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The Things We Did Last Summer by Frank Sinatra
タイトル
The Things We Did Last Summer
アーティスト
Frank Sinatra
ライター
Sammy Cahn, Jule Styne
収録アルバム
Best of Columbia Years 1943-1952
リリース年
1946年
他のヴァージョン
Lesley Gore, Dean Martin, Shelley Fabares, the Beach Boys
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この曲のタイトルには「夏」とありますが、last summerというのだから、夏以外の季節に時季が設定された歌だということははっきりしています。では、その時季はいつかというと、晩秋または初冬ではないかと考えられます。歌詞の内容から、それがうかがえるのです。

◆ 避暑地の遊びのフラッシュ・イメージ ◆◆
では、ファースト・ヴァース。

The boat rides we would take
The moonlight on the lake
The way we danced and hummed our favorite song
The things we did last summer
I'll remember all winter long

「ぼくらが好きだったボート遊び、湖を照らす月の光、ダンスをし、お気に入りの曲をハミングしたっけ、今年の夏にしたことは、冬のあいだずっと忘れないだろう」

ボート遊びのwouldは習慣などを示すものなので、一度や二度のことではなく、何度となくボートに乗ったということをいっています。

last summerは、その時点から見て「最後の夏」にすぎませんが、これから冬が来る、または、いまが初冬であることがこのヴァースの最後のラインで明示されているので、「今年の夏」でしょう。

つづいてセカンド・ヴァース。

The midway and the fun
The kewpie doll we won
The bell I rang to prove that I was strong
The things we did last summer
I'll remember all winter long

「中道での遊び、賞品のキューピー人形、力が強いところを見せようと鳴らしたベル、今年の夏のことは、冬のあいだもずっと忘れないだろう」

midwayというのは、適切な日本語がないようなのですが、遊園地などで、娯楽施設や屋台などが両側に並んだ道のことです。映画ではおなじみですし、日本の場合、温泉街や観光地などにもそういう通りがありますね。南関東でいうと、いまはどうか知りませんが、昔は江ノ島や熱海や伊東にいくと、夜は両側に土産物屋、食べ物屋、射的場、スマートボール場(なんてゲームはまだ存在しているのでしょうか?)などが並んだ通りをそぞろ歩きしました。

f0147840_23561361.jpgキューピーは、wonというのだから、たぶん射的の賞品でしょう。「ベル」というのは、ハンマーで土台を力いっぱい叩くと、なんというのでしょうか、錘の逆のようなものが跳ね上がって、機械のてっぺんに取り付けたベルを鳴らす、というあの遊具のことです。アミューズメント業界でなんというのかちょっと調べてみましたが、arcade hammer game machineとかなんとか、説明的な名前で売っていました。とくに通りのいい一般的名称はないのでしょう。

湖ばかりではなく、そういう施設があるということから、語り手が回想している土地は、おおぜいの人が集まる有名な避暑地だと想像がつきます。


◆ プロの作詞家の技 ◆◆
以下はブリッジ。

The early morning hike
The rented tandem bike
The lunches that we used to pack
We never could explain that sudden summer rain
The looks we got when we got back

「早朝のハイキング、レンタルの二人乗り自転車、よくランチをつくってもっていったっけ、あの突然の通り雨だけは、どうにもわけがわからなかった、帰ってきたときのぼくらの恰好ときたらひどいものさ!」

早朝のハイキングといっても、暑い日中を避けて昧爽から出かけた、ということで、朝のうちに帰ってくるようなら、ハイキングではなく、散歩です。

f0147840_00751.jpg日本の観光地でも最近はレンタ・サイクルが増えたようですが、まだ二人乗り自転車のレンタルというのは見たことがありません。そもそも、タンデム・バイク自体、めったにお目にかかれません。

f0147840_1141258.jpgWe never could explain that sudden summer rainというラインには、サミー・カーンの技が如実にあらわれています。ここで伝えようとしている「事実」は、雨具を用意せずに出かけて、突然のどしゃ降りにあってしまった、ということにすぎません。以上のわたしのセンテンスは事実経過の説明にすぎず、「表現」にはなっていません。「あの突然の雨ばかりは、どうにも説明のつけようがなかった」と表現されたことによって、どれほど二人があわてふためき、同時に笑い合い、それが忘れられない思い出になったかということが、ダイレクトに、ある情景として視覚的に伝わってきます。

うまい、ということは、考えようによっては、あざといということですが、あざといといわれるくらいの技をもっていなければ、プロの作詞家の資格があるとはいえません。ビートルズ以降の素人作詞家全盛時代にあっては、こうした昔のプロフェッショナルの技が慕わしいものに感じられます。

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アメリカのランチ・ボックスというと、こういうオールド・ファッションドなものを思い浮かべる。上の丸い部分にはカチッとポットがはまるので、冷たいレモネードなどを入れる。下段にはサンドウィッチ、果物、ポテトチップスの小袋などを入れる。しかし、これはひとり用なので、この歌に出てくるのは、下の写真のようなバスケット・タイプだろう。

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◆ 秋景色のようにうつろい ◆◆
サードにしてラスト・ヴァース。

The leaves begin to fade like promises we made
How could a love that seemed so right go wrong
That things we did last summer
I'll remember all winter long

「ぼくらが誓った愛と同じように、木の葉の緑もうつろいはじめている、あれほどうまくいっているように思えた恋が、どうしてこんな風にまずくなってしまうのだろう、今年の夏にぼくらがしたことは、冬のあいだずっと忘れないだろう」

というわけで、ブリッジまでずっとつづいた、楽しい夏の出来事の数々は、みな復らぬ昔の話、ああ、儚いなあ、と振り返っている歌だということが、このサード・ヴァースで明示されます。

木の葉がbegin to fadeというのだから、土地によってはいま時分のことではなく、十月ぐらいの歌と受け取ったほうがいいのかもしれません。南関東では、ちょうどいまの時季にピッタリだと感じますが、この歌が書かれた1941(昭和16)年(太平洋戦争開戦の年ですねえ。あちらはのんびりしていたわけで、経済封鎖ですでに物資不足に陥っていたという当時の日本とは別世界)には、たぶん秋の訪れは当今より早かったのではないでしょうか。

サード・ヴァースはちょっとしたダウナーですが、しかし、ブリッジまでの、スライド・ショウでも見るような、動詞すらほとんど使わない、簡潔なthings we didの描写はなかなかみごとで、さすがはサミー・カーンだと感じます。

◆ 格別な味の「若さ」 ◆◆
看板に立てたフランク・シナトラのヴァージョンは、セッショノグラフィー・サイトによると、以下のようなメンバーで、1946年7月にハリウッドで録音されています。

Frank Sinatra(ldr), Axel Stordahl(con, a), Heine Beau, Herbert Haymer, Jules Kinsler, Fred Stulce(sax), Fred Dornbach(sax, per), Don Anderson, Ray Linn, Rubin "Zeke" Zarchy(t), George Jenkins, Edward Kuczborski, Bill Schaefer(tb), Richard Perissi(frh), Dave Barbour(g), Philip Stephens(b), Mark McIntyre(p), May Cambern(hrp), Ray Hagan(d), William Bloom, Harry Bluestone, Werner Callies, Sam Cytron, Peter Ellis, Sam Freed, Gerald Joyce, George Kast, Morris King, Sam Middleman, Mischa Russell, Olcott Vail(vn), Paul Robyn, Stanley Spiegelman, Dave Sterkin(vl), Cy Bernard, Fred Goerner, John Sewell(vc), Frank Sinatra(v)

Stormy Weather その2 by Django Reinhardtのときのように、だれか「知り合い」のお父さんでもいるかと思いましたが、さすがに知っているプレイヤーはゼロ、なじみの名前はアレンジャー/コンダクターのアクスル・ストーダールただひとりです。

アクスル・ストーダールの実力のほどは、Moon of Manakoora by Dorothy Lamourのときにご紹介したアルバム、Jasmine Jadeでよくわかっていますが、これだけ時代が古いと、アレンジの出来がどうこうといえるほど、バンドの音は聞こえません。

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フランク・シナトラとコンダクトするアクスル・ストーダール(1944年11月)

だれであれ、大歌手の若いころの歌声というのは、なかなか印象的なものですが、1940年代の若いシナトラの声はまた格別で、この時代にこだわるシナトラ・ファンが多いのもうなずけます。なるほど、「アイドル」だったのだと納得します。

リプリーズ設立以後、いや、キャピトル時代後半あたりからのシナトラは、スロウ・バラッドになると、ときにくどくなることがありますが、このThe Things We Did Last Summerは、流麗に歌っても、まとわりついてきたりはしません。若いというのはありがたいものです。

◆ レスリー・ゴア盤 ◆◆
この曲はなかなかいいヴァージョンがそろっていて、じつは、看板をだれにするか、最後まで迷いました。もうひとりの候補はレスリー・ゴアでした。

レスリー・ゴア盤は、セッショノグラフィーを読むと、どうやらアルバム・トラックだったようで、シングル・カットされた形跡はありませんが、じつに惜しいことをしたものだと思います。いや、彼女のアルバム・トラックの多くは、シングル曲並みにていねいにつくられていることが、ここでも証明されたというべきかもしれません。

夏の歌の特集をやっているころ、九月のはじめにでも、このThe Things We Did Last Summerを取り上げようかと思い、レスリー・ゴア盤もプレイヤーにドラッグしたまま、ほかの曲といっしょによく流していました。レスリー盤のイントロが流れるたびに、いい音だなあ、と感じ入りました。ギター、ベース、ドラム、ストリングスだけのシンプルなイントロですが、どの音もじつに鮮やかなサウンドになっているし、リー・ハーシュバーグがやったのかと思うほど(いや、たぶんちがいますがね)、みごとなバランシングになっています。これだけ気持ちのよいサウンドになっていれば、歌はいらないかも、といいたくなるほどです。

f0147840_0353663.jpgいや、わたしは昔からレスリーのファンです。70年代に、同時代の音楽にうんざりして、昔のものを聴きたくなったとき、最初に思い浮かべたのは、彼女のIt's My Partyだったほどで、音楽を聴きはじめたころから好きな声、好きな歌い方の人でした。

毎度毎度、同じ歌ばかりうたって恐縮ですが、バラッドのときでも湿度が低く、まとわりついてくるいやらしさがないところが、やはり60年代のスターらしいと感じます。「わたしの時代」には、力強く歌いあげたり、ねちっこく歌ったり、歌のうまさをひけらかすことを優先して、われわれが楽曲のよさを味わうのを邪魔するパアなおばさんジャズ歌手など、まったくお呼びじゃなかったのです。

そして、もうひとつ同じ歌になりますが、声の若さというのは格別なものだなあと、レスリーのThe Things We Did Last Summerを聴いても思うのでした。

このヴァージョンは1965年の録音で、そろそろレスリーと縁が切れかかったクウィンシー・ジョーンズのプロデュース(ひょっとしたら、レスリーとの最後の仕事)です。残念ながら、スタジオはもちろん、アレンジャーやエンジニアの名前もわかりません。

63、4年なら、クウィンシー・ジョーンズのプロデュースの場合、アレンジャーは自動的にクラウス・オーゲルマンと考えて大丈夫なのですが、レスリーの65年は微妙な時期で、この直前のものは、ジャック・ニーチーのプロデュースによるハリウッド録音です。クウィンシー・ジョーンズは、このころから映画の仕事のためにハリウッドに拠点を移していたということですが、The Things We Did Last Summerについては、なんとも判断がつきません。たぶん、ニューヨーク録音じゃないでしょうか。ハリウッドでは書類が残っているので、録音場所および日時がレスリーのボックスにも明記されていますが、ニューヨークは書類が不備なので、ほとんどデータが記載されていません。それから考えれば、このThe Things We Did Last Summerにも記載がないので、ハリウッドではないと推測されます。

