先月の26日をもって、当ブログは一周年を迎えました。当初の予定では、四季が一巡りしたら、材料もなくなるだろうから、あっさり店仕舞いするつもりでした。ちょうど、息切れもしてきたところなので、予定どおり幕を下ろそうか、とも思いましたが、まあ、そんなにきっちり考えないことにしました。
タイトルどおりに、四つの季節をすべてめぐったので、ここからはロス・タイムないしは余生のようなものと考えることにします。つまり、お客さんがいらっしゃるからお待たせするわけにはいかないとか、特集として予定したものをすべて取り上げなければなどと、無理をして更新をするようなストレスの多いことはやめ、書きたいときに、書きたいことを、自分で定めたルール(こじつけでもなんでも、その時季にふさわしい曲を選ぶ)にとらわれることなく、気ままに、ぞろっぺえにやることで、なんとか、延命をしようと考えています。
◆ 「声」からの逃亡 ◆◆
さて、今月はなにも腹案がありません。昨年のいまごろは適当に夏の歌を選んでいました。夏こそは音楽の季節なので、夏の歌の材料が尽きるなんてことはないのですが、しかし、材料があればやりたいかというと、それほど気分は盛りあがりません。
いま、自分が聴きたいものを聴き、聴いているものをそのまま書く、という方向に転じようかな、と考えています。聴きたいものを聴かずに、ブログのために、というので、それほど聴く気分ではないものを聴くのは、あまり精神衛生にいいとはいえないのです。そこで、今日は、いま聴いているものを、そのまま書くことにしました。
年をとってからは、人間の声が肌にまとわりついてくるのがイヤで、さまざまな分野のインストを聴くことが多くなっています。もともと、シンガーという存在にはあまり興味がなく、プレイヤー、アレンジャー、プロデューサーへの関心が強かったのですが(極論すると、たいていの場合、シンガーは「道具」にすぎないと考えている。音楽の真の作り手はプロデューサーとアレンジャーだろう)、年をとるにしたがって、いよいよ人の声というのが不快に感じられることが多くなってきました。声の延長線上で、サックスの音というのも聴きたくありません。温度の高いもの、粘液的で、肌にまとわりつくものは、みな気持が悪いのです。
ブログをはじめたおかげで、義務的にヴォーカルものをたくさん聴きましたが、どうやら、それで鬱が誘発されたようで、この三月ほどのあいだに、何回か、本気で全記事を削除しようと考えました。数日前に、もっとも聴きたくない女性ジャズ・ヴォーカルをみな検索対象から外したところ、だいぶ気分が晴れました。それなら、いっそ、ヴォーカルものはすべてなしにすれば、歌詞の解釈もしなくてすみます。
ということで、しばらくは、気ままにインスト曲を選んでいこうと思います。たとえヴォーカル・ヴァージョンがあっても、歌詞の解釈はしないつもりです。一年間やって、もう二度とやらなくてもいいくらい堪能しました。堪能しすぎました。
◆ weirdnessとbasicsの両立 ◆◆
関東は肌寒い日もあり、季節到来とはいえませんが、このところ、プレイヤーに載せているのは、エキゾティカが中心です。ほかに、ケニー・バレル2枚、ゲーリー・バートン3枚、ガボール・ザボ2枚です。気が向いたら、そのへんのことも書くかもしれません。
エキゾティカといえば、なにをおいても、まずQuiet Villageということになっています。気がつけば、わがHDDには数十種のQuiet Villageが降り積もっていました。これだけのヴァージョンがあるというのは、やはり魅力のある曲だということを示しているのでしょう。
毎度同じことばかりいっているようですが、Quiet Villageも、半音ずつ下がっていくところがあり、これがこの曲のエロティシズムの源泉だろうと思います。そういうアレンジでやっているヴァージョンはないのですが、ラヴェルのボレロに似た雰囲気があると感じます。ボレロもエロティックな曲で、同じ感触があるのです。
どういうわけか、大多数のヴァージョンがCをキーにしていますし、G-C-G-Bb-G-C-Bbという、セヴンスの入ったシンコペートしたベース・ライン(バクスター盤では、ベースの上にピアノの左手も重ねている)も継承しています。こうなると、ベースラインもほとんどメロディーの一部といってよく、この曲のアイデンティファイアのひとつになっています。
