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Body Double by Pino Donaggio(OST 『ボディ・ダブル』より)
タイトル
Body Double
アーティスト
Pino Donaggio (OST)
ライター
Pino Donaggio
収録アルバム
Body Double (OST)
リリース年
1984年
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ちょっと迷ったのですが、こういう順序で来たのに、この映画を飛ばすのもアンフェアのような気がするので、ブライアン・デ・パーマの『ボディ・ダブル』にそそくさとふれることにします。

なぜ、そそくさでなければならないかというと、アメリカではR指定、すなわち、一般映画と成人映画の中間というレイティングになったぐらいで、エロティックなプロットを扇情的な映像にしているのです。日本ではそういうレイティングはないから、子どもだって見られるのですが、それはまずいのではないかと感じるほど、露骨な映像やセリフがたくさんある映画なのです。

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西部の風景かと思って見ていると、それが動きだし、書き割りだったことがわかる。そこへ、仕事でしくじった主人公の俳優がサウンド・ステージから出てくる、というこのオープニングは楽しいのだが……

◆ R指定 ◆◆
いつもなら、YouTubeに目的のシークェンスのクリップがあれば、ためらいなくもってくるのですが、肝心のテーマ曲が流れるのが、もっとも露骨なシーンなのです。よって、動画なしの音だけというものを貼りつけておきます。ここにああいうダンス・シーンを貼りつけるわけにはいかないのです。そうまでいわれると気になる、という方は以下のクリップの関連動画でもたぐってみてください。



基本は4/4の変拍子で、その点まで含めて、ちらっとジョン・カーペンターのHalloween Themeを思い浮かべます(Halloween Themeは5/4)。あれは恐怖を演出する不安定な音楽であり、こちらはいわばストリップティーズのBGM、たっぷり甘みをあたえてありますが、構造的にはよく似ています。Halloween Themeをお聴きになってみますか? 以下はナイフも血もないタイトルだけのクリップなので、安心してどうぞ。今日は骨抜き、腰砕け、腑抜けクリップばかりですまんことです。



音符の細かいリフと、1小節にわたって長く伸ばすゆるやかなコード、シンプルなコード・チェンジ、といったあたりが両者の共通点です。わたしは、ピノ・ドナジオはジョン・カーペンターの曲作りとアレンジメントを意識して、Body Doubleのテーマを書いたと考えています。いや、いただいたというわけではなく、純粋に「参照」のレベルでいっているのですが。

このBody Doubleのテーマは、劇中、何度か流れるのですが、いずれも、露骨な、あるいは微妙な性的興奮にかかわる場面です。過去にも扇情的な音楽というのは数多くあり、たとえば、ストリップティーズにはTabooというのはすでにジョークと化し、世界のストリッパーのだれひとりとして使わないのではないかというほど陳腐化しています。Body Doubleのテーマは、半世紀前ならTabooが果たしていた役割を負って、新しくつくられたもので、そういうもののサウンドがこうなったというところが、いかにも80年代らしいと感じます。

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◆ 模倣の退廃 ◆◆
ブライアン・デ・パーマは、数本にわたってアルフレッド・ヒチコックのパスティーシュをつくってきましたが、この映画はそれが行き着くところまで行き着き、退廃の腐臭を放ちそうになっています。面白いところはあるのですが、見終わったときには、なにやら疲れたため息が出てしまうような映画でした。

発想は『裏窓』から得たものかもしれませんが、プロットの柱は『めまい』だといっていいでしょう。基本的には両者を混ぜ合わせ、それを『サイコ』で味つけした、といったあたりと感じます。

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主人公はハリウッドの丘のてっぺんに建つ豪邸に居候することになる。家の出入りは、右下に見えるミニ・ケーブルカーといったおもむきの乗り物でする!

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なんだか、昔の東宝特撮映画に出てくる宇宙人の基地といった雰囲気のデザイン。じっさい、これはミニチュアに実写の窓の部分を嵌めこんで合成したのだと思う。

そもそも、ヒチコックの『裏窓』からして、ひとつまちがうと居心地の悪い映画になったはずです。猛暑のせいで、どこの部屋もブラインドやカーテンで窓をふさいでいないからといって、しげしげと他人の暮らしぶりを観察するのは、まっとうなふるまいとはいいかねます。その罪悪感をやわらげているのは、主人公ひとりではなく、恋人や家政婦や友人も、隣人観察に参加するからです。つまり、その程度のソフトな覗きだということです。

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主人公が高倍率の双眼鏡でのぞく対象もまた大豪邸。このへんが『裏窓』のように楽しめない理由のひとつだと感じる。

