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2011年 03月 17日 ( 2 )
まだ原発マッチポイントがつづく夜もロックンロール5
 
今日も一日二回発行、ここから夕刊に入ります。

もっと早く復帰のつもりでしたが、3.11以来、カメラがほったらかしで、メモリーが半分ほど埋まってしまったため、停電から回復後、全部吸い出し、整理していました。

こう、なんというか、3.11以後、頭の働きが早くなったり、遅くなったり、不整脈のような状態にあるのを感じます。いまは遅くて、なにも音楽が出てこず、あらあら、ついに枯渇か、です。

このあいだながながとやった、ゴールド・スター・スタジオの黄金の遺産特集は、リアルで存じ上げているMann-iaさんの「Gold Star Studio録音音源のbest 'bout'というと、鶴岡さんにとっては誰のどんな曲になりましょうか?」というコメントに対する反応として書いたものです。

毎夜毎夜の定期便、今夜はちょっと嫌な揺れが2回でした。

気を取り直して、ゴールド・スターの話に戻ります。わたしのバラマキ選曲を見て、Mann-iaさんは、設問をもう少し絞り込まれました。以下、Mann-iaさんのコメントを抜書き。

それでも、「楽曲・演奏・アレンジなどが水準以上、
なおかつスタジオ特性の顕著なものは?」と、
精確にお尋ねすべきであったのかな、とも思います。
あるいは、「"Waking In The Rain"は、彼らが挙げるように、
他の(Mann-Weilの)レコーディング・ソースに抜きん出て、
echo chamberの効果をより強く感じられますか?」と、
絞り込んでお訊きすべきだったのかもしれません。


Walkin' in the Rainについては、コメントへのレスにも書きましたが、そもそも、昔から嫌いで、めったに聴かないため、記憶に残っていません。雷鳴がリアルですごい、とゴールド・スター・スタジオのエンジニア、ラリー・レヴィンの技術を賞賛するにとどめておきます。サウンドについては、ハル・ブレインがつまらなそうに、スティックのティップだけで叩いている、聴いているほうも退屈する、といったところです。躍動感のないハルなんて、聴かないほうがいいでしょう。

ゴールド・スターがフィル・スペクターのフランチャイズとなり、その結果、多くのプロデューサーをひきつけることになった最大のアトラクションは、拡張の際に2本増設され、合計で4本を直列で利用できるようになったといわれる(確実な典拠なし)EMI製のプレート・エコー(下水道菅のようなものの内部に鉄板をぶら下げてあり、このなかに音を通すと、鉄板が共鳴する)です。

キャロル・ケイさんが書いていらしたことですが、すごく狭いスタジオで、拡張したとはいえ、エコーを増設するほどの余裕はなく、エコー・チャンバーの一本は婦人用トイレに食い込んでインストールされたそうです。エコーをよけなければ用を足せなかった、と(笑)。

さて本題。このエコーがもっとも印象的に使われ、なおかつ、音楽総体として好ましいものはなにか? 三曲あげたいと思います。ひとつはすでに貼りつけたものです。



ほんとうはできるだけいい環境で、馬鹿でかい音で聴いて判断していただきたいのですが、わたしがそういう環境でスペクターのカタログを片端から聴いた(もちろんアナログ、真空管アンプ)ときに、ドッヒャー、なんだこれは、とひっくり返ったのはこの曲。クリスタルズのSanta Claus Is Coming to Town



当家の長年のお客様ならすでにおわかりでしょうが、わたしがここで問題にしているのは、ハル・ブレインのプレイとサウンドです。ゴールド・スターのスタジオAという箱と4連プレート・エコーを「鳴らす」ことができたのは、ハル・ブレインただひとりかもしれない、と思うときがあります。

ハルがどれほどゴールド・スターのプレート・エコーと相性がよかったかは、つぎのトラッキング・セッションにおける、「ドライな」(エコーがない)サウンドをお聞きになればわかります。



