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2012年 05月 24日 ( 1 )
『雨月物語』と『祇園囃子』──川口松太郎による溝口健二映画の原作小説二種 前篇
 
以前にも書いたかもしれませんが、溝口健二と川口松太郎はともに浅草の生まれで小学校が一緒、戦後、永田雅一が大映の社長に就任したときに、二人は永田に呼ばれ、わたしを助けてくれと頼まれたのだと、川口松太郎は書いています。

川口松太郎は以後、大映の撮影所長や企画担当専務をつとめながら、作家活動をつづけます。大映勤務のかたわらに書いた『新吾十番勝負』は、大川橋蔵主演で映画化され、ヒット・シリーズとなりました。わたしがしじゅう大映と東映を見ていた時代のものなので、そのうち数本を公開時に見た記憶があります。はじめから、映画化を念頭に書かれたものなのでしょう。

先年、蔵書を売り払ったとき、まだこれからも読み返すからと残した作家が十数人いますが、そのなかに川口松太郎もあり、もっているものはすべて残しました。そのときに、古書店の人と話したのですが、いまどき、川口松太郎の本は売れないそうで、やはりな、でした。そうなると、売ってもゼロ円付近、そのくせ、あとで買い直そうと思ってもむずかしいので、売らずに残すことにしました。

案の定、引越からさして時間もたたないのに、もっていた数冊をすべて読みましたが、そのなかに角川書店の「現代国民文学全集」という叢書の『川口松太郎集』という巻がありました。

これは三段組で読みにくいので、未読のまま何十年ももっていたものです。近所の古書店で買ったもので、見返しに「50」と鉛筆で値段が書いてあります。文学全集のたぐいは、ほとんど「つぶし」(廃棄処分)にされるので、生き残ったものもこの程度の値段でした。まあ、「立て場」(古紙の取引場)で仕入れるため、安いので有名な本屋で買ったのですが。

あまり本を処分しすぎて、読むものがなくなってしまったため、結局、この三段組も読んでみました。いままでほうってあったので気づきませんでしたが、以前、映画を見ていて、ああ、そうだったのか、機会があったら読んでみようと思った、溝口健二の『雨月物語』と『祗園囃子』の原作が、両方ともこの巻には収録されていたのです。

ということで川口松太郎の原作と溝口健二の映画化を比較してみました。溝口健二の『雨月物語』については、当家では過去に記事として取り上げています。

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溝口健二の『雨月物語』は、上田秋成の『雨月物語』中、「蛇性の婬」と「浅茅が宿」の二篇にもとづいていますが、直接の「原作」は、これを換骨奪胎した川口松太郎の小説『雨月物語』である、ということは、前掲の記事に記しました。

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今回、川口版を読んで、やはり、秋成版は映画とは遠い関係であることを確認しました。いや、こうなると、上田秋成版オリジナル『雨月物語』も再読しなければいけないと思ったのですが。

しかし、むろん、小説と映画は、表現形式も異なれば、受容者に受け取ってもらおうと目指すものも異なっています。原作とその映画化なのだから、当然、似たようなプロットではあるのですが、それぞれの目指すところにしたがって、異同があるのが当然です。

以前の記事で、溝口版『雨月物語』の背景となっている戦は、織田勢と浅井方の戦いなのか、その後の羽柴秀吉対柴田勝家の戦いなのか、映画でははっきりしないと書きました。川口松太郎の原作には、小説だからふつうはそうなりますが、明快に書いてありました。

ここで描かれているのは、後者の秀吉対勝家の戦いで、藤兵衛(小沢栄太郎)がにわか武者になって駈けまわるのは、有名な賤ヶ岳の決戦なのだそうです。

映画を思い浮かべつつ原作を読んでいくと、映画化に必要な省略や追加、そしてささやかな変更ばかりで、途中までは、おおむね忠実に原作をなぞったのだな、と思いました。

川口松太郎の小説のほうは、淡々と源十郎(映画では森雅之)と宮木(田中絹代)、藤兵衛(小沢栄太郎)とお浜(水戸光子)の運命の転変を描いているのに対し、溝口健二の『雨月物語』は、彼のいう「絵巻物」、撮影監督の宮川一夫のいう「墨絵」として、奥の深い視覚的な美を生み出している、という重心の置き方の違いを感じるだけでした。

いや、川口松太郎の原作とは大きく異なり、溝口のものは、名作、秀作といわれるだけの風格のあるものになっており、その貢献の一半は宮川一夫のキャメラにあるでしょう。川口松太郎にはいい作品がたくさんありますが、『雨月物語』にかぎれば、水準作といったあたりで、代表作として指を折るわけにはいかない出来です。

以下は、未見、未読の方はお読みにならないほうがいいでしょう。

はじめて、ここは映画とは大きく異なる、と思ったのは、侍になった藤兵衛(小沢栄太郎)が、妓楼にあがって、遊女に身を落とした妻のお浜(水戸光子)に再会する場面です。

妓楼の外に出て、妻が夫をなじるのは原作、映画、ともに同じなのです。しかし、映画では、二人で故郷に帰る決心をするのに対し、原作では、お浜は「海津大崎の絶壁から身をおどらせて湖水に投じて」しまいます。

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ふうむ。なにゆえの変更でしょうかねえ。原作が、お浜を死なせてしまったのは、よくわかります。宮木、若狭(京マチ子)、そしてお浜という、女登場人物は、三人とも、戦争の犠牲になって死ぬ、としたかったのでしょう。とりわけ宮木とお浜は、ともに夫の野心と欲望の踏み台にされて死んでいくことになります。川口松太郎はそのことを書きたかったのでしょう。

では、溝口健二版では、なぜお浜を死なせなかったのか、それどころか、エンディングで、甲斐甲斐しく夫と兄を助けて幸せに生きるお浜の姿を描いたのか?

ひとつ考えられるのは、クライマクスのあとのシークェンスが、森雅之と小沢栄太郎の兄弟と男の子の三人だけというのは、あまりにもわびしくて、悲劇的な色合いが強くなってしまうことを懸念したのではないか、ということです。

川口松太郎版のエンディングは、悲劇的にならないように書かれていますが、その終わり方は映画版では採用されていないので、やわらかい終わり方をさせるために、妻たちのいっぽうを生き延びさせたのだろうと感じます。

では、川口松太郎版の結末はどうなっているか、その点も省略するつもりはないのですが、本日は時間切れ、次回、『祗園囃子』とともにそのあたりを見るつもりです。


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現代国民文学全集〈第15巻〉川口松太郎集 (1957年)
by songsf4s | 2012-05-24 23:59 | 映画