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カテゴリ:秋の歌( 14 )
Autumn Almanac by the Kinks その1
タイトル
Autumn Almanac
アーティスト
The Kinks
ライター
Ray Davies
収録アルバム
Singles Collection
リリース年
1967年
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このところ、歌詞の解釈をしなかったり、楽な曲を取り上げたり、休んだりしていた理由は、400ページを超える(訳せば1000枚超)レイ・デイヴィーズの大部な自伝を読むのに忙しかったせいですが、それもようやく終わりました。じつに不思議な自伝で、自伝的小説ないしは彼の世界観のひどくひねくれた表明、ぐらいに受け取っておいたほうがよさそうです。たしかに「非公認自伝」とでも名づけるしかないと納得しました。

f0147840_23504739.jpgそれはそれとして、ポップ・スターの自伝として事実を拾うこともできます。たとえば、Waterloo Sunsetの歌詞と録音にどれほど手間をかけ、どれほどだいじに、だいじに、つくっていったかということも語られています(プロデューサーのシェル・タルミーすら排除して、RD自身のセルフ・プロデュースによることが明かされている)。彼にとって「生涯の曲」は、Waterloo SunsetとDaysのようで、ジュリーという女性とこの曲については何度も言及されています。

ということは、あの視点の移動、一人称から三人称への転換は、「たまたまそうなった」のではなく、意図的におこなったことにちがいありません。なぜ、ああいうイレギュラーなことをしたかについては、残念ながら、なにも言及されていないのですが。

本日は、Waterloo Sunsetの直後に録音された、きわめつけの秋の曲、歌詞も曲もじつに不可解な、いかにも1967年のレイ・デイヴィーズらしいスタイルでつくられた、かのAutumn Almanacを取り上げます。秋の歌特集は、あくまでもこの曲を取り上げることを目的としているので、ほかの曲は露払い、付け足り、脇役にすぎません。

◆ 「スイッピンミマサ」 ◆◆
それではファースト・ヴァース、といいたいところですが、なにがヴァースやらコーラスやらブリッジやら、よくわからない曲なので、適当と思われる場所で、任意にブロック分けしながらやっていきます。以下は、通常の曲ならたぶんファースト・ヴァースに相当する部分です。

From the dew-soaked hedge
Creeps a crawly caterpillar
When the dawn begins to crack
It's all part of my autumn almanac
Breeze blows leaves of a musty-coloured yellow
So I sweep them in my sack
Yes, yes, yes, it's my autumn almanac

「夜明けとともに、露に濡れた生け垣から、いも虫がモゾモゾと這い出してくる、これもまたわたしの秋の暦の一部、風が黄色い朽ち葉を吹き飛ばすので、わたしは落ち葉を掃いて袋に入れる、そう、これがわたしの秋の暦」

この曲は、シングルのみのリリースで、同時期のアルバム、Something Elseには収録されず、アメリカではヒットしなかったので、わたしが聴いたのは70年代はじめにリリースされた、The Kink Kroniclesという編集盤でのことでした。

f0147840_23523091.jpgこのダブル・アルバムではじめて聴いた曲のなかでは、Autumn Almanacは出色の出来だと思いましたが、なにをいっているのかさっぱり聴き取れず、往生しました。ファースト・ラインなんて、ぜんぜん聴き取れなかったし、sweep them in my sackも「スイッピンミマサ」と聞こえて、単語に分離することができませんでした。RDのディクションも、コクニーがひどいのでしょうが、ヴォキャブラリーが流行歌の歌詞にはないものだということも影響しています。レイモンド・ダグラスというのは、「そういう人」なのです。

いも虫は暖かい時分のものだろう、という方がいらっしゃるかもしれませんが、そうとはかぎりません。つい昨日も、わが家の柚子の木で這っているのを見ました。一昨年の十月には、本葉が出て、育ちはじめた水菜を黒いいも虫に全滅させられたこともあります。秋にも、さまざまないも虫がいるのです。

◆ カラント・バン ◆◆
以下は、冒頭のヴァースのようなものとは、メロディーもコードも異なる第二ブロック。そういうものは、ふつうなら、コーラスまたはブリッジのはずですが、どちらとも判断できません。どんどん相貌が変化していく曲なのです。

Friday evenings, people get together
Hiding from the weather
Tea and toasted, buttered currant buns
Tryin' to compensate for lack of sun
Because the summer's all gone

「金曜の宵になると、ひどい天気から逃れてひとびとが集まり、お茶と炙ってバターを塗ったカラント・バンで、太陽が顔を出さないことのかわりにしようとする、夏はもう遠い話だから」

f0147840_23552118.jpgcurrantは干しぶどう、レーズンのことなので、currant bunとは、要するにぶどうパンなのですが、bunとあるので、日本でよく見る食パン型のぶどうパンではありません。bunは丸い形のものですが、hamburger bunのように大きなものではなく、もっと小さなもののようです。