というように、ハル・ブレインの技術はドライなほうがよく伝わりますが、あの神話的な「サンダラス・サウンド」ではなく、いたって下世話な「そこにある音」に聞こえます。

ご存知でしょうが、わたしは「天才」と「傑作」を準禁句にしています。でも、この人だけはなあ、というのが何人かいます。フィル・スペクターもそのひとりです。素人衆とは異なり、職業的訓練の結果として、わたしは慎重に言葉を選ぶ傾向があるのですが、そうじゃなければ、いつだって「天才フィル・スペクター」の「大傑作」などとアホないい方を平気で使っただろうと思います。

でも、彼には「肉体」はありませんでした。音楽は最終的に肉体の躍動を必要とします。スペクターがいくら夢想しても、それをじっさいの波動として表現しうる圧倒的な肉体と技術の持ち主が必要だったのです。

鉄板エコーを四つつなげたらどうだろうと思ったエンジニア兼経営者もすごいし、これは使える、これで俺の音が作れると思ったプロデューサーも、不世出の名匠です。でも、ハル・ブレインという、カリフォルニアを体現するようなキャラクターと、圧倒的な腕力、脚力、そして音楽的センスをもったドラマーがこのコンビネーションに加わることによって、はじめて「あの音」が誕生しました。

もう一曲、ハル・ブレイン、フィル・スペクター、ラリー・レヴィン、ゴールド・スター・スタジオという組み合わせだけにできる圧倒的なサウンドを聴きます。



フィル・スペクターは、ハル・ブレインに、いつか、フェイドアウトだけを集めたアルバムを作ろう、といったそうです。じっさいにそういうものを作りたいという意味ではなく、ハルのフェイド・アウトが大好きだったという、彼の賞賛の念を、ジョークとして表現したのでしょう。

いろいろ貼り付けましたが、エコーの残響がどうだといったことは、一定以上のシステムで、それなりの音量で鳴らさないとわかりません。はっきりいって、ユーチューブのクリップなんかをPCスピーカーで鳴らしてもわかりはしません。ご自分の盤を聴きなおして確認していただけたらと思います。

もう少し補足説明があるのですが、本日は力尽きました。
by songsf4s | 2011-03-17 21:55
まだ原発マッチポイントがつづく日もロックンロール5
 
あまり早くないのですが、まだ午前中、とにかく、おはようございます。原発にヘリから水を投下する作業がはじまったところです。皮肉な言葉が出そうになりますが、なにかの足しになってくれるのを願うばかりです。

順番が違うような気もするのですが、すでにページを開いているので、あとで開きなおすのも業腹、このままこの曲でスタートします。はっぴいえんど「明日あたりはきっと春」



記憶力の崩壊というのはじつになんとも強力なもので、この曲に関しては、まずタイトルが思い出せず、歌詞の断片を入力して検索しました。それで引っかかったのが、このページです。

これは台湾のサイトのようです。やたら日本語が書いてあって、最初は気づかなかったのですが。近頃は英語圏の日本音楽ファンも、やっとはっぴいえんどの重要性に気づきはじめたらしいと、英語の音楽ブログを見ていて思ったのですが、アジアでも現代日本音楽の歴史に目が向きはじめたのかもしれません。

英語圏では、YMOを起点に、細野晴臣のディスコグラフィーをたどっていったら、はっぴいえんどにたどりつき、日本の連中のいっていたはっぴいえんどとはこれだったのか、となったようです。なるほど、ここに認識の片足を置くと、現代日本音楽の姿がより明瞭な像を結ぶ、というあたりでしょう。

しかし、まあ、本気ではっぴいえんどの背景なんてことを考えると、ノイローゼになるからやめたほうがいいでしょう。彼らがなぜあの当時、多数派を惹きつけることができず、短期間で活動を終えることになったのか、そして、そうであったにも拘わらず、いまでは、現代日本大衆音楽の出発点とさえ考えられているのはなぜか、どうしてこのようなねじれ現象が起きたのか、なんてことを実証的に書けたら、博士論文一丁上がりです。日本人とはなにか、日本の戦後社会はどのようにアメリカ文化と接し、どのように自己形成をしたか、という話なのですから。

