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The Best of Earl Palmer その6

またしても余裕がなくなってきたので、本日は例によって枕がわりのアール・パーマー写真館です。

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dime store photoとあるので、コインを入れて自動で撮るものだろう。「まるでヒモのタマゴかと思うほどゴージャス」と自注にある。幼いころからステージに上がっていた芸人らしい写真というべきか。

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こちらも、いかにも子どもダンサーらしいショット。ステージ衣装のように見える。巡業先の劇場の裏手で撮った、といったあたりか。

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ニューオーリンズ時代のジャズ・コンボ。左端はアールと仲のよかったアルヴィン・“レッド”・タイラー。リー・アレンの陰に隠れてしまった感があるが、J&Mでのセッションの常連で、テナーまたはバリトンをプレイした。

◆ Roy Brown - Saturday Night (1956) ◆◆
アール・パーマーのプレイはいよいよもって成熟と充実の段階に入り、オミットできる曲がなくて、このあたりからはもう拱手傍観、といっては変ですが、なすすべもなく、候補にあげた曲をひとつひとつなぞるしかないような状態です。

f0147840_23495095.jpgこの曲なんかは「オミット候補」だったのですが、超高速のロコモーティヴ・リズム(いまでっち上げた造語)が非常に魅力的ですし、不明プレイヤー(まあ、リー・アレンでしょう)のサックス・ソロに突入するときの目にもとまらぬロールがまたけっこう毛だらけで、結局、オミットできませんでした。

テンポが速すぎて、ほかに選択肢がなかっただけだろうと推測しますが、シンバルを使わず、両手ともスネアを叩いているという点も、注意を喚起しておきたいと思います。

◆ Little Richard - Rip It Up (1956) ◆◆
またまたリトル・リチャードで恐縮ですが、これもはずせません。本当にこの時期のリチャードはすばらしい曲ばかりです。

Tutti Fruttiからずっと「押し」一辺倒だったリチャードが、ここではじめて「やや引いた演技」って、俳優じゃありませんが、そういう味を出していますが、これがまたけっこうなんですな。とくに、ファースト・コーラスでの微妙なヴォイス・コントロールを聴くと、ただの狂犬じゃなくて(失礼!)、歌がうまいのね、と感心しちゃいます。やはりパフォーマーというのは、男だろうと色気で勝負です。って、リチャードはゲイなので、話がおかしなことになってしまいそうですが、でも、そのこととも無関係ではないかもしれません。

リトル・リチャードはむやみにダイアモンドを身につけていたので、彼がスタジオから出て行くと、プレイヤーたちは、「そのへんをひっくり返してみろ、二つ三つダイアが転がっているにちがいない」といったそうです。なにか、そういうもの、ふつうの枠組からあふれ、転がり出てしまったものというのが、歌においても魅力になるのだろうと思います。

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閑話休題。ここはドラマーのお話です。アールはこの曲について、シンバルを使わずに、両手ともスネアでやったといっています。たしかに、このリズムは面白いし、乗れます。おまえ、べつのやり方を考えてみろ、といわれたら、あー、うー、えー、わかりませんで、ノーマルなシャッフルでやっちゃたりして、面白くもなんともないぞ、とリトル・リチャードに疳高いオカマ声で怒られちゃうでしょう(Beverly Hills Bumでしたっけ、映画でそういう演技をしていたでしょ?)。いやまったく、よくぞこんなパターンを思いついた、と感心してしまいます。

なにか記憶を刺激されるので、まじめに考えてみたのですが、どうやらディクシー・カップスのIko Ikoを連想したようです。テンポもパターンも異なるのですが、どこかニューオーリンズ的、呪術的、ブードゥー的なところのあるリズムであり、グルーヴなのじゃないでしょうか。ニューオーリンズ時代のアール・パーマーの仕事としては、ひとつのハイライトだろうと思います。

