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2009年 11月 20日 ( 1 )
嵐を呼ぶ男 by 石原裕次郎(日活映画『嵐を呼ぶ男』より) その2
タイトル
嵐を呼ぶ男
アーティスト
石原裕次郎
ライター
大森盛太郎、井上梅次
収録アルバム
『嵐を呼ぶ男 日活映画サウンドトラック集』
リリース年
1957年
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まず、これまでに書こうと思っていたのに、うっかり忘れてしまったことを少々。

『嵐を呼ぶ男』でじっさいにプレイしたドラマーのことです。石原裕次郎の音は白木秀雄、笈田敏夫の音は猪俣猛がプレイしたと、OST盤のライナーにあります。また猪俣猛は、『黄金の腕』のときのシェリー・マンのように、石原裕次郎のコーチ役もつとめたそうです。

f0147840_23563733.jpg石原裕次郎自身は、猪俣猛ではなくジョージ川口がプレイしたと記憶していたそうですが、これはジョージ川口の証言からも、猪俣猛の証言からも、記憶違いということがはっきりしているようです。

また、「出演バンド」にクレジットされているのも(こちらは画面に出たという意味だろうが)「渡辺晋とシックス・ジョーズ」および「白木秀雄とクインテット」のみです。渡辺晋が出演していて、北原美枝が演じた女マネージャーが渡辺美佐をモデルにしているというのは、なるほど、そうつながっていくか、です。のちに渡辺プロは東宝と強く結びつきますが、このときはまだ渡辺晋がプレイしていたぐらいだから、黎明期なのでしょう。

◆ いかにも無理な「俺らはドラマー」 ◆◆
『嵐を呼ぶ男』という映画の軸は、石原裕次郎扮するドラマーが、さまざまな障害を乗り越えて成功するか否か(といってはちょっと白々しい。成功しなければプログラム・ピクチャーにならない!)、北原美枝扮する女マネージャーとの恋の行方やいかに(これについては日活アクションは成就を保証しない。四人に三人ぐらいの割合で、ヒーローは冷え冷えとした、または、甘やかな、または、そのどちらでもないニュートラルな孤独のうちにエンド・マークを迎える)、そして母と和解できるか否か、という三つです。

単純か複雑かは考えようですが、それよりも、恋の行方はいいとして、あとの二つがすっきり納得のいく形で収まってくれないことが問題です。

この映画の最大の見せ場は、石原裕次郎が「ドラム合戦」の最中に、ドラムを叩くのをやめ、いきなり歌い出すシーンでしょう。

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この「ドラム合戦」(わたしのように、ドラム・ソロの消滅期に音楽を聴きはじめた人間は、「ドラム合戦」というものの実在を心から信ずることができず、不安のあまりカギ括弧をとれない!)の前夜、石原裕次郎は、笈田敏夫扮するライヴァルのドラマーと親しいヤクザものにケンカをふっかけられ、手を痛めてしまいます(やがて、万年やられ役になる高品格が、ここでは裕次郎と対等に渡り合う! まだフォーマットができあがる以前の日活アクションの姿をかいま見られるのである)。

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高品格と石原裕次郎。いずれ、高品は衆を頼む卑怯な悪役になるが、ここでは裕次郎と「決闘」する!

裕次郎はケガを押して「ドラム合戦」に出演したものの、やはり痛みできちんと叩けなくなり、場内がざわめきはじめます。そこでいきなり、裕次郎はかたわらのマイクをつかんで「俺らはドラマ、やくざなドラマ」と歌い出す、という場面です。

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このシーンは音楽的に成立しません。ブルース・スプリングスティーンが、チャック・ベリー自伝の序文で書いていたようなのは、あくまでも例外です。どういう例外かって?