ここは比較的よく聞こえるところなので、昔からいっしょに歌っていましたが、バタードのあとが、やはりよくわかりませんでした。currant bunsなんて言葉が出てくる歌は、あまりないでしょう(検索すると、ピンク・フロイドがむやみに引っかかるので、彼らの曲にそういうタイトルのものがあるのかもしれません)。こんな言葉にも、RDの食べ物に対するこだわりがあらわれています。

people get togetherとhiding from the weatherは、この曲のなかで、いっしょに歌っていていちばん気持ちのよいラインです。ということは、たとえ文字でどのように見えようとも、すぐれた韻だということにほかなりません。

f0147840_23563921.jpg歌詞サイトによっては、tryin' to compensateをcan't compensateとしているところがあります。じっさい、聴き取りにくいところなのですが、歌詞の出来として、can'tでは平板で、あまりよろしくないと感じます。tyrin' toのほうがずっと上等です。ここでは、『The Kinks: The Official Biography』という本に掲載された歌詞にしたがっておきます。オフィシャルというのだから、RD本人ではなくても、だれかキンクス側関係者がチェックしたものだろうと思うからです。

なお、この本では、ここまでの二つのブロックをひとつのものとして書いています。それがRDの意図かもしれません。

◆ 背中の痛みと悪夢 ◆◆
以下は短いものですが、オフィシャル本では、単独のブロックがあたえられています。メロディーとしては、第一ブロックの「So I sweep them in my sack/Yes, yes, yes, it's my autumn almanac」と同じで、印象としてはコーラスに聞こえるパートです。

Oh! my poor rheumatic back!
Yes, yes, yes, it's my autumn almanac
Oh, my autumn almanac
Yes, yes, yes, it's my autumn almanac

「ああ、リューマチの背中が痛む! それもわたしの秋の暦」

おそろしく短いブロックですが、「ララ、ラーラ、ラーララ」などといったナンセンス・シラブル(メロディーは第一ブロックの「Breeze blows leaves of a musty-coloured yellow」と同じ)でつないでいます。

レイモンド・ダグラスは、子どものころにトラック競技で背中を痛めて以来、大人になっても、しばしばこの痛みに悩まされたようです。それがこの、歌としては異例の「季節表現」につながったと思います。古傷をもつ人なら、この「季節感」は身に染みるでしょう! こんなことを歌にした人はRDしかいないのじゃないでしょうか。

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左からレイモンド・ダグラス、甥っ子のテリー(Waterloo Sunsetに登場する)、弟のデイヴ。この写真の表情が、すなわちRDという人物の生涯をあらわしているような気がする。

しかし、「背中」はRDのパラノイアの対象でもあり、このAutumn Almanacの語り手のだいじな属性でもあるようです。前述のオフィシャル本によると、この曲のモデルとなったのは、当時のデイヴィーズ邸の庭師で、彼はせむしだったのだそうです(いま辞書を引いたところ、せむしのpolitically correctな表現は「脊柱後彎」のようです。表現ではなく、たんなる病名じゃないか、といいたくなりますが)。

RDはこの人物を小さなころから知っていて、彼の悪夢の登場人物であり、子どものころに背中をケガしたときは、せむしになるとおびえたということが自伝に出てきます。

それはともかく、庭師だとわかれば、冒頭に出てくる、生け垣の毛虫や落ち葉の掃除は、当然のラインなのだとおわかりでしょう。いきなり出てくるから、戸惑うだけなのです。いや、まあ、それが「表現」というものなのですが。

◆ 食べ物に対する偏執 ◆◆
以下は、これまでは出てこなかったメロディー、コード・パターンで、ブリッジのように聞こえます。

I like my football on a Saturday
Roast beef on Sunday's all right
I go to Blackpool for my holidays
Sit in the open sunlight

「土曜にはサッカーを楽しむことにしている、日曜のロースト・ビーフも悪くない、休日にはブラックプールに出かけ、外に坐って陽の光を楽しむ」

脊柱後彎の庭師の生活には思えない描写ですが、モデルが庭師だということなど、作者だけが知っていたことで、それを知らなければ、べつにおかしくはありません。じっさい、ここはRD自身の生活の描写でしょう。

RDはサッカーきちがいで、自分でもプレイし、オフィシャル本にも、メロディー・メイカー・イレヴンというクラブ(音楽誌の「メロディー・メイカー」関係者のクラブということでしょう)での写真が載っていますし、ショーン・コネリーらがいる芸能人クラブでもプレイしたと自伝にあります。

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メロディー・メイカー・イレヴン。前列左から二人目にレイモンド・ダグラス、後列右から二人目がデイヴ・デイヴィーズ