でも、『裏窓』の主人公が〈ミス・トルソ〉と名づけたダンサーは、外から見えるところでそんなことはしないほうがいいんじゃないか、と思うようなふるまいをします。デ・パーマはここから『ボディ・ダブル』の発想を得たのでしょう。あんなことを無意識にする人間はいない、わざとやっているのだ、という解釈です。

しかし、出発点がそこだと、話はエロティックな妄想じみたものにならざるをえません。こういうものの許容範囲というのは人それぞれ千差万別でしょうが、わたしはストリップティーズの場面は、うまい伴奏音楽だと思ってニヤニヤ見ました。しかし、『めまい』に捧げるオマージュである追跡シーンで、居心地が悪くなりました。シルクの下着をショッピングモールのゴミ箱に捨てる女もわかりませんし、男がそれを拾ってしまうにいたっては、映画の主人公がやることではないだろうと感じました。悪役のふるまいです。こういうシナリオの混乱ないしは計算ちがいがあちこちにあります。『愛のメモリー』でも、同じような印象を受けました。

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これは『めまい』でいうと、ゴールデン・ゲイト・ブリッジのシークェンスに相当すると思うのだが……。

◆ 自分自身にもどるとき ◆◆
body doubleという言葉は「代役、スタンドイン、替え玉」を意味します。この映画の主人公は苦闘中の俳優です。したがって、映画それ自体への言及がたくさんある自己言及映画、メタ映画の側面があり、そういうところは楽しいのですが、そこでもまたエロティックなムードが漂ったり、もっとストレートにポルノ映画の撮影現場へと入り込んでいったり、重要な登場人物がポルノ女優であったりと、そういうハリウッドの裏面が描かれています。

こうしたディテールのニュアンスがくどく感じられるし、プロットのあちこちに無理もあり、『サイコ』を意識した殺人の場面も、本家のスタイリッシュな映像には遠くおよばず、B級スプラッターじみた印象で、そうしたことが積み重なり、例によって素直に楽しむことができなくなっていくのです。

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ここはヒチコックではなく、鈴木清順へのオマージュかと思ってしまう場面。『野獣の青春』では窓越しに無音のクラブの様子が見えたが、このポルノ製作会社では、ガラス越しに無音の撮影現場が見える。

テーマ曲のセンジュアリティーや、視覚のトリックへのこだわりなど、細部には楽しいところがたくさんあるのに、またしても後味はさっぱりせず、この監督の映画を見るのはこれが最後かな、と思いました。たぶん、当のブライアン・デ・パーマ自身もそう感じたのではないでしょうか。彼の「ヒチコック憑き」は、この映画で「落ちた」のではないかと思います。そうじゃなければ、キャリアは終わっていたでしょう。

てなことをいいながら、当家がブライアン・デ・パーマ映画を取り上げるのはこれが最後とはならないでしょう。たぶん、あと一、二本は見ることになると思います。
by songsf4s | 2009-07-06 23:58 | 映画・TV音楽
Lisa by Franz Waxman (OST 『裏窓』より)
タイトル
Lisa
アーティスト
Franz Waxman (OST)
ライター
Franz Waxman
収録アルバム
N/A (映画『裏窓』挿入曲)
リリース年
1954年
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昨夜、巨人=中日戦の中継を見ていたら、立浪選手が打席に立っているほんの短いあいだに、アナウンサー、ベンチ・リポーターの両方が不思議なことをいうので、そこらじゅうに食べ物を吹き出しそうになりました。

アナウンサーがいうには、立浪は22年間にわたってドラゴンズの「屋台骨を引っ張ってきた」のだそうです。ん?

f0147840_18201699.jpg屋台骨=「屋台の骨組。また、家屋の柱・梁など」と広辞苑にあります。熟した言いまわしとしてはもちろん「屋台骨を支える」があります。いうまでもなく、ある集団の中心になって活躍することです。これを「屋台骨を引っ張る」と変形すると、わたしは正反対の状況をイメージします。その集団を壊滅させようという行為。大黒柱を引っ張って倒そうとするような絵柄が浮かんでくるのですな。

使いつけない言いまわしだから、するっと出てこなくて、他の言いまわし、たとえば、「先頭に立ってチームを引っ張ってきた」などと、ゴチャゴチャになってしまったというところでしょう。こういうときは、解説者がツッコミを入れて、アナウンサーにボケさせてやらないと、可哀想ですなあ。

そして、ベンチ・リポーターは……いや、もうやめておきましょう。おいおい、いま打席に立っている選手を引退させてしまうなよ、と大笑いさせてもらいました。たまにテレビを見るとこれだから、つぎにスウィッチを入れるのは一カ月後なんてことになってしまうのです。わたしが骨壺に入るころには、テレビでは日本語とは思えない言語が飛び交っていることでしょうな。いや、すでにそうなっているのかもしれません、いやいや、わたしの骨壺ではなく、テレビの日本語のことですが。さあ、今日もみんなで元気に日本国の屋台骨を引っ張ろう!

