先日、郊外のホーム・センターにいったら、ハロウィーン用品が山と飾られていて、おやおや、ついに日本でもハロウィーンが定着か、と思いました。

そういえば、去年、近所のスーパーのレジの女性がみな魔女の帽子をかぶっているのを見て、びっくり仰天しましたっけ。考えてみると、このスーパーはアメリカ資本なので、本社の意向もあったのでしょう。どうであれ、商機ありと見れば、商売人は恥も外聞も文化も知ったことではないのです。ハロウィーンまでくれば、つぎはイースターかサンクス・ギヴィングか、そのへんの掘り起こしもやるんでしょうねえ。いやはや。

異文化であるクリスマスに便乗して何十年も飲み食いしてきたのだから、いまさら、「日本でハロウィーンはおかしいだろうに」とか、「サンクス・ギヴィングだけはやめようや、七面鳥なんか食べたくない」なんてゴネる気はありません。問題はそのことではないのです。
わたしはハロウィーン・コーナーには用はないので(しかし、ドライ・ボーンズ12,800円也はちょっと気が動いた。いい年して、相変わらずパアでんねん)、わが家のメス猫のための食品をもとめて奥へと移動しました。で、入り口近くのハロウィーン・コーナーから、奥のペット用品コーナーに向かう途中に、こういう一廓があったのです。

うーむ。ハロウィーン・コーナーには驚きませんでしたが、これには軽い衝撃を受けましたねえ。なんとも名づけようのない、もやもやとした情動におそわれましたよ。そのもやもやにシャープネスをかけ、コントラストと明るさを調整して、なんとか見えるものにしてみました。
それでわかったのは、まず第一に、この空間の落ち込み方にギョッとしたのだということです。ホーム・センターだから、材木コーナーなんかもあったり、「防犯敷石」一袋780円也なんて、地味の王者みたいなものも売っているのですが、しかし、各種電動ドリルおよびチェーンソーを取りそろえた売り場にだって、それ相応の華やかさというものがあるし、ハロウィーン・コーナーなんか、ノーテンキなはしゃぎぶりですからねえ。それにくらべて、この敬老の日プレゼント・コーナーの慎ましさ、地味さはどうです。ちょっとほかに比べるもののない味わいですぜ。

もうひとつ引っかかったのは、発想の貧困ぶりです。この商品群をひとつにまとめるキーワードはなんでしょう? わたしは「衰弱」じゃないかと思います。衰弱を売り物にするから、この空間はドーンと20Gで落ち込んでいるのです。実用的な商品をそろえたつもりなのでしょうが、それがそもそもの間違いなのです。

わたしの老父は八十八歳になりました。老母も八十です。敬老の日のプレゼントなどしたことがないのですが、必要に迫られてこのホーム・センターを訪れたとしても、このコーナーにある商品は買いませんねえ。両親が喜ぶとは思えないのです。贈り物は喜ばれてナンボのものでしょう。受け取った人間が戸惑うようなものを記念の品にする馬鹿はいません。
ではというので、商売人たちにかわって、どのような敬老の日コーナーをつくるべきか、ちょっとだけ考えてみました。市場調査の対象は、わが両親だけです!
まず父親が日々なにをしているかというと、テレビ番組を見るか、DVDを見るか、音楽を聴くか、この三つです。音楽は現代の演歌が中心で、どういうわけか、若いころに聴いたはずの音楽のCDを買ってくることはありません。李香蘭や服部良一のCDだって、わたしがあげたほどです。テレビ番組は時代劇と歌謡番組、そして相撲です。新しい時代劇がはじまるとかならずチェックし、たいていは毎回見ています。野球はもう新しい選手の名前と顔が覚えられないのでギヴアップだそうです。それから旅番組も、国内にかぎりますが、それなりに興味があるようです。
DVDも、ご近所からまわってくる時代劇が楽しみのようですが、もうひとつの系統は昭和20年代に封切られた洋画です。500円DVDの広告を見て、なぜこういうものは500円などという値段なのだ、インチキ商品なのか、とわたしにきいたことがあります。いや、著作権消滅とみなし、その分の金を払っていないからにすぎず、理想的画質ではないかもしれないが、ちゃんと見られるもののはずだ、とこたえました。それ以来、ときおりこの種のDVDを買って、夫婦で見ているようです。
説明なしに「昭和20年代の洋画」といってしまいました。なぜこの時期が意味をもつのか。ひとつはもちろん、戦争が終わって、無数の夫婦が誕生し、その結果として団塊の世代といわれる子どもたちが誕生したということです。

