアルバムを順に聴いていくと、70年代を通じて、ジム・ケルトナーがどのようにスタイルを発展させていったかを追うことができます。元来が地味なプレイを好むドラマーで、そのへんは彼がプロとしてのロール・モデルとしていた、ハル・ブレインやジム・ゴードンには似ていません。ニルソンのWithout Youでの重いバックビートなど、なかなか印象的でしたが、70年代なかばまではあまり注目していませんでした。

f0147840_23484171.jpgはじめて、この人はすごいのではないかと思ったのは、ライ・クーダーの79年のアルバム、Bop Till You Dropを聴いたときでした。ライのアルバムをきちんと聴いたのもこのときが最初だったので、そこから遡っていき、Tattlerでのプレイにぶつかったのです。

70年代なかばの録音なので、いたって地味ですが、絶好調時のジム・ゴードンのように、ひとつひとつのビートがもっとも望ましいポイントで叩かれていて、じつに気持ちのいいグルーヴになっています。アップテンポがいいハル・ブレインに対して、ジム・ケルトナーは、Tattlerのようなミディアムのときに、非常に印象的なプレイをします。

フィルインといっても、曲調の制約もあって、ごく控えめなものばかりですが、これまた、完璧なタイミングとアクセントのものが大多数で、なんとも気持ちのいいプレイです。とくに、セカンド・コーラスのIt's not hard for you to understandの直後のもの、サード・ヴァースに入ってすぐに出てくる、women who wants to marryの直後の16分4打、すなわち一拍分しかないきわめて短いものなどは、完璧なプレイです。また、間奏の出口、サード・ヴァースの入口でやっている、リムだけをヒットするプレイ(ヘッドとリムを同時に叩くリムショットではない)にも、ハッとさせられます。

ジョン・レノンのトラックなどで、メトロノームのような正確さに徹した地味なプレイばかりしていたドラマーが、70年代終わりから80年代にかけて、ドラマーの習性に反するプレイで、われわれを驚愕させるプレイヤーへと変貌をはじめる第一歩が、このTattlerだったのではないかという気がします。

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はじめからそうなりそうな予感はしていたのですが、ジム・ケルトナーのことばかりで、ライ・クーダーのことにはふれられませんでした。ほかでは持ち出しようがないかもしれないので、今月中にできればもう一曲取り上げようと思います。
by songsf4s | 2008-04-08 23:53 | 愚者の船
Me Japanese Boy by Harpers Bizarre
タイトル
Me Japanese Boy
アーティスト
Harpers Bizarre
ライター
Burt Bacharach, Hal David
収録アルバム
The Secret Life of Harpers Bizarre
リリース年
1968年
他のヴァージョン
Bobby Goldsboro
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先日のタク・シンドーのSkylarkはエキゾティカそのもの、前回のポール・ホワイトマン楽団のThe Japanese Sandmanは「プリ・エキゾティカ」(わたしが捏造したタームですが)でした。本日は予告どおり、「ポスト・エキゾティカ」(もう一丁捏造)へと進みます。

ショーヴィニスト的傾向をもつ方は、ひょっとしたらPCスクリーンを殴りつけたくなるかもしれないくだりがあるので、お茶でも入れてリラックスしてから、以下をお読みになるようにお奨めします。お互い、ケガをしてはつまりません。いや、お互いとは、あなたの手とあなたのPCのことですけれどね。

◆ 英語もどき ◆◆
それではファースト・ヴァースとコーラスをひとまとめにいきます。ヴァースとコーラスがつながっているので、切れないのです。

Long long ago in a land far away
A little boy and a girl were so in love
Standing neath the moon above
He said "Me Japanese Boy, I love you
I do love you
You Japanese Girl
You love me, please say you do"

「遠くはるか昔、遠い国でのこと、少年と少女がお互いに深く愛し合っていた、月の明かりの下に立ち、彼はいった。『ぼく日本少年、きみ日本少女、愛するあるよ。ほんとうに愛するあるよ。きみ日本少女も、ぼく愛する、どうかそういってほしいあるね』」

まあ、わたしがこねくった日本語にしたのですが、原語もややピジン・イングリシュじみています。こういう英語もどきは、たとえば、映画やドラマで中国人などが使った場合、上記のような日本語に訳すのがきまりになっているわけでして、わたしはそれにしたがったまでのことです。

まあ、考えてみると、この手の英語もどきよりもっとひどい、意味不明の英単語羅列は、現在でもテレビで日常的に使われているので、アメリカ人が、日本人はこういう英語を喋ると思いこんでも、異にするほどのこともないでしょう。もっとも、日本にいる外国人がこういう雰囲気の日本語もどきを喋ることもしばしばあるので、おあいこのはずですが。

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ハーパーズの写真は使い果たしてしまったので、本日も「本文とは関係ありません」方式で、桜の写真を飾りにすることに。まずは「ローン・チェリー」の景。

◆ 花見作法のアメリカ的誤解と日本的不快 ◆◆
セカンド・ヴァース。こんどはショーヴィニストではなく、植物を愛する人たちに、まあまあ、お平らに、軽薄なアメリカの作詞家がつくった、ただの軽薄な流行歌だということをお忘れなく、と警告しておきます。

They carved their names on an cherry tree
Just like they've done in Japan since time began
Then he gently held her hand

