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2008年 01月 17日 ( 2 )
Latin Snowfall by Henry Mancini
タイトル
Latin Snowfall
アーティスト
Henry Mancini
ライター
Henry Mancini
収録アルバム
The Days of Wine and Roses (box set)
リリース年
1963年
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そろそろグレイトフル・デッドに戻ろうかと思い、いろいろ調べていたのですが、ロバート・ハンターのメモに、『バスカーヴィル家の犬』をドラマ化したものを見たのがきっかけだった、という一節があり(どの曲についていっているのか、ヘッズ諸兄は推測なされよ)、コナン・ドイルの原作を読まないわけにはいかなくなってしまいました。じつは、小学生のときに一度、大人になってから二度読んでいるのですが、内容はまったく記憶していないのです。

デッドを本気で聴くと、しばしばこうなってしまうのはわかりきったことで、彼らの曲を取り上げようとすること自体、考えが甘いといわざるをえないのです。下手の横好きか、好きこそものの上手なれかわかりませんが、手間をかけることで、その中間ぐらいのところは確保したいと思っています。

◆ アルプスのラテン・ミュージック ◆◆
そういうしだいで、今夜はドイルを読まねばならず、休みにするかわりに、こういうときのための「雨傘用インスト」を一曲。冬の曲というのは、どういうわけかインストが多くて、助かります。

ヘンリー・マンシーニのLatin Snowfallは、スタンリー・ドーネン監督、オードリー・ヘップバーン、ケーリー・グラント主演の映画『シャレード』(ウォルター・マソー、ジェイムズ・コバーン、ジョージ・ケネディーなど、「くせ者」が多数出演)のために書かれた曲ですが、どこに出てきたのか記憶になく、ウェブであれこれ検索して確認しました。開巻まもなく、アルプスの麓という雰囲気のスキー場で、オードリー・ヘップバーンとケーリー・グラントが出会うシーンに使われていました。2時間近い映画なので、登場が最後のほうでなくて助かりました!

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Latin Snowfallというタイトルに、とくに意味があるのかどうかが気になって、映画を確認したのですが、背景は雪景色ではあるものの、南米色はなく、たんにラテン音楽風のアレンジだからという意味のようです。

ヘンリー・マンシーニの盤というのは、自作の映画音楽ばかりでなく、ふつうのポップ・オーケストラとして、他の作曲家の作品を含む、さまざまなタイプの曲が収録されていますし、映画音楽の場合でも、純粋のOSTではなく、再録音したものが収録されることも少なくありません。

f0147840_2332426.jpg映画でこの曲が登場するのはほんの短時間、しかも、オードリー・ヘップバーンとケーリー・グラントのテンポの速い会話の背景で流れるだけなので、きちんと確認はできないのですが、映画ヴァージョンとアルバム・ヴァージョンは同一のものと感じました。また、アルバムCharade収録ヴァージョンと、ボックス・セットThe Days of Wine and Roses収録のヴァージョンにも異同はありません。

この曲でリードをとっているのは、大部分がトロンボーンです(中間部ではホルンがリードをとる)。トロンボーンの音というのは、アタックが弱く、リードをとるのに向いていないと感じますが、そこはマンシーニ、じつにうまく使っています。曲をつくるときに、楽器の種類のみならず、だれがプレイするかも頭においている、といっているだけのことはあります。これほどトロンボーンの音がはまった曲は、そうはないでしょう。

◆ グラフィックなタイトルとテーマ音楽 ◆◆
f0147840_233675.jpgわたしが育った1960年代というのは、音楽を聴くにはいい時代でしたが、映画を見るにはあまりいい時代とはいえません。40年代から50年代前半の名作ラッシュが終わり、経済的ダメージを負ったハリウッドのスタジオが、あれこれコストダウンの方法を探りながら、生き残りをはかっていた時代だからです。『シャレード』はヨーロッパを舞台にしていますが、これもコストダウンの手段として流行したものだということが、あとでハリウッドの歴史を読んでわかりました。

しかし、子どもだったわたしはそんなこととはつゆ知らず、週末はつねに映画館の暗がりにいたので、『シャレード』のような、ヨーロッパの観光地を舞台にした、サスペンス映画というのは、きわめて60年代的なものとして、出来不出来に関わりなく、画面の雰囲気だけは、いまでは懐かしく感じます。

60年代の映画を久しぶりに見て思うのは、タイトルのグラフカルなセンスがすばらしいことです。ジェイムズ・ボンド・シリーズのタイトルにその一端をかいま見ることができますが、あれではまだ超一流とはいえず、もっとすばらしいものがゴロゴロしています。『シャレード』のタイトルも悪くありません。

