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2009年 06月 22日 ( 1 )
ドラゴン by 宮内國郎 (OST 『ガス人間第一号』より)
タイトル
ドラゴン
アーティスト
宮内國郎
ライター
宮内國郎
収録アルバム
ガス人間第一号(OST)
リリース年
1960年
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こういう作曲家を取り上げると、オタクの諸兄を招き寄せる恐れがあるので、最初に断っておきますが、わたしはそういう方面のことはいっさい書かないので、検索エンジン経由で間違って当家にたどり着いた方は、ここで閉じられるように強くお勧めします。

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と、蚊取り線香を焚いた意味がおわかりにならないわたしと同世代または年上の方々のために書いておくと、宮内國郎はウルトラQやらウルトラマンやらの人として知られているのだそうです。わたしにはまったく関係のないことです(でも、こういう言葉を書いてしまうと、またしてもこれがキーワードになって、関係ないヴィジターを招き寄せるハメになってしまうのだが!)。

子どものころ、東宝特撮映画を熱心に見ましたが、ウルトラマンはわたしが中学生になってからはじまったものです。昔は、ああいうものは子どもだけのものとみなされていたので、なかば大人のつもりの中学生ともなると、縁を切ったものです。ウルトラマンの時代には、わたしは自分のバンドを組んで、ボーン・トゥ・ロックンロールな中学生活を送っていたため、ゴジラのことは夢のまた夢、特撮映画や同類のテレビ番組とは完全に手を切っていました。

◆ Photographs and Memories ◆◆
どなたにもそういうことがあると思うのですが、前後の脈絡なしに、シーンだけになってしまった映画の断片の記憶というのが、わたしにはたくさんあります。その一例がこの『ガス人間第一号』です(正確には「第」は略字なのだが)。

予告篇


わたしが記憶していたのは、シーンというよりはショット、いや、ほとんど一枚のスティルのようなものです。結末を書かないと、どういうショットか説明できないので、そういうことは知りたくない、自分でDVDを見る、という方は、ここでアディオス、チャオ、アウフヴィーダーゼン、フェアウェル、さようならさようなら、ということにするか、またはすくなくとも、つぎの見出しまでジャンプしてください。つぎの段落では結末を書きます。

この映画に関して記憶していたのは、男と女が抱き合い、女が男の背中にまわした手でガスライターに火をつける、というたったのワン・ショットだけ。あとはきれいさっぱり忘れてしまいました。いや、もちろん、ガスライターの火から大ガス爆発が起こる、という結末も記憶していましたが、絵として記憶しているのは、背中にまわった手とガスライターだけなのです。

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これだけがあざやかに思いだされるのですが、それ以前の話がどういうものなのかさっぱり思いだせないし、昔はテープだろうがディスクだろうが、ヴィデオ・パッケージ商品などというものは存在せず、名画座かなんかで再上映される機会でもないかぎり、あとから確認のしようがなかったのです。

わたしはマメな人間ではないので、あのシーンに到るまでのストーリーはどんなものなのだろう、ぐらいのささやかな興味を満足させるために、浅草東宝のオールナイトや同じ六区の邦画旧作上映館(リアルタイムでは見逃した日活映画を見るために一時期よく足を運んだ。検索して、浅草東宝は閉館したことがわかったが、日活映画を見に通った映画館はまだやっているらしい。このブログには、女性が行くのは危険、と書いてある。わたし自身は男だから「危険」を感じたことはないが、たしかに胡乱な客がいるので、女性が行くならひとりはダメ、エスコートが必要だ)をこまめにチェックするようなことはなく、つい先日までほったらかしにしていました。

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ビリングス・トップは三橋達也なのだが、DVDのパッケージでは、三番目の八千草薫や四番目の土屋嘉男のほうが大きく扱われている。昔なら大問題になるところだが、幸か不幸か、もはや序列などどうでもいいくらい古い映画になってしまった。

人生には、こういうつまらない疑問、微少な引っかかりが山ほどあり、そんなものにいちいちケリをつけるなんていうのは、子どもっぽい人間のやることなのでしょうが、そこに解決のチャンスがあるならば、やはりトゲは抜いておいたほうが心おきなく死ねるような気がするので(大げさだってば!)、一念発起して、半世紀ぶりにこの映画を再見してみたのでありました。

予告篇でおわかりになるかどうか微妙なところなのですが、土屋嘉男(去年、成瀬巳喜男の『乱れ雲』を再見し、この人がふつうの役で出ているのが、なんだか妙に可笑しかった。「東宝特撮映画の顔」ともいえる俳優なので、ふつうの映画にまでその雰囲気が漂ってしまうのだ)扮するガス人間というのは、透明人間類似の突然変異体質男で、思いのままに個体と気体を行き来できるのを利用して、銀行強盗を働きます。逮捕しようとしても、すぐに気体になってしまうのでどうにもならず、当局は彼が恋人の日本舞踊の家元(八千草薫)の発表会を利用して、その会場に特殊なガスを充満させ、一気に高熱で焼き尽くそうと考えます。