「日本の国がはじまって以来、だれもがそうしてきたように、二人も桜の古木に自分たちの名前を刻み込み、そして彼はやさしく彼女の手をとった」

ここもヴァースとコーラスがつながっているので、「彼はやさしく彼女の手をとり、ぼく日本少年、きみ日本少女愛するあるよ」という構成になっています、って、そんなことはどうでもいいか、というヴァースですがね。

われわれはしばしば自国文化のよってきたるところを知らなかったり、まちがったことを信じていたりするので、百パーセントの自信はないのですが、でも、桜の木に恋人たちが名前を刻むなどということを、われわれが民族的習慣としていたとは思えません。樹木を傷つける者は、現在同様、やはり、昔も指弾されたのではないでしょうか。

ただし、われわれは、桜の根方を踏み固めたり、あろうことか根の上に坐りこんだりするという、木を窒息させるに等しい行為を、「花見」と称して至上の快楽とし、だれもそれをとがめない民族です。考えようによっては、名前を刻んで樹皮を傷つけるよりずっとたちの悪いことを恒常的にしているのだから、アメリカ人作詞家の無知を嗤う資格はわれわれにはありません。

念のために申し上げておくと、ただの受け売りですが、幹に近いところの根は、水分や養分を吸い上げる役割を終えていて、機能しているのは、根の先端部分だそうです。根は見えませんが、その先端は枝の先端とほぼ同じあたりにあるとか。桜の下に坐り込んで、根を窒息させながら飲み騒ぐなどという野蛮かつ愚劣きわまりないことをやめ、根の上の土を踏み固めぬよう歩を選んでそぞろ歩きながら、そっと花をめでるような国になってくれたら、どんなにか住みやすくなることかと思います。

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◆ 呑気な落とし咄 ◆◆
以下はブリッジ。

In a blue and white Kimono
She became his happy bride
From that day until this very moment
She'd been standing by his side

「青と白の着物を着て、彼女は幸せいっぱいの花嫁になった、その日からいまに至るまでずっと、彼女は彼のかたわらにいる」

着物の色についての詮索は無駄だからやめておきます。大昔まで遡れば、どんな色の着物を着て嫁いだのか、そもそも、婚礼衣装なんてものがいつ生まれたのか、わたしはなにも知りません。いまの形はせいぜい数十年の歴史しかないということを、ものの本で読んだ記憶があります。

サード・ヴァースと最後のコーラスをつづけていきます。

Now they are old
And from what I am told
They're still in love
Just as much as they once were
Every night he kissed her
And said "Me Japanese Boy, I love you, I do love you"
That is the way that it should be when love is true
That is the way that it should be for me and you

「いまでは二人も年老いたけれど、聞いたところによると、二人はまだ昔と同じように愛し合っていて、彼は毎晩は彼女にキスし、「ぼく日本少年、きみ日本少女、愛するあるよ」といっているそうだ。ほんとうに愛し合っているのなら、そうでなくちゃいけないよね。ぼくときみも、そうあるべきじゃないかな」

というわけで、最後のコーラスはサゲになっています。つまり、恋人に向かってお伽噺をし、ぼくらもそれに倣おうじゃないか、という口説きの歌なのでした。日本はただのダシなのだから、ショーヴィニスティックになって、けしからん、などと目くじらを立てるほどのものではないのです。ちらっとビーチボーイズのSumahamaを思いだしたりもしますな。あれは、「いただいた」とはいわないまでも、Me Japanese Boy, I Love Youを「参照」した気配があります。

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◆ 6thは永久に不滅です ◆◆
さて、本日のお題は(って、わたしが自分で出題しただけのマッチ・ポンプですが)「ポスト・エキゾティカ」です。

歌詞があまりリアリティーのない日本を描いていること以外に、この曲のどこかにエキゾティカのなごりがあるとしたら、6thコード、6thのスケールを使っていることでしょう。これがあると、われわれの耳には日本的とは聞こえないにしても、ある種の東洋的ムードが生じるわけで、バート・バカラックは伝統に則った曲作りをしています。まあ、アメリカ人はほかにやりようを知らないだけかもしれませんが。

コードをきちんととる時間がなかったのですが、ハーパーズ盤の冒頭は、F#-F#6-Abm7-Bbm7となっているようです(ちがっていたらすまん。でも、うたう分にはこれで合う。F#6とBmaj7は似ているし、Abm7はB6に似ているしで、そのへんのいい加減さはギターをお弾きになる方なら承知のことのはず)。

イントロ・リックは、半音が煩わしくて恐縮ですが、Eb-Db-Bb-Ab-Bb-Ab-F#-Ebという下降フレーズです。最初の上のEbと、最後にたどり着く下のEbが、F#における6thの音で、つまり、6thではじまり、6thで終わっているのです。3度と7度の音を飛ばし、6thの音を入れたスケールを適当に弾くと、なんとなく、ラーメンが食べたくなるようなフレーズが、蓋をして3分もかからずにできあがるので、手近な楽器でお試しあれ。

つまり、このMe Japanese Boyという曲も、エキゾティカの伝統にしたがって、中国と日本は同じものとみなし、われわれの耳には中国的に響くメロディーによって、日本を表現していることになります。

