日本人の感覚、いや、もうすこし限定すると、本州の平地の住人の感覚では、落葉の季節というと、やはり十一月ではないかと思います。北海道などの北の地域や、標高の高い土地では、もう落葉も紅葉もはじまっているのかもしれませんが、なんせ、わたしの住む南関東は、一昨日でもまだ30度でしたからねえ。昨日今日は寒くなったとはいえ、落葉はまだずっと先のことに思えます。
しかし、北半球の温帯地域にかぎっても、世界的にはそういう感覚はないにちがいありません。歌を聴いていると、そのことをしばしば思います。本日、九月のどん尻にやっと登場した最初で最後の「九月の歌」は、ご覧のように「落ち葉の散るころ」というタイトルがつけられています。なんだか、初夏に栗ご飯を食べさせられるような気分ですが、九月の落葉がどのように歌われているか、まあ、とにかく、ご覧じよ。
◆ 黄昏か未明か薄暗くてよくわからず ◆◆
それではファースト・ヴァース。
And you were thinking 'bout the wisdom of the leaves and their grace
When the leaves come falling down
In September when the leaves come falling down
「きみはおもてに風と雨をうけて立っていた、きみは木の葉の知恵と優雅さのことを思っていた、木の葉の散るころに、木の葉の散る九月に」

いずれにしても、ストレートな歌詞は少なく、どこかにちょっとオフビートなところがあって、解釈しかねるものが多いと感じます。この歌詞は、わかりやすいほうではあるものの、真っ正直な直球でもないようです。the wisdom of the leavesというフレーズにヴァンらしさがかいま見えます。
流行歌の常識として、ファースト・ヴァースは出会いを語ることが多いので、ここもそういうことなのだと考えておきましょう。つぎはセカンド・ヴァース。
And when the evening shadows fall I'll be there by your side
When the leaves come falling down
In September when the leaves come falling down
「夜には雲ひとつなく晴れた空に月が輝き、夜の帳が降りると、わたしはあの場所の、きみのとなりにいく、木の葉の散るころに、木の葉の散る九月に」
まだ、なんのことだかよくわかりません。以下はコーラス。
To the place beside the garden and the wall
Follow me down, follow me down
To the space before the twilight and the dawn
「ついてくるんだ、庭と壁のそばの場所に、ついてくるんだ、薄明と暁の前にあの場所へ」
なんてところですかね。「before the twilght and the dawn」はちょっと奇妙に感じたので辞書を見たところ、夕暮れのみならず、夜明け前のこともtwilightということがあるそうです。

◆ 時制の操作 ◆◆
サード・ヴァース。長い歌なので、まだ最後のヴァースではありません。
And as I walk along the boulevards with you, once again
And the leaves come falling down
In September, when the leaves come falling down
最後にパリの通りを見たとき、雨の中で
きみと二人でもう一度、あのブールヴァールを歩くと……
そして木の葉が落ちてくる
木の葉の散る九月に

なんでしょうねえ。女性のことは過去なのですから、回想と現在の描写が入りまじっている、または、現実と夢想が混交しているということなのかもしれません。いま、目の前で木の葉が散っているのを見ながら、落葉の季節の記憶をたどり、ありえたらいいのに、と思うことを夢想している、という解釈が成り立つのではないでしょうか。

ヴァン・モリソンというのは、作詞家としてみるとよくわからない人です。ヘボでないのは明らかですが、名作詞家だとも断言できず、いつも、もやもやと考えています。この曲もやっぱりもやもやですねえ。
◆ 秋のチェット・ベイカー ◆◆
ピアノ・ブレイクがあって、またコーラスが出てきますが、最初とはちょっとだけ異なります。
To the place between the garden and the wall
Follow me down, follow me down
To the space between the twilight and the dawn
ご覧のように、ファースト・コーラスではbesideやbeforeが使われていたところを、betweenで置き換えています。それほど大きな意味はなく、味つけを変えただけだと思いますが、「黄昏と暁のあいだ」のほうが意味はすんなりわかります。
As we're listening to Chet Baker on the beach, in the sand
When the leaves come falling down
Woe in September, when the leaves come falling down
Oh when the leaves come falling down
Yeah in September when the leaves come falling down
きみが手にした木の葉の色づきぐあいを見、
砂浜でチェット・ベイカーを聴く
九月の哀しみ、木の葉散るころの
木の葉が落ちる九月に