じっさい、あるインタヴューで、バクスター自身が、この曲のポイント、というか、「エキゾティカ」のポイントとして、「あのCからBbへの移行」と表現しています。コードというのは微妙なものなので、コードとしてはC7にして、そのまま動かなくてもいいのではないかと感じますが、動かすとするなら、たしかにC-Bbなのです。
いっぽうで、Deep Purple その2 by the Shadowsのときにも書きましたが、半音進行のせいもあって、Deep PurpleやThe High and the Mightyにも近い感触があります。ロックンロール時代以前のヒット曲には、時代のコンテクストに合ったレシピがあったのではないかという気がしてきます。ギターで弾くと、あまり素直でないというか、面倒な運指になる曲が多いのです。ピアノで書いた曲である、ということと、表面的にはどれほどweirdであろうと、基本のところでは作曲理論にかなった作り方をしているということを示しているように感じます。
◆ 2種類のQuiet Village ◆◆
先日、Moon Moodsを取り上げたときにも書きましたが、狭義のエキゾティカは、レス・バクスターのQuiet Villageによってはじまります(なんだって拡大解釈はできるので、戦前にまでエキゾティカの淵源をたどる考え方もある)。
数が多すぎて、あらゆるヴァージョンをちゃんと聴いたとはいえませんが、やはり、わたしは、Quiet Villageといえば、レス・バクスターがいちばんだと思っています。マーティン・デニーのコンボ・ヴァージョンでも、十分にいい曲だと感じますが、あとでレス・バクスターのオーケストラ・ヴァージョンを聴き、ストリングスのスラーするラインがあるとないでは、天と地のちがいだと感じました。
コンボであれ、オーケストラであれ、インストではいかに変化をつけるかが重要になります。Quiet Villageはノーマルな構成ではなく、ヴァースだのブリッジだのという概念は当てはめられず、メロディー自体が変化していきます。いわば、短い楽章をつなげたミニ組曲のような構成なのです。
バクスターのオリジナルでは、第一部はストリングスが主役です。第二部に入ったとたん、ピアノがC-F-Gのフレーズを弾きますが、バクスターはここにグロッケンを重ねています。この響きがなかなか印象的で、こういう細部の工夫ができるかどうかが、オーケストレーターにとってもっとも重要な資質だと感じます。
ただし、ピアノとグロッケンのコンビネーションはあくまでも味つけ、バックグラウンドであって、リード楽器はストリングスのままです。このスラーに特色のある曲では、音符と音符の中間の音が出せる楽器だけがもつ味わいを殺すのは愚の骨頂で、これは正しい選択だったと思います。また、この第二部では、バクスターのいうC-Bbの移行ではなく、C-B-C-Bの移行が非常にエキゾティックで印象的です。
レス・バクスターのQuiet Villageには、2種類あります。ひとつはもちろん、オリジナルである、1951年のRitual of the Savageに収録されたモノーラル・ヴァージョン。現在、CDで入手できるのもこのヴァージョンです。そして、もうひとつは、The Sounds of Adventureに収録されたステレオ・ヴァージョンです。
このステレオ・ヴァージョンは出所が不分明で、レス・バクスターのオフィシャル・サイトでも、複数のインタヴューでも言及されていません。どうも、テイクそのものはオリジナル盤と同じものに思われるので、となると、リプロセスト・ステレオだということになります。しかし、リプロセスト・ステレオ特有のイヤなクロストークはなく、分離もまずまずですし、なによりも、モノーラル・ヴァージョンにはない、ドラマティックな音の広がりがあります。
ひょっとしたら、バクスター自身が関与しないところで、会社が勝手につくったものかもしれませんが、彼がQuiet Villageをつくったときに、ステレオ録音が存在していれば、きっとこういうサウンドを望んだだろう、という響きをもっています。
のんびり、ライナーやバクスターのインタヴューを読んでいるうちに時間切れとなってしまったので、他のQuiet Villageについては、明日以降に持ち越しとします。