ここまでの「エキゾティカ」シリーズをお読みになった、注意力散漫でない方は、気になっていることがあるはずです。そう、「パリは燃えているか?」、じゃなかった、「銅鑼は鳴っているか?」です。

その答えはイエスでもあり、ノーでもあります。ハーパーズは銅鑼なし(麻雀かよ!)、ヒット・ヴァージョン(そして、たぶんオリジナル)であるボビー・ゴールズボロ盤では、銅鑼が由緒正しい響きで鳴っています。ジャーン、タラララランという、ラーメンCM状態なのです。

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◆ ハーパーズ・ビザール盤 ◆◆
今回は2種のヴァージョンしかないので、聞き比べというほどのことにはなりませんが、恒例なので、比較考証のお楽しみもやっておきます。

ハーパーズ盤を看板に立てたのは、こちらのほうがすぐれているからというより、ボビー・ゴールズボロはすぐにまた取り上げる予定なので、右のメニューに変化をもたせようと考えたまでにすぎません。でもまあ、そういうことは抜きにしても、ハーパーズのMe Japanese Boyのほうが、わたしには面白く感じられます。

その理由は、主としてサウンドのスケール感と、アレンジにあります。なんせ、わたしが専門とする60年代のハリウッドだから当然ですが、うんうん、that is the way that it should beとうなずける点が多々あるのです。

ハーパーズのCDのたすきに、日本の会社は「バーバンク・サウンド」というタームを使っていますが、WBやリプリーズの盤も、バーバンクではなく、ほとんどがハリウッドで録音されています。バーバンクはWBの本社所在地にすぎず、ハリウッドで生みだされた音楽に共通する属性とは無関係です。あくまでも、ハリウッドの音楽として全体を捉えないと、WBおよびリプリーズの盤だけが、他のハリウッド録音の盤から分離されてしまい、歴史を見誤ることになるでしょう。

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話を元に戻します。ハーパーズのアルバムは、どれもアレンジャーが入り乱れていますが、この曲はニック・デカロのアレンジです。ニック・デカロの仕事としては、かなり上位にくると感じます。派手派手しくはやっていませんが、パーカッションの扱いが凝っているし、またその配置が繊細で、このあたりはおおいに好みです。

ストリングスのラインの取り方もきれいですし、ストリングスの裏で薄く管を鳴らして立体感をつくる基本技もちゃんとやっています。もっとも気持ちのいいくだりはブリッジで、突然出現するフレンチ・ホルンはなかなかスリリングです。

そして、こういう音が気持ちいいと感じる裏には、つねにすぐれたエンジニアがいることも忘れるわけにはいきません。もちろん、この盤も、他のハーパーズの盤と同じく、リー・ハーシュバーグの録音です。クレジットがなくてもわかっちゃうくらい、うんうんとうなずきっぱなしの、みごとな音の空間配置です。

贔屓のリズム・セクションがとりたてて活躍しない(ハル・ブレインはやはりパーカッションのどれかをプレイしたのでしょうね)ことも気にならないほど、60年代ハリウッドの、いま振り返れば夢のように豊かなインフラストラクチャーを如実に示す、みごとな音作りです。

◆ ボビー・ゴールズボロ盤 ◆◆
ヒットしたのはボビー・ゴールズボロ盤のほうなのですが、それは先にやったからとか、シングル・カットしたからといった理由にすぎないように思います。

f0147840_21334660.jpgわたしはゴールズボロのそこそこのファンなので、こちらのヴァージョン(タイトルはMe Japanese Boy, I Love Youと長い)も嫌いではありません。悪くない出来だと思います。でも、ハーパーズ盤を聴いてしまうと、あの音作りのレベルの高さ、とくにリー・ハーシュバーグの名人芸にはとうてい敵するものではないことを納得しないわけにはいきません。相手が悪すぎます。

イントロはそこそこの出来(銅鑼が鳴りますがね!)ですが、ヴァースに入ったとたん、音が薄いなあ、と思います。とはいえ、薄いものには薄いものの魅力があるので、このヴァージョンだけしか知らなければ、これはこれでいいと思ったでしょうし、当時のアメリカのリスナーもそう感じたからこそ、ヒットしたにちがいありません。

ポップ・ファンは、かならずしもハイ・レベルで複雑な工芸品を好むわけではありません。シンプルなもののほうに親しみを感じることはしばしばあります。だから、ボビー・ゴールズボロ盤Me Japanese Boyのヒットは、たとえ楽曲のよさに大きく寄りかかったものにせよ、不思議ではありませんし、ハーパーズ盤は、仮にシングル・カットしても、ヒットにはいたらなかっただろうと思います。

以上、前回のThe Japanese Sandmanから、約半世紀の時間をジャンプして、「プリ・エキゾティカ」と「ポスト・エキゾティカ」を並べてみました。

わたしの結論は、「エキゾティカは万古不易、永遠の6thである」です。われわれとしても、もう日本は6thと銅鑼で表現されるものと決まってしまった、これは国旗のように取り替えの困難なものなのだ、と腹をくくるしかないでしょう。

