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87分署の音楽、のようなもの、かなあ……

このところ、音を聴くのがイヤで、このブログをつづけるのがちょっと苦しくなっています。書くのがイヤ、なんていうのは、訓練ないしは習慣によって、ある程度は克服できるのですが、音を聴きたくないというのは、どうにもなりません。

考えてみると、このブログをはじめてから一年弱、これほど大量かつ慎重に、長期間にわたって習慣的に音楽を聴きつづけたことはなく、そろそろ、かつては間歇的に発症していた「拒音症」が再発しても、不思議ではありません。

音を聴いていないのだから書く材料もない、ということで、今日も更新はしない予定でしたが、このブログのせいでサボっていた読書などしてみたら、音楽のほうが本のなかまで追いかけてきました。

◆ テナーとテノール ◆◆
エド・マクベインの87分署シリーズというのが、どれほど有名なものかは知りませんが、わたしの友人のなかには、シリーズ全作品を読んだという奇特な人物が二人もいるので、それなりに読まれているものなのでしょう。子どものころは、古書店にいくと、ペリー・メイスンやジェイムズ・ボンドやマイク・ハマーなどと並んで、30円均一の棚の常連でした。売れすぎて、古書価がゼロ(「つぶし」といってゴミにされる)に近かったということです。

でまあ、高校生ぐらいになると、ミステリー好きは自然に87分署を読みはじめるわけです。時期の記憶がまたしてもあいまいですが、わたしの場合、たぶん、大学時代に読んでみようと思いたち、30円均一の棚を中心に、それまでに出ていた全作品を集めてから、一気に読みました。

87分署の音楽、のようなもの、かなあ……_f0147840_22555450.jpgその時点でシリーズが終わっていれば問題なかったのですが、二十数冊しか出ていない時で、その後、ダラダラと付き合いがつづきました。なにしろ気が短いので、いつまでも終わらないことと、新作にとくに面白いものがなかったせいで(やはり読むべきは最初の二十冊あたりまでというところではないか。HMMに掲載された中編「つんぼ男に聞け」が長編化され、『耳のない男』に改題されたころまでは面白かった。しかし、この改題はおおいに疳に障った。原題はLet's Hear It for the Deaf Manだったと思う)。

先年、マクベインが没して、もう新作が出る心配がなくなり、シリーズものを雨垂れが落ちるように間を開けて読むのが嫌いな人間としては、障碍がなくなったのですが、もう一度一作目に戻って全作を読むか、中断したところ(たぶん『カリプソ』)からつづけるか、なんて、くだらないことで悩んでいるうちに、どんどん時間は過ぎ去り、つい一週間前までほうってありました。

で、どこからともなく、ファンファーレ抜きで、てあたりしだいに再開してみたのですが、四冊ばかり読んで、もうやめようかと思いかけています。やはり、初期ほど面白くはないのです。それに、翻訳もあまり気に入りません。いや、すごく気に入りません。リズムがよくないし、リーダビリティーに配慮した日本語とはいえず、さっぱり意味がわからないセンテンスも散見します。

全作品を読んだ友人たちは、英語で読めといいます。たしかにそのほうがいいのでしょうが、わたしは、読書は質ではなく、量だと思っている人間なので、英語で読まなければならないものも山ほど抱えていて、日本語になっているものは日本語でさっさと片づけたいのです。でも、日本語版87分署には、かなり疲労を覚えます。

87分署の音楽、のようなもの、かなあ……_f0147840_22571991.jpgしかしですね、ものは考えようなのです。以前にも書きましたが、森政弘が、森研究室でノイズの研究をしているリサーチャーがいるが、彼にとっては、研究対象のノイズがサウンドであり、そのノイズの邪魔をするサウンドがノイズなのである、といっていました。では、ノイズの研究をやってみればいいではないか、と思うわけですな。

87分署シリーズ後半のつまらなさは、冗漫さに尽きます。初期は描写が簡潔で、トントンと話が運んだのですが、だんだん、細部の描写が不必要なまでに膨らんできて、ストーリーの展開を阻碍するようになってきたのが、わたしとしては気に入りません。読者が、登場人物を知り合いのように、スティーヴがどうしたとか、バートがどうしたとか、双子がどうしたなどと作者を持ち上げすぎた結果でしょう。理想論ですが、シリーズものといえども、やはり、「この一作」が勝負であってほしいのです。

あとから読んだシリーズ後半で気になったのは、むやみに音楽が登場するようになったことです。初期のものを読み返したわけではないのですが、昔は、こんなにしょっちゅう、シナトラの歌が出てくることはなかったと記憶しています。いや、かの「つんぼ男」がまた登場するHark!では、ストラディヴァリウスが小道具にされているくらいで、シナトラにかぎらず、さまざまな音楽が登場します。そして、ここで日本語にノイズが発生するのです。以下のページをご覧あれ。