あの曲にしようか、と考えたところで歌詞を思い出し、らしくもなく自粛してしまい、ひとつずらして、彼女のもうひとつの代表作、西田佐知子「コーヒールンバ」



子供のころ、西田佐知子は大好きでした。そういうことというのは、大人になる過程でいったんどこかに隠れますが、年をとってくると、せっせと運び込んだ表土が流されてしまい、また露頭を顕します。

そろそろ、情報過剰、とくに、無用の情報の大氾濫に疲れるころで、わたしは、昨日、そのピークがきたと感じました。ツイッターはわたしに関する限り、機能不全です。

被災地から直接の声として、ここに孤立無援の被災者がいる、助けてくれ、ほかに通信手段がない、伝えてくれという切迫したツイートを見たときは、RTしました。でも、すぐに、ほとんど無意味か、または逆に有害だと考えるにいたり、この種のRTはやめました。

・真偽の確認ができない
・仮に真実であっても、ツイッターの情報でオフィシャルな組織が動くチャンネルは形成されていない
・そもそも同時多発的に大量の救援要請があり、仮にオフィシャルに届いても、対処できる可能性はほとんどない
・多数の人がRTすると、それが何重にも重なって流れていく恐れがある。その結果、結局は信憑性の判断はまったく不可能になる
・さらに悪いことに、重要な情報や事実の伝播をはなはだしく阻害する

といったあたりでしょうか。ツイッターの実験にはなったと思いますが、冷静な判断をできない人が多いので、結局、友人が言うこと以外は意識から遮断しました。

ただし、この「友人」はツイッターでしか知らない方々も含まれます。やはりツイッターでも、この人はニュートラルで冷静な判断ができる、なんてことがわかるものです。あるいは、なにか強い信条を掲げ、いざとなるとそのドグマを優先するタイプの人ではない、という感触を得られるということです。

そういう意味で、ツイッター上で見るわたしは、あまり信用のできないタイプだろうと想像します。呵呵。

こういうクリシェを口にするのはいかんなあ、と思うのですが、はっきりいって、私のものを含め、大多数のツイートは、「下手な考え休むに似たり」です。なんの役にも立っていません。でも、ツイートしたご本人の精神を安定させる役には立っています。その結果として、社会の安定に寄与したとはいえるでしょう。

だから、休むことが重要だというのです。馬鹿がガソリンを使って凶器を時速80キロでぶっ飛ばしながら、そこらをうろうろしたら、職務を果たそうとしている人たちの邪魔でしょうに。

いや、小知恵のある輩も、うちにじっとして、ツイッターで屁のふたぎにもならないようなことをつぶやいているほうが、われわれにとってはありがたいかもしれません。だから、ツイッターは捨ててかまわない簡易防護服の役割も果たしているのでしょう。小知恵にもうんざりしました。

わたしがツイッターで読むのは、たとえばs_mizukawaさんという方が朝夕にきちんきちんとつぶやく「出勤なう」と「退勤なう」です。ああ、きょうもmizukawaさんは無事に職場に向かい、無事に家に帰ったな、というのは、3.11以前にわたしの日常になっていて、それがまだもどらないのが残念でなりません。ちょっと変化してしまったのです。「退勤。方法を検討なう」といった感じです。

あるいは、ある人が毎朝RTするレストランの情報は、震災後、楽しみにしています。「パン焼きあがりました」なんて、じつに平和で豊かです。

こうした日常生活の断片を知ることができる点が、ツイッターのもっとも楽しいところだと感じています。ウェブが盛んになったとき、neighborhood、「ご近所」ということがいわれましたが、やっとその概念が現実になったのではないでしょうか。