◆ Art Neville - Oooh-Whee Baby (1956) ◆◆
もちろん、ネヴィル・ブラザーズ(の次男?)、ミーターズのアート・ネヴィルです。しかし、残念ながら、Tell It Like It IsやWrong Numberのときのエアロンのような圧倒的魅力があるわけではなく、兄弟でもずいぶんちがうねえ、なのでした。

f0147840_23573014.jpgこういうテンポでこういうフィールの曲の場合、ほんの2年ほど前だったら、アールはもうすこしうしろに重心をかけた、重めのビートを叩きだしたことでしょう。もう軽ろみの世界に入っているので、バックビートにはニューオーリンズ的グリージー・フィーリングはありません。

野球のように、スタジオ・プレイヤーの世界にもスカウトがいて、全国をまわっていたら、この年のニューオーリンズ地区担当スカウトのリポートは、アール・パーマーは即刻「買い」というものになったでしょう。すでにどんな音楽にでも対応できるヴァーサティリティーを身につけつつあります。

細部に目を向けると、テナーの間奏(もちろんリー・アレン)の入口のフィルインは、なかなか面白いもので、「2段式ロール」とでも名づけたくなる、不思議なものです。これは実物を聴いてもらうしかないのですがね。

◆ Amos Milburn - Chicken Shack Boogie (1956) ◆◆
これまたたいへんによろしいグルーヴで、わたしがダンスを好むタイプなら、もういまごろは立ち上がっているでしょう。

エイモス・ミルバーンはLA録音という印象があったので、ライナーで確認したところ、この時期(アラディンとの契約が終わろうとしていた)にニューオーリンズで録音したものがいくつかあるのだそうです。

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インペリアル、スペシャルティーのみならず、このアラディンのように、LAのレイス・ミュージック会社は、LA南部のセントラル・アヴェニュー一帯とニューオーリンズを二大鉱脈としていたので、ニューオーリンズのアーティストがハリウッドで録音したり、LAベースのアーティストがニューオーリンズにいって(LAのプロデューサー、たとえばバンプス・ブラックウェルを伴って)録音することもしばしばあったようです。スペシャルティー時代の末期に、サム・クックもニューオーリンズ録音を残しています(アールがストゥールに坐った)。

ニューオーリンズのミュージシャンが「up north」に移住しようと考えたとき、選択肢は大ざっぱにいって三つありました。ニューヨーク、シカゴ、ロサンジェルスです。シカゴはふつうの労働者には向いていたかもしれませんが、デトロイトまで含めても、音楽都市としては規模が小さく、親戚がいっぱいいる、チェス・レコードなど、シカゴのレーベルと深い関係がある、といった特殊事情がないかぎり、それほど魅力的ではなく、NYまたはLAが本命です。

アール・パーマーは、昔からカリフォルニアで暮らしてみたいと思っていた、といっています。この場合は、気候風土人気〔じんき〕の問題です。だから、彼のLA移住は純粋に音楽的な理由によるものではありませんが、LAのレーベルとの関わりがきわめて密接であったことも、そして、NYのレーベル(たとえばアトランティック)との関係が希薄であったことも、LAを選択した理由のひとつだったにちがいありません。

シカゴで独立スタジオを経営していた「近代サウンド・レコーディングの父」ビル・パトナムは、その才能をおおいに買われていましたが、たとえばナット・キング・コールのような、ハリウッド・ベースの大物アーティストたちから、ハリウッドに引っ越せとしきりに誘われ、結局、業界人多数の要請もだしがたく、また、大都市で勝負してみたくもなったのでしょう、シカゴのスタジオを畳んで、ハリウッドにユナイティッド・スタジオを開きます。

人の世はこのようにして動くもので、LAのレーベル・オーナーやその配下のプロデューサーたち、そしてシンガーたちまでもが、アールにLA移住を勧めたことは容易に想像がつきます。内的、外的、両方の要因によって、才能ある人間は人と金が行き交う大都市へと引き寄せられていくものと決まっているわけで、これはどうにもなりません。

インペリアルのルー・チャド、スペシャルティーのアート・ループ、アラディンのメスナー兄弟、また、こうしたLAのレーベルで働くプロデューサーたちと知り合ったことが、アールをよりいっそうカリフォルニアへと引き寄せていき、そして、生活上の一大変化が最後の一押しとなって、アールは故郷をあとにする決意を固めます。次回は、そのニューオーリンズ時代最後の日々へと進みます。


by songsf4s | 2008-10-10 23:57 | ドラマー特集