イヤだといったって、あちらさんの固着はすくなくとも20世紀初頭からのもので、もはや獲得形質の段階を終わり、民族の血に遺伝形質として組みこれまれてしまったように思えるほどで、いまさら修正のしようがありません。♪およばぬ~ことと~、あきらめ~ました~。
by songsf4s | 2008-03-25 23:41 | 春の歌
Summer Wind by Frank Sinatra その2
タイトル
Summer Wind
アーティスト
Frank Sinatra
ライター
Johnny Mercer, Heinz Meier, Hans Bradtke
収録アルバム
Strangers in the Night
リリース年
1966年
他のヴァージョン
duet version with Julio Iglesias by the same artist, Wayne Newton
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◆ 外国語曲の「訳詞」というもの ◆◆
まずは前回の補足から。

昨日から調べていてわからないのは、この曲の出所です。ソングライター・クレジットから考えて、ドイツの曲にジョニー・マーサーが英語詞をつけたのではないかと思われます。ウェイン・ニュートン盤のほうには、二人の作者しかクレジットされていません。Hans Bradtkeという名前はないのです。つまり、この人がドイツ語詞のライターだということではないでしょうか。

原曲を聴いたことがなく、聴いたところでドイツ語ではわかりもしませんが、ジョニー・マーサーが、原曲に対してある程度は忠実であろうとしたという可能性も否定できません。となると、凧は原曲にあったのかもしれません。このへんは微妙です。

f0147840_1202552.jpgStrangers in the Nightも、(話がややこしくなりますが)ウェイン・ニュートンの代表作であるDanke Schoenの作者にしてオーケストラ・リーダー、ドイツのベルト・ケンプフェルト(固有名詞英語発音辞典では、カタカナにすると「ケンプファト」とでもすればいいような音になっている)の曲ですが、こちらは(幸いにも)もとがインストゥルメンタル曲なので、ドイツ語詞は存在せず、シナトラの録音に際して書かれた「オリジナル英語詞」です。しかし、Danke Schoenはどうなのでしょうね。あるいは、ディーン・マーティンが歌ったVolareは?

こういうことを考えはじめると、頭が痛くなってきます。ジルベール・ベコーの曲を英語にしたLet It Be Me、ジャック・ブレルの曲をもとにしたテリー・ジャックスのSeasons in the Sun、外国語の曲を英語化したものは、それなりの数があるのです。坂本九の「上を向いて歩こう」が、東芝盤をそのままリリースしたものであったのは、幸いでした!

よけいなことばかり書きましたが、外国語の曲に英語の歌詞をつけたものは、歌詞の検討などしないほうがいいのかもしれない、という気がしたのです。ただ、マーサーの歌詞というのは、たとえばMoon Riverあたりでも、ただスムーズなだけではなくて、何カ所か、これはどういう意味だろう、なぜこういうことをいっているのだろうと考えさせる、エニグマティックなところがあるのものたしかです。

◆ A&Rは「事務方」か? ◆◆
ということで、こんどはすっと前回のつづきに移りたいのですが、やっぱり、こちらの橋にも小鬼が待ちかまえています。ここでもまた、昨日は引っかかりを感じながら、残り時間僅少のフルスロットル状態だったために、とりあえず殴り倒して通りすぎたことが、あとで冷静になると、瘤のようにふくれあがってきました。

べつにシナトラだけのことではなく、昔の盤ではめずらしくなかったことなのですが、プロデューサー・クレジットがない、というのが引っかかるのです。Softly, As I Leave You、Strangers in the Night、そして昨日はふれなかったThat's Lifeといった、60年代中期のシナトラのヒット曲をプロデュースしたのがジミー・ボーウェンだとわかるのは、盤に書いてあるからではなく、Sessions with Sinatraに書いてあるからなのです。盤に書いてあるのは、アーニー・フリーマンのアレンジャー・クレジットだけです。

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左から、アーニー・フリーマン、スナッフ・ギャレット、アール・パーマー。こちらはリプリーズではなく、リバティーの音をつくった主役たち。

今回の記事のために検索して見つけたシナトラのディスコグラフィーは、作成者もいっているように、じっさいにはセッショノグラフィーなのですが、やはりプロデューサーの名前はありません。かわりにセッション・リーダーの意味と思われるldrの略字のクレジットがシナトラについています。シナトラがプロデューサーだったというのなら、それでいいのですが、Sessions with Sinatraではジミー・ボーウェンがプロデュースしたとされている曲にも、シナトラはldrとしてクレジットされています。

「これはなに? ここからなにを読み取れっていうんだ?」

と叫びますよ、ホントに。プロデューサーは重要ではない、シナトラとアレンジャーのゲームなのだ、ということでしょうか。プロデューサーはあくまでも「事務方」であると?