◆ シングアロング・チューン ◆◆
さて、『裏窓』の音楽のつづきです。『裏窓』では、新たに書かれた曲は少なく、多くは既存の曲をそのまま、あるいはピアノ・インストなどにしてほとんどノン・ストップで流す、あの時代にあっては異例のサウンドトラックになっています。

たとえば、レコードがそのまま使われたものとしては、一階の“ミス・ロンリー・ハート”(と主人公が名づける)が、存在しないボーイ・フレンドを招いて、架空の晩餐を供するパントマイム場面で流れる、ビング・クロスビーのTo See You (Is to Love You)があります。

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♪ "To see you is to love you. And you're never out of sight"

この女性の暮らしぶりには、ジェイムズ・ステュワートもグレイス・ケリーも気を惹かれ、同様に、われわれ観客も彼女の寂しい境遇に深い同情を寄せることになります。彼女の運命には音楽が深く関わってくるのですが、これ以上書くと、ルール違反になりそうなので、やめておきます。

また、ナット・キング・コールのヴァージョンで有名なMona Lisaも大きくフィーチャーされます。ただし、歌っているのは彼ではなく、劇中のパーティーの客たちです。十数人で元気に歌うタイプの曲ではないと思いますが、酒が入ると、人間、こんなものでしょう。

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YouTubeにはこのシークェンスのクリップがあるのですが、エンベッドできないので、ご興味のある方はあちらへ行ってご覧あれ。クリップを見る。

ここはクライマクスに向けての準備が進む重要なポイントで、いろいろなことが起きるのですが、それだけに、ここだけ見るのもぐあいが悪いかもしれません。Mona Lisaはこのクリップの冒頭に出てくるので、そこだけでおやめになったほうがいいでしょう。この歌をバックに、一階の“ミス・ロンリーハート”の部屋では、ちょっとしたドラマが起きることになります。

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Mona Lisaを書いたのは、レイ・エヴァンズとジェイ・リヴィングトンのコンビです。彼らは、当家でも一昨年のクリスマス・ソング特集で取り上げた、かのSiver Bellsの作者でもあります。Siver Bellsをもっているだけでも、一生、食べるに困らないのに、Mona Lisaまでもっていては、金の使い道に困ったでしょうな。

しかし、昔はやっぱり考え方が違うというか、繰り返しになりますが、酔っぱらって大勢でシングアロングするのに、Mona Lisaほど不向きな曲はないと思います。マイナーへいくところで、十人がうち五人ははずすんじゃないでしょうか。それでも、とくにシングアロング困難と思っていないということは、あの時代にはむずかしい歌が山ほどあったことを示しているのかもしれません。ほかの曲にくらべれば、Mona Lisaはちょいちょいだ、ということでは?

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映画はジェイムズ・ステュワートの視野のなかで終始するので、劇中ではこの部屋を外から見たショットはほとんどない。最後にそれがわかるときには、ほかのことで忙しいので、どんな外壁かなどといった些事には、おそらくだれも注意を向けていないだろう。

この曲のナット・コール盤が、映画のなかでうまく使われているのを見た記憶があるのですが、肝心のタイトルが思いだせません。調べてみると、これはそもそもアラン・ラッド主演の『別働隊』(1950年)のためにつくられたものだそうです。そりゃそうですね、エヴァンズとリヴィングストンは撮影所専属のソングライターだったのですから。

そして、わたしが昔、テレビで見たのは、1986年のその名も『モナリザ』という映画だったようです。なんだ、馬鹿馬鹿しい!

◆ グレイス・ケリーのテーマ ◆◆
タイトルが似ていて話が混乱しますが、この映画でのグレイス・ケリーの役名はリサで、フランツ・ワクスマンはLisaというタイトルの彼女のテーマ曲を書きました。

これは『裏窓』のなかでもっとも目だつ曲です。前回、くわしくご紹介した、デイヴィッド・セヴィル(ロス・バグダサリアン)扮する近所のソングライターが、劇中、何度もこの曲の断片をプレイしたり、手直しをしたり、スモール・コンボで演奏したりしたあげく、最後はフル・オーケストレーションをほどこしたヴァージョンが流れるのです。

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なんだか楽屋オチのようですが、劇中、グレイス・ケリーが、この曲を耳に留め、「あら、またこの曲。あの人はいったいどこから、こんなにすばらしい曲のインスピレーションを得るのかしら?」と賞賛するシーンがあります(もっとも、ジェイムズ・ステュワートに「毎月一度、女家主から得ているのさ」とまぜっかえされる)。

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「あら、またあの曲。あの人はいったいどこからこんなすばらしい曲のインスピレーションを得ているのかしら?」

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♪ "Dream forever in your arms, oh, Lisa"

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「毎月一回、女家主にインスピレーションをもらっているだけさ」

この曲はリサ自身に賞賛されるばかりでなく、一階の“ミス・ロンリー・ハート”の運命も変え、彼女にも、作曲家自身まで含めて賞賛されることになります。惜しむらくは、悪い曲ではないものの、聴いた瞬間、ビルボードでどこまでいくだろう、20位台か、いや、トップテンか、などと考えるタイプのキャッチーなメロディーではないことです。でもまあ、エルヴィス以前の時代だから、20位ぐらいは狙える?