◆ ディーン・マーティン盤 ◆◆
年をとるにつれて、だんだんディノという人が好ましく感じられるようになり、最近はよく聴いています。このディーン・マーティン盤The Things We Did Last Summerもなかなか悪くない出来です。しかし、シナトラとレスリー・ゴアのように、どちらを看板に立てようか、などと迷うほどの出来でもありません。

f0147840_038142.jpgこの人がもっとも魅力を発揮するのは、二、三杯はいって気持ちよくなったから、ちょっと歌うか、といった調子で、ひどくノンシャランに、そして、ちょっと面倒くさそうに、たんなる酔余の気まぐれという雰囲気でうたったときだと思います。そういう基準からいうと、The Things We Did Last Summerのディノは、微妙に「きまじめすぎる」と感じます。たんなるわたしの好みにすぎないのですが、もっと投げやりな味が入ったほうが、ディノらしいと感じます。でも、悪くない出来だ、と繰り返しておきます。

f0147840_0392152.jpgシェリー・ファブレイ盤は、うーん、べつに悪くもないけれど、とくによくもない、という感じです。サッド・ソングなのに、アレンジが元気よすぎるのじゃないでしょうか。ヴァイオリンのピチカートと、バックの女性コーラスのアレンジ(タリランとかなんとかいうナンセンス・シラブル)はかなりマヌケです。

ただ、ドラム・クレイジーとしては、この極度にストイックなドラミングにはちょっと惹かれます。二拍目にハイハットの8分2打が入るのですが、これがじつに不思議なサウンドなんです。たぶん、ブラシでハイハットの中心近くを叩いているのではないかと思うのですが、よくわかりません。8分音符の1打目はクローズド、2打目はオープンと、やるべきことをちゃんとやったプレイです。プロ! ご参考までに申し上げれば、シェリーの最大のヒット曲であるJohnny Angelで、極度にストイックなハイハットのプレイをしたドラマーはアール・パーマーです。

◆ ビーチボーイズのボツ・トラック ◆◆
ビーチボーイズ盤は、ボツ・トラックが、ボックスで生き返ったものですが、なるほど、ボツだと感じます。いや、まじめにつくったもので、けっしてデモのレベルではありません。ファンの方なら、クリスマス・アルバムのB面のスタイル、といえばおわかりでしょう。ビーチボーイズにしてはビッグ・プロダクションです。

f0147840_0413683.jpgわたしは、ビーチボーイズのクリスマス・アルバムはA面しか聴きません。B面の時代錯誤なフォー・フレッシュメン・スタイルをまったく好まないものですから、同じようなサウンドのThe Things We Did Last Summerも、同じように好みません。

デイヴィッド・リーフのライナーによると、ブライアンの記憶では、なにかの映画のために録音したけれど、映画そのものが流れたためにお蔵入りしたのだそうです。眠らせたままのほうがよかったかもしれません。ボックス・セットだの、ボーナス・トラックだのというのは、ときにひどく迷惑なものです。

書き忘れていたことがひとつあります。レスリー・ゴアとシェリー・ファブレイは、The bell I rang to prove that I was strongのところのIをyouに変更して歌っています。女の子が「力が強いところを見せるために」ハンマーなんかをガーンとやったら、たちまち男が逃げ腰になってしまう時代だから、これはやむをえない措置でしょう。

でも、女の子がハンマーをふるって、カーンとベルを鳴らしても、わたしなら、アメリカの女の子らしいや、と笑って聴いたでしょう。それはそれで可愛いんじゃないでしょうか。

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by songsf4s | 2007-11-16 23:56 | 秋の歌
'Tis Autumn by Nat "King" Cole
タイトル
'Tis Autumn
アーティスト
Nat "King" Cole
ライター
Henry Nemo
収録アルバム
Nat King Cole Trio Story
リリース年
1949年
他のヴァージョン
The King Sisters, Chet Baker
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スタンダードの秋の曲というのは、どうも湿っぽくていけません。秋を表現しようとすると、たいていのソングライターが思考停止して、クリシェといって悪ければ、「物思いの秋」という空想の領域に入りこんでしまい、かまえずに、さらっと秋のスケッチをするということができなくなるのではないかと思います。そのなかでは、この曲はただふんわりとやわらかいだけで、湿度は低く、ウィットもあるので、聴く気になります。

◆ 楽しく、愉快な秋 ◆◆
さっそくファースト・ヴァースから。

Old Father Time checked
So there'd be no doubt
Called on the north wind to come on out
Then cupped his hands so proudly to shout
La-di-dah di-dah-di-dum, 'tis autumn

「時の氏神は間違いのないようにたしかめ、北風に出てこいといった、そして、なんとも誇らしげに手を丸めて『ラディダ、ラディダム、秋だぞよ』と叫んだ」

f0147840_034363.jpgFather Timeは、ギリシャ神話のクロノスのような、時間を擬人化した神様だそうです。時を司るので、絵に描かれるときは砂時計をもっているということですが、そういうものはすくなく、ウェブ上で見かけるものの大部分は懐中時計をもっています。

ずいぶんと近代化された神様で、懐中時計の発明に適応できたのなら、ディジタル・ウォッチにも簡単に適応できるだろうに、と思うのですが、そういう絵は見かけません。死神のように、かならず大きな鎌をもっている理由までは調べが行き届きませんでした。あとでわかったら補訂します。

Trees say they're tired
They've born too much fruit
Charmed on the wayside
There's no dispute
Now shedding leaves
They don't give a hoot
La-di-dah di-dah-di-dum, 'tis autumn

「木々は、あんまりたくさん実を生らせたので、もう疲れたという、道ばたでうっとりとなり、一木たりとも異議を唱えることなく、じゃあ、葉を落とすことにしようと話がまとまった、木々たちはもうどうでもいいのだ、『ラディダ、ラディダム、秋だ』」

ちょっと意訳が入りましたが、1時間で書きと写真集めと加工とアップロードをしなければならないので、わたしもdon't give a hoot、解釈しそこなったところは無視して通りすぎます。なんでcharmedなんだ、なんて、いちいち考えている余裕はゼロなんです。

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こちらの時の氏神は、左手に砂時計を握っている。鎌を奪われ、追い払われるところか? ということは、死神の場合と同様、時の氏神がもつ鎌はやはり死の象徴、時いたれば、われわれはみな、時の氏神の判断で死ななければならない、ということをあらわしていると思える。

ブリッジ。

Then the birds got together
To chirp about the weather
After makin' their decision
In birdie-like precision
Turned about and made a beeline to the south

「そして、鳥たちも集まり、天気についてピーチク話し合って、いかにも鳥らしいきちょうめんさで決定をくだし、くるっと回れ右すると、真っ直ぐ南を指して旅立った」

なぜ鳥はきちょうめんなのかわかりませんが、これも無視して通りすぎます。たんに、decisionとprecisionの韻が笑えると思っただけかもしれません。すくなくとも、わたしはここでブハッと吹きました。

しかし、秋になると、夏鳥にかわっていろいろな鳥があらわれる、というのは、たいていの人が無視するみたいで、人間の心理は変というか、クリシェこそが人間の日常なのだといいたくなります。モズなんかがやってきて、にぎやかに啼いたりするんですけれどねえ。去る者もあれば、来る者もあるんです。わが家の近所では、秋になると、リスが冬支度でいつにもまして忙しく、そして、けたたましく活動するようになります。秋もまた秋なりににぎやかなものです。

My holding you close really is no crime
Ask the birds and the trees and old Father Time
It's just to help the mercury climb
La-di-dah di-dah-di-dum, 'tis autumn

「こうしてきみを抱くのは、罪でもなんでもないんだよ、鳥や木々や時の氏神にきいてごらん、たんに水銀柱を上らせるだけなのさ、ラディダ、ラディダム、秋だ!」

時の氏神だの、木々が疲れたの、鳥が衆議一決して南下しただのと、あれこれゴタクをいっていたのは、ここが目的地だったのです。「てわけで、世の中みんな秋と決まったからさ、寒いから抱き合おうよ、いい季節だねえ」という歌なのです。

湿っぽい秋の歌は棚上げにして、この曲を取り上げた理由は、このサード・ヴァースにあります。こういう男には、わたしは百パーセント共感します。だいたい、秋というのは楽しい季節だとわたしは思います。でも、そういうことを歌った曲というのはごくまれなのです。昨日取り上げた、レイ・デイヴィーズのAutumn Almanacと並んで、秋を楽しげに歌っためずらしい曲として、おおいに稀少価値があります。

◆ 各種ヴァージョン ◆◆
ナット・コールの歌については、いつものように、まったく文句がありません。これだけの声と、これほどの表現力をもっていれば、無敵です。センティメンタルな曲をうたっても、いやらしくまとわりついてくるところがないのが、この人の歌の賞美のしどころかと思います。あとはバッキングのアレンジ、サウンドしだいというところで、弦や管がついたときは警戒しなければなりませんが、トリオについては文句なしです。

というわけで、ナット・コールを看板に立てましたが、「同時上映」扱いにしたキング・シスターズがまた素晴らしくて、こちらを看板してもいいくらいです。最近、彼女らのベスト盤は、わが家ではものすごいヘヴィー・ローテーションでかかっています。

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わたしは、大昔の靄がかかったような女性コーラスというのには、コロッとやられてしまう傾向があるのですが、それにしても、キング・シスターズはすごいのです。声だけなら、アンドルーズ・シスターズより好きです。

だれがだれやらさっぱりわからないのですが、だれかひとり、風邪をひいたような声の人がいて、これが素晴らしいのですよ。たいていの曲でこの声が聞こえるので、'Tis Autumnのときだけ風邪をひいていた、ということではなく、もともと鼻にかかった声なのでしょう。こういう声をもっていたら、もう歌手になるしかありません。

サックス・ソロ、とくにスロウで思い入れたっぷりの嫌味なやつはわたしの天敵で、管楽器はアンサンブルにかぎる、ということは何度か書きましたが、ピッチの高い金管楽器の音はサックス以上の大天敵で、単独でも複数でも好まず(例外はTJB。あのトランペットのデュエットというのはたいした発明)、チェット・ベイカーも、他のプレイヤーよりは不快指数は低いとは思うものの、感銘は受けません。

そもそも、いくらそれがこの人の身上といっても、これはあまりにもダレすぎです。BGMのレベルをあっさり通り越して、完璧に子守唄。寝るにはいいのじゃないでしょうか。もっとシャキッとした音が猛烈に聴きたくなります。ハル・ブレインでも聴くか、という気分になったところで、ちょうど、わが家のプレイヤーはゲーリー・ルイス&ザ・プレイボーイズのAutumnになりました。
by songsf4s | 2007-11-15 23:53 | 秋の歌
Autumn Almanac by the Kinks その2
タイトル
Autumn Almanac
アーティスト
The Kinks
ライター
Ray Davies
収録アルバム
Singles Collection
リリース年
1967年
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◆ 生まれ育った土地への執着 ◆◆
さっそく昨日のつづきで、第五ブロック。これまでに出てこなかったメロディー、コード・パターンで、第二のブリッジのようになっています。そんなものを表現する用語はないのですが!

