- タイトル
- On and On
- アーティスト
- Ned Doheny
- ライター
- Ned Doheny
- 収録アルバム
- Ned Doheny (eponymous title)
- リリース年
- 1973年
- 他のヴァージョン
- Dave Mason and Cass Elliot

昨日は、ちょっと「息継ぎ」のために休ませていただきました。HDDから追い出す必要のあるものを整理したり、この三月ほどの演芸番組のエアチェック・ファイルをバックアップしたり(わが家のHDDのなかにあるもので、これがいちばん大事!)、見るひまのなかったデッドのヴィデオを片づけたり、デッドのライヴのアーカイヴにいって、すこし72年のファイルをそろえてみたり、目がまわるほど忙しい「休み」でした。
30分ばかり、ギターも弾いてみました。今日の曲、On and Onで気になるところがあるので、とってみたのです。よく考えると、この曲を風の歌特集にもってくるのは、かなり無理があるのですが、すでに30分の「資本を投下」してしまったので、無理矢理、回収することにさせていただきます。
「風の歌」特集をはじめたはいいけれど、案外、言葉のヴァリエーションはすくなく、wind、breeze、gale、whirl(またはwhirlwind)ぐらいしか思いつきません。ビューフォート風力階級の表現が日常語とは乖離して感じられるのは、このためではないかという気がします。今日は、かろうじて風の縁語といえるblastが出てくるのですが、果たして風なのかどうなのか……。

◆ またしても戦争? ◆◆
そもそも、歌詞の意味もよくわからないので、取り上げるべきか否か、ちょっと悩みました。まあ、センテンス・レベルでわからないのではなく、なにを指しているのかがわからないだけなので、放りだすような形になりますが、やってやれないことはなかろうと考えました。それではファースト・ヴァース。
It appears to have no end, no begining
And though the battle's fairly far
It would seem there's little chance of ever winning
「話はどこまでもどこまでもつづく、まるで終わりも始まりもないように、戦いは遙か彼方でおこなわれているが、ほとんど勝ち目はないように思える」
どうなんでしょうか、ヴェトナム戦争の歌とみなしていいのでしょうか? すくなくとも、この曲をリアルタイム(作者はネッド・ドヒーニーだが、オリジナルはデイヴ・メイソン=キャス・エリオット盤で、こちらは71年リリース、すなわちヴェトナム戦争が最悪の局面を迎えた時期)で聴いた人間の多くが、ヴェトナム戦争を思い浮かべたことは間違いありません。
ブリッジ。
If it were up to me the sun would shine again
It looks grim from where I stand
「ぼくは雨の中に取り残された、まるでもう一度太陽が輝くかどうかはぼくの責任だといわれているみたいだ、ここからはそれは気味悪く見える」
このブリッジも、反戦歌であるという仮定に立って解釈することは可能です。from where I standも、「立っている場所」であると同時に「立場」すなわち政治姿勢ともとれます。
◆ 道理と押韻 ◆◆
セカンド・ヴァース。
Reach out across the wood
Voices in a dark sky
They sing a song
That sounds all wrong
Such a reason has no rhyme
I got to do it my way
「べつの闘いの廃墟が森の向こうからやってくる、暗い空の声はなにからなにまでまったくまちがった歌をうたう、そんな道理に筋を通せるはずもない、ぼくは自分のやり方でやるしかない」
reach outに、ほかに意味があるかと思って辞書を見ましたが、やはり「手を伸ばす」類似のものしかありませんでした。4トップスのReach Out, I'll Be Thereです。
rhymeとreasonがセットで使われると、ふつうはwithout rhyme or reasonなどの形で、「道理もヘチマもない」「理屈もなにもない」という熟語になります。ここはsongとのからみで出てくるところが困りますが、ダブル・ミーニングのようなものなのでしょう。ここもまた戦争のことをいっていると解釈できます。
最初とはすこしだけちがうブリッジ。
If it were up to me the sun would shine again
It makes no difference where I stand
「ぼくは雨の中に取り残された、まるでもう一度太陽が輝くかどうかはぼくの責任だといわれているみたいだ、ぼくの立場からいえば、どちらでもまったくちがいはない」
◆ 突風か爆風か、はたまた破局か? ◆◆
最後のヴァース。
To fly before the blast
Take care not to stumble
Straining for that destiny
Some half remembered dream
Knowing it must crumble
Knowing it must crumble
「馬と騎手は突風に襲われるまえに飛ぼうとして、一体になって移動している、その運命に押しひしがれて、転ばないように気をつけろ、消えてしまうことがわかっている思い出しかけた夢」
ここはさっぱりわかりません。馬と騎手はなにかを象徴しているのでしょうが、わたしにはよくわかりません。blastは風ではなく、第二義の「《口》《感情の》爆発、激しい非難; 急激な災厄、打撃」のほうである可能性もあります。しかし、そうだとすると、この風の歌の特集にこの曲を登場させるのは不可となってしまうので、ここは嫌でも応でもなんらかの風だと思っていただきましょう!
修飾関係もあやふやです。Straining for that destinyは、まえにもあとにもつながっていないように思えます。やむをえないので、まえの行を修飾しているものと無理矢理に解釈しておきました。thatがなにを指すのかも見当がつきません。
◆ 微妙な違和感 ◆◆
歌詞はおおむね退屈ですが、曲は非常に魅力的です。ネッド・ドヒーニー(アクセントは第二シラブル、すなわち「ヒ」にあるし、長音記号もつく)自身のデビューより先に、この曲が世に出たのもむべなるかなと思います。
したがって、先に聴いたのはデイヴ・メイソンとキャス・エリオットのデュエット盤でした。トラフィックからつづく縁で、ブルー・サム時代のデイヴ・メイソンは、見かけたら買っていました。買った順序はメチャクチャですが、いま調べたら、CBSの1枚目まではすべてLPでもっているようです。
メイソンのソロとしては、ブルー・サムの1枚目、ソロ・デビュー盤であるAlone Togetherがいちばんいいと感じます。これがよかったおかげで、あとの盤に違和感を覚えながらも、しばらくは付き合ってしまいました。
そもそも、ブルー・サムの4枚のうち、Dave Mason Is AliveおよびHeadkeeperはライヴ盤、スタジオ盤はAlone TogetherとDave Mason and Cass Elliotしかありません。よく聴いたといえるのは、Alone Togetherだけです。