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「これがヒットしてくれるといいんだけどね」

ヒチコック自身は、ポップ・ソングが誕生し、修正を加えられ、徐々に形を整えて、最後に完成品になるところを、映画のなかで描いてみたかったといっているそうです。それほど大げさなものでもないと思いますが、大きな話のまわりに小さな話をたくさんちりばめてあることを特徴とするこの映画の、ひとつの魅力になっているのはたしかです。

◆ “音楽監督”アルフレッド・ヒチコック ◆◆
f0147840_1915262.jpg60年代のヒット曲がしばしば映画のなかで流れるようになった70年代末以来、とくに疑問に思うようになったのですが、ああいう曲を選ぶのはだれなのでしょうか? 音楽監督なのか、それとも監督自身なのか、あるいは、すでにシナリオに指定されていることもあるのか?

『裏窓』の場合は、「description of the manner in which the music is used」すなわち「音楽の使用の仕方に関する詳細」という、6ページにわたるヒチコックの指示書が残されているそうです。パラマウントのルイス・リプストーンとシド・ハーマン(調べたが経歴判明せず)というスタッフの手を借り、監督自身が、どのシーンで、どの曲を、どのように使うかを決めて、スタッフに周知徹底したというのです。

f0147840_19152085.jpg驚くべきことは監督が選曲に容喙したしたことではなく、「使用の仕方」を指示したことのほうかもしれません。YouTubeのクリップでも一端をうかがうことができますが、楽曲はしばしばオーヴァーラップして使われていて、この点についても詳細に指示が書いてあるというのです。全体としてどういうふうに音が聞こえなくてはいけないかを、監督自身がイメージし、それをスタッフに伝えようとしたのです。

さすがはヒチコック、並みの監督とはレベルがちがいます。音楽監督はこういうタイプの音楽がわかっている監督を嫌うものですが、理想をいえば、監督というのは、音楽を理解し、つねに画面と音の調和や対比を考えながら映画を作っていかなければいけません。すくなくとも、絵と音の理想的なインターアクションを目指すなら、べつべつにつくるべきではないのです。わたしがジョン・カーペンターの初期作品を持ち上げるのは、そういう意味です。

◆ 棚上げの弁 ◆◆
フランツ・ワクスマンは赫々たるキャリアを誇る作曲家で、前回もふれた、『レベッカ』や『断崖』といったヒチコックの代表作のほかに、『陽のあたる場所』や『サンセット大通り』、もっと古くは『フランケンシュタインの花嫁』などをはじめ、多数の映画のスコアを書いています。

また、ハリウッドのスタジオ人種にはありがちなことですが、キャリアのみならず、人生としても興味深いところがあり、半分はワクスマンのミニ・バイオを書こうと思って、『裏窓』を延長したのですが、結局、そこまでたどり着けませんでした。ほかにもすぐれた作品はあるので、彼のキャリアと人生については、べつの映画のスコアを取り上げるときに、改めて検討しようと思います。

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オープニングでは窓のスクリーンがあがったが、エンディングでは逆に降りてくる。

by songsf4s | 2009-07-04 23:46 | 映画・TV音楽
Rear Window Prelude and Radio by Franz Waxman(OST 『裏窓』より)
タイトル
Rear Window Prelude and Radio
アーティスト
Franz Waxman (OST)
ライター
Franz Waxman
収録アルバム
N/A (映画『裏窓』挿入曲)
リリース年
1954年
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前回の『愛のメモリー』の記事をアップして眠ったら、一時間ほどで目が覚めてしまいました。その目覚める直前に見ていた夢が馬鹿馬鹿しいのなんの。夢のなかでブログを見ていて、コメントに「あなたのObsessionの解釈はまちがっている」とだけ書いてあったのです。ここからヒチコック映画のコピーになり、ヒチコックが有名にした、例のフォーカス操作によるクロースアップで、「間違っている」という文字がガーンと迫ってきたのでした! ソウル・バスが撮影したという『めまい』の悪夢のシーンもかくやです。