This is my street
And I'm never gonna leave it
And I'm always gonna stay
If I live to be ninety-nine
'Cause all the people I meet
Seem to come from my street
And I can't get away
Because it's calling me
Come on home
Hear it calling me
Come on home

「ここはわたしの通り、けっしてここから離れることはないだろう、たとえ99歳まで生きたとしても、ずっとここにいる、会う人会う人がみなわたしの通りからやってきたように思えるから、どちらにしろ逃げることはできない、通りが、帰っておいで、帰っておいでと呼びかけるのだから」

f0147840_235322100.jpg自伝を読んだという有利な地点からいえば、ここは、モデルとなった庭師とRD自身の観点が渾然一体となって表現されたブロックだと感じます。自伝のなかで、彼は、デイヴィーズ邸の庭師となる以前に、この人物を毎日のように見かけていたと書いています。まるで通りに住んでいるように見えたことが、ここに表現されているのではないでしょうか。

また、RDが家族に強い絆を感じていたことも反映されていると感じます。RDはデビューまもなく、まだ十代のうちに結婚しますが、スターが集まる地区には引っ越さず、実家や姉たちの家から歩いていけるところにある、子どものころからよく知っていたクラシックな家に住みます。だから、子どものころから見かけていた人物を庭師に雇ったのです。

彼はこの庭師の仕事ぶりをよく眺めていたそうで、たぶん、共感できるなにかを、この庭師のすがたか、または日々の行動に感じたのでしょう。あえて想像をたくましくすれば、季節のめぐりにシンクロした生活というものへの共感ではないかと思います。

このあとは、すでに出てきたライン、コーラスに聞こえる部分をちょっと変形しながら繰り返して終わります。

Oh, my autumn almanac
Yes, yes, yes, it's my autumn almanac
Oh, my autumn almanac
Yes, yes, yes, yes, yes, yes, yes, yes

最後のyesを繰り返すところだけが、これまでに出てきていないコード・パターンになっています。

◆ イレギュラー尽くしの楽曲構成 ◆◆
歌詞はいろいろな点でイギリス的であり、同時に「レイ・デイヴィーズ的」とでもいうしかないものですが、曲のほうは、歌詞にもまして、じつになんとも妙な展開をします。

ふつう、ポップ・チューンというのは、せいぜい、ヴァース、コーラス、ブリッジという三要素で構成されるもので(間奏はこのいずれかのパターンを利用する)、ヴァースを何度繰り返そうとも、おおむね同じコード進行だし(まれに、部分的に変化させることはある)、コーラスも同様につくられているものです。

f0147840_23544679.jpgところが、このAutumn Almanacは、そういう常識的な構成はとらず、同じところには戻らない、というルールでつくったかのように、どんどんパターンが変わっていきます。しかも、リーズナブルとはいえないところにジャンプするし、そのうえ、その際に変拍子(基本は4/4だが、3/4や2/4をはさんだりする)まで使うのだから、じつにもって厄介きわまりない造りです。

いちおう、コードをとってみたのですが、まだ穴がありますし、たぶん、ベースとギターとピアノがちがうところを弾いている(言い換えるなら、分散和音になっている)せいで、確信がもてない箇所もあります。しかし、奇妙なコード・チェンジこそがこの曲の「アイデンティティー」なので、とりわけイレギュラーな部分について、すこし検討してみることにします。

以下、楽器をやらない方にはチンプンカンプンのマンボ・ジャンボな話になるので、飛ばしてください。楽器をやる方でも、この曲をご存知ないと、隔靴掻痒にお感じになるでしょうが、一般論として、そのコードからそこへは移動しない、ということがポイントになるので、その点だけつかんでいただければと思います。

譜面やギター・タブ・サイトも参照しましたが、どれも全面的に納得はできず、以下は自分の耳に聞こえたコードを記述しました。譜面やタブ・サイトと意見が分かれたということは、それだけわかりにくい曲だということで、わたしのコードも、間違いがあるにちがいありません。耳のいい方の修正をお待ちしています。

◆ 終わりなき変化 ◆◆
それではコードを見ていきますが、テキストのままだと環境によって見え方が変わる、つまり歌詞とコードの位置関係がズレる恐れがあるので、JPEGにしました。読めるかどうか、おおいに問題ですが、ヴューワーで拡大すれば読めることは確認しましたので、いったん画像を保存していただければ大丈夫でしょう。

なお、JPEGにしたにもかかわらず、歌詞とコードがいくぶんズレているかもしれません。テキスト・ファイルをPhotsoshopに貼りつけたときに、フォントのせいで、コードとコードの空白が詰まってしまい、時間の関係でていねいに修正できなかったのです。おおむね、こういう順番でコードが変わる、ぐらいに受け取ってください。

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冒頭の、歌詞がなく、コードだけの部分はイントロです。これはいたってノーマルなI-IV-Vパターンです。それはいいのですが、歌に入ったとたん、IVのマイナー、すなわちBmになるわけで、いきなり反則技でくるのだから、面喰らいます。

いや、そもそも、イントロがI-IV-Vの形式になっているからといって、このIすなわちF#がキーといえるかどうかも微妙です。どこがキーだかよくわからないのですが、ひょっとしたらAではないかという気もします。コーラスから入るタイプの曲のように、冒頭の音がキーではないこともあるわけで、そういう風に捉えたほうがいいかもしれません。

yes, yesと繰り返すところは、ギターは、たとえばDかAのまま動かずに、ピアノとベースだけ動くというようにしても、不自然ではなく聞こえるはずです。でも、たぶん、動かしていると思います。ひどく忙しい移行ですが、66年の大ヒット、Sunny Afternoon以来、この時期のRDはそういう手法をよく使っています。

つぎのパートもイレギュラーなコード・チェンジが出てきます。

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eveningとpeopleのあいだで4分音符がひとつ飛ばされ、3/4をはさむ変拍子になっています。でも、そんなのは「常識の範囲内」といっていいくらいで、このあとの展開がまた変なのです。

Tea以降のD#m-Bb-C#-G#-B-Bbというちょっと変則的な流れも、まあ、百歩譲って、了解の範囲内ということにしておきましょう。でも、B-Bbと降りてきたのに、つぎのコードがBmって、そりゃなんだよ、そんなのありか、と思います。教育を受けた作曲家ならぜったいに避けるにちがいない、強引なコード・チェンジです。Bmが出てくるたびに、ポンとどこかに飛んでしまう、強い「転調感」があります。おそらく、それがRDの狙いなのでしょう。

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このブロックの前半は、いたってノーマルな3コードで、聴いていても安定感があります。ただし、キーがどこだかわからないので、戻るべき場所に戻ったという感覚はありません。ふつうの曲なら、この部分はそういうどっしりとした安定感をもたらすはずです。そもそも、東西南北がわからないのだから、どこにいても、なんとなく落ち着かないのだと思います。

AからAmに移行するThis is my streetのところも、やはり強い転調感がありますが、ここからの展開はじつにきれいで、この曲のハイライトでしょう。stayからninety-nineにいたる、C-Em-Bb-Aという進行は、ついこのあいだ、ボビー・ゴールズボロのBlue Autumnで見たばかりのパターンです。あのときは、同じパターンの曲を思いつかない、などと書きましたが、灯台もと暗し、よく知っている曲に使われていました!

'Cause all the people I meetのmeetのところからつぎのコードは、よくわかりません。D7とFはまちがっているかもしれませんし、たとえ正しくても、なにかもうひとつコードがはさまっているかもしれません。いずれにしても、また転調して、不思議なところにいくのですが、それがこの曲の本質で、どんどん転調しつつ、どことも知れない場所に向かって進んでいく感覚があります。

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ここはいままでに出てきたコードをちょっと変形して繰り返すだけですし、コード・チェンジ自体にも異様なところはなく、さすがにエンディングは、ぐるっと環を描いて「元に戻った」感覚があります。キーはAではないか、と書いたのは、最後がここに来るからです。

このyes, yes, yes, yes, it's my autumn almanacだけが、この曲の一貫性を保っている要素で、これがなければ、ただ異なるパターンがつぎつぎに出てくるだけの、バラバラな印象をあたえてしまうでしょう。

◆ 破綻、成長、破綻、成長の「コード・チェンジ」 ◆◆
RDはオフィシャル本で、この曲を書き上げたときは、Waterloo Sunsetのときと同じように、またひとつ階段を上がった気がしたと語っています。たしかに、尋常一様の曲ではありません。

コードが複雑、といったとき、われわれがふつう思い浮かべるのは、まず、テンションが山ほどついた、メイジャーやマイナーやセヴンスなどの当たり前のものではないコードが頻出する曲のことでしょう。トム・ジョビンの曲などですね。あるいは、ジャズではごく当たり前な、本来はシンプルなコードなのに、「解釈として」テンションをつけていく場合でしょう。

Autumn Almanacのコードは複雑ですが、上記のような意味ではいたってシンプルです。ベースとの分散和音的なものはべつとして、ギターはメイジャー、マイナー、セヴンスぐらいしか使っていません。たんに、そのメイジャーとマイナーの組み合わせが、常識はずれなだけです。

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スタジオのRD。覗き窓があるバッフルなど、アメリカのスタジオの写真では見たことがない。そもそも、アメリカのバッフルは首から下ぐらいの高さになっている。覗き窓の向こうには、フライングVを弾くデイヴ・デイヴィーズがいる。手前はピート・クエイフ。

ポップ/ロックの世界は、ときに奇妙なコード進行を使うことはあっても、おおむね、なんらかの単純なパターンに還元できるものです。つまり、なじみのパターンの組み合わせで曲をつくれるということです。

キンクスの、そしてレイモンド・ダグラスの最初の大ヒット曲であるYou Really Got Meは、そうした、基本的にはシンプルな構成の曲でした。印象的なのは、こういうタイプのハード・ドライヴィングなストレート・ロッカーにはめったに使われない、転調があるからです。

RDは、プレイヤーになるつもりで(アイドルはなんとタル・ファーローだった!)、ソングライターになる気などなく、ましてやシンガーになるつもりなどさらさらなかったそうです。パイと契約して、最初のレコーディングのときにRDが歌ったプレイバックを聴き、弟のデイヴが「兄貴って、コマーシャルな声してるな」と感心したというぐらいで、ちょうど本邦のサベージのように、「会社に歌わされた」にすぎないのです。

You Really Got Meの原型は、プロになる以前につくっていたということですが、最初の大ヒット曲に、すでに異例の転調があったことは注目すべきことだと思います。

f0147840_0243517.jpgしかし、彼のソングライティングが内省的になっていくのは、リード・シンガーであり、ソングライターであるという重圧から、神経衰弱で寝込み(Do a Brian Wilson「ブライアン・ウィルソンをやる」、すなわち、ツアーに同行せず、スタジオ・ワークに集中するという案も出たとか)、そこから回復するときに書いたSunny Afternoon以降のことだと感じます。ベースがペダル・ポイント的に下降する(ただし、ギターもいっしょに動くので、ペダル・ポイントではない)という手法は、Sunny Afternoonからはじまり、Waterloo Sunset、Autumn Almanac(この曲は下降ではなく、上昇だが)へとつながっていきます。

RDの転調への執着は、You Really Got Me以来のものですが、そこから、転調につぐ転調で、目的地がさっぱり見えないAutumn Almanacまでの距離の、なんと遠いことか! たしかに、この曲を書き上げて、RDがある達成感をいだいたのも不思議ではなく、これほど奇妙な構成をとった曲を、わたしはほかに知りません。You Really Got Meから3年で、とんでもないところまで来たと思います。

ただし、世の中はそういうものですが、RDの成長とともに、キンクスは女の子に追いかけまわされ、シャツを引きちぎられるアイドル・グループから、カルト・バンドへと必然的な変化を強いられることになります。こんどは、女の子にかわって、わたしのような人間が彼らの「基盤」になっていくわけで、そこからの脱出に、RDはまた悪戦苦闘することになるでしょう。