畳んだときに表になるのは、真ん中のタイトルが書いてある部分。わが家にあるもっとも凝ったLPジャケット。

ひっくり返すとこんな感じ。帽子型に切り抜かれた一番上の部分の真ん中に小さな穴が空いているが、これはピンナップ用。一番下がポケットになっていて(半円形の切り抜きはレーベル用窓)、盤はここに収める。

ジャケットにここまで凝ると、盤はふつうのものというわけにいかなくなったのだろう、マーブル模様になっている。おかげで盤質が悪く、針圧をかけなければならなかった。
Dave Mason and Cass Elliotも、悪いアルバムではないのですが、なにかが足りないと感じました。よく聴いたのはA面の冒頭3曲、すなわち、Walk to the Point、On and On、To Be Freeまでで、たいていはここで針をあげていました。
いや、3曲もあれば、投下した資本は回収できたといえます。だから、そんなに悪い印象はもっていないのですが、どこかに違和感があって、やがて聴かないアルバムになってしまいました。その違和感の正体が判明したのは、ずっと後年のことです。
◆ センス・オヴ・タイム ◆◆
ネッド・ドヒーニーを聴いたのは、Proneがリリースされたときなので、70年代終わりか80年代はじめでしょう。On and Onが収録されたデビュー盤を聴いたのもそのときなので、数年遅れということになります。アルバム・オープナーのFinelineもいい曲ですが、ハッとしたのは、On and Onのほうです。メイソン=エリオット盤を聴かなくなってだいぶたっていたので、はじめは、だれのヴァージョンで知っているのかわからなかったくらいです。
このセルフ・カヴァー・ヴァージョンを聴いて思いましたね。メイソン=エリオット盤は、やはり楽曲のもつ潜在性を十分に引き出してはいなかったのだと。若いころのドヒーニーはそういうタイプなのだし、メイソンもエリオットもあのとき、すでにヴェテランだったので、単純に比較するわけにはいきませんが、それでも、ドヒーニーのさわやかなサウンドとヴォーカルには敵するものではありません。On and Onはネッド・ドヒーニー盤にかぎります。


ネッド・ドヒーニー盤にはほかにもよさがあります。グルーヴです。わたしはゲーリー・マラバーにはあまり縁がなく、それほど多くはもっていませんが、ネッド・ドヒーニーの盤で聴くかぎり、いいグルーヴの持主です。仮にほかの条件は同じだとしても、ドラマーの差で、わたしはネッド・ドヒーニー盤をとります。
で、メイソン盤のクレジットを改めて見ると、ドラマーはラス・カンケル。じゃあ、当たり前じゃんか、といまになれば思います。まだドラマーの「ストライク・ゾーン」が広かった若いころでも、あとになって嫌悪しか感じなくなるドラマーは、やはりはじめから虫が好かなかったのです。
センス・オヴ・タイムというのはじつに正直です。意識の表層下のレベルで、自分固有のタイムが、特定のドラマーのタイムを拒否した結果が、原因不明の不定愁訴のような違和感として、わたしの意識の表層にのぼったにちがいありません。いまでは、はっきりとわかります。メイソン=エリオット盤On and Onは、バッド・グルーヴなのです。
◆ 上品なギターの扱いとコードのセンス ◆◆
ネッド・ドヒーニーが、さわやかなグッド・フィーリンをもっていたのは、若いころだけだということは、後年のアルバム、Life After Romanceで劇的なまでに明らかになりますが(もうひどいのなんの、正真正銘、一回聴いただけ。二度と聴く気の起きない無惨な盤)、逆にいえば、最初の2枚は、なんともさわやかな盤なのです(3枚目のProneも、Life After Romanceのように無惨なものではないが、やはり、リリースを見送られたのは理由がなかったわけではないと感じる出来)。
セカンドのHard Candyは、すこしプロフェッショナルな仕上がりになり、ウェル・メイドといってもいいほどですが、デビュー盤はもう、愚直とすら感じる、いわゆる「誠実な」サウンドです。グルーヴとグッド・フィーリンのみ。
そのグッド・フィーリンの源泉は、ゲーリー・マラバーのドラミングばかりではありません。ネッド・ドヒーニーの盤を聴いて、まず感じるのは、アコースティック・ギターの扱いのよさです。フォークやカントリーでの扱いとは異なります。エレクトリックのように、アコースティックを扱うのです。良くも悪くも品のよいミュージシャンなのですが、その上品さはアコースティック・ギターの扱いに端的に表現されています。オープナーのFinlineや、Hard Candy収録のSwingshiftやGet It Up for Loveなどにおける、ふつうならエレクトリックを使うであろうところでの、アコースティックのカッティング&ストロークは非常に印象的でした。