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書いてはいけない後半の仕掛けにふれる記事をアップしたのが、よほど気になっていたのでしょう。まあ、気にして当然ではありますが、べつに夢に見るほどのことでもないはずなのに、『めまい』にしても『愛のメモリー』にしても、ひどく神経症的な映画だから、そこに反応して、こちらもニューロティックになってしまったようです。

三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』にならっていえば、どちらの映画も『真景めまい』であり『真景愛のメモリー』というところで、なあに、それはみんな神経のせいさ、なのです。しかし、「神経」なんて言葉が流行語だった時代があったというのは、考えてみるとすごいことですな。

◆ 簡単にプロットを ◆◆

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さて、本日もまた、「なあに、それは神経のせいさ」といわれてしまった男の話、アルフレッド・ヒチコックの『裏窓』です。

簡単に設定を書いておくと、ジェイムズ・ステュワート扮するカメラマンは、取材に行ったレースでクラッシュに巻き込まれ、左足を骨折してしまいます。片足を丸ごとギプスにくるまれ、永の療養の退屈しのぎに、窓から見える向かいのアパートの住人たちを観察するようになります。そして、ある日、二階の住人が妻とはげしく言い争っているのを目撃します。その夜遅く、激しく雨のふりしきるなか、二階の男は大きなトランクをもって外出します……。

予告篇


プロットはいたってシンプルで、あとは、殺人があったのかなかったのか、というサスペンスだけ、というか、それだって、謎というほどのものではありません。だって、なにもなかった、「目撃者」の妄想だった、という話にしてしまった場合、客を満足させるのはきわめて困難なので、映画製作者があえてそちらの道をとる可能性はほんのわずかしかないことを、われわれ観客は百も承知ですからね。

もちろんヒチコックだって、客がそう看破していることは重々承知、この映画のポイントは謎解きにはないのです。では、なにがポイントかというと、窓越しに見る近所のアパートの住人たちの暮らしと、自分の部屋の中の暮らし、この二つの異なった「世界」のありようを描き、最終的にその二者が無関係ではなく、インターアクトしていることを証明するというドラマ、といったあたりじゃないでしょうか。

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向かいのアパートの怪しい男(レイモンド・“ペリー・メイスン&アイアンサイド”・バー)が肉切り包丁を片づけている。

考えようによっては、シリアス・ドラマの素材になりうるものですが、ヒチコックはそういう野暮なことはしません。あくまでもサスペンス・ミステリーを見せる姿勢を貫き通しています。たんに結果的に、ソーシャル・コメンタリーに「なってしまった」だけなのです。

そりゃそうです。しゃっちょこばってシリアスなものなんかつくらなくたって、腕のある作者がまじめに娯楽作品をつくれば、必然的にわれわれの人生のあざやかなタブローができてしまうのです。そのせいで、われわれはいわゆる「エンターテインメント」のほうを好み、純文学や社会派ドラマという野暮天に鼻をつまむのです。

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グレイス・ケリー(左)とジェイムズ・ステュワート(スティル)。わたしが不注意なだけかもしれないが、床がこんな模様になっていることは、映画ではわからないと思う。

◆ ヒチコックらしい異例のスコア ◆◆
『裏窓』は、いかにもヒチコックらしい、特異な製作スタイルとナラティヴを採用しています。あらゆるアクションは、セットに組まれた主人公の部屋、そこから見える中庭と近所のアパートのなかでのみ起こるだけでなく、それはすべて、足を骨折して自分の部屋から出られない主人公の目のみを通して、「遠くから語られる」のです。

音楽もまた特異なスタイルになっています。いわゆる「スコア」らしいものは冒頭にしかなく、ドラマがはじまってしまうと、近所の作曲家やダンサーの部屋などから流れてくる「劇中の音楽」だけになってしまうのです。登場人物のだれかが発している、または放送やレコードで聴いている音楽だけで、「映画のバックグラウンド音楽」である純粋なスコアはないのです。

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ラジオ。昔はこういうタイプのラジオがどこの家庭にもあった。

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ジェイムズ・ステュワートも、その友人の刑事も、男たちはみなこのダンサーに見惚れてしまう。もっともはなはだしいのはブライアン・デ・パーマで、このダンサーのシークェンスをもとに、映画を一本撮ってしまった。

こういう記事を書こうとすると、サウンドトラック盤がリリースされているほうがずっとやりやすいのですが、この映画については、いまだにOSTが存在しないのも、そういう事情があるので、やむをえないのです。