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The Kinks
Ultimate Collection
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by songsf4s | 2007-11-14 23:27 | 秋の歌
Autumn Almanac by the Kinks その1
タイトル
Autumn Almanac
アーティスト
The Kinks
ライター
Ray Davies
収録アルバム
Singles Collection
リリース年
1967年
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このところ、歌詞の解釈をしなかったり、楽な曲を取り上げたり、休んだりしていた理由は、400ページを超える(訳せば1000枚超)レイ・デイヴィーズの大部な自伝を読むのに忙しかったせいですが、それもようやく終わりました。じつに不思議な自伝で、自伝的小説ないしは彼の世界観のひどくひねくれた表明、ぐらいに受け取っておいたほうがよさそうです。たしかに「非公認自伝」とでも名づけるしかないと納得しました。

f0147840_23504739.jpgそれはそれとして、ポップ・スターの自伝として事実を拾うこともできます。たとえば、Waterloo Sunsetの歌詞と録音にどれほど手間をかけ、どれほどだいじに、だいじに、つくっていったかということも語られています(プロデューサーのシェル・タルミーすら排除して、RD自身のセルフ・プロデュースによることが明かされている)。彼にとって「生涯の曲」は、Waterloo SunsetとDaysのようで、ジュリーという女性とこの曲については何度も言及されています。

ということは、あの視点の移動、一人称から三人称への転換は、「たまたまそうなった」のではなく、意図的におこなったことにちがいありません。なぜ、ああいうイレギュラーなことをしたかについては、残念ながら、なにも言及されていないのですが。

本日は、Waterloo Sunsetの直後に録音された、きわめつけの秋の曲、歌詞も曲もじつに不可解な、いかにも1967年のレイ・デイヴィーズらしいスタイルでつくられた、かのAutumn Almanacを取り上げます。秋の歌特集は、あくまでもこの曲を取り上げることを目的としているので、ほかの曲は露払い、付け足り、脇役にすぎません。

◆ 「スイッピンミマサ」 ◆◆
それではファースト・ヴァース、といいたいところですが、なにがヴァースやらコーラスやらブリッジやら、よくわからない曲なので、適当と思われる場所で、任意にブロック分けしながらやっていきます。以下は、通常の曲ならたぶんファースト・ヴァースに相当する部分です。

From the dew-soaked hedge
Creeps a crawly caterpillar
When the dawn begins to crack
It's all part of my autumn almanac
Breeze blows leaves of a musty-coloured yellow
So I sweep them in my sack
Yes, yes, yes, it's my autumn almanac

「夜明けとともに、露に濡れた生け垣から、いも虫がモゾモゾと這い出してくる、これもまたわたしの秋の暦の一部、風が黄色い朽ち葉を吹き飛ばすので、わたしは落ち葉を掃いて袋に入れる、そう、これがわたしの秋の暦」

この曲は、シングルのみのリリースで、同時期のアルバム、Something Elseには収録されず、アメリカではヒットしなかったので、わたしが聴いたのは70年代はじめにリリースされた、The Kink Kroniclesという編集盤でのことでした。

f0147840_23523091.jpgこのダブル・アルバムではじめて聴いた曲のなかでは、Autumn Almanacは出色の出来だと思いましたが、なにをいっているのかさっぱり聴き取れず、往生しました。ファースト・ラインなんて、ぜんぜん聴き取れなかったし、sweep them in my sackも「スイッピンミマサ」と聞こえて、単語に分離することができませんでした。RDのディクションも、コクニーがひどいのでしょうが、ヴォキャブラリーが流行歌の歌詞にはないものだということも影響しています。レイモンド・ダグラスというのは、「そういう人」なのです。

いも虫は暖かい時分のものだろう、という方がいらっしゃるかもしれませんが、そうとはかぎりません。つい昨日も、わが家の柚子の木で這っているのを見ました。一昨年の十月には、本葉が出て、育ちはじめた水菜を黒いいも虫に全滅させられたこともあります。秋にも、さまざまないも虫がいるのです。

◆ カラント・バン ◆◆
以下は、冒頭のヴァースのようなものとは、メロディーもコードも異なる第二ブロック。そういうものは、ふつうなら、コーラスまたはブリッジのはずですが、どちらとも判断できません。どんどん相貌が変化していく曲なのです。

Friday evenings, people get together
Hiding from the weather
Tea and toasted, buttered currant buns
Tryin' to compensate for lack of sun
Because the summer's all gone

「金曜の宵になると、ひどい天気から逃れてひとびとが集まり、お茶と炙ってバターを塗ったカラント・バンで、太陽が顔を出さないことのかわりにしようとする、夏はもう遠い話だから」

f0147840_23552118.jpgcurrantは干しぶどう、レーズンのことなので、currant bunとは、要するにぶどうパンなのですが、bunとあるので、日本でよく見る食パン型のぶどうパンではありません。bunは丸い形のものですが、hamburger bunのように大きなものではなく、もっと小さなもののようです。

ここは比較的よく聞こえるところなので、昔からいっしょに歌っていましたが、バタードのあとが、やはりよくわかりませんでした。currant bunsなんて言葉が出てくる歌は、あまりないでしょう(検索すると、ピンク・フロイドがむやみに引っかかるので、彼らの曲にそういうタイトルのものがあるのかもしれません)。こんな言葉にも、RDの食べ物に対するこだわりがあらわれています。

people get togetherとhiding from the weatherは、この曲のなかで、いっしょに歌っていていちばん気持ちのよいラインです。ということは、たとえ文字でどのように見えようとも、すぐれた韻だということにほかなりません。

f0147840_23563921.jpg歌詞サイトによっては、tryin' to compensateをcan't compensateとしているところがあります。じっさい、聴き取りにくいところなのですが、歌詞の出来として、can'tでは平板で、あまりよろしくないと感じます。tyrin' toのほうがずっと上等です。ここでは、『The Kinks: The Official Biography』という本に掲載された歌詞にしたがっておきます。オフィシャルというのだから、RD本人ではなくても、だれかキンクス側関係者がチェックしたものだろうと思うからです。

なお、この本では、ここまでの二つのブロックをひとつのものとして書いています。それがRDの意図かもしれません。

◆ 背中の痛みと悪夢 ◆◆
以下は短いものですが、オフィシャル本では、単独のブロックがあたえられています。メロディーとしては、第一ブロックの「So I sweep them in my sack/Yes, yes, yes, it's my autumn almanac」と同じで、印象としてはコーラスに聞こえるパートです。

Oh! my poor rheumatic back!
Yes, yes, yes, it's my autumn almanac
Oh, my autumn almanac
Yes, yes, yes, it's my autumn almanac

「ああ、リューマチの背中が痛む! それもわたしの秋の暦」

おそろしく短いブロックですが、「ララ、ラーラ、ラーララ」などといったナンセンス・シラブル(メロディーは第一ブロックの「Breeze blows leaves of a musty-coloured yellow」と同じ)でつないでいます。

レイモンド・ダグラスは、子どものころにトラック競技で背中を痛めて以来、大人になっても、しばしばこの痛みに悩まされたようです。それがこの、歌としては異例の「季節表現」につながったと思います。古傷をもつ人なら、この「季節感」は身に染みるでしょう! こんなことを歌にした人はRDしかいないのじゃないでしょうか。

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左からレイモンド・ダグラス、甥っ子のテリー(Waterloo Sunsetに登場する)、弟のデイヴ。この写真の表情が、すなわちRDという人物の生涯をあらわしているような気がする。

しかし、「背中」はRDのパラノイアの対象でもあり、このAutumn Almanacの語り手のだいじな属性でもあるようです。前述のオフィシャル本によると、この曲のモデルとなったのは、当時のデイヴィーズ邸の庭師で、彼はせむしだったのだそうです(いま辞書を引いたところ、せむしのpolitically correctな表現は「脊柱後彎」のようです。表現ではなく、たんなる病名じゃないか、といいたくなりますが)。

RDはこの人物を小さなころから知っていて、彼の悪夢の登場人物であり、子どものころに背中をケガしたときは、せむしになるとおびえたということが自伝に出てきます。

それはともかく、庭師だとわかれば、冒頭に出てくる、生け垣の毛虫や落ち葉の掃除は、当然のラインなのだとおわかりでしょう。いきなり出てくるから、戸惑うだけなのです。いや、まあ、それが「表現」というものなのですが。

◆ 食べ物に対する偏執 ◆◆
以下は、これまでは出てこなかったメロディー、コード・パターンで、ブリッジのように聞こえます。

I like my football on a Saturday
Roast beef on Sunday's all right
I go to Blackpool for my holidays
Sit in the open sunlight

「土曜にはサッカーを楽しむことにしている、日曜のロースト・ビーフも悪くない、休日にはブラックプールに出かけ、外に坐って陽の光を楽しむ」

脊柱後彎の庭師の生活には思えない描写ですが、モデルが庭師だということなど、作者だけが知っていたことで、それを知らなければ、べつにおかしくはありません。じっさい、ここはRD自身の生活の描写でしょう。

RDはサッカーきちがいで、自分でもプレイし、オフィシャル本にも、メロディー・メイカー・イレヴンというクラブ(音楽誌の「メロディー・メイカー」関係者のクラブということでしょう)での写真が載っていますし、ショーン・コネリーらがいる芸能人クラブでもプレイしたと自伝にあります。

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メロディー・メイカー・イレヴン。前列左から二人目にレイモンド・ダグラス、後列右から二人目がデイヴ・デイヴィーズ

また、ワールド・カップの決勝(イギリスで開催されたときのことのようなので、サッカー・ファンなら時期を特定できるでしょう)にイングランドが進出したときは、夜のライヴ・ギグのスケデュールと重なってしまい、テレビ観戦を優先したために、ひどいトラブルになったことも自伝に記されています。

ロースト・ビーフの登場は、当然、RDの食べ物への偏執があらわれたと、長年のファンには感じられます。このころから食べ物が歌詞に登場しはじめ、Alcohol、Skin and Bones、Hot Potatoes、Motorwayといった(まだほかにもいくつかあったはずですが)、RCA時代の飲食物の歌へとつながっていきます。

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レイモンド・ダグラス(左端)、その背後にピート・クエイフ、ストゥールにミック・エイヴォリー、そしてデイヴ・デイヴィーズ(右端)

まだ歌詞もやっとなかばを過ぎたばかりですが、残り時間僅少で、これから画像のスキャンもしなければならないので、歌詞の後半、そして摩訶不思議な展開をする複雑な曲とコードについては、明日以降に(ひょっとしたら、さらに2回に分けて)検討することにします。


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by songsf4s | 2007-11-13 23:21 | 秋の歌
Blue Autumn by Bobby Goldsboro
タイトル
Blue Autumn
アーティスト
Bobby Goldsboro
ライター
Bobby Goldsboro
収録アルバム
Blue Autumn
リリース年
1966年
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晩秋というのは十一月だと思っていましたが、もはやそういう時代ではなくなったようで、南関東の平地では、十一月中旬ぐらいでは「秋色深し」とは、とうていいえないようです。

先週までは、近所の欅並木もまだ色づかず、いつになったら秋らしくなるのかという日がつづいていましたが、土曜の雨と寒気のおかげで、さすがに、欅や桜がいくぶん赤みを加えてきましたし、一本だけですが、三分の一ほど色づいた七竈の木も見ました。しかし、楓類はどれも依然として緑色で、当地では、秋景色を楽しめるようになるのは、ひょっとしたら来月のことになるかもしれません。

しかし、辞典を引いてみると、天文学の定義では、秋とは「秋分の日から冬至まで」のことだというのだから、それなら、ちょうど、われわれの感覚と天文学の定義が一致したというあたりかもしれません。この合致が一時的なものにすぎず、さらに温暖化が進んで、感覚が天文学の定義を追い越し、晩秋が一月にズレこんだりしないように願いたいものです。冬のない「三季」では、当ブログのタイトルを変更しなくてはなりません!