また、ワールド・カップの決勝(イギリスで開催されたときのことのようなので、サッカー・ファンなら時期を特定できるでしょう)にイングランドが進出したときは、夜のライヴ・ギグのスケデュールと重なってしまい、テレビ観戦を優先したために、ひどいトラブルになったことも自伝に記されています。

ロースト・ビーフの登場は、当然、RDの食べ物への偏執があらわれたと、長年のファンには感じられます。このころから食べ物が歌詞に登場しはじめ、Alcohol、Skin and Bones、Hot Potatoes、Motorwayといった(まだほかにもいくつかあったはずですが)、RCA時代の飲食物の歌へとつながっていきます。

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レイモンド・ダグラス(左端)、その背後にピート・クエイフ、ストゥールにミック・エイヴォリー、そしてデイヴ・デイヴィーズ(右端)

まだ歌詞もやっとなかばを過ぎたばかりですが、残り時間僅少で、これから画像のスキャンもしなければならないので、歌詞の後半、そして摩訶不思議な展開をする複雑な曲とコードについては、明日以降に(ひょっとしたら、さらに2回に分けて)検討することにします。


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The Kinks
Ultimate Collection
Ultimate Collection
by songsf4s | 2007-11-13 23:21 | 秋の歌
Blue Autumn by Bobby Goldsboro
タイトル
Blue Autumn
アーティスト
Bobby Goldsboro
ライター
Bobby Goldsboro
収録アルバム
Blue Autumn
リリース年
1966年
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晩秋というのは十一月だと思っていましたが、もはやそういう時代ではなくなったようで、南関東の平地では、十一月中旬ぐらいでは「秋色深し」とは、とうていいえないようです。

先週までは、近所の欅並木もまだ色づかず、いつになったら秋らしくなるのかという日がつづいていましたが、土曜の雨と寒気のおかげで、さすがに、欅や桜がいくぶん赤みを加えてきましたし、一本だけですが、三分の一ほど色づいた七竈の木も見ました。しかし、楓類はどれも依然として緑色で、当地では、秋景色を楽しめるようになるのは、ひょっとしたら来月のことになるかもしれません。

しかし、辞典を引いてみると、天文学の定義では、秋とは「秋分の日から冬至まで」のことだというのだから、それなら、ちょうど、われわれの感覚と天文学の定義が一致したというあたりかもしれません。この合致が一時的なものにすぎず、さらに温暖化が進んで、感覚が天文学の定義を追い越し、晩秋が一月にズレこんだりしないように願いたいものです。冬のない「三季」では、当ブログのタイトルを変更しなくてはなりません!

◆ 蒼く色づく落葉 ◆◆
ボビー・ゴールズボロには、タイトルにAutumnのついたものが、すくなくとも2曲あります。片方は歌詞が捨てがたく、片方は曲が捨てがたく、ひとつにまとめてくれよ、と思うのですが、とりあえず、音のほうを優先して、Blue Autumnから取り上げます。

あまり楽しい歌詞ではないのですが、まずはファースト・ヴァースを。

Blue autumn
Falling leaves of red and gold
Pretty colors I am told
But I see only shades of blue
Because I'm losing you

「憂鬱な秋、赤や黄色の落ち葉、きれいな色だとひとはいう、でも、ぼくには蒼い翳がさしているのしか見えない、きみを失おうとしているのだから」

ノーマルな発想というか、ほとんどクリシェというべきでしょうが、そこが歌詞というもののよくしたところで、サウンドと一体になると、ひどく陳腐に聞こえることはなく、そこそこは納得のできるものになっています。

セカンド・ヴァース。

Blue autumn
There's a rainbow in the sky
But no matter how I try
I still see only shades of blue
Because I'm losing you

「憂鬱な秋、空には虹がかかっている、でも、どうやっても、ぼくには蒼い翳しか見えない、きみを失おうとしているのだから」

f0147840_2257146.jpgこれまたノーマルな発想、わるくいえばやはりクリシェで、色をモティーフにしたことからの連想で、虹が出てきたにちがいありません。詩だとするならまずいでしょうが、流行歌の歌詞なのだから、まあ、こんなものでしょう。作詞の常道をきちんと踏んでいる、とほめることもできれば、星菫派となんら懸隔がない、と腐すこともできます。

ちなみに、昔、本で読んだのですが、白虹(はくこう)というものがあります。これはモノトーンな虹で、雨滴がごく小さい場合に起こる現象だそうです。いま、百科事典を調べたら、「雨滴が大粒で色の鮮やかな虹と、白い霧虹との中間の粒の大きさのときには、虹の中に赤色が見えず、幅が広くなり、全体として青みを帯び」とありました。

ボビー、きみの見た蒼い翳は、ブルーな気分の反映なんかではなく、雨粒が中途半端な大きさだったために起きた、無慈悲なまでに散文的な気象現象にすぎなかったのだよ!

