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2011年 08月 19日 ( 1 )
一歩遅れて「佃祭」(古今亭志ん生、志ん朝親子)
 
抹香くさいほうではじまったことでしょうが、昔はよく因果応報、善因善果、陰徳陽報なんてことを申しまして、悪いことをすると地獄に堕ち、いいことをしておくと、やがていい報いがあるなんてことをいいました。

いにしえの説話物語にはこのたぐいの話がたくさんあるのはご案内のとおりで、学校で勉強させられた、『日本霊異記』を筆頭に、『今昔物語』『宇治拾遺物語』などの説話集には、そのての話が詰め合わせになっています。

まあ、あちらも商売、神信心をしてくれないと干上がってしまうので、そんな話をつくって宣伝にこれ努めたのでしょうが、いまどきコマーシャルをまともに信じるのは変わり者の善人だけ、あたくしのような者は、子どものころにもう、そんなチョボイチ信じるものか、てえんで、将来や来世のために身を慎むなんてことはチラとも考えませんでした。

ということは、仏家の宣伝が万一、天国ないしは地獄から逆流してきた事実であるなら、あたくしなんぞは、来世で火責め水責め針の山、後悔しきり、時すでに遅しという事態に遭遇することになるでしょう。

東京のそのまたど真ん中、銀座から十分も歩くと、佃大橋というものにぶつかります。大川が東京湾に注ぎ込む、その口の辺り、もう海なんだか川なんだかわからない場所にかかった長い橋です。

関東大震災の復興事業で架けられた隅田川の橋は、清洲橋をはじめ、趣のあるものばかりですが、残念ながら、佃大橋はオリンピックの年に竣工したもので、同い年の首都高と同じ精神の産物、味わいもなにもあったものではありません。

1964年に橋ができるまでは、ではどうしていたのかというと、佃の渡してえものがありまして、小船が行き来していました。佃の若い衆がお江戸に遊びにいったら、相方としっぽり濡れてなんていう暇もなく、あわてて船で帰るか、ええい、ままよ、このままいつづけするかと、いっそ度胸が据わって流連荒亡、翌日もまた飲めや歌えやの連チャンになりやすい仕組みになっていました。

この佃島、ご存知、佃煮の産地でありますが、そもそもどういう因縁があったか、そのあたりの消息は歴史の先生方がいろいろお書きになっているので、ここは敬して遠ざけ、伝えられる事実だけを言えば、神君徳川家康公(あたくしの先祖は家臣の末席を汚したので、我が家では東照神君、権現様などといいならわしております。てなチョボイチを信じるお方の来世は明るいでしょう)の懇請によって、摂洲佃の漁師たちが、最新の漁法をたずさえて江戸開府直後に移住して、この地を賜ったものだそうです。

板子一枚下は地獄、海の民は信心深いもので、佃の漁師たちは、上方から神様もお連れしました。それが住吉さん。上方落語のほうでも、たとえばあの「屁え嗅ご」で有名な「住吉詣り」などに描かれる、あの住吉はんです。

で、住吉神社には有名な渡御というのがありまして、毎年、夏になるとニュースなどで紹介されていますが、今年は大祭の年であったにもかかわらず、震災で被害に遭われた方々への配慮なのでしょう、そちらは来年に延期、慎ましく執りおこなわれたようです。

とりたてて特徴のある噺ではないし、「船徳」のようなキャラクターの魅力があるわけでもないので、演り手がすくなく、わたしは古今亭志ん生のものしか知りませんが、この住吉神社の真夏の海のお祭りを背景にした「佃祭」という噺があります。

これがいいんだ、などと力を入れるわけにはいかないのですが、どこがどうだというのではなく、妙に味のある、いや、ほのかな淡い味のある噺で、わたしは好んできました。検索したら、志ん生の次男、志ん朝のものがアップされていました。

古今亭志ん朝「佃祭」


最近はそういうことはあまりいわないので、おわかりにならない方がいらっしゃるのを懸念して贅言を弄しますが、枕で志ん朝が梨のことを「有りの実」といっているのは、博打を好む人が「する」を嫌ってスルメを「アタリメ」、スリッパを「アタリッパ」と言い換えるのと同じこと、「梨」が「無し」に通じるのを嫌い、「有る」と言い換えただけのことです。

「ちきり伊勢屋」と同じように、善因善果のおめでたい噺ですが、神信心の欠如した人間なので、とくにこの噺の展開が好きなわけではありません。夏の祭りの夜の空気が、噺の向こうにぼんやりと揺曳するところが好きなだけです。

その意味では、志ん朝より、親父さんの志ん生のもののほうに、江戸情緒がいくぶんか濃厚のように感じます。いろいろあるので、全編とはいかず、前半だけですが、志ん生のものも用意しました。

サンプル 古今亭志ん生「佃祭」前半

とくに言葉としてなにかを表現しているから、父親のほうに江戸情緒を強く感じるわけではなく、志ん生のほうには、ほんとうにそこはかとなく、蚊取り線香の煙のように、夏の夜の空気がたゆたっているだけなのです。

それはたぶん、語り口のせいなのでしょう。志ん朝は、いつ父親の名跡を継ぐのだときかれて、そのうち、遅い噺をやるようになったら考える、と答えたことがあるそうです。

継がなかったということは、つまり、遅い噺をやるようにはならなかった、ということなのかもしれません。最晩年のことはよく知りませんが、年をとってもスピードは衰えなかったので、結局、父親のような、伝統的な人情噺の語り口を試みることなく終わってしまったのでしょう。

阿佐田哲也が、志ん生も人情噺などやらなければいいのだが、と書いていました。おっしゃる意味はよくわかるのですが、三遊派の大看板としては、やはり人情噺を後世に伝える義務があるから、やむをえないでしょう。

むろん、寄席に志ん生を聴きに行ったら、笑いの多い噺であってほしいし、「文七元結」や「黄金餅」なんかに当たったら、がっかりしたに違いないでしょうが、だれにだって欠点はあるのだから、いたしかたありません。

たしかに滑稽噺をやらせれば、古今亭志ん生はすばらしい技と味の持ち主でありながら、それが災いして、人情噺はあまり楽しめません。人情噺をきくなら、文楽、圓生、正蔵といった人たちや、そういってはなんですが、志ん生自身の息子である先代金原亭馬生のほうがいいのではないかと思います。

いや、志ん生が人情噺を不得手にしていたというより、滑稽噺があまりにも面白くて、それ以外のものを聴くのは気が進まないだけなのです。阿佐田哲也も、その程度の軽い意味で、志ん生の人情噺をくさしただけでしょう。

「佃祭」は、骨格としては人情噺ですが、見た目には死者がよみがえったように思えるという、「品川心中」や「粗忽長屋」とも相通ずる混乱のおかげで、滑稽噺の側面もあり、志ん生、志ん朝、ともに客を湧かせています。

客を退屈させないようにという心配りのおかげで、志ん生の人情噺のなかでは、もっとも楽しめるものに、「佃祭」はなっています。そして、笑いが多いおかげで、かえって前半の江戸情緒の味があとに残るのでしょう。


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by songsf4s | 2011-08-19 23:50 | 落語