ヴァンはチェット・ベイカーが好きなのでしょう。過去にも、ジャッキー・ウィルソン(アルバムSaint Dominic's Previewのオープナー、Jackie Wilson Said)や、ジェイムズ・ディーン(Hard Nose HighwayおよびToo Late to Stop Now収録のWild Children)などの固有名詞を登場させたことがあります。ほかにもあったような気がするのですが、脳軟化なので忘れました。
秋のひと気のない浜辺でチェット・ベイカーを聴く、というのは、ちょっと紋切り型に思えなくもないですが、まあ、わからなくはありません。チェット・ベイカーはタイトルに「秋」のつく曲をいくつかやっていますからね。Autumn in New York、'Tis Autumnなど。彼のプレイは、真夏のようなコントラストがクッキリしたものではなく、もわーっとした春秋の雰囲気ですし。

あとは、アドリブをまじえつつ、コーラスをくり返してエンディングとなります。
◆ 春夏秋冬ならぬ「夏冬二季」 ◆◆
季節というキーワードでポピュラー音楽史を眺めたことのある人は、そうはたくさんいないでしょう。そういう狭い狭い分野の先達(先行者がいないので、自動的にそうなるのです。ひとり一分野!)として申し上げますが、秋になったら、ロック・バンドはほぼ全滅です。彼らにとって、一年とは、夏とクリスマスと、その中間の空白によって構成されているのです。

もうひとつは、アメリカの場合、全国的に通用する季節感は、夏と冬だけだからということもあるような気がします。映画には圧倒的な紅葉の風景が登場しますが(『黄昏』なんか忘れがたい絵作りでした。「ハリウッドのやることだからな、平気でエアプラシで塗りたくっちゃうぜ」なんて、おちょくっちゃいましたが、当たらずとも遠からずかも)、歌にはまず登場しませんねえ。
秋の風情というのが、あまり若向きでないということもあるのでしょう。若者の恋は夏のものであって、秋風とともに終わっちゃうわけで、秋は盛り上がりに欠けることおびただしいのでしょう。紅葉した並木道をそぞろ歩きをする若いカップルもよく見かけますが、それがストレートに歌の題材に結びつくことがないのは、たぶん、そういうことを表現できる音をもたないアーティストが多いからでしょう。

ところが、イギリスに渡ると、様子がだいぶ変わります。レイ・デイヴィーズなんか、若いころから秋の歌をいくつか書いていますし、アイリッシュですが、ヴァン・ザ・マンも秋の風情を直接にあつかったもの、間接的に感じさせる曲を書いています。
このWhen the Leaves Come Falling Downが収録されたBack on Topというアルバム(「トップに戻る」という意味でしょうが、ジャケットは「背中を表にして」というひどいダジャレ)なんか、全体が秋の雰囲気で、もう一曲、これは扱う予定がないので書いちゃいますが、Golden Autumn Dayという九月の歌が入っています。こっちのほうが、曲としては好きだし、ドラムがなかなかいい感じで、歌詞さえよければ、取り上げたのですがねえ。変な歌詞なんですよ。変わっていて、面白くはあるのですが、季節感はありません。
ともあれ、イギリス人(およびアイルランド人)は、アメリカ人より秋に対する意識を持ち合わせているということが、ポップ・ミュージックからもうかがえます。これが日本になると、もっと季節感あふれちゃうのですが、それは「今後の予定」に差し支えるので、まだグラヴのなかに隠しておきます。
◆ 同じ時代を生きてきたシンガーたち ◆◆
ニール・ヤングのHarvest Moonのところで、このブログに登場したもっとも新しい曲だと書きましたが、ヴァンのWhen the Leaves Come Falling Downは1999年のリリース、まぎれもなく「当社比」で「最新」の曲です。

80年代に入ってハンパに「若返った」キンクス同様、ヴァンもちょっと老いに抵抗したような形跡があり(もちろん、近年のストーンズのように、厚化粧の老娼婦みたいな恥ずかしい真似はしませんけれど)、付き合いが途絶えましたが、この感じなら、もうすこし最近のものも聴いてみようかと思いました。あるシンガーを、二十代から晩年まで聴きつづけるなんて、そうそうチャンスのあることではないので、ほかはともかく、この人だけは朽ち果てるまで見届けようかという気になってきました。

長い長い付き合いなので、気に入ったり、気に入らなかったり、いろいろありましたが、どの盤も、「リスナーをナメてるのか、おまえは」なんて腹を立てたことはありません。それだけでも、キャリアの長さからいったら、表彰ものじゃないでしょうか。馬鹿売れをしたこともなければ、ファンがいなくなったこともないという、「ほどのよい」の成功のおかげでしょう。いや、そういう盤をつくってきた結果なのであって、どっちが鶏で、どっちが卵かわかりませんが。
ヴァンはまたすぐにも登場する予定なので、ネタがなくなるといけないから、今夜はここらでコールド・エンディング。「九月の歌」は、結局、これ一曲、情けないことになったものです。明日からは疾風怒濤の十月第一特集、てなことになるかどうか……。秋風が身に染みる寒い九月三十日でした。