◆ 蒼く色づく落葉 ◆◆
ボビー・ゴールズボロには、タイトルにAutumnのついたものが、すくなくとも2曲あります。片方は歌詞が捨てがたく、片方は曲が捨てがたく、ひとつにまとめてくれよ、と思うのですが、とりあえず、音のほうを優先して、Blue Autumnから取り上げます。

あまり楽しい歌詞ではないのですが、まずはファースト・ヴァースを。

Blue autumn
Falling leaves of red and gold
Pretty colors I am told
But I see only shades of blue
Because I'm losing you

「憂鬱な秋、赤や黄色の落ち葉、きれいな色だとひとはいう、でも、ぼくには蒼い翳がさしているのしか見えない、きみを失おうとしているのだから」

ノーマルな発想というか、ほとんどクリシェというべきでしょうが、そこが歌詞というもののよくしたところで、サウンドと一体になると、ひどく陳腐に聞こえることはなく、そこそこは納得のできるものになっています。

セカンド・ヴァース。

Blue autumn
There's a rainbow in the sky
But no matter how I try
I still see only shades of blue
Because I'm losing you

「憂鬱な秋、空には虹がかかっている、でも、どうやっても、ぼくには蒼い翳しか見えない、きみを失おうとしているのだから」

f0147840_2257146.jpgこれまたノーマルな発想、わるくいえばやはりクリシェで、色をモティーフにしたことからの連想で、虹が出てきたにちがいありません。詩だとするならまずいでしょうが、流行歌の歌詞なのだから、まあ、こんなものでしょう。作詞の常道をきちんと踏んでいる、とほめることもできれば、星菫派となんら懸隔がない、と腐すこともできます。

ちなみに、昔、本で読んだのですが、白虹(はくこう)というものがあります。これはモノトーンな虹で、雨滴がごく小さい場合に起こる現象だそうです。いま、百科事典を調べたら、「雨滴が大粒で色の鮮やかな虹と、白い霧虹との中間の粒の大きさのときには、虹の中に赤色が見えず、幅が広くなり、全体として青みを帯び」とありました。

ボビー、きみの見た蒼い翳は、ブルーな気分の反映なんかではなく、雨粒が中途半端な大きさだったために起きた、無慈悲なまでに散文的な気象現象にすぎなかったのだよ!

◆ サード・ヴァースの「転」 ◆◆
ブリッジ。

Such pretty color I am told
There for all to see
But falling leaves of red and gold
Have all turned blue to me

「なんてきれいな色だ、すばらしい見ものだ、と人はいうけれど、赤や黄色の葉が落ちても、ぼくの目にはみなブルーになってしまう」

以前にも書きましたが、ブリッジは「起承転結」の「転」、チェンジアップであったほうがいいのですが、そうなっていない曲もかなりあって、このBlue Autumnのブリッジもそのタイプです。そもそも、ストーリーがあるわけではないので、「起」「承」のみでできているというか、ワン・アイディアで最後まで押しまくる歌詞になっています。

サード・ヴァース。

Blue autumn
A love like yours I'll never know
Other girls may come and go
But I'll see only shades of you
And all my autumn will be blue

「きみのような愛に二度とであうことはないだろう、いろいろな女の子に出会い、別れるだろうけれど、いつもきみの影を見てしまうにちがいない、そして、ぼくの秋はいつもブルー」

やっと、いくぶんかインスピレーショナルなラインが出てきたと感じます。これまでの二つのヴァースでshades of blueを繰り返してきたので、ここでのshades of youが生きています。shades of youほどではないにしても、最後のラインもまた、伏線がいくぶんかはきいていると感じます。ピシッと決まった、とはいえませんが、決まりすぎると気色が悪いので、この程度でちょうどいいか、と思います。

◆ コード・チェンジの効果 ◆◆
この曲の最大の魅力は、クレヴァーなコード・チェンジです。Blue autumn, falling leaves of red and goldというところは、C-Cmaj7-B♭-A-Dmという進行で、Pretty colors I am toldにいくときに、Fmに移動します。

C-Cmaj7-B♭-A-Dmというのは、あまり見たことのないパターンで、ちょっと考えてみたのですが、他に例を思いつきませんでした。このコード・チェンジの流れそのものがいいのですが、このコンテクストでは、Cmaj7-B♭という尋常な移行の響きが引き立ち、ここが耳についたので、コードをとってみる気になりました。

このブロックの最後のコードであるDmから、つぎのFmへの移行もちょっと変わっています。DmからFならノーマルですが、Fmというのは意外で、コピーしていて、あれ、どこへいったんだ、と戸惑いました。Dの位置から動かずに、なにかテンションを加えただけなのかと思ったのです。この移行もなかなかいい響きです。

f0147840_2258375.jpg歌詞はほとんどクリシェですし、アレンジもオーソドクスなものなので、Cmaj7-B♭とDm-Fmという、二つの「キラー・チェンジ」のおかげでヒットした、といっても言い過ぎではないでしょう。すくなくともわたしの場合、この二つのコード・チェンジがなければ、この曲のことはなんとも思わなかったにちがいありません。

ボビー・ゴールズボロという人は、Honeyの印象が強いのですが、初期にはああいう語りのようなスタイルの曲はなく、Little ThingsやIt's Too Lateはアップテンポで、明瞭なメロディー・ラインがあります。クレヴァーなコード・チェンジがあれば、語りのようなものでも魅力的になると気づいたのは、このBlue Autumnでのことなのではないでしょうか。それがつぎのヒット曲、代表作であるHoneyの後半の転調連発につながったような気がします。Honeyもいずれ取り上げる予定ですが、もうすこし寒くなってからのことになるでしょう。
by songsf4s | 2007-11-12 22:21 | 秋の歌
Autumn in New York by Felix Slatkin
タイトル
Autumn in New York
アーティスト
Felix Slatkin
ライター
Vernon Duke
収録アルバム
Fantastic Percussion
リリース年
1960年
他のヴァージョン
Frank Sinatra, Stan Kenton, Charlie Parker, Sara Vaughan
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レイ・デイヴィーズの伝記はまだ読み終わらず、補足でのごまかしもそろそろ手詰まりになってきて、今夜はやむをえず、非常手段を使います。

今夜は予定していた秋の歌を取り上げますが、インスト・ヴァージョンだけにして、あまり出来がいいとは思えないヴォーカル・ヴァージョンを丸ごと無視することで、歌詞を解釈する時間を削減しようと思います。そもそも、シンデレラの帰宅時間まであとわずかで、よけいなヴァージョンのことなど書いている余裕はなさそうです。

◆ クラシック奏者にあるまじきしゃれっ気 ◆◆
フィーリクス・スラトキンといっても、「ああ、あの人か」というのは、フランク・シナトラの熱烈なファンと、変わり者のクラシック・ファンぐらいでしょう。彼が長年にわたって20世紀フォックスおよびシナトラのコンサート・マスターをつとめたことは、The Theme from A Summer Place by Percy Faith and His OrchestraおよびSummer Wind by Frank Sinatra その2で、二度にわたってふれています。

クラシック界での評価は低いそうですから、結局、スラトキンという人は、息子のようにだいじにしていたという、フランク・シナトラと「心中」したも同然といえるかもしれません。しかし、クラシックの世界でもなければ、本職のヴァイオリンでもなく、スラトキンの評価は、意外なところで上昇しつつあります。ラウンジ・ミュージックの世界です。

わたしがスラトキンの音ではなく(音だけなら、20世紀フォックスの映画を見れば、かならず聴いて「しまう」ことになる)、名前にふれたのは、キャピトルのラウンジ・ミュージックを集大成した、Ultra Loungeというシリーズの3枚目、Space Capadesという盤でのことでした。

f0147840_011958.jpgこの盤に収録された、スラトキンのI Get a Kick Out of Youにはひっくり返りました。I get a kick out of youという、文字を見るだけでもシナトラの顔と声を連想せずにはいられないフレーズを、なんと、ティンパニーでやっちゃったのだから、思わず「ブハー」と吹きましたぜ。いくらハリウッド映画界で活躍した人でも、仮にも正規の教育を受けたクラシック奏者が、こんないたずらっ気、ウィット、芸人気質をもっていちゃいかんだろう、と思いましたね。これでは、本職のエンターテイナーが形無しというものです。

◆ すがすがしいアレンジとプレイ ◆◆
Ultra Loungeというシリーズは、選曲が楽しいので好きなのですが、玉に瑕は、ライナーが素っ気なく、データがわからないケースが多いことです。フィーリクス・スラトキンというのが、どういう人なのかわかったのは、右のリンクからいける「Yxx Txxxを聴く」のオオノ隊長と、Session with Sinatraという本のおかげでした。

わかってくると、いよいよ、I Get a Kick Out of Youを収録したアルバムが聴きたくなってきました。そして、ついこのあいだ、ようやく念願かなって、このFantastic Percussionを聴くことができました。素晴らしいのひと言です。

全体に、アレンジにウィットが感じられるのがなによりも好ましい点ですが、ハリウッド音楽界の重鎮がコンダクトしたのだから、すべてのプレイヤーがハイ・レベルで、それぞれがやるべきことを十全にやっていることが、この盤をいまでも生き生きとした、古びないものにしていると感じます。うまい人たちばかりが、アレンジメントとコンダクトにしたがって、きっちりとプロフェッショナルな仕事をした盤というのは、一点の曇りもなく、正月の神棚のように清々として、すがすがしく、じつに気持ちのよいものです。

ラウンジとエキゾティカは、隣どうし、背中合わせの分野ですが、そこにはおのずから相違があります。Fantastic Percussionは、エキゾティカではなく、ラウンジに属すものですが、Autumn in New YorkとCaravanだけは、エキゾティカのムードをもっています。それは主としてメロディーが醸し出すものですが、それがたまたま、さまざまなパーカッションと出遭った(それがそもそものこの盤の企画趣旨ですから)結果、半歩以上エキゾティカに踏み込んだサウンドになったのでしょう。どうであれ、なかなか魅力的なサウンドです。

◆ スロウ・バラッドの耐えがたい卑猥さ ◆◆
残り時間僅少なので、他のヴァージョンと歌詞については明日に持ち越し、といつもならいうところですが、このまま放擲します。たいして面白い曲ではないですし、残るヴァージョンは、シナトラを含めて、いや、チャーリー・パーカーも含めて、みな気に入りません。どのヴァージョンも、所詮、猥褻なスロウ・バラッドを猥褻にやっているだけのことで、「わたしのストリートには顔を出さない」(レイ・デイヴィーズ・フレーズ)タイプの音楽です。

スロウ・バラッドに「感情をこめる」気色の悪さ、卑猥さは、スラトキンの清々とした、すがすがしいヴァージョンを聴くことで、いっそう明瞭になります。わたしは、アップテンポで全力疾走するチャーリー・パーカーは好きですが、スロウ・バラッドをスロウに、感情をこめてやるサックスには、パーカーも含めて耐えがたい卑猥さを感じます。パーカーは、ジャズ・プレイヤーにしてはめずらしくロックンロール・スピリットの感じられる人だと思っていましたが、このAutumn in New Yorkにはがっかりしました。サラ・ヴォーンと同じレベルの卑猥さです。シナトラも、この曲についてはいいとは思いません。卑猥とはいいませんが、感情過多です。

f0147840_084693.jpgしいていえば、スタン・ケントンは、よけいな感情移入などなしに、「しらふ」で、さらっとやっているところが、それがこの人の身上とはいえ、やはり好ましく感じられます。すくなくとも、チャーリー・パーカー盤のような卑猥さは感じません。だからといって、べつに素晴らしくもないですがね。