がしかし、昔の国産電機製品にはよくあったことですが、この装置も、明示的には説明されないなんらかの不具合によって作動せず、関係者一同、あちゃあ、やっぱりアメリカ製にしておけばよかった(とはいわないが)と反省することになります。ところが、ガス人間の思われ人である踊りの家元・八千草薫は、おそらくはモラリスティックな煩悶から脱出したいと願い、踊り終わってガス人間とひしと抱き合うと、みずからライターに点火し、史上最大のガス自殺をする、というプロットです。昔のプロパン・ガスはよく爆発事故を起こしたもので、そういう発想じゃないでしょうかね。

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スウィッチ、オン! 死ね、ガス人間! あ、いかん、失敗だ。

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セリフによる説明はなく、どこかにあるスウィッチ・ボックスのショットが挿入される。きっと単純な結線ミスなのだろう。たちの悪い電気工事会社に無駄金を払ってしまったらしい。わたしの考えでは、矢印をつけた遊んでいる末端がいけないのだと思う。

◆ エキゾティカと邦楽 ◆◆
ストーリーがわかり、ナラティヴに接してみると、それはちょっと無理でしょう、と思うところがたくさんあるのですが、話が面倒になるので、それはあとのほうにまとめることにして、先にスコアを検討します。

おそらく、当時の観客の感じ方とは大きく異なると思うのですが、この映画に出てくる音楽で感心したのは、看板に掲げたDragon 1および2というタイトルになっている曲です。

ドラゴン


駄言を弄するまでもなく、即座にご了解いただけたでしょうが、いまではこれはラウンジ/エキゾティカに分類されるタイプのアレンジ、サウンドです。作曲家も監督も、この曲に重要性など認めていなかったでしょうし、観客も気づかなかったでしょうが、半世紀たってみたら、「ドラゴン」はこの映画のなかでもっとも現代的な曲として浮上していたのです。まったく、時というのは地上のすべてのことに奇妙な作用をもたらすものです。

そもそもこの曲は、映画のなかではほとんど聞こえません。セリフをとったOSTを聞かないと、メロディーラインもアレンジもあったものではなく、なにか背後で鳴っているな、ぐらいのことしかわからないのです。しいていうと、二度目に出てくるDragon 2のほうが、まだしも音楽の体をなして聞こえます。

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「ドラゴン」というのは劇中に登場する喫茶店の名前。この店のシーンでBGMとして流れる。

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ドラゴン店内の三橋達也と佐多契子

『ガス人間第一号』のOSTのなかでは、唯一、この曲にだけ耳を引っ張られました。あとはこの手のサスペンス映画のノーマルなスコアです。当時を知らないお子様たちは、スコアのあちこちに使われているエレクトリック・アコーディオンに魅力を感じたりするようですが、わたしにはクリシェにしか思えません。

もう一点だけ、OSTについて。プロットから必然的に導き出されるのですが、八千草薫が踊るシーンがたくさんあり、本田猪四郎は、映画のテンポを壊すことすらいとわず、他とのバランスを失するまでに執拗に八千草薫が踊る姿を追いかけ、不相応なフィート数を費やしています。ガス人間が出てこなければ、日本舞踊の家元の物語といっていいほどです。

したがって、スコアにも邦楽があり、それはOST盤にも反映されています。これをアルバムとして通して聴くと、弦とエレクトリック・アコーディオンを中心としたサスペンスフルなスコア、ラウンジ・ミュージック、邦楽という、ひどく珍なミクスチャーができあがります。それが映画音楽というものだとはいえ、いやなんともまた「エキゾティックな」盤です。

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◆ 空想の論理、論理の空虚 ◆◆
映画というものは、論理のみによってつくられるものではなく、どちらかというと、目先の興味を追うことを本分としています。とりわけ、昔の邦画の大部分は大量生産品なので、時間に追われてシナリオがガタガタ、論理もへったくれもないというのがよくありました。

f0147840_2221921.jpg昔の邦画五社(日活、松竹、東宝、大映、東映)はどこでも通常は二本立て、しかも毎週プログラムが替わりました。つまり、各社、年に百本製作しなければならない、ということです。いくらそれが商売とはいえ、これはたいへんなことです。

東宝特撮映画は、昔の(自分でそう称するのはずうずうしいが)純朴な子どもたちを満足させるためにつくられたものだからして、いまになって大人の目で重箱の隅をせせるのは、礼儀にかなったふるまいとはいえないのですが、見てしまうと、やはり気になるところが山ほどあります。