ひょっとしたら、学者が言うように、われわれはコミュニティーを失ったのかもしれませんが、それはツイッター上に引っ越して、空間を超えて形成されるかもしれません。ゴミを出しに行くと、お隣のご主人が出てきて、「いってきます」「いってらっしゃい。お気をつけて」なんて会話を交わすのと似たようなことになりつつあります。

現実の「ご近所」と異なる点は、ツイッターでは近所の種類とサイズをある程度選べることです。おっと、もうひとつ、味噌醤油の貸し借りはできませんが。というわけで、徳山璉いってみます。はい、とんとんとんからりと「隣組」



まわしてちょうだい回覧板、ていうのが、今回の最大の災害でした。わたしはほとんど回覧板をまわさないことにしました。信用できる友人の、たとえば職業的観点から重要と判断してRTしてきたものをごく少数だけまわしました。

政府やメディアについては、どんどん積極的に、すぐさま批判するべきです。でも、現場でおこなわれている個々の作業については、口をつぐんでいようと思うのですが、こんどばかりは、ちょっと一言。「二階から目薬」とは、昔の人はうまいことをいったものだ!

適当な曲を思いつかず、垂直方向の困難を水平方向に変換し、ザ・ホリーズ、On a Carousel



めずらしくもボビー・エリオットが、キース・ムーンに変身していますなあ。ああいうドラマーでも、こういう日があるんですねえ。楽屋に帰ってから、アラン・クラークがボビー・エリオットの襟首ひっつかみ、てめえ、こんどそんなことをしたら、シンバルで首刎ねてやるからな、なんて騒ぎにならなかったことを祈ります。あ、43年前のことじゃ、手遅れですな。

相馬が故郷というツイッター上のご近所の方が、被災した親戚を引き受けるか否かという問題を考えなければいけない、とツイートされたのをいま読みました。いよいよお子様たちの躁病段階は終わり、大人の冷たい現実の段階にいたろうとしているようです。今後も感傷的なエピソードは垂れ流されるでしょうが、現実はまったく異なったレベルで進行します。

そもそも、社会を運転していく原理として、感傷が有効かどうかわからないし、たとえ無効でも意に介さない、というコンセンサスができているとは思えません。

ひとりひとり、それぞれ異なった感傷の源泉をもっています。だれかにとってかけがえのないおじいちゃんは、東電の経営者かもしれません。政府関係者かもしれません。マスコミ関係者かもしれません。

そうなれば、異なった感傷の源泉を持っている人は、うちのおばあちゃんが被曝する原因を作ったのは、あのジジイだ、殺してしまえ、と思うかもしれません。

もちろん、極端な話です。でも、ツイッターにながれているのは、こうした感傷にもとづく(究極において)理不尽な、それぞれの思いです。買い占めを戒める人たちだって、買い占めと同じ原理、心理から、感傷的なことを語っているという自覚はおもちではないでしょう。いえ、わたしもその無自覚な人間のひとりです。

まともな知性を持つ人間は、感傷を優先するべきときと、理知を優先すべき場面の違いをおおむねまっとうに判断できるでしょうが、人は集団となったとき、ひとりでいるときとは異なった原理で行動します。たぶん、感傷の最大公約数が集団を動かすのでしょう。

わたしのような粗雑な頭で考えられるのはこの程度に過ぎません。ツイッターの役割は「いまどうしてる」のほうにあると、今回は認識しました。「これからこうしよう」という言葉は、私自身がばら撒いたものを含め、すべて感傷に過ぎず、ほとんど無益だったと思います。

これから外出します。しばらく休みます。午後遅くに停電が予定されているので、更新再開は7時ごろになるかもしれません。それでは今日一日、みなさんがつつがなくすごされますように。

Mann-iaさん。方向性は見えているのですが、現物での確認に手間取っています。夜にはコメントへのお返事ができると思っています。うーん、なんか、こういうことを書くと、だれかの口調に似るのではないかと不安になりますなあ。
by songsf4s | 2011-03-17 10:01