スプリングスティーンのメイジャー・デビュー以前に、チャック・ベリーが彼の町にやってきました。到着が遅れたので、バッキングをすることになっていたスプリングスティーンのバンドが間を持たせました。

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ようやくチャック・ベリー登場。マネージャーも「ボーヤ」もなし、ひとりでギター・ケースをもってステージに上がると、客の前でケースを開き、チューニングするや、マイクのほうに向かったので、スプリングスティーンがあわてて「曲はなんですか?」と聞いたら、「チャック・ベリーの曲だ」とだけいい、例のイントロ・リックを弾きはじめてしまいました。スプリングスティーンは、チャック・ベリーの指の位置をたしかめ、そのキーで必死にあとからついていった、とまあ、そういうエピソードです。

なぜ、リハーサルどころか、打ち合わせもなしで、指を見ただけでバッキングができたか? それは「チャック・ベリーの曲」だからです。チャック・ベリーのヒット曲の多くは、ロックンロールを志す人間なら知っていますし、どの「チャック・ベリーの曲」もコードは三つ、その三つのコードの並び方、構成方法もほぼ同じ、ちがうのはキーとテンポだけです。だから、チャック・ベリーの手を見て、たとえば、Bフラットだ、とわかれば、それであとはなんとかなります。わたしだって、やれっていわれば、やってみせます。

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では、「嵐を呼ぶ男」はどうか? あの「俺らはドラマー」が複雑な曲だとはいいません。でも、いきなりドラマーが勝手に歌いはじめ、まわりがドラマーの手の動きを見て、チャック・ベリーの指だけ見てついて行ったブルース・スプリングスティーンの真似ができるかといえば、ぜったいにノーです。

チャック・ベリーの曲のような決まりきった循環コードで、つぎはどこへ行くか想像がつくわけではないし、映画のなかの設定では、石原裕次郎以外は知らない曲ということになっているのでしょうから(このへん曖昧。そもそも裕次郎自身、どこでこの曲を手に入れたかも不明。シナリオが穴だらけだというのは、こういう処理のまずさをいっている)、譜面なしでいきなりプレイするのは断じて無理。最低限、コード譜を用意する必要があります。

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たとえば、リハーサルのときに、バンドのだれかが裕次郎に「おまえ、流しをやっていたんだってな。どういうのを歌っていたんだ」と話し、裕次郎が歌いだして、たとえばピアニストが曲を気に入り、素早く採譜する、なんていう一分もあればすむシークェンスで前フリは十分です。そうしても、映画表現が壊れるわけではないのに、音楽の基本的な知識がシナリオ・ライターにないために、なおざりにされてしまったのです。

こういうとき、われわれには「昔の映画だからな」とちょっと冷笑的にやり過ごすしか映画を見続ける方法が残されていません。それじゃあまずいんですよ、ほんとうは。以前、「Nikkatsuの復活 その2」という記事で、わたしの友人たちは日活映画を好まないことを書きましたが、後追いで見るとこういう処理がひどくだらしなく感じられるし、ときには赤面するほど気恥ずかしい台詞やショットがあります。そういうのは多くの場合、シナリオが甘いために腐ってしまったのです。

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いやまったく、しつこく繰り返してしまいますが、こういうあちこち脱臼してしまったシナリオでも、曲がりなりにも話が進んでいき、とにかく、最後まで見てしまうのは、ひとえに、そこで生身の俳優がしゃべり、歌い、暴れ、ほほえみ、涙し、怒り狂い、その絵をサウンドが補強しているからです。シナリオだけだったら、三ページも読みつづけられないでしょう。視覚と聴覚がいかに強い影響力をわれわれに及ぼすかの好例です。論理が否定しても、視覚と聴覚が肯定し、つねに後者が前者を圧倒するのです。

今日は『嵐を呼ぶ男』を完了するつもりだったのですが、完了どころか、用意したサンプル音源を紹介する場面にすらたどり着けませんでした。もう一回延長して、次回完結とします。


by songsf4s | 2009-11-20 23:57 | 映画・TV音楽