やっぱり、フィーリクス・スラトキン盤のさっぱりした味わいの前では、どれも凡庸なスロウ・バラッドを、凡庸または猥褻にやっただけのつまらないものばかりです。じつはどれも、せいぜい30秒ほどしか聴きませんでした(サラ・ヴォーンは5秒ぐらい!)。それ以上は我慢のならない猥褻さです。
by songsf4s | 2007-11-08 23:45 | 秋の歌
Moon of Manakoora by the 50 Guitars
タイトル
Moon of Manakoora
アーティスト
The 50 Guitars
ライター
Frank Loesser, Alfred Newman
収録アルバム
The 50 Guitars Visit Hawaii
リリース年
未詳
他のヴァージョン
Dorothy Lamour, Axel Stordahl, Los Indios Tabajaras, the Ventures, Hal Aloma and His Orchestra, Al Shaw & His Hawaiian Beachcombers
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昨夜に引きつづき、今夜も過去の記事の補足です。

Beyond the Reef by the Venturesの記事で予告しておいたので、すでにダウンロードをすませた方がいらっしゃるでしょうが、右のリンクからいける、Add More Musicの50ギターズ・シリーズの公開はちょっと前からはじまっています。

最初に公開された2枚はずいぶん以前にCD化され、わたしも持っているのですが、ここから先は未知のアルバムが登場するはずだと思い、興味津々、一日千秋の思いで待っていました(大げさだってば)。期待にたがわず、というか、予想に反して、というか、意外な企画、意外なサウンドでした。

このあいだの週末に公開されたThe 50 Guitars Visit Hawaiiは、タイトルが示すとおり、ハワイアンだったのです。

◆ サウンドの変化 ◆◆
今回のMoon of Manakooraという曲は九月のHarvest Moon特集のときに取り上げたのですが、よく考えると、十月のEvil Moon特集のほうがふさわしかったようです。ヴードゥーの雰囲気が濃厚な曲ですから。十月にこの50ギターズ盤Moon of Manakooraがあることを知っていれば、そのときに補足を兼ねて取り上げたのですが、一歩遅れてしまいました。しかし、出来はなかなかなので、ここで補足させていただきます。

この曲の歌詞や背景、各種ヴァージョンについては、Moon of Manakoora by Dorothy Lamourに書きましたので、ご興味のある方はそちらをご参照ください。今回は50ギターズ・ヴァージョンのみにふれます。

f0147840_23302621.jpg50ギターズの最初の2枚は、タイトルが示すとおり「国境の南」的なサウンドでした。メキシコのコンボが使う、ギターを巨大にしたような楽器というか、スタンダップ・ベースを寝かせたような楽器というか、フェンダー・ベースがアンプラグドしたみたいなものも使われたようです。

最初の2枚は、いってみれば小手調べのような盤で、可能性としては面白い、しかし、なにかが足りない、端的にいえば、「乗れる」サウンドにはなっていない、BGM止まりだ、と感じるものでした。

それはたぶん、企画者であるスナッフ・ギャレット自身、多数のアコースティック・ギターがユニゾンで弾いたときのサウンド、あるいは、ハーモニーを弾いたときのサウンドを、十分に計算できていなかったためではないかと感じます。とりあえず集めて鳴らしてみたら、こうなってしまった、という音ではないでしょうか。

その後、トミー・テデスコがリードを弾いた50ギターズの盤を数枚聴き、印象が変わります。多数のギターによるナチュラルなエコーは面白いけれど、それはそれとして、かなりひねくれたものとはいえ、ある種の「ギター・インスト」なのだから、リードが活躍してこそ魅力が生まれる、という風に、スナッフ・ギャレットの考えがシフトしたのではないかと思います。ギター好きのリスナーは、やはり、すぐれたギター・プレイを聴きたいことぐらい、ギャレットだってわからぬはずがありません。

◆ 長寿シリーズへの一歩 ◆◆
わたしの手もとにある50ギターズの盤はほんのわずかで、ローリンド・アルメイダがリードをとった最初の2枚と、何枚目にあたるものか、トミー・テデスコがリードをとったものが数枚にすぎません。リード・ギタリストの技量とは無関係に、この間にプロデューサーであるスナッフ・ギャレットのアプローチが微妙に変化し、テデスコの数枚は、色気のある「乗れる」盤になっています。

では、どこでそういうシフトが起きたのかというと、このMoon of Manakooraが収録された3枚目からなのだということがわかりました。「50ギターズ」という企画の厳密性なんか、だれも気にしないことに気づいたのだと思います。要は、楽しい音楽かどうか、それに尽きるのです。

f0147840_23333292.jpg50ギターズという企画を厳密に考えたら、マンドリン合奏のピッチの低いものができあがってしまうわけで、それじゃあ商売になりません。スナッフ・ギャレットは商売人です。1枚目のヒットから稼げるだけのものを稼ぐために、「商品としての色気」を加える方向にシフトするのは、当然の選択でしょう。

「ハワイに行く」という企画に合わせて、多くのリード・パートをペダル・スティールが担当したおかげで、この盤には最初の2枚にはなかった華やかさがあります。この3枚目の出来のよさが、50ギターズの長寿シリーズ化を保証したのではないでしょうか。

The Hukilau SongやLovely Hula Handsなど、後半の曲のほうが、スティールとバックのアコースティック・ギター集団の役割配分に妙味があると感じますが、とりわけMoon of Manakooraは、半音進行のメロディーがペダル・スティール向きにできていますし、そこにからむアコースティック・ギター集団のオブリガートのアレンジもよく、この盤のなかでもとくに好ましい仕上がりになっています。アレンジャーの名前がわからないのが残念。

◆ 東奔西走南船北馬 ◆◆
f0147840_23344351.jpg50人のギターを持った渡り鳥たちは、まず国境の南に行き、つぎにそこから西へと向かってポリネシアに渡りました。ポリネシアは正確には西南で、ちゃんと真西に行った(というか、そもそも西で録音しているから、そこから動かなかったというか、せいぜい、すこし南に行っただけというべきでしょうが)証拠もあります。わが家にある盤では、方向音痴になってしまったものもあるのですが、東に行ってイギリスの音楽をやったこともあります。そこまでは手もとの盤でわかっています。

f0147840_23355074.jpgじゃあ、北はどうか? これがちゃんとあるんですね。ひょっとしたら、キムラセンセは、お客さんを楽しませようと、ひそかに準備しているところで、ネタばらしをするな、とお怒りになるかも知れませんが、雪が降っている50ギターズがあるんです。

順番からいったら、これはだいぶあとのものになるのかもしれませんが、そこはそれ、融通というやつをきかせて、シーズンズ・グリーティングとして、つぎは「50ギターズ、北上す」を聴きたいのですが、いかがなものでしょうか>キムラセンセ?
by songsf4s | 2007-11-07 23:50 | Harvest Moonの歌
Halloween Theme by the 101 Strings
タイトル
Halloween Theme
アーティスト
The 101 Strings
ライター
John Carpenter
収録アルバム
Halloween Fright Night
リリース年
未詳(2006年?)
他のヴァージョン
John Carpenter (OST)
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前回のWaterloo Sunset by the Kinksの記事に自分で書いておいて、そんなにたくさんレイ・デイヴィーズの曲をとりあげるのかよ、と驚き、十数年前に買ったときは拾い読みですませた彼の自伝を、あわてて読み直してところです。もう数日は読書をつづけなければいけないようなので、その間のつなぎとして、これまでの記事の補足をいくつかやります。歌詞の解釈をしないだけでも軽く1時間は稼げるので、しばらくそんな記事にお付き合いを願います。

あ、その前に、自伝で仕込んだ前回のWaterloo Sunsetの補足。Terry meets Julie, Waterloo Stationのジュリーについてです。十代のレイ・デイヴィーズが陸上の試合に出て、背中の痛みで靴ひもを解けなかったとき、かわりにやってくれた女の子、ついでにそのとき、「『学校でいちばん素敵なおしりをした子』コンテストで、わたし、あなたに投票したわ」といってくれた子の名前が、ジュリーというのだそうです。レイモンドとジュリーがその後、ウォータールー駅で待ち合わせる仲になったかどうかは、まだ読んでいないのでわかりません。

◆ 1対101の勝負 ◆◆
今回は、ついこのあいだ取り上げたばかりのHalloween Themeの補足です。その後、101ストリングスが、その怪奇音楽集のオープナーとしてカヴァーしたものを聴くことができました。最初がこの曲で、最後の4曲はすべてバーナード・ハーマン作の『サイコ』のスコアからのものです。ジョン・カーペンターではじまり、バーナード・ハーマンで終わるという、文句のない構成です。まあ、中間は無視するとしての話ですが。

f0147840_1692146.jpgバーナード・ハーマンの『サイコ』は、オリジナル・スコアもオーケストラでやっているのだから(あの耳に突き刺さるヴァイオリンのスタカート!)、まったく問題ないのですが、ジョン・カーペンターのHalloween Themeはミニマリズムの極致、これ以上は減らせないという、たったひとりのプレイヤーによる多重録音です。したがって、この落差をどう処理するかが、101ストリングス盤Halloween Themeの興味の焦点です。

結果は、うーん、曰く言い難し。まあ、失敗というべきでしょう。あのピアノ・リックは、避けて通れないから、ちゃんとやっています。そこへ、オリジナルにはないヴァイオリンによる短いリック(短いから「リック」というのであって、「長いリック」などこの世にない、と自分で突っ込んでおきます)が入ってきて、つづいて、オリジナルではアナログ・シンセでやっていたコードをストリングスが奏でる、という、まあ、だれが考えても、101ストリングスとしてはそうするしかないだろう、というのが前半のアレンジです。

後半、管もコードに加わったり、ピアノにかわってフルートがあのリックをやったり、オリジナルにはないフレーズがいくつか出てきたり、いろいろやっています。大人数の管であのコードをやるのは、それなりに面白くはあるし、ちょっと盛り上がりもします。でも、オリジナルにない弦のフレーズはつまらないだけでなく、オリジナルがもっていた簡素な美的バランスを崩しています。

f0147840_16102470.jpgアレンジャーは、仕事をした証拠を残さなければいけない立場にあるわけで、あまりにもシンプルで、いじりようがないカーペンターのスパルタ的名作に困惑したであろうことには同情します。でも、よけいなものを加えすぎたと思います。二流の人がよく陥る罠です。一流のプロフェッショナルは、たいていがエゴのかたまりですが、必要なときには、その巨大なエゴを殺せる能力があったからこそ一流になったのです。

いっそ、大胆に、あの曲をそのまま100倍にスケールアップするだけですませたほうがよかったでしょう。その曲がそれを要求するのなら、8分音符と全音符ばかり並べるのも厭わないのが、一流というものです。ヘンリー・マンシーニが、オードリー・ヘップバーンの歌唱力と音域に配慮して、白鍵だけで、しかも1オクターヴのなかだけで、Moon Riverを書いたことを想起しなければなりません。

それはそれとして、Halloween Themeをオーケストラで聴けたことは、満足とはいわないまでも、ちょっとニヤリとする体験でした。最近のものですから、すくなくとも32トラック、たぶん、72トラックで録音したのでしょう。それなら、よけいなフレーズを消すのはわけもないことです。くだらない追加フレーズを消したリミックス・ヴァージョンをカーペンター監督のもとに送れば、ハロウィーン・シリーズの次回作に推薦してくれる(巨匠自身はもうあのシリーズの監督はしないようですから)かも知れません。オープニングにはちょっときびしいとしても、エンド・タイトルのバックに流すなら、悪くないのじゃないでしょうか。