◆ サード・ヴァースの「転」 ◆◆
ブリッジ。

Such pretty color I am told
There for all to see
But falling leaves of red and gold
Have all turned blue to me

「なんてきれいな色だ、すばらしい見ものだ、と人はいうけれど、赤や黄色の葉が落ちても、ぼくの目にはみなブルーになってしまう」

以前にも書きましたが、ブリッジは「起承転結」の「転」、チェンジアップであったほうがいいのですが、そうなっていない曲もかなりあって、このBlue Autumnのブリッジもそのタイプです。そもそも、ストーリーがあるわけではないので、「起」「承」のみでできているというか、ワン・アイディアで最後まで押しまくる歌詞になっています。

サード・ヴァース。

Blue autumn
A love like yours I'll never know
Other girls may come and go
But I'll see only shades of you
And all my autumn will be blue

「きみのような愛に二度とであうことはないだろう、いろいろな女の子に出会い、別れるだろうけれど、いつもきみの影を見てしまうにちがいない、そして、ぼくの秋はいつもブルー」

やっと、いくぶんかインスピレーショナルなラインが出てきたと感じます。これまでの二つのヴァースでshades of blueを繰り返してきたので、ここでのshades of youが生きています。shades of youほどではないにしても、最後のラインもまた、伏線がいくぶんかはきいていると感じます。ピシッと決まった、とはいえませんが、決まりすぎると気色が悪いので、この程度でちょうどいいか、と思います。

◆ コード・チェンジの効果 ◆◆
この曲の最大の魅力は、クレヴァーなコード・チェンジです。Blue autumn, falling leaves of red and goldというところは、C-Cmaj7-B♭-A-Dmという進行で、Pretty colors I am toldにいくときに、Fmに移動します。

C-Cmaj7-B♭-A-Dmというのは、あまり見たことのないパターンで、ちょっと考えてみたのですが、他に例を思いつきませんでした。このコード・チェンジの流れそのものがいいのですが、このコンテクストでは、Cmaj7-B♭という尋常な移行の響きが引き立ち、ここが耳についたので、コードをとってみる気になりました。

このブロックの最後のコードであるDmから、つぎのFmへの移行もちょっと変わっています。DmからFならノーマルですが、Fmというのは意外で、コピーしていて、あれ、どこへいったんだ、と戸惑いました。Dの位置から動かずに、なにかテンションを加えただけなのかと思ったのです。この移行もなかなかいい響きです。

f0147840_2258375.jpg歌詞はほとんどクリシェですし、アレンジもオーソドクスなものなので、Cmaj7-B♭とDm-Fmという、二つの「キラー・チェンジ」のおかげでヒットした、といっても言い過ぎではないでしょう。すくなくともわたしの場合、この二つのコード・チェンジがなければ、この曲のことはなんとも思わなかったにちがいありません。

ボビー・ゴールズボロという人は、Honeyの印象が強いのですが、初期にはああいう語りのようなスタイルの曲はなく、Little ThingsやIt's Too Lateはアップテンポで、明瞭なメロディー・ラインがあります。クレヴァーなコード・チェンジがあれば、語りのようなものでも魅力的になると気づいたのは、このBlue Autumnでのことなのではないでしょうか。それがつぎのヒット曲、代表作であるHoneyの後半の転調連発につながったような気がします。Honeyもいずれ取り上げる予定ですが、もうすこし寒くなってからのことになるでしょう。
by songsf4s | 2007-11-12 22:21 | 秋の歌
Autumn in New York by Felix Slatkin
タイトル
Autumn in New York
アーティスト
Felix Slatkin
ライター
Vernon Duke
収録アルバム
Fantastic Percussion
リリース年
1960年
他のヴァージョン
Frank Sinatra, Stan Kenton, Charlie Parker, Sara Vaughan
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レイ・デイヴィーズの伝記はまだ読み終わらず、補足でのごまかしもそろそろ手詰まりになってきて、今夜はやむをえず、非常手段を使います。

今夜は予定していた秋の歌を取り上げますが、インスト・ヴァージョンだけにして、あまり出来がいいとは思えないヴォーカル・ヴァージョンを丸ごと無視することで、歌詞を解釈する時間を削減しようと思います。そもそも、シンデレラの帰宅時間まであとわずかで、よけいなヴァージョンのことなど書いている余裕はなさそうです。