たしかに、リーバー&ストーラーやその弟子であるフィル・スペクターが、「これが俺のプロデュースした盤、そしてこの俺がプロデューサー」と言いだすまでは、プロデューサー(ではなく、当時の呼び名はA&R、すなわち、アーティスト&レパートリー・マン)が表面に出ることはなかったわけで、レコード制作の主役とは考えられていなかったのかもしれません。

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60年代に入ってからのシナトラの苦闘ぶりをチャートの数字でご覧いただきたい。項目の意味は、左から、ホット100登場日付、ピーク・ポジション、チャートイン週数、そしてタイトル。数こそあるが、トップ40に届かなかったものがほとんどで、Softly, As I Leave Youでボーウェンが登場するまで、シナトラがほとんど死に体になっていたことがわかる。

ジミー・ボーウェンは、That's Lifeの録音のとき、歌い終わってブースに上がってきたシナトラに「どうだ、ヒットだろ?」といわれ、「いや……残念ながら」とこたえ、「後にも先にも、アーティストにあんな冷たい目でにらまれたことはない」という恐怖を味わいながらも、頭に血がのぼったシナトラの貴重な「もうワン・テイク」を手に入れ(自分のミスが理由でないかぎり、シナトラはリテイクをしなかった。それだけ完璧にリハーサルをしてからスタジオに入るということだが)、それがヒット・ヴァージョンとなりました。

わたしは、プロデューサーのこういう役割を重要なことだと考えますが、昔のシンガーにとっては、たいしたことではないのかもしれません。「キャッチャーのリードがいいだの悪いだのというけれど、キャッチャーがボールを投げるわけではない、ボールを投げて打者を打ち取るのはピッチャーだ」という、昔の投手と同じような立場なのかもしれません。美空ひばりも録音の場をきっちり取り仕切ったそうですが、それが昔の人の当然の常識なのかもしれない、後年の見方で捉えるのは間違いかもしれない、と思えてきました。

抽象論は書くほうも読むほうも疲れるので、今夜はこれくらいで切り上げ、「フィールド」に戻ります。この曲を皮切りに、今後、シナトラは何度も登場する予定なので、なぜ、彼がひとりのアレンジャーに固執することなく、つねに数人に仕事を依頼していたかについては、そのときに改めて考えたいと思います。

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「シナトラ会」の会合 集合したかつてのシナトラのアレンジャーたち。左から、ビリー・メイ、ドン・コスタ、会長その人、そしてゴードン・ジェンキンズ。まるで「生きているアメリカ音楽史」たちの記念写真。

◆ 神の手になる絶妙のバランシング ◆◆
Summer Windはネルソン・リドルのアレンジですから、理屈のうえからは、ジミー・ボーウェンとアーニー・フリーマンがつくった「新しいシナトラのサウンド」ではなく、「昔なじみのシナトラ」の音になりそうです。しかし、じっさいの音は、新しいとまではいえないものの(新しいのは翌年のThat's Lifeのほう)、それほど古くさい音でもありません。イントロを聴いただけで、そう感じます。

f0147840_05590.jpgリズムはミディアム・スロウのシャッフル・ビート、ベースはスタンダップ、ドラムは、はじめのうちはスティックを使わず、フット・シンバルの2&4だけ、薄くミックスされたピアノのシングル・ノートのオブリガート、そして控えめなオルガン、リズム・セクションはそれだけで、あとは、左右の両チャンネルに配されたゴージャスな管がシンコペートした装飾音を入れてくる、というようなアレンジですから、文字面からは、数年前の、いや、十数年前のシナトラと大きなちがいはない、とお感じになるでしょう。ちがいがあるとしたら、マイク・メルヴォインがプレイしたというオルガンのオブリガートだけなのです。

オルガンなんてものは、以前からある楽器ですし、ハモンド・ブーム(ラウンジ方面を追いかけると、そういうものがあったことがわかってくる)は数年前のことで、目新しくもなんともないのですが、こういうことというのは、文脈のなかで捉えないとわからないもので、「シナトラ文脈」においては、なんとも新鮮な音に響きます。

しかし、べつの側面もあることに気づきます。スーパー・プレイもファイン・プレイもなし、どこといってどうというわけではないのに、でも、なんだかむやみに気持ちがいい、という音に出合ったら、とりあえずエンジニアをほめておけ、という大鉄則があります(わが家の地下室で捏造した鉄則ですが)。わたしの性癖をご存知の方は、もう「またかよ」とおっしゃっているでしょう。そう、この曲もリー・ハーシュバーグの録音なのです。シナトラの盤にはエンジニア・クレジットもないので、こういうこともSessions with Sinatraを読まないとわからないのですが。

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スラトキン、リドルの代打でタクトを振る エンジニアはいつも冷遇されるもので、リー・ハーシュバーグの写真は残念ながらわが家にはありません。かわりに、コンサート・マスターだったヴァイオリニストのフィーリクス・スラトキン(リドルはスラトキンに指揮を学んだ)が、ツアー中のリドルに代わってコンダクトしたときのめずらしい写真をどうぞ。チェリストの奥さん、エリナー・スラトキンとシナトラの写真は、次回、シナトラが登場したときにでも。

この本では、ビル・パトナムの弟子筋らしいエンジニアが何度もコメントしていて、Strangers in the Nightを録音したエディー・ブラケットを、これでもか、これでもか、と徹底的にこき下ろし、いっぽうで、リー・ハーシュバーグを大神宮様のように神棚に祭り上げて柏手を打っています。Strangers in the Nightでは、エディー・ブラケットも奥行きとスケール感のある音をつくっていて、けっして悪いエンジニアではないと思いますが(コンソールの前で立ち上がり、踊りながら録音したというエピソードが披露されているので、そういう人間的側面も嫌われたのでしょう)、リー・ハーシュバーグを神棚に祭り上げることについては、当方も異存がありません。

