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2007年 11月 19日 ( 1 )
In the Autumn of My Madness by Procol Harum
タイトル
In the Autumn of My Madness
アーティスト
Procol Harum
ライター
Mathew Fisher, Keith Reid
収録アルバム
Shine on Brightly
リリース年
1968年
他のヴァージョン
live version of the same artist
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In the Autumn of My Madnessは、18分近い組曲、In Held 'Twas in Iの一部ですが、他の曲がゲーリー・ブルッカーの作曲、リード・ヴォーカルなのに対して、これだけはマシュー・フィッシャーの作曲、リード・ヴォーカルで、かなり色合いが異なり、独立した曲として聴くことができます。

◆ 言葉による絞殺 ◆◆
それではファースト・ヴァース。いつものように、もっとも正確と思われる、オフィシャル・サイトに掲載されている歌詞をテクストにします。ラインの切り方、大文字小文字の使い分けも、オフィシャル・サイトのままにしておきます。行を改めても、冒頭を大文字にしないのには、意味があると思われるからです。

In the autumn of my madness when my hair is turning grey
for the milk has finally curdled and I've nothing left to say
When all my thoughts are spoken (save my last departing birds)
bring all my friends unto me and I'll strangle them with words

「髪が真っ白になるようなわが狂気の秋にあっては、ついに牛乳が凝固し、なにもいうべきことがなくなる、わが思考がすべて語られたら(最後に去るわが鳥たちをすくいたまえ)、わが友をみな連れてこい、わたしは言葉で彼らを絞め殺すだろう」

いやはや、思わず笑ってしまうほどチンプンカンプンです。意味論的にわからないだけでなく、文法的にも不可解な形式になっています。whenだのforだのが、どこにかかっているのか判然としなくて、ひょっとしたら、最後のラインまで、ずるずるとつながっていて、すべてが冒頭のラインにかかっているのかもしれないとすら思います。

f0147840_2348469.jpgしかも、そうだとしても、冒頭のラインもまた、どこかにかからなければいけない(inすなわち、「~のときに」といっているのだから、どこかにつづくはず)のに、その対象を失って、宙に浮いているのだから、全体がどこにもかかっていないように見えます。

いや、もちろん、牛乳が凝固するとはなんだ、「鳥」とはなんだ、なんてことも思いますよ。blood is curdledなら、「血も凍る」恐怖のことだそうで、ひょっとしたら、このフレーズを思い浮かべ、そこからずらしたのか、とも思いますし、白髪からの連想かという気もします。milkという単語自体には、とくに妙な語義はなく、いくつかの成句がある程度にすぎなくて、一般に通用する裏の意味があるようには思えません。詩人自身しか知らないなにかの暗喩かもしれません。

birdの鳥以外の意味として代表的なのは「女の子」でしょう。Norwegian Woodの副題、This Bird Has Flown、すなわち、この鳥は飛び去った、というのは、こちらの意味で使われたbirdです。

最後のラインはじつにわかりやすく、ニヤリとします。キース・リードのような人間なら、言葉で人を殺すことは十分に可能でしょう。じっさい、自分の力をきちんとわきまえていない十代のころには、数人は殺し、数十人に重傷を負わせたのじゃないでしょうか。言葉を自在に駆使できるホンモノの皮肉屋がそばにいるというのは、怖いものです。

◆ 修飾の対象を失った修飾節 ◆◆
以下はセカンド・ヴァース。これですべてです。

In the autumn of my madness which in coming won't be long
for the nights are now much darker and the daylight's not so strong
and the things which I believed in are no longer quite enough
for the knowing is much harder and the going's getting rough

「もうまもなく訪れるわが狂気の秋にあっては、夜の闇は深くなり、陽射しはあまり強くなく、わたしが信じていたものごとはもはや十分ではなくなり、知ることははるかにむずかしくなり、仕事も困難になるのだから」