もうひとつ、これは日本の特殊事情ですが、戦争中にアメリカ映画が輸入されなかったため、戦前戦中の秀作大作が、昭和20年代前半に集中豪雨的に公開されたということも見逃せません。洋画に飢えたあの時期の日本に、密度の濃い作品群がぶつけられたのです。あの時代に若かった人たちが、昔の映画はよかった、というには、それなりの理由があるのです。
こんなことばかり書いていると本題に入れないので、急いで切り上げますが、こういう世代と時代の関係に目を向ければ、「椅子にもなる歩行補助車(ドラムブレーキ採用)」や「折り畳みステッキ(プリント柄各種)」や「3Dセンサー搭載歩数計(防犯ブザー付き)」などが並ぶ、ドーンと落ち込んだ空間ではなく、もうすこし華やかな、贈り物らしい商品の並ぶコーナーがつくれるはずです。すくなくともわが両親は、オムロン自動血圧計より、ジョン・フォードやハワード・ホークスやフランク・キャプラの映画のほうを喜ぶにちがいありません。
しかし、思うのは、ハロウィーンと敬老の日の決定的な落差はどこにあるのか、ということです。わたしの見るところ、それは物語性の有無です。小説を読まない時代にあっても、物語の需要はまったく減少していません。われわれは物語なくしては生きられない動物です。クリスマスもそうですが、ハロウィーンには豊かな物語性があります。それにくらべて敬老の日の散文的なこと、目を覆うばかりです。物語のないところに商機もありません。だから、血圧計と「差し込み便器」になっちゃうのです。
百科事典には、「もとは聖徳太子が四天王寺に悲田院(ひでんいん)を設立したと伝えられる日にちなんで、1951年からとしよりの日、64年から老人の日とよばれ、敬老行事が行われてきた」とあります。
わたしが「敬老の日リニューアル・プロジェクト」を任されたら、まず第一に「聖徳太子」「四天王寺」「悲田院」というキーワードに着目し、そのいっぽうで、「敬老」という言葉を完全に抹消することから仕事に取りかかります。ポイントは「物語」なのです。だめですよ、「敬老」なんていう散文的な言葉を押しつけては。祝日にだって詩が必要です。それを理解した商人は、このばかげた祝日からでさえ利益を得ることができるでしょう。

◆ 中途版トラックリスト ◆◆
枕のほうが長くて、肝心の噺が短いのでは、まるで小三治の高座ですが、どうやら今日もそういうことになりそうな雲行きです。全体像というにはほど遠いのですが、現在までにBest of Jim Gordonフォルダーに入れたトラックを以下に並べてみます。
01. Derek & The Dominos - Why Does Love Got To Be So Sad
02. The Souther-Hillman-Furay Band - Border Town
03. Bobby Whitlock - Song for Paula
04. The Byrds - Get To You
05. Maria Muldaur - Midnight At The Oasis
06. B.W. Stevenson - My Maria
07. Glen Campbell - Wichita Lineman
08. Dave Mason - Only You Know And I Know
09. Delaney & Bonnie & Friends - Only You Know And I Know
10. Bobby Whitlock - The Scenary Has Slowly Changed
11. Joan Baez - Children And All That Jazz
12. Art Garfunkel - Travelin' Boy
13. Bobby Whitlock - Where There's a Will There's a Way
14. Delaney & Bonnie & Friends - Where There's A Will There's A Way
15. Gordon Lightfoot - Sundown
16. Carly Simon - You're So Vain
17. Steely Dan - Rikki Don't Lose That Number
18. Nitty Gritty Dirt Band - Some Of Shelley's Blues
◆ The Byrds - Get To You ◆◆
オリジナル・バーズの残骸が完全に解体され、マギンによる新しいバーズが生まれる直前の、ある意味で「最後の」アルバムとなったThe Notorious Byrd BrothersのA面のラストに収録された曲。おかしなことに、最悪の状況のなかで、バーズは最良のアルバムを残しました。
わたしの考えでは、ジム・ゴードンはセカンド・アルバムのTurn! Turn! Turn!からバーズのドラマーをつとめています。デビュー盤で、デイヴィッド・クロスビーやマイケル・クラークが、ハル・ブレインを筆頭とするセッション・プレイヤーたちに嫌がらせをしたため、2枚目からは、デビュー盤を録音した、当時の第一線主力級セッション・プレイヤーはまったく参加しなくなったのです。
ハルが忙しくていけない仕事をまわしてもらうことでスタジオに入ったジム・ゴードンが、「ヘイ、ジミー、あの馬鹿野郎どもの仕事はおまえにまかせた」とハルにいわれたであろうと推測するのは、パイのように容易なことです。つい数年前のインタヴューでも、いつもは穏やかで愛想のよいハルが、「あのバーズのガキ」とマイケル・クラークを罵倒していたほどで、よほど腹に据えかねることがMr. Tambourine Manのときにスタジオで起きたにちがいありません。