いつものように、Summer Windでも、ハーシュバーグは絶妙のバランシングをやっています。イントロは、ときにはその盤がヒットになるかミスになるかを左右するほど重要ですが、さすがはハーシュバーグと思うのは、薄くミックスされているだけなのに、ちゃんと存在を主張しているイントロのオルガンのバランシングです。最初の拍を構成する、スタンダップ・ベース、フット・シンバル、オルガン、この響きがじつになんとも素晴らしいのですよ、お立ち会い。これでヘボが歌えばぶち壊しですが、舞台は上々、シナトラ、上手より登場する、なのだから、ここで大向こうから拍手が起きなければ、大向こうのほうがヘボなのです。

◆ シナトラの骨法、ただし、ほんのさわりのみ ◆◆
シナトラの盤を相手に、シナトラを聴かずに、リー・ハーシュバーグを聴くなんていう外道は、広い世間にもそう多くはいないわけで、言い訳程度の粗品で恐縮ですが、シナトラの歌についても少々書きます。歌を云々するのは柄ではないので、かるーく読み流してください。

f0147840_1115213.jpg前回、「やるべきことをちゃんとやっている」といいながら、どこでそう感じるのかということを説明しなかったので、その点について。この曲は三つのヴァースがあるだけで、コーラスもブリッジもありません。こういうときこそ出番なのに、チェンジアップとしての間奏もないのです。つまり、単調になってしまう恐れが強く、カラオケで素人が歌ってはいけないタイプの曲です。

プロ、というか、フランク・シナトラはそういうときにどうするかというと、もちろん、アレンジで味つけを変えもするのですが、シナトラ自身も、ヴァースごとに、ちゃんとニュアンスを変えて歌っているのです。

そよ風のようにそっと忍び入るファースト・ヴァース、Like painted kitesという音韻に合わせ、スタカート気味にすこしアクセントを強めに入るセカンド・ヴァース、E♭からFへと全音転調するサード・ヴァースでは、ピッチが上がるのに合わせて、もっとも強くヴァースに入り、最後はソフトに、ソフトに、歌い終えています。

f0147840_0361016.jpgこういう歌をどううたえばいいか、その方法を熟知しているから、そして、それをみごとにやってのけるだけの力があるから、彼はフランク・シナトラになったのです。これがあるから、繰り返し彼の歌を聴いていると、コーヒーを入れに台所に立ったときに、ついその気になって、「マイ……フィクル・フレン……サマウィン」などと、シナトラになったつもりで、シンコペーションを使いながら(あんなんじゃシンコペーションを使えたことにはならないんだってば>俺)口ずさんでしまうわけですね。困ったものです。

シナトラの独特のシンコペーションのことを書くべきのように思うのですが、まだチャンスはあるので、そのときに、ということにします。

◆ 他のヴァージョン ◆◆
他のヴァージョンに簡単にふれておきます。フリオ・イグレシャスとのデュエットは、最初の小節からいきなりシナトラの声と歌いっぷりの衰えを強く感じるもので、聴かずにおくにしくはなし、です。シナトラだって、やっぱり年をとってしまうのです。

f0147840_029983.jpg「ミスター・ラス・ヴェガス」ウェイン・ニュートンは、いつだったか、ラス・ヴェガス署の鑑識の連中に思い切り馬鹿にされていましたが(『CSI』のエピソードでのことですがね)、ドラマのなかで揶揄のネタにされるほど、彼が有名であり、ラス・ヴェガスの主みたいなものだということです。

シナトラの録音は1966年5月ですが、ウェイン・ニュートン盤Summer Windは、ボビー・ダーリンのプロデュース、ジミー・ハスケルのアレンジで、65年7月に録音され、シングル・カットされています。悪くもありませんが、べつに面白くもないサウンドで、78位止まりというビルボード・ピーク・ポジションは盤のポテンシャルどおりの結果に思えます。

ウェイン・ニュートンという人は、気体のように薄くて軽い声をしていて(いやまあ、声に実体はないので、あらゆる人間の声が気体のように薄くて軽いぞ、といわれちゃいそうですが)、けっこう好きです。ただ、薄くて軽ければそれでいいのか、ということも感じます。やはり芸に幅がなく、飽きがきてしまうのですね。

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ウェイン・ニュートン(中央)とトミー・テデスコ(右)

ときおり編集盤に採られる、Comin' on Too Strong(ハル・ブレインがニュートンのケツをイヤッというほど思いきり蹴り上げている!)で、これは面白そうだと思った人も、ほかにはああいう曲がなくて、あれっと思ったのではないでしょうか。ラス・ヴェガスが悪いとはいいませんが、あそこに腰を落ち着けて稼ぐようになるのは、キャリアのごく初期から定められていた運命だったと感じます。まあ、Danke Schoenがあるんだから、食うには困らないでしょう!