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有名なのは、やはりヘンリー・マンシーニの音楽でよく知られている『ピンク・パンサー』でしょう。ヒチコックの諸作、なかでもソウル・バスが担当した『サイコ』のタイトルもよく知られている、60年代映画のグラフィカルなタイトルの代表です。

それにしても、ヘンリー・マンシーニのディスコグラフィーをながめると、これは見た、あれも見た、これも見た、という調子で、あの時代の有名作、ヒット作がぞろっと並んでいます。Latin Snowfallのように、挿入曲で印象深いものも多いのですが、やはり、マンシーニはテーマ曲のうまさで際だっています。『シャレード』の音楽は非常によくできていますが、あのグラフィカルなタイトルとともに聴くと、いっそう60年代的な気分にひたることができるでしょう。
by songsf4s | 2008-01-17 23:54 | 冬の歌
Wildfire by Michael Murphey
タイトル
Wildfire
アーティスト
Michael Murphey
ライター
Michael Murphey
収録アルバム
Blue Sky, Night Thunder
リリース年
1975年
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ご存知のように、ポップ・ミュージックには「デス・ソング」の系譜というものがあります。たとえば、「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」という西行法師の歌……これは当ブログには無関係ですが、そうですねえ、われわれの世代だと、ともに交通事故をあつかった、ジャン&ディーンのDeadman's Curveや、シャングリラーズのLeader of the Packなどは親しんだ曲です。

解釈が分かれるかもしれませんが、ボビー・ゴールズボロのHoneyもやはりデス・ソングだと思います(語り手が殺したのではないかとさえ思うこともある!)。グレイトフル・デッドがデス・ソングをやっては共食い(というのは変か)ですが、彼らもDeath Don't Have No Mercyというブルーズをやっています。

われわれは、音楽が極度に商業化された時代を生きているのですが、一見、商品にふさわしくないように思われる「死」という題材をあつかった音楽もたくさんあり、なかには大ヒットしたものもあるわけで、やはり、生とはすなわち「死んでいないこと」なのだと思わざるをえません。生ではないものを語り、聴くことによって、生きていること、あるいは死んでいないことを、われわれは確認したいのではないでしょうか。

日本人の心情としては、西行法師の「春死なん」は理想かもしれませんが、出物腫れ物ところ嫌わず、死もまた、いつわれわれの扉をノックするかわかりません。

先代三遊亭金馬の噺だったか、死のうと思った男が、あれこれ死に方を考えていて、「鉄道に飛び込もうか……でも、あれはバラバラになっちゃうからな、できればまとまって死にたいものだ」と独白します。「まとまって」死にたいというのはわたしも同感ですが、そういう希望が叶えられないこともままあるわけで、生きるのもむずかしいけれど、死ぬのも簡単ではありません。Death Don't Have No Mercyなのです。凍死なんていうのは、「まとまって」死ねない轢死にくらべれば、なかなかきれいな死に方で、西行法師ほど風流を解さないわたしは、これも選択肢のひとつではないかなんて思います。

しかし、死が重いのは、死者の側ではなく、つねに生者の側であって、これこそデス・ソングが引きも切らずに生まれる最大の理由です。死者にとって、「死」はなんの形容詞もつかない、たんなる「死」でしかないのですが、生者にとっては、この世のありとあらゆる形容詞を総動員しても、永遠に埋めることのできない空虚なのです。

本日の曲、マイケル・マーフィーのWildfireは、おおむね以上のようなことがらをあつかった歌です。

◆ ブリザードと野火 ◆◆
それではファースト・ヴァースとコーラス。マイケル・マーフィーのWildfireには、シングル・ヴァージョンとアルバム・ヴァージョンがありますが、歌詞に異同はありません。

She Comes down from Yellow mountain
On a dark flat land she rides
On a pony she named Wildfire
With the whirlwind by her side
On a cold Nebraska night

「彼女はイエロー山から降りてくる、凍りつくネブラスカの夜に、嵐とともに、“ワイルドファイア”と名づけたポニー、黒毛の平地馬に乗って」

イエロー山はネブラスカに実在する山ではないようです。検索してみたら、このヴァースを引用して、「わたしが知るかぎり、ネブラスカにはイエロー山というのは存在しない」と書いている、ネブラスカ乗馬コース案内サイトがありました。

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ネブラスカ乗馬案内。季候のよいときには楽しい土地なのではないだろうか。

flatlandという品種があるのかと思いましたが、調べてみると、そういうことではなく、平地を走ることに馴れた馬、という意味のようです。乗馬に招待してくれる家の人たちが、土地の馬に乗れというのだけれど、わたしは自分の馬に乗りたい、どうしたらいいのだろう、という相談への回答というのを見たら、flatland horseを山地につれていくのは得策ではない、山地に馴れた馬に乗るべきだと答えている乗馬サイトがありました。