では、OST盤がリリースされていないということは、つまり、音楽は面白くないということなのか? ノー! いや、ふつうの形でないことはたしかですが、『裏窓』は音楽面でも、なるほどねえ、と感心してしまうのです。ヒチコックは生涯に何度も、そういう手があったのか、と大向こうを唸らせるようなことをした監督ですが、『裏窓』の音楽も、「そういう手があったのか」の一例です。音楽監督の意図ではなく、明らかにヒチコックの意志で、「現実音」のみで構成するという方針がとられたのにちがいありません。

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「『裏窓』でグレイス・ケリーとジェイムズ・ステュワートに演技をつけるアルフレッド・ヒチコック」なんていうキャプションがつきそうな写真だが、なんだかわざとらしいので、たんなるパブリシティー・ショットだろう。

◆ オープニング・タイトルと前奏曲 ◆◆
とはいえ、そういう方針が決められたあとで、じっさいに譜面を書いたり、選曲をするのは作曲者and/or音楽監督の仕事です。その「実施」の部分でも、『裏窓』の音楽はなかなか楽しめます。『裏窓』の音楽監督、フランツ・ワクスマンは『レベッカ』や『断崖』などで、すでにヒチコックと仕事をしたことのあるヴェテランで、ポップ・チューンが大量に投入されたこの映画のなかでも、いくつかいい曲を書いています。

それではオープニング・タイトルをどうぞ。ただし、このクリップはどういう意図なのか、このシークェンスでもっとも有名な数秒間のショットを切っています。1分をすぎたあたり、ギプスをはめられた足が映った直後にフェイドしていますが、このあとにキャメラが部屋を一周する、短いけれど、非常にだいじなところが飛ばされ、ジェイムズ・ステュワートがひげを剃るところにつないでいます。削除されないように、不完全なものにしてあるのかもしれません。



ジャック・サリヴァンの『Hitchcock's Music』という本によると、この曲はRear Window Prelude and Radioと記録されているそうです。内部的なキュー・シートの記載なので、タイトルというより説明です。といっても、サントラのタイトルは多くの場合、キュー・シートの記載をそのまま書いてあるだけのようですが。

『めまい』とは好対照で、こちらはいかにも軽快な、ジャズ・シンフォニー風オーケストレーション。なんとなくCaravanのように聞こえたり、なんとなくRhapsody in Blueのように聞こえたりする、ごった煮的というかコラージュ的というか、そういうところと、グルーヴが心地よいところがわたしの趣味には合っています。

ひと言でいえば、「よし、この映画はきっと面白いぞ」と確信のもてる絵作りであり、それに見合った浮き浮きするようなスコアです。映画が描こうとしている世界に、これほどスムーズに入っていけるオープニングは、そうめったにお目にかかれるものではありません。

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◆ 季節外れの「クリスマス、遅れないでね」 ◆◆
このクリップの途中からはもう「劇中に流れる音楽」に入っていて、画面で説明されているように、ピアノのある部屋の住人、やがてソングライター兼ピアニストであることがわかる人物のラジオから流れる音楽へと切り替わります。

このソングライターを演じている俳優が、ほほう、なのです。クレジット・タイトルではロス・バグダサリアンとなっていますが、こちらの名前で、ああ、とわかってしまう方はそれほどたくさんはいらっしゃらないでしょう。この人はもうひとつの名前、デイヴィッド・セヴィルのほうで、ビルボード・チャート・トッパーをもっているソングライター、シンガー、プロデューサーなのです。

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まだおわかりにならない? バグダサリアンまたはセヴィルは、チップマンクスの生みの親、当家でも一昨年のクリスマス・ソング特集でとりあげた、かのThe Chipmunk Songの作者でありシンガーなのです。さらにいえば、チップマンクスではなく、セヴィルの名義でリリースしたWitch Doctorも、ビルボード・チャート・トッパーになっています。

『裏窓』は一回で終わるつもりだったのですが、時間が足りず、延長します。次回はべつの挿入曲と、フランツ・ワクスマンについての予定です。

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by songsf4s | 2009-07-03 23:55 | 映画・TV音楽
Main Title by Bernard Herrmann(OST 『愛のメモリー』より)
タイトル
Main Title
アーティスト
Bernard Herrmann (OST)
ライター
Bernard Herrmann
収録アルバム
Obsession (OST)
リリース年
1976年
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ジョン・カーペンターの『要塞警察』のときに書きましたが、カーペンターはかつて、ブライアン・デ・パーマのことをコピーキャットと批判したことがあります。

じっさい、そういわれても仕方がないというか、みずから好んでヒチコックの下風に立ったようなところがデ・パーマにはありました。とくに70年代から80年代はじめぐらいまでの諸作は、冗談なのか本気なのかわからないほど、ヒチコック風の、というよりヒチコックをそのままコピーしたような映画ばかりでした。

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ブライアン・デ・パーマ(左)とアル・パチーノ(中)

どれくらいヒチコック風かというと、プロットはもちろんヒチコック好みのサスペンス、画面はヒチコック作品からの引用だらけ、そして、もっとひどいときは、音楽までヒチコック気取りでした。

そして、本日の『愛のメモリー』(うへえ、名は体をあらわすタイトルで、羊頭狗肉ではないのだが、まともな神経の人間は恥ずかしくて口にできない!)こそは、ブライアン・デ・パーマのヒチコック心酔が行く着くところまで行き着き、本家ヒチコック座付き作曲家であるバーナード・ハーマンに音楽を依頼してしまったという作品なのです。この映画の原題どおり、まさしく「妄執」Obsessionの果て。さて、その結果や如何に?