◆ In search of the lost MELODY ◆◆
101ストリングス盤Halloween Themeとは直接関係がないのですが、ふと、思ったことがあります。

f0147840_16115971.jpgHalloween Themeが長く耳の底に残るのは、ヘンリー・マンシーニのPeter Gunnや、ニール・ヘフティーのBatman、そして、モンティー・ノーマンのJames Bond Theme(この曲のアレンジャーとしてクレジットされているジョン・バリーは、著作権をめぐってノーマンを相手に訴訟を起こしたが、敗訴したという)と同じリーグに属す、シンプルで印象的なフレーズがあるからではないでしょうか。Halloween Themeがどこかに通底しているような気がして、ずっと考えつづけ、たどりついたのが、Peter Gunn、Batman、James Bond Themeです。

f0147840_1613159.jpgこの3曲は、ギター・インストの世界ではスタンダード化していて、多くのヴァージョンがあります。リック中心だから、ギター・インスト・バンドの編成になじみ、プレイしやすく、シンプルなわりには受けがいいからでしょう。3曲のいずれも、出だしに使われているシンプルなリックをテーマ(モティーフ)としているわけではなく、べつにメロディーまたはそれに類似のものがあって、リックのあとに登場します(お忘れかもしれませんが!)。

では、Halloween Themeはどうかというと……うーん、どうでしょうねえ。ピアノ・リックの上にかぶってくる、アナログ・シンセの上昇する三つひとかたまりのコードと、その転調したヴァリエーションを、「メロディー」「テーマ」「モティーフ」というのは、やはり、ちょっと無理でしょう。そういうものに類似した役割を負っているのはたしかですが、実体は、どこからどう見てもまちがいなくコードであり、それ以外のなにものでもありません。

わたしは、Halloween Themeというのは、「あらかじめメロディーが失われた曲」なのだと思います。

この曲について、ずっともやもやと感じていたことの正体まで、薄皮一枚まで迫っているように思うのですが、このへんでやめておきましょう。マイケルのホッケー・マスクをむりやりに引き剥がしたところで、たぶん、平凡な人間の顔があるだけです。「覆い隠されていること」それ自体が重要なこともしばしばあります。

f0147840_1618244.jpgでも、ちょっとだけ結論めいたことをいっておきましょう。ヘンリー・マンシーニがビーバップ世代のアプローチをとったのに対し、ジョン・カーペンターはロックンロール世代のアプローチをとった、それが結果のちがいにつながった、と思います。将来、カーペンターのHalloween Themeは、いまマンシーニのPeter Gunnが受けている「エポックメイキングなスコア」という評価を、引き継ぐことになるだろうと考えています。
by songsf4s | 2007-11-06 23:40 | Evil Moonの歌
Waterloo Sunset by the Kinks
タイトル
Waterloo Sunset
アーティスト
The Kinks
ライター
Ray Davies
収録アルバム
Something Else by the Kinks
リリース年
1967年
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本日からすくなくとも11月中旬いっぱいは、そぞろ歩きのように気まぐれに秋の歌を取り上げつつ、10月は忙しくてできなかった、これまでの曲の補足などをまじえて、イヴェントレスなハロウィーンとクリスマスの端境期をやり過ごすつもりでいます。

余人はいざ知らず、わたしの感覚では、秋といえば、イヴ・モンタンではなく、ヴァン・モリソンとレイモンド・ダグラス・デイヴィーズの季節です。この二人ほど、秋の歌、秋の雰囲気のある歌を書いたソングライター、秋の雰囲気をもっているシンガーはいないのではないでしょうか。

本日はまずレイ・デイヴィーズの曲をいきます。万一、誤解があるといけないので、さきに強調しておきますが、キンクスとはYou Really Got Meのバンドだと思っている方、あなたの考えの90パーセントほどは見当違いです。あれは、ブレイクスルーに必要な便宜、ツアーで客を喜ばせるための演技にすぎません。レイ・デイヴィーズの本質はぜんぜんべつのところにあります。

コマーシャルでは、しばしばYou Really Got Meが使われ、あのディストーション・ギターが流れますが、あれはごく初期、ほんの1年ぐらいしかつづかなかったスタイル(ライヴではあのスタイルを強調しつづけますが)で、すぐに内省的な楽曲、サウンド、スタイルへと変わっていきます。それは、アルバムFace to Faceあたりから明白になり、本日取り上げるWaterloo Sunsetを収録したSomething Elseで確立され、以後の基本路線となります。

◆ Waterloo Sunset's Fine ◆◆
レイ・デイヴィーズには、明示的に秋を描いた曲もありますが、そうと歌詞が明示してはいないものにも、秋を感じさせる曲もあります。Waterloo Sunsetは後者のタイプで、楽曲やサウンドが一体になって、はじめて秋のムードが色濃くなるので、Waterloo Sunsetは春の曲だ、という方もいらっしゃるかも知れません。歌詞だけでどうお感じになるか、まあ、見てみることにしましょう。

Dirty old river, must you keep rolling
Flowing into the night
People so busy, makes me feel dizzy
Taxi light shines so bright
But I don't need no friends
As long as I gaze on Waterloo sunset
I am in paradise

「汚れた川よ、なんだっていつも進みつづけなければならないんだ、夜のなかへと流れて、人々は忙しく行き交い、こっちは目がまわりそうだし、タクシーのライトがひどくまぶしい、でも、友だちなんか必要ない、ウォータールーの夕暮れを見つめているあいだは、楽園にいるのだから」

f0147840_21413289.jpgウォータールー橋はテイムズにかかる長い橋で、東京でいえば、日本橋、江戸橋ではなく、たとえば清洲橋、言問橋といった大川にかかる規模の大きなものの感じ。

gazeのあとのonが気になったのですが、辞書を見ると、atとonが並列してあるので、これはノーマルな使い方なのでしょう。down onのニュアンスがあるのかと思ったのですが、atと同じようなものと受け取っていいようです。

以下はコーラス。

Every day I look at the world from my window
But chilly, chilly is the evening time
Waterloo sunset's fine

「毎日、窓から世界を眺めているけれど、宵になるとほんとうに寒くなる……ウォータールーの夕暮れはきれいだ」

chilly chillyとくるのだから、冬と受け取ってもいいのですが、ロンドンは秋でも十分にchilly chillyなのではないでしょうか。音からは、わたしは晩秋のムードを感じます。

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◆ 第三者の不意の出現 ◆◆
セカンド・ヴァース。

Terry meets Julie, Waterloo Station
Every Friday night
But I am so lazy, don't want to wander
I stay at home at night
But I don't feel afraid
As long as I gaze on Waterloo sunset
I am in paradise

「毎週金曜の夜、テリーはウォータールー駅でジュリーと待ち合わせる、でも、ぼくはものぐさなので、外をぶらつく気にはならなくて、夜は家にいる、でも、べつに不安なんか感じない、ウォータールーの夕暮れを見ていれば、それでパラダイスなのさ」

いきなり、テリーとジュリーというカップルが登場して、しかも、語り手とこの二人の関係が説明されないので、ちょっと目をまわします。ここで、ふつうなら、語り手とこのカップルは三角関係なのか、などと考えてしまうところですが、レイ・デイヴィーズはふつうではないので、無関係と思ったほうがいいような気がします。

f0147840_2151874.jpg彼の自伝(The Unauthorized Autobiography=非公認自伝と副題にある!)『X-Ray』を読むとわかりますが、RDは人称というものに特殊な考えをもっています。この「自伝」は、若いライターが書いたレイモンド・ダグラスの伝記という形式をとった、「三人称で書かれた自伝」という不思議なものなのです。そのうえ、RDの一人称的視点が、引用という形でどんどん挿入されていくのだから、変な人の面目躍如たるものがあります。

というのが一点。まだあります。ここで、彼がのちにウェイトをかけていく、市井の人々の生活を微細に描く、ディケンズ的な世界(いや、バルザックの「人間喜劇」のほうが近いか)が、フラッシュバック的に入りこんだのではないかとも感じます。

じっさい、このアルバムは、三人称的、小説的世界への入り口となった作品で、彼が自分ではないだれかを描くことにとりかかったのは、ここからのことです(オープナーのDavid WattsやTwo Sistersなどが典型)。窓から外を眺めているうちに、毎週金曜の宵にウォータールー駅で待ち合わせる、平凡な恋人たちの小さな幸せの物語が、頭をよぎったのではないでしょうか。

◆ 視点移動の完了 ◆◆
ファーストと同じコーラスをはさんで、サードにしてラスト・ヴァースへ。

Millions of people swarming
Like flies 'round Waterloo underground
But Terry and Julie cross over the river
Where they feel safe and sound
And they don't need no friends
As long as they gaze on Waterloo sunset
They are in paradise

「無数の人々が蠅のようにウォータールーの地下に群れ集まってくる、でも、テリーとジュリーは川向こうにいく、そこなら安全で安んじられるから、二人は友だちなど必要としない、ウォータールーの夕暮れを眺めているかぎり、二人はパラダイス」

と、こうなるわけです。語り手は自分の心象風景から、一転して、駅周辺の騒ぎに背を向け、静かな川向こうにいき、ひっそりとウォータールーの夕暮れを見つめる恋人たちへと視点を移してしまっています。かなりunsualな手法ですが、前述のように、レイ・デイヴィーズというのは、「そういう人」なのです。

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ウォータールー駅。テイムズおよびウォータールー橋は左手の方向。

たんなる背景情報ですが、ウォータールーはイギリス最大の駅だそうで、当然、地下鉄駅もあるようです。東京駅のように、地上路線の地下プラットフォームもあるのかどうかまではわかりませんが、東京でいえば、宵の口の渋谷駅や新宿駅の混雑を思い浮かべればいいのでしょう。

ウォータールー駅で待ち合わせて外に出ると、近くには劇場街(サウスバンク)があり、ここもまだ混雑するのでしょう。さらにいくとテイムズにぶつかり、ウォータールー橋を渡ることになります。

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中央の円筒形の建物(IMAXシアター)の右手がウォータールー駅。左側、バスが渡っている橋がウォータールー橋。テリーとジュディーは右手からきて、ウォータールー橋を渡り、川向こうに行った。

わたしはロンドンに行ったことがあるわけではないのですが、東京の場合、大川を越えて「川向こう」に行くと、佃島、月島、江東、いずれも静かなたたずまいになります。劇場街を背にして、ということでは、はるか昔の、まだにぎやかだった浅草六区を背にし、言問橋を渡って、川向こうの隅田公園に行くような感じが近いかもしれません。

しかし、景色からいうと、勝鬨橋を渡って、月島側から見た東京の夕景は、ウォータールーのような絶景ではないものの、なかなか悪くないもので、この曲からわたしは、言問より、勝鬨のほうを連想します。そういえば、勝鬨の近くにも新橋演舞場や松竹、さらには歌舞伎座もあるので、小さいながら、劇場街といえなくもないようです。

よけいなところに入りこみましたが、不思議な登場の仕方をしたこのテリーとジュディーに、わたしは、いくぶん迂回し、留保しながらも、感情移入をしてしまいます。派手なこと、華やかなことを好まず、ただ静かに世界を眺めていたいカップルが、近しいものに思えるのです。

◆ ナチュラルに変な人 ◆◆
作詞家としてのRDは、このWaterloo Sunsetにおける視点の移動のように、不思議なことを書くときもありますが、わたしは長年のRDファンなので、それなりについていくことができます。「そういう人」なのだ、というブラックボックス化みたいなことですが、とにかく、alienateされたと感じることはありません。いや、あえていうなら、「わかる」と感じます。