◆ クラシック奏者にあるまじきしゃれっ気 ◆◆
フィーリクス・スラトキンといっても、「ああ、あの人か」というのは、フランク・シナトラの熱烈なファンと、変わり者のクラシック・ファンぐらいでしょう。彼が長年にわたって20世紀フォックスおよびシナトラのコンサート・マスターをつとめたことは、The Theme from A Summer Place by Percy Faith and His OrchestraおよびSummer Wind by Frank Sinatra その2で、二度にわたってふれています。

クラシック界での評価は低いそうですから、結局、スラトキンという人は、息子のようにだいじにしていたという、フランク・シナトラと「心中」したも同然といえるかもしれません。しかし、クラシックの世界でもなければ、本職のヴァイオリンでもなく、スラトキンの評価は、意外なところで上昇しつつあります。ラウンジ・ミュージックの世界です。

わたしがスラトキンの音ではなく(音だけなら、20世紀フォックスの映画を見れば、かならず聴いて「しまう」ことになる)、名前にふれたのは、キャピトルのラウンジ・ミュージックを集大成した、Ultra Loungeというシリーズの3枚目、Space Capadesという盤でのことでした。

f0147840_011958.jpgこの盤に収録された、スラトキンのI Get a Kick Out of Youにはひっくり返りました。I get a kick out of youという、文字を見るだけでもシナトラの顔と声を連想せずにはいられないフレーズを、なんと、ティンパニーでやっちゃったのだから、思わず「ブハー」と吹きましたぜ。いくらハリウッド映画界で活躍した人でも、仮にも正規の教育を受けたクラシック奏者が、こんないたずらっ気、ウィット、芸人気質をもっていちゃいかんだろう、と思いましたね。これでは、本職のエンターテイナーが形無しというものです。

◆ すがすがしいアレンジとプレイ ◆◆
Ultra Loungeというシリーズは、選曲が楽しいので好きなのですが、玉に瑕は、ライナーが素っ気なく、データがわからないケースが多いことです。フィーリクス・スラトキンというのが、どういう人なのかわかったのは、右のリンクからいける「Yxx Txxxを聴く」のオオノ隊長と、Session with Sinatraという本のおかげでした。

わかってくると、いよいよ、I Get a Kick Out of Youを収録したアルバムが聴きたくなってきました。そして、ついこのあいだ、ようやく念願かなって、このFantastic Percussionを聴くことができました。素晴らしいのひと言です。

全体に、アレンジにウィットが感じられるのがなによりも好ましい点ですが、ハリウッド音楽界の重鎮がコンダクトしたのだから、すべてのプレイヤーがハイ・レベルで、それぞれがやるべきことを十全にやっていることが、この盤をいまでも生き生きとした、古びないものにしていると感じます。うまい人たちばかりが、アレンジメントとコンダクトにしたがって、きっちりとプロフェッショナルな仕事をした盤というのは、一点の曇りもなく、正月の神棚のように清々として、すがすがしく、じつに気持ちのよいものです。

ラウンジとエキゾティカは、隣どうし、背中合わせの分野ですが、そこにはおのずから相違があります。Fantastic Percussionは、エキゾティカではなく、ラウンジに属すものですが、Autumn in New YorkとCaravanだけは、エキゾティカのムードをもっています。それは主としてメロディーが醸し出すものですが、それがたまたま、さまざまなパーカッションと出遭った(それがそもそものこの盤の企画趣旨ですから)結果、半歩以上エキゾティカに踏み込んだサウンドになったのでしょう。どうであれ、なかなか魅力的なサウンドです。

◆ スロウ・バラッドの耐えがたい卑猥さ ◆◆
残り時間僅少なので、他のヴァージョンと歌詞については明日に持ち越し、といつもならいうところですが、このまま放擲します。たいして面白い曲ではないですし、残るヴァージョンは、シナトラを含めて、いや、チャーリー・パーカーも含めて、みな気に入りません。どのヴァージョンも、所詮、猥褻なスロウ・バラッドを猥褻にやっているだけのことで、「わたしのストリートには顔を出さない」(レイ・デイヴィーズ・フレーズ)タイプの音楽です。

スロウ・バラッドに「感情をこめる」気色の悪さ、卑猥さは、スラトキンの清々とした、すがすがしいヴァージョンを聴くことで、いっそう明瞭になります。わたしは、アップテンポで全力疾走するチャーリー・パーカーは好きですが、スロウ・バラッドをスロウに、感情をこめてやるサックスには、パーカーも含めて耐えがたい卑猥さを感じます。パーカーは、ジャズ・プレイヤーにしてはめずらしくロックンロール・スピリットの感じられる人だと思っていましたが、このAutumn in New Yorkにはがっかりしました。サラ・ヴォーンと同じレベルの卑猥さです。シナトラも、この曲についてはいいとは思いません。卑猥とはいいませんが、感情過多です。

f0147840_084693.jpgしいていえば、スタン・ケントンは、よけいな感情移入などなしに、「しらふ」で、さらっとやっているところが、それがこの人の身上とはいえ、やはり好ましく感じられます。すくなくとも、チャーリー・パーカー盤のような卑猥さは感じません。だからといって、べつに素晴らしくもないですがね。