予告篇


◆ 未熟ゆえの魅力 ◆◆
このときのブライアン・デ・パーマと本家本元では、やはりずいぶんと開きがあるものだなあ、と思います。それが如実にあらわれているのが「名場面」です。ヒチコックの場合、あらためて再見するまでもなく、多くの作品で、あれとこれと、というように、すぐに極めつきの名場面が思いだされます。

デ・パーマの場合、残念ながら、そういう風に文句なしに記憶に刻み込まれる場面というのはないようです。いや、Obsessionでは、撮影監督のヴィルモス・ジグモンドの助けもあって、あちこちで仕掛けてはくるのです。でも、どれもまだ腰が据わっていないというか、薄味というか、手つきが見えるというか、本家のような、しっかりとした手応えのあるシーン作りをしているとは、わたしには思えません。

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身代金受け渡しシークェンス。ミズーリ河を行く外輪船に乗ったクリフ・ロバートソンが、身代金の入ったブリーフケースを桟橋に投げ上げ、車できた犯人がそれを回収するところを、ヴィルモス・ジグモンドは船上のキャメラから移動で捉えた。

ただ、これはあと知恵なのですが、ずっとデ・パーマの映画を見ていくと、技術がともなってきて、落ち着いた絵作りになった作品のほうが、スムーズになった分、感興が薄く感じられます。音楽でもよくあることですが、まだ右も左もわからぬうちに猪突猛進でつくってしまったもののほうが、ラフ・エッジはあっても、いや、ラフ・エッジがあるおかげで、味として後年のものよりよかったりします。

たとえば、数年後の『アンタッチャブル』あたりになると、演出ぶりも落ち着いて、滑らかな展開になるのですが、そのいっぽうで、どこにもとがったところのない、ごくふつうの映画に感じられます。いや、まったく、ものをつくるというのはむずかしいものです。したがって、ブライアン・デ・パーマ作品中にあって相対的には、Obsessionは捨てがたい映画ではあります。

◆ 愛のオーメンのエクソシスト ◆◆
さっさと音楽のほうにいけばいいのに、映画のことでグズグズしていたのには理由があります。それをご覧いただきましょう。

タイトル


うーん、これはなんといえばいいのか。慎重に言葉を選ぶと「バーナード・ハーマンの全スコアのうち、とくに重要なものではない」といったあたりでしょうか。うちで友だちと話しているときなら、「Obsessionは最悪かもな」と口を滑らすでしょう。

どこが気に入らないかというと、まるで『オーメン』とか『エクソシスト』とか、そういったたぐいの、キリスト教がらみの、冗談のように荘重なところのある恐怖映画がはじまりそうな、馬鹿らしさと紙一重の大袈裟さです。キリスト教がらみで、馬鹿らしさと紙一重の大袈裟な身振りといえば、近年ではなんといっても『ダヴィンチ・コード』(紙一重どころか、王道を行くアホらしさそのもの、というご意見もありましょうなあ)が抜きんでていますが、あの映画なんかにはピッタリのサウンドです。

f0147840_2222237.jpg変な衣裳をまとってはいるものの、『愛のメモリー』という邦題が開き直って宣言しているように、Obsessionは本質的にラヴ・ストーリーなのです。トリッキーではあるので、たとえば、アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』(スタニスラフ・レムの原作の邦題は『ソラリスの陽のもとに』)や、ダグラス・トランブルの『ブレインストーム』あたりの親類と思ったほうがいいのですが、ともあれ、骨組にまでストリップ・ダウンすれば、恋愛映画です。

いや、スコアを書いたのがジョン・ウィリアムズやハンス・ジマーあたりの非複雑系作曲家なら、わたしだって、じゃあ、ショーガネーナとスッパリあきらめます。でも、バーナード・ハーマンですからね。もうすこし微妙なメイン・タイトルをつくれたはずです。現に、前回取り上げた『めまい』では、サスペンス映画であると同時に、特殊な設定のラヴ・ストーリーだというあの映画の二面性を、うまく音として表現していました。