最初のinも意味を成さず、理由を示すforが理不尽な形が使われているのはどう見ても意図的です。接続関係が意味を失うように書いているにちがいありません。なんたって、語り手は狂気の崖っぷちに立っているわけで、論理的に語ることはもうできず、inで「そのときには」といったことはすぐに忘れられ、forで「なぜならば」といいながら、理由ばかりが述べられて、その理由がなにに対するものなのかは暗黒のなかに消えていくという仕組みのようです。狂気の論理構造が、そのままこの詩の論理構造になっているのではないでしょうか。

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国内盤セカンド・アルバム。Quite Rightly Soと改題され、デザインも変更されてしまった。日本グラモフォンというのは、こういうことを平気でやる会社で、ジミヘンやラスカルズなどでも、デザインのひどさ、さらには劣悪な盤質に泣かされたが、いまになると稀少価値が出てきてしまった。古い盤のジャケットやスリーヴをスキャンして、ウェブで見せながら、どこかに使用するなら断りを入れろ、などとわけのわからないことをいっている(他人がデザインしたものをスキャンしただけで、なにを反っくり返っているのやら。そういうことは、自分でなにかをつくったときにいってもらいたい)サイトを見たので、あえていいます。この写真はわたしがスキャンし、合成し、キズをレタッチしたものです。必要なら、ご自分のサイトやブログにご自由にお使いください。断りなど入れる必要はまったくありません。
The Japanese edition of Procol Harum's 2nd LP "Shine on Brightly" was retitled as "Quite Rightly So." Therefore the cover was also redesigned as above. SMP-1429, Nippon Grammophon, 1968.

日本語の「秋」は、通常は「あき」と読みますが、「とき」と訓ずることもあります。小学館国語大辞典では、第四義として「特に重要なことのある時期。ただし、「秋」と書いて「とき」と読むのが普通」とあります。

英語のautumnにも、第二義として「成熟期、熟年; 衰え[凋落]の始まる時期」とあり、この用例として、「the autumn of life 人生の初老期」というフレーズがあげられています。成熟と衰えが同居しているのは、ピークの向こうはまちがいなく下り坂なのだから当然とはいえ、この語に微妙な奥行きをあたえていると感じます。

このIn the Autumn of My Madnessも、このautumnという語のそうした微妙な両面性を利用しているのではないでしょうか。

◆ 転調による狂気の表現 ◆◆
さて、このぐるぐると論理が空転する(そういえば、夢野久作の『ドグラ・マグラ』もそういう構造でした)詩につけられたマシュー・フィッシャーの曲と歌です。これがまた、みごとにぐるぐると回転する構造になっているのです。

ちょいちょいと数分でコピーできるコード進行ではないので、それはネグりますが、ヴァースのコードと、後半のオルガンを中心としたインストゥルメンタル・パートに、狂気がみごとに表現されています。E-D-Db-B-Bb-B-Db-B-Bb-F#というフレーズではじまり、このパターンをすこしずつ上のキーに転調しながら弾く(もちろん、そのキーのスケールに合わせてフレーズを部分的に修正する)、ただ昇るだけで、オリジナル・キーに戻して「解決」しない手法は、たいしたものです。

f0147840_2349525.jpgマシュー・フィッシャーというのは、きわめて理知的な人で、それが彼のソロ・キャリアを座礁させたと思いますが、この段階では、理知が勝った音作りは、キース・リードの詩にみごとに呼応し、プロコール・ハルムのサウンドにある「格」をあたえていました。

マシュー・フィッシャーの最初の曲は、プロコール・ハルムのデビュー作に収録されたRepent Walpurgisですが、これはインストゥルメンタルでした。われわれが彼の声を聴いたのは、このIn the Autumn of My Madnessが最初のことで、はじめはいくぶんか戸惑いました。細くて声量がなく、落ち着きの悪いヴォーカルだと思ったのです。

しかし、慣れるにつれ、そして、年月がたつにつれ、ゲーリー・ブルッカーのヴォーカルに嫌気がさし、逆に、素人くさいマシューのヴォーカルのほうが好ましく感じられるようになっていきました。三度生まれ変わっても、シナトラやナット・コールやエルヴィスにはなれないでしょうが、マシューのような人の場合、その楽曲やサウンドとセットになった歌なのだから、これでいいのだと思います。