やっぱり、フィーリクス・スラトキン盤のさっぱりした味わいの前では、どれも凡庸なスロウ・バラッドを、凡庸または猥褻にやっただけのつまらないものばかりです。じつはどれも、せいぜい30秒ほどしか聴きませんでした(サラ・ヴォーンは5秒ぐらい!)。それ以上は我慢のならない猥褻さです。
by songsf4s | 2007-11-08 23:45 | 秋の歌
Waterloo Sunset by the Kinks
タイトル
Waterloo Sunset
アーティスト
The Kinks
ライター
Ray Davies
収録アルバム
Something Else by the Kinks
リリース年
1967年
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本日からすくなくとも11月中旬いっぱいは、そぞろ歩きのように気まぐれに秋の歌を取り上げつつ、10月は忙しくてできなかった、これまでの曲の補足などをまじえて、イヴェントレスなハロウィーンとクリスマスの端境期をやり過ごすつもりでいます。

余人はいざ知らず、わたしの感覚では、秋といえば、イヴ・モンタンではなく、ヴァン・モリソンとレイモンド・ダグラス・デイヴィーズの季節です。この二人ほど、秋の歌、秋の雰囲気のある歌を書いたソングライター、秋の雰囲気をもっているシンガーはいないのではないでしょうか。

本日はまずレイ・デイヴィーズの曲をいきます。万一、誤解があるといけないので、さきに強調しておきますが、キンクスとはYou Really Got Meのバンドだと思っている方、あなたの考えの90パーセントほどは見当違いです。あれは、ブレイクスルーに必要な便宜、ツアーで客を喜ばせるための演技にすぎません。レイ・デイヴィーズの本質はぜんぜんべつのところにあります。

コマーシャルでは、しばしばYou Really Got Meが使われ、あのディストーション・ギターが流れますが、あれはごく初期、ほんの1年ぐらいしかつづかなかったスタイル(ライヴではあのスタイルを強調しつづけますが)で、すぐに内省的な楽曲、サウンド、スタイルへと変わっていきます。それは、アルバムFace to Faceあたりから明白になり、本日取り上げるWaterloo Sunsetを収録したSomething Elseで確立され、以後の基本路線となります。

◆ Waterloo Sunset's Fine ◆◆
レイ・デイヴィーズには、明示的に秋を描いた曲もありますが、そうと歌詞が明示してはいないものにも、秋を感じさせる曲もあります。Waterloo Sunsetは後者のタイプで、楽曲やサウンドが一体になって、はじめて秋のムードが色濃くなるので、Waterloo Sunsetは春の曲だ、という方もいらっしゃるかも知れません。歌詞だけでどうお感じになるか、まあ、見てみることにしましょう。

Dirty old river, must you keep rolling
Flowing into the night
People so busy, makes me feel dizzy
Taxi light shines so bright
But I don't need no friends
As long as I gaze on Waterloo sunset
I am in paradise

「汚れた川よ、なんだっていつも進みつづけなければならないんだ、夜のなかへと流れて、人々は忙しく行き交い、こっちは目がまわりそうだし、タクシーのライトがひどくまぶしい、でも、友だちなんか必要ない、ウォータールーの夕暮れを見つめているあいだは、楽園にいるのだから」

f0147840_21413289.jpgウォータールー橋はテイムズにかかる長い橋で、東京でいえば、日本橋、江戸橋ではなく、たとえば清洲橋、言問橋といった大川にかかる規模の大きなものの感じ。

gazeのあとのonが気になったのですが、辞書を見ると、atとonが並列してあるので、これはノーマルな使い方なのでしょう。down onのニュアンスがあるのかと思ったのですが、atと同じようなものと受け取っていいようです。

以下はコーラス。

Every day I look at the world from my window
But chilly, chilly is the evening time
Waterloo sunset's fine

「毎日、窓から世界を眺めているけれど、宵になるとほんとうに寒くなる……ウォータールーの夕暮れはきれいだ」

chilly chillyとくるのだから、冬と受け取ってもいいのですが、ロンドンは秋でも十分にchilly chillyなのではないでしょうか。音からは、わたしは晩秋のムードを感じます。

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◆ 第三者の不意の出現 ◆◆
セカンド・ヴァース。

Terry meets Julie, Waterloo Station
Every Friday night
But I am so lazy, don't want to wander
I stay at home at night
But I don't feel afraid
As long as I gaze on Waterloo sunset
I am in paradise