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馬ひとつで、ずいぶん、いろいろなことを調べなければならないものだと呆れました。ウェブがない時代なら、面倒だから、ろくに調べもしなかったでしょうが! おっと、忘れるところでした。wildfireというのは「野火」という意味です。もうひとつ、このヴァースが現在形で書かれていることは、あとで意味をもってきます。

セカンド・ヴァースとコーラス。

Oh they say she died one winter
When there came a killing frost
And the pony she named Wildfire
Busted down his stall
In a blizzard he was lost
She ran calling Wildfire
She ran calling Wildfire
She ran calling Wildfire

「とほうもない寒気がやってきたある冬、彼女は死んだとひとはいう、彼女が“ワイルドファイア”と名づけたポニーが厩をやぶって外に出て、ブリザードのなかで迷ってしまい、彼女は“ワイルドファイア”と呼びながら駈けまわったのだ」

吹雪の夜に厩を抜けだした無鉄砲な馬のことはさておき、飼い主の管理責任を追及したくなります。動物を飼う人間は命に対する責任を負っているんだぞ、です。まあ、彼女も責任を感じたからこそ、必死になってワイルドファイアを探したのでしょうけれど。

◆ 新月とフクロウとsodbustin' ◆◆

By the dark of the moon I planted
But there came an early snow
There's been a hoot owl howling by my window now
For six nights in a row
She's coming for me I know
And on Wildfire we're both gonna go
We'll be riding Wildfire
We'll be riding Wildfire
We'll be riding Wildfire

「新月の時に埋葬した、だが雪の訪れは早く、フクロウが六夜つづけて窓のそばにいる、彼女がやってくるにちがいない、わたしたちはいっしょにワイルドファイアに乗っていく、ワイルドファイアを駆って走るのだ」

f0147840_085088.jpgplantという動詞は、ふつうにはもちろん「植える」を意味しますが、この場合は埋葬することと考えるのが自然です。当然、plantは目的語を要しますが、露骨な表現を避ける意味もあって、省略しているのではないでしょうか。しかし、そのせいで、彼女およびワイルドファイアの生死はあいまいになっています。彼女のほうは、フクロウがお告げの鳥としてあらわれることで、やっぱり助からなかったとわかりますが、ワイルドファイアのほうはわかりません。

世界大百科によると、古代の儀式は満月や新月のときにおこなわれたそうで、そういう伝統から新月の埋葬としたのかもしれません。月がもっとも細る新月は、衰え、ひいては死の象徴なのでしょう。しかし、ちょっとパラドキシカルですが、新月からあとは満ちるいっぽうなので、同時に再生または誕生の象徴でもあるようです。そんな願いをこめての新月の埋葬ということかもしれません。

f0147840_0172147.jpgフクロウが象徴するものは微妙です。世界大百科には「西洋では古代エジプトをはじめ多くの地方で凶鳥とみなされ、近くでこの鳥が鳴いた家には死者が出ると信じられた。また、フクロウの声がしているときに生まれた子は一生不運につきまとわれるともいう。しかし女神アテナ(ローマのミネルウァ)の聖鳥でもあることから、知恵の象徴ともなり(後略)」とあります。

これに添って解釈すると、語り手は死んで、彼女といっしょにワイルドファイアを駆ることになる、というぐあいに、文字面としてはすんなり解釈が完了してしまいますが、まさか、そこまでは計算していないでしょう。フクロウのお告げが正しければ、霊となってあらわれるはずの、彼女とワイルドファイアに会うことをいっているだけでしょう。

エンディングのコーラス。

On wildfire we're gonna ride
We're gonna leave sodbustin' behind
Get these hard times right on out of our minds
Riding Wildfire

「二人でワイルドファイアに乗るんだ、畑を耕すのもやめ、つらい時の思い出もすべて忘れて、ワイルドファイアに乗るんだ」

sodbustin'なんていう言葉は辞書には出ていません。幸い、この曲が大ヒットして、だれもが気になった言葉のようで、「アルバカーキ・トリビューン」紙の記事で意味がわかりました。単語に分解すると、sodは「土地、土」、bustは「破る」なので、鋤で土を耕すことなのだそうです。

それにしても、日本では化けるのは猫と相場が決まっていますが(ただし、『八犬伝』の八房は化け犬のような気がする)、アメリカでは、というか、カウボーイの国では、馬が化けるものらしく、(Ghost) Riders in the Skyを思いだしました。