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◆ 重要な訂正(2007年9月5日) ◆◆
Wall of Houndの大嶽さんに教えていただいたのですが、ペリー・コモ・ディスコグラフィーに、Summer Windの原曲の作詞家である、Hans Bradtkeに関する記述がありました。

それによると、Summer Windのオリジナルである、Sommervindはデンマーク語で書かれたもので、最初に録音したのは、デンマークのGrethe Ingermannという人だそうです。

ただし、原曲の作者二人はともにドイツ人で、ハインツ・マイヤーのほうは第2次大戦中にデンマークに移住し、その後、さらにアメリカに渡ったとあります。

コメントのなかに、ウェイン・ニュートン盤がアメリカで最初にリリースされたものではないかと書きましたが、ペリー・コモのディスコグラフィーも、そのように「伝えられている」としています。

ペリー・コモ盤は、ウェイン・ニュートン盤と同じ65年に、チェット・アトキンズのプロデュースで、ナッシュヴィルで録音されたとあります。ただし、リリースはされなかったそうです。

ライター・クレジットから、てっきり原曲はドイツ語だろうと思ったのですが、以上のような経緯だそうですので、謹んで訂正いたします。
by songsf4s | 2007-09-03 23:48 | 過ぎ去った夏を回想する歌
School Is Out by Gary "U.S." Bonds
タイトル
School Is Out
アーティスト
Gary "U.S." Bonds
ライター
Gene Barge, Gary Anderson
収録アルバム
The Best of Gary "U.S." Bonds
リリース年
1961年
他のヴァージョン
Ry Cooder
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夏休みというと、お盆を思い浮かべてしまうし、7月下旬の解放感というのをリアルに思いだせない年齢になってしまいましたが、ポップ・ミュージックの世界では、お得意さまのだいじな年中行事のひとつ、いや、クリスマスと並ぶもっとも重要な行事だから、夏休みをめぐってはいろいろな歌がつくられています。

ここですでに紹介したものをふりかえると、ハプニングスのSee You in Septemberキャロル・キングのIt Might As Well Rain Until Septemberは、どちらかというとやや年齢の高い層、大学生が念頭にあるような歌詞でしたが、ファンタスティック・バギーズのSummer Means Funは高校生のみとはいえないまでも、そこまで含む、やや低い年齢を狙っていたように感じます。

◆ 海に行かない夏休み ◆◆
今回のゲーリー・“U・S”・ボンズというふざけた名前(U.S. Bondsとはアメリカ国債のこと)のシンガーが歌うSchool Is Outは、高校生およびそれ以下の年齢層を狙ったものです。それは曲に入る前に、「Hey yo! School is out!」というかけ声があり、歓声があがったところで教師が登場し、「わたしがいいというまで席を立ってはいけない」と命じ、教室中が、オーノー、と不満をもらすことでわかります。

そういうイントロのあとでカウントインになり、曲に入るという趣向です。教師が止めたりするところは意味がわからないのですが(サゲがあるわけではなく、不満声のあとにすぐカウントに入る)、高校生なら、これだけで「俺たちの歌だ!」とわかるようになっています。

ファースト・ヴァースは、なんて改めて検討するほどのものではないのですが、まあ、とにかく見てみましょう。ヴァース/ヴァース/コーラスという構成のうち、二つのヴァースを以下にまとめてあげます。

No more books and studies
And I can stay out late with my buddies
I can do the things that I want to do
'Cause all my exams are through

I can root for the Yankees from the bleachers
And don't have to worry 'bout teachers
I'm so glad that school is out
I could sing and shout!

ファースト・ヴァースは「教科書も授業ももうおしまい、仲間と遅くまで外にいられる、やりたいことがやれるんだ、試験は全部終わったのだから」となっています。ファンタスティック・バギーズのSummer Means Funと似たような気分を、海と車とサーフィン抜きで歌っているだけ、ともいえます。気分としては、どんな文化の子どもたちにも同感できることですし、昔も今も変わらない普遍的なものなので、これは夏休みの曲の歌詞としては避けて通れない道といっていいでしょう。

セカンド・ヴァースの最初のラインで、ここはカリフォルニアではないし、海はお呼びでないことがわかります。「スタンドからヤンキーズを応援できるんだ、先生のことは気にしなくていいんだ」というのだから、ここはニューヨークです。bleachers観客席とteachers先生という韻の踏み方が笑えます。スタンドから、と断っているのは、テレビ観戦ではないという意味なのでしょう。1961年の日本では、むしろ、家にいてテレビで野球を見られることのほうが、あえていうにたる話題だったように記憶しています。

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60年代初期のパブ・ショット2葉。不思議な髪型をしています。亡くなった元大阪府知事も、昔はこんな風にしていましたっけ。

◆ ジーン・“ダディーG”・バージ ◆◆
以上でヴァースは終わり、つぎはコーラス。

(School is out)
Everybody's gonna have some fun
(School is out)
Everybody's gonna jump and run
(School is out)
Come on people don't you be late
(School is out)
I just got time to take my girl out on a date
School is out at last
And I'm so glad I passed
So everybody come and go with me
We're gonna have a night with Daddy G
Go Daddy!!