「毎週金曜の夜、テリーはウォータールー駅でジュリーと待ち合わせる、でも、ぼくはものぐさなので、外をぶらつく気にはならなくて、夜は家にいる、でも、べつに不安なんか感じない、ウォータールーの夕暮れを見ていれば、それでパラダイスなのさ」

いきなり、テリーとジュリーというカップルが登場して、しかも、語り手とこの二人の関係が説明されないので、ちょっと目をまわします。ここで、ふつうなら、語り手とこのカップルは三角関係なのか、などと考えてしまうところですが、レイ・デイヴィーズはふつうではないので、無関係と思ったほうがいいような気がします。

f0147840_2151874.jpg彼の自伝(The Unauthorized Autobiography=非公認自伝と副題にある!)『X-Ray』を読むとわかりますが、RDは人称というものに特殊な考えをもっています。この「自伝」は、若いライターが書いたレイモンド・ダグラスの伝記という形式をとった、「三人称で書かれた自伝」という不思議なものなのです。そのうえ、RDの一人称的視点が、引用という形でどんどん挿入されていくのだから、変な人の面目躍如たるものがあります。

というのが一点。まだあります。ここで、彼がのちにウェイトをかけていく、市井の人々の生活を微細に描く、ディケンズ的な世界(いや、バルザックの「人間喜劇」のほうが近いか)が、フラッシュバック的に入りこんだのではないかとも感じます。

じっさい、このアルバムは、三人称的、小説的世界への入り口となった作品で、彼が自分ではないだれかを描くことにとりかかったのは、ここからのことです(オープナーのDavid WattsやTwo Sistersなどが典型)。窓から外を眺めているうちに、毎週金曜の宵にウォータールー駅で待ち合わせる、平凡な恋人たちの小さな幸せの物語が、頭をよぎったのではないでしょうか。

◆ 視点移動の完了 ◆◆
ファーストと同じコーラスをはさんで、サードにしてラスト・ヴァースへ。

Millions of people swarming
Like flies 'round Waterloo underground
But Terry and Julie cross over the river
Where they feel safe and sound
And they don't need no friends
As long as they gaze on Waterloo sunset
They are in paradise

「無数の人々が蠅のようにウォータールーの地下に群れ集まってくる、でも、テリーとジュリーは川向こうにいく、そこなら安全で安んじられるから、二人は友だちなど必要としない、ウォータールーの夕暮れを眺めているかぎり、二人はパラダイス」

と、こうなるわけです。語り手は自分の心象風景から、一転して、駅周辺の騒ぎに背を向け、静かな川向こうにいき、ひっそりとウォータールーの夕暮れを見つめる恋人たちへと視点を移してしまっています。かなりunsualな手法ですが、前述のように、レイ・デイヴィーズというのは、「そういう人」なのです。

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ウォータールー駅。テイムズおよびウォータールー橋は左手の方向。

たんなる背景情報ですが、ウォータールーはイギリス最大の駅だそうで、当然、地下鉄駅もあるようです。東京駅のように、地上路線の地下プラットフォームもあるのかどうかまではわかりませんが、東京でいえば、宵の口の渋谷駅や新宿駅の混雑を思い浮かべればいいのでしょう。

ウォータールー駅で待ち合わせて外に出ると、近くには劇場街(サウスバンク)があり、ここもまだ混雑するのでしょう。さらにいくとテイムズにぶつかり、ウォータールー橋を渡ることになります。

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中央の円筒形の建物(IMAXシアター)の右手がウォータールー駅。左側、バスが渡っている橋がウォータールー橋。テリーとジュディーは右手からきて、ウォータールー橋を渡り、川向こうに行った。

わたしはロンドンに行ったことがあるわけではないのですが、東京の場合、大川を越えて「川向こう」に行くと、佃島、月島、江東、いずれも静かなたたずまいになります。劇場街を背にして、ということでは、はるか昔の、まだにぎやかだった浅草六区を背にし、言問橋を渡って、川向こうの隅田公園に行くような感じが近いかもしれません。

しかし、景色からいうと、勝鬨橋を渡って、月島側から見た東京の夕景は、ウォータールーのような絶景ではないものの、なかなか悪くないもので、この曲からわたしは、言問より、勝鬨のほうを連想します。そういえば、勝鬨の近くにも新橋演舞場や松竹、さらには歌舞伎座もあるので、小さいながら、劇場街といえなくもないようです。

よけいなところに入りこみましたが、不思議な登場の仕方をしたこのテリーとジュディーに、わたしは、いくぶん迂回し、留保しながらも、感情移入をしてしまいます。派手なこと、華やかなことを好まず、ただ静かに世界を眺めていたいカップルが、近しいものに思えるのです。