人間が気体になろうが、液体になろうが(『美女と液体人間』という映画があった。ついでにいえば、『電送人間』というのもあった。子どものときにみんな見た)、それはお話の都合だから、そんなことはありえない、などとはいいますまい。ただ、われわれの宇宙では、たとえガス人間でも質量を失うことはできないから、固体であったときの、仮に60キロの肉体が「保存則」(質量不変の法則)にしたがってすべて気体に転換されると、どれだけのガス量になるかということは、映画を見ていてチラッと頭の隅で考えざるをえません。

ひどい丼勘定でも、小さな入道雲のようなものになるのはまちがいないところでしょう。すくなくとも、あんなタバコを一本吸っただけみたいな、セコい煙ですむはずがありません。かりにそうなってしまうという設定をオーケイとするなら、あのわずかな煙から、どうやって個体の人間を復元するのか、こんどはそちらがおおいなる頭痛の種になります。保存則がある以上、気体から固体を生じるには、それだけの十分な量が必要なので、あんなセコい煙になっては、それきりで文字どおり雲散霧消、二度と人間にもどれません。

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逃走するガス人間。これがもっとも大きな煙だが、質量はせいぜい数グラムだろう。残りの質量はどうなったのだ? 考えられる可能性はただひとつ。ガスの大部分は無色透明、ごく一部だけが見えるという設定。しかし、それならそうと説明してくれないと、可視部分だけで構成されていると考えざるをえない。

サイエンス・フィクションではなくファンタシーなのだから、保存則も適用されない、そもそも、夢物語に物理学を持ち込んでどうするのだ、というかもしれません。しかし、こういうことを理詰めで追い込んでいったときに、はじめて秀抜なアイディアが生まれ、リアリティーが構築されるということは、原則として押さえておかないと、この手の空想物語は面白くならないものなのです。山田風太郎の無茶苦茶な忍法小説が、その設定の範囲内においては、きわめて論理的につくられていることを思いだされよ。

ひと色ではなく、さまざまなタイプがあるにせよ、映画はやはりなんらかの論理で貫かれているべきなのです。子ども向け空想物語ではなく、大人が見る映画では、あまりにもたびたび非論理的な処理をすれば、物語は崩壊します。そしてつまるところ、子どもは小さな大人、やはり映画を見ながら、つたないながらも論理を適用しているものなのです。

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人間が輪郭を失ってしまうこういうショットは、七歳のときはひどく恐ろしかった。

わたしはこの映画を見たとき、小学校一年だったから、うなされるほど怖がりました。でも、これが数年後、小学校六年だったら、はなから馬鹿にしたでしょう。とりわけ、図書館司書が、どこからともなくあらわれた怪しい科学者のいうことを、飛行機乗りになるというかつての夢をかなえさせてやるという餌をちらつかされただけで、すぐに納得してしまうのは、いくらなんでも無茶です。この程度の動機づけでは、七歳の子どもはだませても、中学生には嘲笑されます。

シナリオ・ライターも監督も、ここに大きな穴があることを承知していたはずです。ライターに能力と時間があれば、論理を補強したにちがいありません。上映時間に余裕があれば、もっと尺数を費やして、心理的経過を説明したでしょう。でも、そこでスケデュールという圧力がかかるのが、日本映画界でした。ベルトコンヴェアは止められないので、穴のあるまま、半身不随で撮影がはじまってしまうのです。これは子ども向け空想物語にかぎらず、大人向けの映画でもしばしば起きました。

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勤め先にいきなりやってきた、科学者を名乗る男に、立ち話で不可解な実験計画に誘われ、土屋嘉男扮する図書館司書がなぜかすぐに話に乗ってしまうという、正常な神経の観客にはとうてい理解不能なシークェンス。ていねいにカットを割っているが、カットを割ればリアリティーを増すというものではないだろうに!

◆ Bムーヴィーは煩悶する ◆◆
本田猪四郎監督は、ガタガタの脚本から、なんとか見られる映画をつくろうとしています。ただ、まじめにやっているぶんだけ、いま見ると、かえってボロが目だちます。ガス人間なんてものをまともに受け取るのは小学生と成長の遅れている中学生だけのはずですが、この映画のかなりの部分は大人の映画としてつくられているのです。

ヒロインが八千草薫になった理由は明らかです。ほんものの踊り手だから、舞踊シーンがどれもすばらしいのです。でもですよ、『ガス人間第一号』なんていうタイトルの映画を見に行く子どもと幼稚な大人の観客は、あの長い舞踏シーンを喜んだでしょうかね。長いばかりでなく、八千草薫が本物の踊り手であるせいで、下手な踊りをごまかすためにカットを細かく割る必要がなく、キャメラはフィックスだから映像的ダイナミズムはゼロ、まるで日本舞踊記録映画です。