◆ ドラミング・スタイルの発明 ◆◆
プロコール・ハルムの前身となったパラマウンツの時代の曲、ハルムのデビュー盤、そして、このShine on Brightlyと聴いてくると、B・J・ウィルソンというドラマーが、どのように自分のスタイルをつくっていったかがよくわかります。

f0147840_23534172.jpgパラマウンツ時代は、タイムは悪くないものの、当然ながら、ストレートなドラミングで、まだ明確な個性は見られません。プロコール・ハルム発足当初のギターとドラムが抜けたため、BJとロビン・トロワーが加わり、結果的に、パラマウンツの発展型のようになってしまったラインアップによるデビュー・アルバムでは、BJのグルーヴの進歩と、プロコール・ハルムという尋常ではないバンドの音楽性との、彼の格闘ぶりが感じられます。

BJは、ストレートなR&Bカヴァー・バンドだったパラマウンツのときと同じように、ふつうにバックビートを叩き、ふつうにフィルを入れるのでは、このバンドではうまくいかないと感じたでしょう。では、どうすればいいのか、と苦悶したのじゃないでしょうか。デビュー盤の段階では、スタイルの芽はほの見えますが、概して、パラマウンツ時代よりは成長してうまくなっただけ、フィルインにキレが生まれたと感じるだけです。

デビュー盤のドラミングにも見るべきものがありましたが、この人はホンモノだとわたしが確信したのは、このセカンド、とくに、いま話題にしている組曲、In Held 'Twas in Iでのプレイを聴いてからのことです。

プロコール・ハルムの歌詞はふつうではない、サウンドも、なんとも名づけようのない、それまでには存在しなかったタイプのものだ、じゃあ、俺もいままでに存在しなかったタイプのドラミングをしよう、BJはそう考えたように思われます。そして生まれたのが、カラフルな、ほとんど「メロディック」といってもよい、このセカンド・アルバムでのプレイです。「リード・ギター」と同じような意味で、「リード・ドラム」と呼びたくなります。彼はこのアルバムで、自分のスタイル、だれにも似ていないドラミングを発明したと感じます。

それは、In Held 'Twas In Iの後半、Look to Your SoulとGrande Finaleにもっともよくあらわれていますが、詳細なドラミングの分析は、たぶん、半年後ぐらいに、もう一度めぐってくるであろう、この組曲を取り上げる機会に譲ります。

◆ ライヴのBJ ◆◆
f0147840_23573163.jpgなお、組曲In Held 'Twas in Iは、冒頭のキース・リードの朗読まで含め、全曲通しで、ライヴ・アルバムLive at EdmontonのB面に収録されています。フル・オーケストラと大編成のコーラスまで加わった、ド派手なGrand Finaleはともかくとして、すでにバンドを去ったマシュー・フィッシャーにかわってゲーリー・ブルッカーがリードをとったIn the Autumn of My Madnessはもちろん、ほかの曲もあまり感心できません。ホールの鳴りが悪いのか、マイク・セッティングに失敗したのか、なにが原因かよくわかりませんが、ドラムがひどくこもった音で、BJを聴く楽しみというのがまったくないのです。

ヴォーカルも、他の楽器もそうですが、とりわけ、ドラムというのはエンジニアリングに依存する割合が高く、やはり、いい条件で録音された盤で聴くのがいちばんだと思います。ドラムに関するかぎり、ライヴは偽物、スタジオこそが本物、なんてパラドキシカルなことを思います。

f0147840_23585646.jpgただし、小さい会場で録音したもののなかには、BJのドラミングがちゃんと聞こえるライヴがあります。You Tubeで(たぶんいまも)見られるテレビ放映用ライヴのThe Unquiet Zoneでは、BJの恐るべきカウベル・プレイを聴けます。また、Robin's Last Standと題された、71年のダラスでのライヴを記録したブートでは、Power Failureのさらにすごみのあるカウベルのプレイも聴けます。BJファンにはお奨めです。
by songsf4s | 2007-11-19 23:34 | 秋の歌