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どうです? 「ロ調のテノール・サックス」ってのは、なかなか楽しいじゃないですか。ハニホヘト音階の「ロ」はドレミファでは「シ」にあたります。英語ではBです。しかし、Bキーのサックスというのは、寡聞にしてきいたことがありません。ふつうは、Bフラットがキーです。

想像するに、マクベインは、B-flat tenor saxophoneとかなんとか書いたのでしょう。翻訳の方は、「ロ短調」とすべきところを(いや、そもそも、サックスのキーについていうときに、ハニホヘト音階はお門違いもいいところで、C、D、E、F、G、A、Bでなければならないのだが、それはさておき)、ボンヤリしていて、「ロ調」としてしまったのではないでしょうか。わざわざキーを書く作家が、サックスのキーも知らないとは思えません。まあ、もっといえば、特殊なキーでないかぎり、ふつうのBフラット・キーなんか、わざわざ書くまでもないことで、よけいなことを書くから、音楽を知らない訳者がノイズを増幅してしまったのですがね。

さらにいうと、「テノール」サックスというのも、おおいなる違和感のある表記です。クラシックのほうでは、ヨーロッパ的に書くので、オペラをうたうのは「テノール歌手」とするようですが、たとえば、デクスター・ゴードン(だれだってかまわないのだが)の楽器は「テナー・サックス」と書くのがふつうでしょう。

この文脈は、どう見ても、クラシックの「テノール・サクソフォン奏者」のことには見えず、ラテン・ミュージックをプレイしているように読めます。ラテン・ミュージックだから、テナーではなく、テノールにしたのかもしれませんが、そりゃ考えすぎでしょう。

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サックス・カルテット。たぶんクラシックだろう。手前二人はアルト、左奥がテナー、右奥がバリトン。

「古い定番曲」も引っかかります。想像ですが、原文はold standard tunes(またはsongs)とでもいっているのではないでしょうか。まあ、意味としては「定番」ですが、これもふつうは「スタンダード」というでしょう。そうしないと、意味が通じにくくなります。「スタンダード・ヴォーカル」「スタンダード・ジャズ」とはいっても、「定番ヴォーカル」「定番ジャズ」とは、ふつうはいわないでしょう。

「ラ・チャチャラカ」というのも、じっさいに存在する曲かもしれませんが、ここまでの音楽関係の訳語が滅法界に型破りなので、なんだか眉にツバをつけてしまいます。La Cucarachaという有名な「定番曲」ならあるのですが、これはふつう「ラ・クカラチャ」と書きますからねえ……。どなたか、ラテン音楽にくわしい方にご教示を願いたいものです。

「ヒッピー派」というのは、どういう人たちなのでしょうか。ヒッピーとジャズというのは、説明抜きで結びつけていいほど関係が強くないと思うのですが。ジャズと関係がありそうなhipのつく単語は、と考えていくと、原文はhipsterではないかと思えてきます。

「hippie」とあれば、「派」などというよけいなものはつけずに、ただ「ヒッピー」と書いたでしょう。よけいなものがあったから、得体の知れない「派」がついたのだと想像します。ヒッピーとヒップスターでは、相当な懸隔があると思うのですが。hipsterだったと仮定した場合、適切な訳語としては「ヒップな連中」「尖鋭的な連中」あたりではないでしょうか。60年代生まれのヒッピーとは別物です。

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これは原文自体がいけないのかもしれませんが、「スペイン臭い本当のジャズ」というのはスワヒリ語のようにチンプンカンプンです。まるで、オーセンティックなジャズというのは、スペイン風であるといっているように読めます。寡聞にして、そんな音楽観があるとは知りませんでした。「スペイン派」のモダン・ジャズ論客というのがいるのでしょうかねえ。いないでしょうね、やっぱり。スペインとジャズの結びつきがどのあたりにあるのか、どうしても想像がつきません。原書をお持ちの方にチェックしていただきたいものです。『ノクターン』の邦訳書でページ192、全体の3分の2ぐらいまで来たあたりです。

tenorは「テノール」で押し通すのかと思ったら、「テナー演奏者」という言葉が出てきて、ビックリさせられます。ここで「テナー」奏者というなら、サックスも「テナー」にすると思うのですがねえ。わけがわかりません。

わたしは、校閲部の方々のように、「統一、統一」と無益な呪文を唱える気はありませんが(かつて柴田錬三郎は、統一という概念に怒り狂い、「俺はそのページを見て言葉を選ぶ。黒すぎると思ったら開き、白すぎると思ったら漢字にする、それを統一しろとは何事だ」といった)、混乱を避ける程度には統一するべきだと考えています。テノールといった舌も乾かぬうちに、テナーといい、またテノールはないでしょう。どっちかにしなさい、どっちかに。そもそも、テナー・サックスといえば、なにも問題が起きないのに、わざわざテノールだなんて古代の訳語をもってくるから、こういうわけのわからない不統一が起きるのです。