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しかし、作曲家、アレンジャー、プロデューサーとしては、ずっと不思議な人だと思いつづけていて、40年間聴いても、まだ奥底がよくわかりません。基本的にはシンプルなコード進行を使う人なのですが、ところどころ変なのです。それも、昔のティン・パン・アリー(イギリスならデンマーク・ストリート)の作曲家のような、正規の教育を受けた人たちの複雑さではありません。どういえばいいのでしょうか、「生まれたまんまで変」とでもいうか、自然に妙な進行が入りこんできてしまうのではないかと感じます。

このWaterloo Sunsetも、基本はE-B-Aとシンプルなのですが、途中からおかしくなります。そもそも、ギターとベースの(主として下降)ラインが強調されているので、コードは動いていなくても、つねにどこかへ動いている感覚があります。

こういうアレンジは、いったいだれがやっていたのだろうと思います。RDという人は、印象としては、ちょうどジョン・レノンのように、サウンドの細部に対して強いこだわりや意見がある人には思えず(つまり、ポール・マッカトニー、ブライアン・ウィルソン的ではない)、ラリー・ペイジあたりがかなり手助けしているのではないかという推測ができますが、この見方には、ひとつ、ささやかな反証があります。

タートルズが、なにを思ったか、レイ・デイヴィーズにアルバムのプロデュースを依頼しました。依頼した彼ら自身、驚いたようですが、RDはこの意外なオファーを受け入れ、Turtle Soupというアルバムをプロデュースします。80年代にこのアルバムを聴いて、なるほど、キンクスのサウンドだ、と思いました。RDのスタイルが色濃く反映されているのです。

イギリスで自分たちの録音をしているときなら、いろいろな協力者が考えられますが、アウトサイド・プロダクションとなると、協力者の存在は考えにくく、RD自身とアーティストと、もしいれば、アレンジャーの色のどれかが強く出るはずで、それがキンクス風になったということは、つまり、RDの本来のカラーなのだと考えるのが妥当でしょう。

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弟のデイヴの協力があったにせよ、やはりサウンド面でも、RDが最終決定権をもっていたのでしょう。70年代、RCA移籍以降は、コード進行もサウンドも簡素化されますが、60年代後半のRDは、楽曲も、サウンドも、不思議なものが多く、いまだに聴いていて奇妙な感覚にとらわれることがあり、これもまた、パイ時代のキンクスの魅力のひとつとなっています。

◆ ゆるぎない足取り ◆◆
アルバムSomething Elseは、1967年9月という微妙なタイミングでリリースされています。おそらく、すでにSgt. Peppersを聴いたあとの録音でしょう。前作のFace to Faceと大きな落差があるわけではなく、前作で一歩踏み出した路線を、さらに推し進め、自分が書きたい曲を書き、歌いたい曲を歌う、RDの内省的な方向への確信が深まり、足取りがしっかりしてきただけと感じます。

それでも、Sgt. Peppersの登場は無視できなかったでしょう。いや、言い方がちがうようです。自分がFace to Faceで踏み出した方向に、ビートルズはドラスティックにジャンプしたと感じたのではないでしょうか。風はフォローだ、というように。

RDが凡庸ではないのは、ストーンズの動きとくらべれば明瞭になります。ストーンズは、ビートルズがとった方向性を予想していなかった、もっと厳密にいえば「覚悟」できていなかったと思われます。Their Satanic Majesty's RequestとWe Love Youは、「うろがきた」と感じます。あんまりあわてて舵を切ったものだから、45度曲がるつもりが、90度曲がってしまい、あわててまた反対方向に舵を切り直すことになります。

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RDは、そのような狼狽をいっさい見せていません。自分がいこうと考えた方向に、一歩一歩着実に歩んだことが、Face to Face、Something Else、The Village Green Preservation Society、Arthur Or The Decline And Fall Of The British Empireの4作でわかります。そして、最終的にたどり着いたのが、Muswell Hillbilliesであり、Everybody's in Show-Bizなのだと感じます。この足取りに乱れはありません。

レイ・デイヴィーズのことを書きはじめると止まらなくなるのですが、今月中にすくなくともあと2曲、来月にはもう2曲、RDの曲を取り上げる心づもりなので、本日はここらで切り上げることにします。なにはともあれ、ボビー・ジェントリーのMorning Gloryとならび、「棺桶に入れたい13枚」「墓の下でも歌いたい13曲」のひとつをまた取り上げることができ、喜びに堪えません。
by songsf4s | 2007-11-04 20:54 | 秋の歌
Blood and Butter by the Ghouls
タイトル
Blood and Butter
アーティスト
The Ghouls
ライター
Gary Usher, Richard Podolor
収録アルバム
Dracula's Duece
リリース年
1964年
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◆ その他大勢の記念日 ◆◆
11月2日はなんの日かご存知でしょうか。わたしもついこのあいだ知ったのですが、All Soul's Dayというのだそうです。辞書には、

n. 諸魂日 【カト】(奉教)諸死者の記念日《11月2日》

と出ています。ハロウマスが諸聖人の祝日で、翌日が諸死者の記念日とくるのだから、要するに、聖人になれなかったその他の人すべてのための、いってみれば、残念賞みたいな日ということになります。

本日は、これから取り上げる曲のリストアップのために、更新は休もうかと思っていたのですが、そういう日なら、Evil Moon特集のコーダないしはフェイドアウトとして、ヒットしなかった亡者でも弔ってみようかと思い直しました。

◆ 30分で1曲の強行スケデュール ◆◆
グールズ(食屍鬼)なんていうグループはご存知ない方が多いでしょうが、スタジオ・プロジェクトにすぎず、この「ドラキュラのホットロッド」という企画盤のみに使われたバンド名です。企画者はゲーリー・アシャーと思われます。

ちょっと見にくいでしょうが、The Hondells Vol.4 More Aliases and Early Recordingsという盤に付された、グールズのセッショノグラフィーをご覧あれ。

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エース大集合とはいきませんが、グレン・キャンベルとハル・ブレインがいるので、まあまあのメンバーといえます。なぜメンバーがやや落ちているのかは、このセッショノグラフィーから読み取れるように思います。

セッションの日付、時刻、所要時間に注目すると、10月8日の夜7時から深夜にかけて、わずか2セットのセッション(3時間が1単位なので計6時間)で録音していることに気づきます。通常のLPは3時間×3回、計9時間で録音するのが、この時代のハリウッドの組合加入プレイヤーによるセッションの慣行です。3時間で4曲、それを3回やって、LPに必要な12曲を録音するわけです。

それが、このセッショノグラフィーを見ると、3時間で6曲、それを2回と、通常の3分の2に圧縮してしまっているのです。こういうことが起きるのは、急いでいるときか、予算が足りないときです。この盤の場合、プレイヤーの料金が高くなる深夜に食い込んでセッションをしているので、金銭的問題より、時間的問題から、わずか6時間で録音したのだと推量できます。

f0147840_2346496.jpgどういう時間的問題か。それは、10月8日という日付が語っています。ハロウィーンに合わせた企画だからでしょう。それにしては、ちょっと遅いと思うのですが、企画書の承認が遅れたとか、楽曲の用意が遅れたとか、その種のよくある事情で、ギリギリのタイミングでの録音になった、といったあたりではないでしょうか。

だから、急なことで、メンバーもエースばかりそろえるわけにはいかず、ファースト・コールではない人だろうとなんだろうと、とにかく、手に入ったメンバーで強行せざるをえなかったのだと考えます。ハル・ブレインとグレン・キャンベルがあいていただけでもラッキーなくらいです。

◆ 最後のひと暴れ ◆◆
じっさい、ハルがいなければ、つまらないアルバムになっていたでしょう。ハロウィーン向けの当て込み企画ですから、楽曲の粒がそろっているはずもなく、半数はシンプルなコードとリックによるインストゥルメンタルで、「作曲」なんていうのは恥ずかしいぐらいのものですし、歌ものはパロディーなので、いわば既存の曲の替え歌のようなものにすぎません。そして、その歌も、だれがリードをとったのか知りませんが、ドラキュラの芝居はひどいもので、むやみにうなり声をあげるのが疳に障り、笑うに笑えません。

ギターも、それほど出来のいい曲があるわけではなく、好調時のグレン・キャンベルの豪快なソロはありません。たぶん、リッチー・ポドラーがリードをとった曲が多いのではないでしょうか。おとなしいプレイぶりが、グレンらしくありません。

唯一の楽しみはハル・ブレインです。これがいいのです! これだけ叩いてくれれば、ほかの音はいりません。例によって、「これは弱いな」と思ったときの、「じゃあ、俺がやる」根性を発揮したのだと思います。とにかく、アップテンポの曲は叩きに叩きまくって疾走しています。

とりわけ、看板に立てたBlood and Butter(必要な食べ物、生きるための糧、たつきの道という意味のbread and butterのもじり)や、そのパート2とでも名づけたほうがよいほどよく似ているVoo Doo Juiceといったインストや、タイトル曲のDracura's DeuceやBella Be Good(Johnny B. Goodeのもじり。ベラはもちろんベラ・ルゴシ)では、ハル・ブレインだけを聴いてしまいます。

繊細なドラミングもするいっぽうで、ときに暴れまくるプレイヤーではありますが、ここまで暴れているのは、それほどたくさんはありません。バーズのMr. Tambourine Man、そしてとりわけ、ママズ&パパズのCalifornia Dreamin'以降は、すこしスタイルが変わるので、ハルといえども、これほど豪快にストレート・シクティーンスを叩くことはなくなります。彼のこういうプレイが聴けるのも残すところあとわずか、若い躍動感に満ちたハル・ブレインの最後の大花火のようなプレイです。

◆ サーフ&ロッド&ウィアード ◆◆
ウェブ上で知り合った仲間と意見を交換するうちに、しだいに、ハルが「レッキング・クルー」と名づけた、ハリウッドのエース・プレイヤーたちが、イージー・リスニング系の盤でかなりプレイしたことがわかってきました。たとえば、ハリウッド・ストリングスなどという、得体の知れないアーティストの名義になっている盤では、ハル・ブレインとキャロル・ケイの音が聞こえました。

f0147840_23531649.jpgそういうものもつとめて聴くようにしてきましたし、これははじめからわかっていた、サウンドトラック方面も、折りを見て発掘の努力をしてきました。しかし、どうやら、いままで気づいていなかった分野があるのではないかという気がしてきました。怪奇音楽という、ジャンルなんだかなんだかわからない分野です。

そもそも、そんなものが意外に大きな分野で、大量の盤がリリースされていたことですら、つい最近気づいたことで、ハリウッドのエース・プレイヤーたちがそういう盤でプレイしているなどということは、まったく視野の外でした。

f0147840_2354143.jpgしかし、考えてみると、AIPなんていう映画会社は、怪奇映画で稼いだだけでなく、同時にビーチ・ムーヴィーも大量生産していて、ハリウッドのプレイヤーたちは、そうした映画のサウンドトラックでプレイしています。また、ラット・フィンクなんていうキャラクターも、サーフ&ロッドのすぐ隣にあり、グールズの生みの親であるゲーリー・アシャー自身、ミスター・ガッサー&ザ・ウィアードーズなんていう盤の制作にもかかわっているはずです。

なぜ、あの時代に怪奇ブームがわき起こったのかは知りませんが、どうであれ、ハリウッド音楽工場を研究する人間としては、この分野は新しい研究課題だと感じた2007年のハロウィーンでした。

これにてEvil Moon特集は正真正銘のフェイドアウト、つぎからは、すこし秋の歌を見ていこうと考えています。でも、選曲はまだまったくの白紙で、どうなることやら、まったくもっておぼつきません。

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by songsf4s | 2007-11-02 23:37 | Evil Moonの歌