◆ 動物受難物語 ◆◆
わたしの十代と二十代はFENとともにあったような気がするのですが、70年代なかごろから、ラジオをつけている時間が短くなっていきました。自分が聴いているものと、FENでかかるものがかけ離れてしまったのです。Wildfireがヒットした70年代半ばには、もうケーシー・ケイサムのAmerican Top 40 Countdownでかかるような曲は、まったくといっていいほど買わなくなっていました。

70年代後半になると、ディスコの嵐が吹き荒れ、わたしはラジオを聴かなくなり、それとともに、同時代の音楽とも縁を切ることになるので、Wildfireがヒットした75年というのは、わたしの感覚では「ギリギリ最後のどん詰まりの年」です。ドナ・サマーやビージーズがチャートを蹂躙するまでもなく、もうアメリカのポップ・ミュージックは死の床にあり、ディスコ・ミュージックはたんなる「直接の死因」にすぎず、あれによって「終わった」ことが明瞭になり、延命治療を施されるより、むしろよかったのだと、いまでは思っていますが、それはまたべつの話。

75年には、もう気を入れてラジオを聴くことは少なくなっていましたが、そのなかで、Wildfireはおおいに異彩を放っていました。まずなによりも、アコースティック・ギターがきれいに録れているのが印象的でしたが、そのつぎに耳についたのは、Oh they say she died one winterというラインでした。

f0147840_0225534.jpgわたしは可哀想な動物の話にはめっぽう弱くて、西部劇で馬が転倒するたびに、骨折して薬殺されたのではないかとハラハラしてしまうほどの「動物心配症」患者です。ホレース・マコーイ原作、シドニー・ポラック監督の『彼らは廃馬を撃つ』(They Shoot Horses Don't They。邦題失念。なんとかの青春または青春のなんとかというタイトルだった)が、馬のことにたとえた人間の「廃馬」の話だったのでホッとしたほどですし(可哀想な人間より、可哀想な動物に同情する傾向がある!)、『イルカの日』は見ていられなかったし、大好きな古今亭志ん生の「猫の恩返し」や、これまた愛してやまぬデイモン・ラニアンのJohnny One-Eyeも、猫がひどい目に遭うので好みません。

なんでこんなことを書いているかというと、ラジオで聴いているあいだ、Wildfireというのは、馬が死んでしまう曲だとばかり思っていたのです。女性が死ぬほうにはまったく頭がいかず、「彼女」というのは、Wildfireを指しているのだとばかり思っていました。わたしが迂闊なばかりでなく、外国語の歌を聴くというのは、どうもそういうところがあるように思うのですが、どうでしょうか? いや、わたしの場合、日本語の歌でも、改めて分析的に見ていって、あれ、そういう意味だったのかよ、と驚くことすらあるのですが!

◆ sodbustin'がとりもつ縁 ◆◆
f0147840_0255583.jpg話が脇に逸れてばかりですが、70年代中期の音楽といったとき、自分が盤を買っていた、シングル・チャートにあらわれないアーティストはさておき、ラジオからしきりに流れていた曲では、このWildfireがもっとも印象に残っています。そして、どうやら、これはわたしひとりの感じ方ではないようです。

You Tubeに、マイケル・マーフィーが2005年に、デイヴィッド・レターマン・ショウでこの曲を歌った映像があるのですが、その背景について書いた記事を読んで、そうだったのか、と思いました。

f0147840_0272845.jpgレターマンが番組でこの曲を流して、ゲストといっしょに、あれこれと語ったことがあるのだそうです。Wildfireは「70年代を代表する歌」と紹介されたそうですが、このときに、レターマンが「このsodbustin'というのは、どういう意味なのだ」と発言し、それを知ったマーフィーが、馬に乗って「いまからニューヨークに行って、その言葉の意味を説明してやるよ」と話している様子をフィルムに収め、テレビ局に送ったために、2005年のテレビ・ライヴが実現したのだとか。すくなくとも、デイヴィッド・レターマンとわたしのあいだでは、Wildfireは70年代のもっとも印象的な曲のひとつ、ということで合意ができました。

マイケル・マーフィーにはほかにもヒット曲がありますが、これだけの曲を書いた人が、ふたたび傑作をものする可能性はきわめて低く、わたしの興味はいまもってWildfireだけにとどまっています。

f0147840_0291085.jpgWildfireには、Blue Sky, Night ThunderというLPに収録されたアルバム・ヴァージョンと、シングル・ヴァージョンがありますが、物欲しげなピアノ・イントロおよびアウトロがついた、長ったらしいアルバム・ヴァージョンより、スパッと本題に入るシングル・ヴァージョンのほうが数段好きです。たとえば、ライノの70年代ポップ・ヒット・オムニバス、Have a Nice DayシリーズのVolume 14などで、シングル・ヴァージョンを聴くことができます。
by songsf4s | 2008-01-17 00:00 | 冬の歌