◆ ナチュラルに変な人 ◆◆
作詞家としてのRDは、このWaterloo Sunsetにおける視点の移動のように、不思議なことを書くときもありますが、わたしは長年のRDファンなので、それなりについていくことができます。「そういう人」なのだ、というブラックボックス化みたいなことですが、とにかく、alienateされたと感じることはありません。いや、あえていうなら、「わかる」と感じます。

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しかし、作曲家、アレンジャー、プロデューサーとしては、ずっと不思議な人だと思いつづけていて、40年間聴いても、まだ奥底がよくわかりません。基本的にはシンプルなコード進行を使う人なのですが、ところどころ変なのです。それも、昔のティン・パン・アリー(イギリスならデンマーク・ストリート)の作曲家のような、正規の教育を受けた人たちの複雑さではありません。どういえばいいのでしょうか、「生まれたまんまで変」とでもいうか、自然に妙な進行が入りこんできてしまうのではないかと感じます。

このWaterloo Sunsetも、基本はE-B-Aとシンプルなのですが、途中からおかしくなります。そもそも、ギターとベースの(主として下降)ラインが強調されているので、コードは動いていなくても、つねにどこかへ動いている感覚があります。

こういうアレンジは、いったいだれがやっていたのだろうと思います。RDという人は、印象としては、ちょうどジョン・レノンのように、サウンドの細部に対して強いこだわりや意見がある人には思えず(つまり、ポール・マッカトニー、ブライアン・ウィルソン的ではない)、ラリー・ペイジあたりがかなり手助けしているのではないかという推測ができますが、この見方には、ひとつ、ささやかな反証があります。

タートルズが、なにを思ったか、レイ・デイヴィーズにアルバムのプロデュースを依頼しました。依頼した彼ら自身、驚いたようですが、RDはこの意外なオファーを受け入れ、Turtle Soupというアルバムをプロデュースします。80年代にこのアルバムを聴いて、なるほど、キンクスのサウンドだ、と思いました。RDのスタイルが色濃く反映されているのです。

イギリスで自分たちの録音をしているときなら、いろいろな協力者が考えられますが、アウトサイド・プロダクションとなると、協力者の存在は考えにくく、RD自身とアーティストと、もしいれば、アレンジャーの色のどれかが強く出るはずで、それがキンクス風になったということは、つまり、RDの本来のカラーなのだと考えるのが妥当でしょう。

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弟のデイヴの協力があったにせよ、やはりサウンド面でも、RDが最終決定権をもっていたのでしょう。70年代、RCA移籍以降は、コード進行もサウンドも簡素化されますが、60年代後半のRDは、楽曲も、サウンドも、不思議なものが多く、いまだに聴いていて奇妙な感覚にとらわれることがあり、これもまた、パイ時代のキンクスの魅力のひとつとなっています。

◆ ゆるぎない足取り ◆◆
アルバムSomething Elseは、1967年9月という微妙なタイミングでリリースされています。おそらく、すでにSgt. Peppersを聴いたあとの録音でしょう。前作のFace to Faceと大きな落差があるわけではなく、前作で一歩踏み出した路線を、さらに推し進め、自分が書きたい曲を書き、歌いたい曲を歌う、RDの内省的な方向への確信が深まり、足取りがしっかりしてきただけと感じます。

それでも、Sgt. Peppersの登場は無視できなかったでしょう。いや、言い方がちがうようです。自分がFace to Faceで踏み出した方向に、ビートルズはドラスティックにジャンプしたと感じたのではないでしょうか。風はフォローだ、というように。

RDが凡庸ではないのは、ストーンズの動きとくらべれば明瞭になります。ストーンズは、ビートルズがとった方向性を予想していなかった、もっと厳密にいえば「覚悟」できていなかったと思われます。Their Satanic Majesty's RequestとWe Love Youは、「うろがきた」と感じます。あんまりあわてて舵を切ったものだから、45度曲がるつもりが、90度曲がってしまい、あわててまた反対方向に舵を切り直すことになります。

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RDは、そのような狼狽をいっさい見せていません。自分がいこうと考えた方向に、一歩一歩着実に歩んだことが、Face to Face、Something Else、The Village Green Preservation Society、Arthur Or The Decline And Fall Of The British Empireの4作でわかります。そして、最終的にたどり着いたのが、Muswell Hillbilliesであり、Everybody's in Show-Bizなのだと感じます。この足取りに乱れはありません。

レイ・デイヴィーズのことを書きはじめると止まらなくなるのですが、今月中にすくなくともあと2曲、来月にはもう2曲、RDの曲を取り上げる心づもりなので、本日はここらで切り上げることにします。なにはともあれ、ボビー・ジェントリーのMorning Gloryとならび、「棺桶に入れたい13枚」「墓の下でも歌いたい13曲」のひとつをまた取り上げることができ、喜びに堪えません。
by songsf4s | 2007-11-04 20:54 | 秋の歌