どの仕事でもそうですが、ジム・ゴードンは(彼と年齢の近かった)バーズでもみごとにハル・ブレインの名代をつとめ、しばしばすばらしいプレイをしています。しかし、極めつけはやはりこのGet to Youです。
ヴァースが5拍子、コーラスがワルツという変則的な構成の曲ですが、ジム・ゴードンのドラミングは、そういうイレギュラリティーがあることをリスナーに感じさせないほど自然です。なんたって、5拍子なのに、盛大にフィルインを叩いているんですからねえ。このアルバムを聴いたとき、わたしはミドルティーンでしたが、プロっていうのはすごいものだ、自分がストゥールに坐って、5拍子でこんなに大量にフィルインを入れたら、ぜったいにミスをする、と思ったものです。
いやはや、マイケル・クラークごときトーシロは、スタジオにはいなかったことを知ったときの、わたしの驚きを想像されよ! プロっていうのはすごいものだ、という感慨に間違いはまったくありませんが、その「プロ」という言葉は、ロックバンドの「スティックをもった芸能人」ではなく、ほんもののプロであるスタジオ・プレイヤーに使わなければいけないのです。ロックバンドのメンバーは素人です。
前言を翻すようですが、年をとるにつれて、この曲におけるジム・ゴードンのプレイの真のすごさは、5/4の変則リズムでスーパープレイをしていることではない、と感じるようになってきました。ほんとうに賞美すべきは、二十歳かそこらの若者がやったとは思えない、美しいハイハットのプレイのほうではないでしょうか。いや、年寄りは羽織の表地ではなく、裏地が気になってしまうだけのことなので、あまり気にしないでください。
◆ Maria Muldaur - Midnight At The Oasis ◆◆
といいつつ、つぎは、これぞ敬老の日セレクション、というべき、渋みの極致のトラックです。こんなドラミングに注目するのは年寄りのドラム・クレイジーだけでしょう。
いや、この曲自体は、若いころから好きでした。ヒットしている真っ最中には、もっぱらエイモス・ギャレットのギターに注目していました。あの全音ダブル・チョークに、当時のギター小僧はびっくり仰天したのです。前代未聞のテクニックでしたからね。

しかし、数年前、ジム・ゴードンのベストを編集しようと、あれこれ聴いていて、この曲でのドラミングの渋さに、うーん、とうなっちゃいましたよ。まず第一にいっておくべきは、こういうテンポとノリは、きわめて処理がむずかしく、下手なドラマーがやると、ひどくかったるい、前に進まないグルーヴになってしまう、ということです。ハル・ブレインが叩いたアソシエイションのNever My Loveに似たむずかしさを内包するノリなのです。ハル・ブレインがみごとにNever My Loveを成功させたように、ジム・ゴードンもごく当たり前のようにグッド・グルーヴをつくり、この曲の大ヒットに貢献しました。
もうひとつ、これはファン以外にはどうでもいいことですが、この曲ではジム・ゴードンのダブル・ドラムを聴くことができます。といっても、デーハなダブルではなく、極度に地味なダブルです。なんたって、ハイハットとサイドスティックを中心としたプレイと、ブラシのプレイを重ねているんだから、これ以上の地味はないってくらいです。でも、年をとると、このサイドスティックの正確さに、グイとハートをつかまれちゃったりするのですよ。長生きして、こういうプレイのよさがわかるようになって、ほんとうによかったと思いますぜ。
◆ B.W. Stevenson - My Maria ◆◆
派手の国から派手を広めにやってきたハル・ブレインに対抗して、地味の国から地味を広めにやってきたわけではないのでありまして、わたしだって、やっぱり派手なプレイを聴くと、血がざわざわと騒ぎます。ジミーなジミーなプレイのあとは、やっぱりこれくらい派手なものでいきたいですな。

イントロからヴァースへの移行部分、シンコペートしたハイ・タム(通常のタムタムよりピッチの高いタムを追加している)とスネアの二打を聴いただけで、ムム、できるな、と柄を握る手に汗をかいちゃうぐらいで、たかがロックンロールを聴くのも剣術修行のようになっちゃうんですよねえ、相手がジム・ゴードンぐらいの剛の者だと。
ヴァースでのハイハットとサイドスティックのプレイは得意中の得意パターンで、まったくもってみごと、なにもいうことがありません。ハイ・タム、フロア・タム織りまぜたフィルインからコーラスへの移行という流れも血湧き肉躍るすばらしさですし、コーラスでのライド・ベル(日本のプレイヤーは「カップ」というが、国際的に通用するこちらの名称を使うべきである。シンバル中央の丸く出っ張った部分を指す)のプレイがまた、大得意中の大得意、すばらしいタイムとサウンドで、リスナーは池玲子恍惚の世界に放り込まれます。
ジム・ゴードンは、ハル・ブレインのように、第一打から最後のヒットに至るまで、きわめて精緻にドラミングを設計することはありませんでしたが、こういう勢いにまかせたプレイになると、やはり若さ横溢の溌剌たるプレイぶりで、ハルとはやや異なった味わいを感じさせてくれます。
今日はせめて7、8曲を取り上げようと思ったのですが、またしても時間切れ、残りは明日以降に持ち越しとさせていただきます。