そういう高度な表現のできる作曲家なのに、なぜこのメイン・タイトルは『オーメン』なのだ、と嘆息をついてしまうのです。いや、いい曲はあるのですよ。OSTではThe Church/Court's Confession/Bryn Mawrと題されている10分近い曲の冒頭や後半は、『めまい2』という雰囲気で、おおいに楽しめます。まあ、自己コピーの雰囲気なきにしもあらずのところが弱いのですけれど、映画のほうもヒチコックの『めまい』のコピーだから、その意味で筋は通っていることになります。

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Bryn Mawrが流れるシーン。ジュヌヴィエーヴ・ブジョルドは魅力的に撮られているが、とくにイタリアのシークェンスがすばらしい。楽曲名にもなり、この場面のセリフにも出てくる「ブリン・マー」の意味がわからなくて調べた。19世紀末に創立されたフィラデルフィアの女子大。それで納得がいった。ちなみに、津田塾の創立者、津田梅子はブリン・マーの卒業生なのだとか。

だから、全面的に気に入らないわけではなく、荘重なメイン・タイトルが気に入らず、その延長線上で、ティンパニーとオルガンの組み合わせがあちこちに顔を出し、そのたびにわたしは「またオーメンかよ」とイライラしてしまうだけなのです。

バーナード・ハーマンも、「同じ映画」のスコアを二度書くとは思わなかったでしょう。その戸惑いには同情します。いや、でも、根本的な蹉跌は外部にあり、ハーマンにはなんの責任もないのかもしれません。公開直前に、プロットの根幹部分が変更されてしまい、ハーマンがスコアを書いたものとは、大きくニュアンスがズレてしまったのです。

しかし、それを説明するには、プロットの肝心要のところを書く必要があります。これからこの映画をご覧になるなら、この部分はぜったいに読まないほうがいいので、以下は、DVDをご覧になったあとでお読みください。

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◆ コントラヴァーシャルなテーマと音楽的錯誤 ◆◆
ハーマンが荘重なテーマを書いたのは、この映画を悲劇と捉えたからかもしれません。いちおう、現実には起こらなかったこと、夢のなかの出来事という処理をしていますが、根本的なところで、Obsessionは、そうとは知らずに娘と同衾してしまった父親の悲劇なのです。ピエル・パオロ・パゾリーニの『アポロンの地獄』同様のエンディングであってもおかしくない話なのです。

そう考えると、バーナード・ハーマンの大仰なメイン・タイトルは、じつはテーマをみごとに表現したものといえます。公開前に、インセスト・タブーの部分を現実ではなかったとするための追加シーンを撮影したため、ハーマンがスコアを書いたときとはプロットの根本部分が変化してしまったのです。まったく、複数の人間のイマジネーションが合成される映画というのは、じつに一筋縄ではいかないなと、またしても嘆息が出てしまいます。

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『めまい』だと思ってみていると、『レベッカ』が混入してきて、おや、そっちへ行くのか、と混迷しはじめる。

いや、会社の要求にしたがって撮り直しをせず、じっさいにインセスト・タブーをおかしてしまった悲劇として公開したほうがよかった、といっているわけではありません。そのやり方もやはり公開版同様、うまくいかなかったのではないでしょうか。発想の根本のところですでに、ふつうの人間には居心地のよくない話なのです。

初見のときは、『めまい』をハッピーエンドに書き直そうとしたのだと捉えましたが、今回、久しぶりに見直し、プロットの書き換えも考慮に入れて検討してみたら、ハッピーエンドになっていること自体、無理があると感じました。死ななければそれでいいということはありません。インセスト・タブーの破戒者として生きていくことは、死ぬこと以上の悲劇だろうと思います。

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「開かずの間」もまたレベッカ・テーマ

ブライアン・デ・パーマのものとしては、ラフ・エッジゆえの魅力のある映画だと思うのですが、やはり、素直に佳作というのはためらうな、という結論でした。バーナード・ハーマンは、やるべきことをやったのかもしれない、とは思うものの、決定的な部分でプロットに足を引っ張られたか、またはみずから落ち込んでいったように思われます。「退屈はしない失敗作」というあたりでいいのではないでしょうか。

なんだかどっちつかずの混乱した記事になってしまいましたが、じっさい、Obsessionは、見ているときも、気分の針は肯定から否定へ、否定から肯定へと、行ったり来たりするのです。そして、その理由は、主としてインセスト・タブーの扱いで迷ったために、プロットそれ自体が当初目指したものから大きくズレたことにある、といっていいだろうと思います。わたしは、たとえ夢のなかの出来事として逃げを打ったにせよ、やはりインセスト・タブーを肯定的に見ることはできませんでした。そこが最大の欠陥でしょう。

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by songsf4s | 2009-07-01 23:51 | 映画・TV音楽