On and Onでいうと、ヴァースとブリッジのあいだにストップ・タイムがあり、ギター・リックを入れていますが、ここはふつうならエレクトリックでやるところでしょう。ネッド・ドヒーニーの盤は、ギター・ソロよりも、こういう細部でのギターの扱いがなかなか印象的なのです。
On and Onのコードは、とりわけヴァースはシンプルです。イントロはEm7-Dm7の繰り返し、ヴァースに入ると、前半はDm-C-Bb-F、後半はDm-C-Bb-Dmという進行になっています。最後だけ前半と後半で変えているあたりも、なかなかクレヴァーです。
ブリッジは、C-E7-F-C-E7-F-C-Dm-Bbで、E7が非常にきいています。ふつうならGにいきたくなるところを、代用コードにしたのでしょう。また、最初のFは2小節分の長さがあり、コードはそのまま動かなくていいのですが、エレクトリックは(ここはまだとれていないので、あくまでもご参考のみに)、F7-Abm7-Abm7-C-Bb-Fといった感じで素早く動く装飾を入れ、ベースもそれに合わせるように動いています。こういうささやかな表現に、ネッド・ドヒーニーの特長があらわれていると感じます。なかなかクールな響き。
ゲーリー・マラバーは控えめにやっていますが、そういうときにこそ、グルーヴの善し悪しが重要になるわけで、いいバックビートを叩いています。ストップ・タイムからの戻りなどで見せるささやかなフィルインも、タイム、アクセント、ともによく、けっこうなドラミングです。この人を目的に盤を買おうとまでは思いませんが、初期のネッド・ドヒーニー盤のグッド・フィーリンは、この人のプレイなくしては実現しなかったのは明らかです。
◆ ロンドン=ハリウッド人脈 ◆◆
改めて、メイソン=エリオット盤On and Onを、ドラムはないものと思って聴いてみました。しかし、ドラムはないものと思えるなら、たいていの盤はみなよく聞こえることになってしまう道理で、そんなことは無理だとわかっただけでした。どう聴いても、ラス・カンケルのバックビートと、春先のウグイスのようにアクセントになまりのあるタム(チューニングまたはヘッド自体もよくない)が耳についてしまいます。とくにパラディドルのダサさには怒髪天を衝く一歩手前、沸騰寸前。
キャス・エリオットというシンガーは、そういってはなんですが、ハーモニーをつけたときにいい響きになる声をもっています。ママズ&パパズのときからそうで、たとえば、Dream a Little Dreamのように、彼女がソロとった曲ではなく、デニー・ドーハティーのリードの上に乗ったときのほうがいいと感じます。彼女自身にもその自覚があったのではないでしょうか。だから、メイソンとのデュエットがつづくことを望んだのでしょう(メイソンのほうは、あくまでもワン・ショットと考えていたそうで、じっさい、これ一枚だけに終わった)。On and Onでも、ブリッジのハーモニーはいいと感じます。

ダブル・ジャケットだが、こちらは悪凝りしていない。なかはどうなっているのだ、そっちも見せろというご意見もありましょうが、写真は同じで、ネーム(文字)がないだけ。
何度か繰り返し比較して思ったのですが、メイソン=エリオット盤は、ベースもうるさく感じます。ということは、ミックスにも問題があるということです。ヴォーカルがよく聞こえず、ベースはよく聞こえるというのは、他のタイプの音楽にふさわしいミックスでしょう。
デイヴ・メイソンとキャス・エリオットがデュエットを組むに至った事情というのは知りませんでしたが、メイソン自身の説明を見つけました。
70年ごろ、メイソンはアメリカに移住しますが、当初、旧知のグラム・パーソンズの家に転がり込んで、カウチに寝ていたのだそうです。グラムはしばしばイギリスに滞在しているので、そのときに知り合ったのでしょうが、メイソンがパーソンズ家に居候していたことがあるなどというのは、グラム関係の資料で読んだことはありませんでした。
で、グラムがキャスを知っていて、メイソンをキャスに紹介し、それが機縁になってデュエット・アルバムを録音することになった、というしだい。
On and Onをうたうことになった経緯は残念ながらわかりません。だれか業界の人間がデモを持ち込んだのか、直接にネッド・ドヒーニーに聴かされ、気に入ったのか、どちらの可能性もあります。