「オヤジ、いけ!」という叫びとともにテナー・サックス・ソロに突入し、また元に戻って繰り返しとなります。たいした意味のあるコーラスではありません。学校は終わった、夏休みだ、うれしいな、ということを、さあデイトだ、試験に受かってよかった、みんな来いよ、などと、いろいろ言い方を変えて叫んでいるだけです。

最後に登場する「ダディーG」とは、この曲の共作者で、テナー・サックスをプレイしているジーン・“ダディーG”・バージのことでしょう(もうひとりのライター、ゲーリー・アンダーソンは、ボンズの本名)。この人はなかなかカラフルなキャリアの持ち主のようですが、ご興味のある方はウェブで検索していただくことにして、ここは通りすぎます。Quarter to Threeなど、ほかの曲でもダディーGへの呼びかけは登場します。

◆ 熱気ムンムンのパーティー ◆◆
ゲーリー・ボンズには、New Orleansというヒット曲があるくらいで、そっちの出身かと思ったのですが、この曲を聴くと、ニューヨークのようにも思えたりしました。でも調べてみると、ヴァージニア州ノーフォークで録音していたそうです。

アメリカは広いもので、通常、音楽センターとはみなされていない町でも、そこそこの環境があるようで、ときおり、ヴァージニア州ノーフォークなどという頓狂なところからヒット曲が生まれるので、面喰らいます。わたしのもっているベスト盤にはパーソネルが書いてあるのですが、さっぱり知らない人ばかりで、一体どういうことかと首をかしげました。ノーフォークなんてところじゃあ、「知り合い」が一人もいなくても不思議はないと納得です。

「冥土にも知る人」というのは、「どんな遠い未知の土地に行っても知人にめぐりあえるということのたとえ」(国語大辞典)だそうですが、たとえ冥土に知り合いはいても、わたしの場合、ヴァージニア州ノーフォークには知り合いはいませんでした。冥土より遠い、とんでもない辺土であります。

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3時15分前を指す時計。大ヒット曲、Quarter to Threeの宣伝用写真でしょうか。

サウンドは、なんといえばいいのか、悪い環境がもたらした幸運な結果オーライというあたりで、音質の悪さがあるムードを醸成しています。地下の小さなクラブの雰囲気といえばいいでしょうか。

しかし、劣悪な機材がもたらした、たんなる偶然とは言い切れない気もします。オーヴァーダブのせいでこもった音になってしまった偶然を、プロデューサーのフランク・グィダは、このほうがいい、と判断したのではないでしょうか。クリアな音ではパーティーの熱気みたいな味は出せなかったでしょう。なんたって、ハンドクラップがいちばんクリアに聞こえるのだから、すごいもんです!

大人になったわたしは、精緻なサウンド作りを好みますが、たまに、こういう豪快というか、無神経というか、勢いがすべてだ、これでなにが悪い、という音を聴くと、昔に返ったような気分になります。

◆ ライ・クーダー盤 ◆◆
うちにはもうひとつ、ライ・クーダーのヴァージョンがあります。ドラマーはいつものジム・ケルトナーではなく、アイザック・ガルシーア(と粗雑な英語読みをしてしまいましたが、正しくはイサーク・ガルシーアでしょうか)という人です。フラーコ・ヒメネス・バンドのドラマーだろうと思いますが、よくわかりません。

ガルシーアは、ほかの曲では好ましくないプレイもしていますが、この曲はミスがなく、ギターとアコーディオンとアルト・サックスのイントロもすばらしいので、たちまち乗ってしまいます。いや、この曲だけ参加しているミルト・ホランド(ハリウッドのエース・パーカショニスト。ライ・クーダーの録音のレギュラー)のティンバレスが大活躍だから、ノリがよく聞こえるのかもしれませんが。

f0147840_21233561.jpg録音はハリウッドの大エース、リー・ハーシュバーグですし、そもそも1977年の盤ですから、ヴァージニア州ノーフォークの1961年とは天と地のちがいです(時期の異なる盤の録音を比較するのはアンフェアなのですが)。したがって、正直に言えば、こちらのカヴァーのほうがずっと好きですし、このカヴァーから逆にたどってボンズ盤にたどり着いただけなのです。

まだ3Mのディジタル・レコーディング・システムに切り替えるまえで、アナログ録音ですから、リー・ハーシュバーグがその天下一品の職人芸を見せた最後の盤に近いのではないでしょうか。ディジタルになってからは、名人ハーシュバーグといえども、これほどの冴えは見せていません。じつにいい音です。

ちょっとほめすぎたので、マイナス面もあげておきます。このShow Timeというアルバムは、School Is Out以外はライヴ録音で、ドラムのミスが気になるし、選曲もわたしには退屈で、これ以外では、たまにThe Dark End of the Streetを聴くぐらいです。ライ・クーダーのライヴ盤を聴くなら、ジム・ケルトナーがすごいプレイを連発するブートレグのほうがいいのではないでしょうか。いや、1曲でもすばらしいものがあれば、それで十分ともいえるので、Show Timeだって、けっして捨てたものではないのですが。

付記: 友人からAnd I'm so glad I passedの解釈について私信をもらいました。「試験に受かった」というより、「及第した」「落第しなかった」「進級できた」というニュアンスではないか、という意見です。入学試験や卒業試験ではなく、たんなる学年末試験(アメリカの場合、夏は期末ではなく、学年末なのはご承知の通り)と想像できる歌詞なので、「及第」のほうが適切でした。

一歩踏み込んで語り手の気分をくみとると「やれやれ、今年も切り抜けた、助かったぜ」という、あまり勉強が得意ではない子どもの安堵の思い、というあたりに感じます。

もう一点、アリス・クーパーについても指摘を受けました。たしかに、アリス・クーパーにはSchool's Outという曲があります。こちらは(ほぼ)同題異曲です。そのうちご紹介するかもしれません。といっても、来年の夏になってしまうかもしれませんが!
by songsf4s | 2007-07-19 21:28 | 夏の歌