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こういうシークェンスを見ているうちに、だんだん監督の意図がわかってくる。小学生の特撮映画マニアなんかにサービスするつもりはないのだ、八千草薫の美しさを見せる映画のつもりで撮っているのだ、という理解に到達してしまうのである。八千草薫が魅力的であることには賛成するが、それはべつの映画で表現するべきことだろう。

いや、これが『ガス人間第一号』などという映画ではなく、成瀬巳喜男が撮りそうな、グチャグチャに感情が絡まって、どこにも出口がないように見える大人の恋愛映画(『浮雲』! 森雅之が凄絶だった。ああいう味を出せる俳優をほかに知らない)なら、日本舞踊のシークェンスはどれもしっくり映画のなかに収まったでしょうが、人間が気体になるなんて映画ではネエ……。

中学に入ったころからわたしは邦画五社の作品を見なくなりました。大人になりかけた理屈っぽい子どもは、子どもだましの超論理、非論理、脱論理が不快でならなかったのです。いまや寛大な年寄りとなり、予算がなかったのだろうし、当時の円谷英二は煙の特殊撮影には慣れていなかったのかもしれないから、質量の問題はやむをえない、とは思いますが、図書館司書が人体実験に同意するくだりだけは、ぜったいにありえない、いくらスケデュールの圧力とはいえ、巨大な穴を抱えたシナリオを修正せずにそのまま撮るような不心得者ばかりだったから、日本映画は客を失ったのだ、と腹立ちが収まりません。

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◆ 外道の楽しみ ◆◆
腹の減っているときもあれば、脂っこいものを食べすぎて、精進料理のようなものを食べたいときもあるし、まったく食欲のないときもあります。映画を見るときも気の持ち方は同じではないし、ある映画を見ている短い時間のなかでも、気分は猫の目のように変わり、見る姿勢も絶え間なく変化していきます。

だから、『ガス人間第一号』のシナリオの穴に腹を立てもすれば、一歩退いて、同情的に見る瞬間もあるし、こういう風にできてしまったのだ、いまさらどうすることもできない、たとえ「建設的な批判」とやらをやっても、半世紀をさかのぼって、日本映画界の崩壊を食いとめられるわけでもない、じゃあ、馬鹿笑いでもするか、と思ったりもします。

じっさい、楽しめる瞬間がないわけでもありません。日本映画のみが保証する楽しみがあるのです。どんなダメ映画でも、現代劇であり、しかもロケ・シーンさえあれば、その画面を追いかける一瞬だけは、シナリオの穴のことは忘れています。画面のなかには、かつてわれわれが生きた空間があり、それはその後、永遠に失われたからです。

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土屋嘉男扮するガス人間/図書館司書の勤め先の外観は、おそらくかつての国立上野図書館で撮影された。全景は映らないが、入口付近の造りでわかる。

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1985年、改築以前に撮影した上野図書館ファサード。いつもコダックの36枚撮りリヴァーサル・フィルムを入れていたが、この日は上野のあちこちの古建築を撮影してフィルムを使い切り、もう帰ろうと思ったところで、没する陽を背負った図書館の前を通りかかり、ままよと、無理矢理37枚目を使って撮影した。フィルムにキズがあったが、とにかく写ったのだから、文句はいえない。

大学受験のころ、深夜映画で見た鈴木清順の『くたばれ悪党ども』で、オリンピックを翌年に控え、ガタガタに壊れてしまった東京(ふつうの人は「建設中」というのだろうが、わたしには「破壊中」に見えた)のショットがいくつか映り、衝撃を受けました。かつてそこにあり、いまはもう永遠に失われたものが、フィルムに封じ込められていたことを発見し、映画を見る新しい楽しみを知った衝撃でした。

かつては生真面目だったから、映画の本質から遠く、まったく普遍性のない、こうした視覚的楽しみ、ノスタルジアの喜びを、外道の快楽、非映画的楽しみとして、うしろめたく思いました。でも、この年になると、そんなことはもうどうでもいいや、なのです。楽しいか楽しくないか、という二分法でいうなら、いまでは見られないものを映画のなかで見られる喜びは、古い日本映画の最大の存在理由だと思っています。

だから、『ガス人間第一号』に費やした時間も無駄だったとは思っていません。「ドラゴン」という、「ほほう、やっていますね」という曲があり、いくつかのロケ・シーンにとろっとした甘みがあったので、それで十分です。

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by songsf4s | 2009-06-22 23:56 | 映画・TV音楽