◆ ホルンとホーン ◆◆
以下は前掲ページのつぎのページ、見開きの対向ページです。

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冒頭の「ホルン」がむずかしいですねえ。とりあえず、ホルンと書いてあれば、われわれはフレンチ・ホルンかイングリッシュ・ホルンを思い浮かべます。この翻訳者の混乱ぶりは目を覆うばかりなので、確信はないのですが、この1行目は、おそらく、そういうことをいっているのでしょう。

その直後、4行目で「借りたホルン」というので、さあ、また混迷に陥ります。テナー・サックスのサイズの比較対象として、フレンチ・ホルン、イングリッシュ・ホルンが持ち出されたところまでは(渋々ではあるものの)よしとしますが、ここでいっているのは、二人のサックス・プレイヤーが、アルトとテナーを交換したということです。「借りたホルン」というのは、文脈から考えて、テナー・サックスのことを指しているにちがいありません。テナー・サックスを「ホルン」といわれちゃうと、当方の音楽用語の知識は崩壊します。

「ホルン」のスペルはhornです。これが混乱の原因でしょう。「ホーン・セクション」(この翻訳者なら「ホルン部門」と書くかもしれないが!)という場合もhornですし、「フレンチ・ホルン」という場合もhornで、英語では同じ単語なのです。

「ホーン」というのは、狭義では金管のことですが、「ホーン・セクション」といえば、ふつうは、金管と木管の両方が含まれ、サックス・プレイヤーも「ホーンマン」ということがあります。だから、英語としては、ここで「管楽器」を指す包括的な言葉として、hornを使うのは問題ないのですが、日本語としては「ホルン」を使うと、話の脈絡が失われてしまいます。フレンチ・ホルンとサックスでは、構造も系統もサウンドも用途もまったく異なることを、無視するわけにはいかないでしょう。

翻訳の手法というのがありまして、こういう場合、原文の表現にリギッドにしたがい、hornを直訳して、「借りた管楽器のほうがぴったりくる」などと書くと硬くなり、リズムが乱れるので、いわんとしているところを汲んで「借りた楽器のほうがぴったりくる」「借りたサックスのほうがぴったりくる」などと、すこし解釈を「ゆるく」するのが正しいやり方です。

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こちらは翻訳した人ではなく、翻訳されちゃった人、エド・マクベイン、またの名をエヴァン・ハンター、またの名をカート・キャノン、まだあったと思うが、あとは失念。

◆ バス奏者 ◆◆
わたしに87分署の原書をくれた友人や、BBSで、87分署は英語で読むのがふつうでしょ、とのたまった友人は、「だからいわないこっちゃない、日本語なんかで読むから、そういうチンプンカンプンの文章に出くわして、血圧が上がるのだ」というかもしれません。

でもねえ、これほど楽しめる2ページなんて、近来稀ですよ。50年前の翻訳書には、このたぐいの豪快な日本語がありましたが、近ごろはチマチマと女々しくまとまっちゃって、いたぶってみたところで、面白くもなんともないのです。ただ、「馬鹿野郎、ちゃんと調べろ、それがおまえの職業的義務だろうが」とか、「日本語を書けないなら英語が読めてもなんの役にも立たないんだぜ」などと、ぶんむくれになるだけなのです。

それにくらべて、このわずか数センテンスのあいだに、あふれんばかりにてんこ盛りになった豪勢なチンプンカンプンの大饗宴はどうです? むしろ、楽しいというべきではないかと思いますね。

この翻訳の方は、音楽にまったく不案内らしく、シリーズのほかの本では「バス奏者」というのも登場させていました。この言葉だと、ふつうはクラシックのコントラバス奏者を思い浮かべるでしょ? ところがどっこい、これが小さなコンボ、それもクラブのダンス・バンドのベーシストのことなのです。「ベース奏者」「ベーシスト」「ベース・プレイヤー」、いくらでも書き方があるのに、「バス奏者」ですからね。面喰らいますよ。

こういう風にまちがえるのは、もう「技」というべきで、やりたくたって、意図してできるものじゃありません。天然です。才能です。「フランク・シナトラ」とちゃんと書けたのが不思議なくらいです。シナトラだからよかったのであって、エルヴィス・プレスリーは、「エルヴィス・プレスレイ」かなんかになっちゃうのじゃないでしょうか。ジョン・レノンが出れば「ジョン・レンノン」とかね。an electric guitar playerなら、これはもう「古臭い定番」で、まちがいなく「電気ギター奏者」とするでしょう!

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シリーズ第一作の『警官嫌い』は中国語版ではこういうタイトルになるらしい。麥可班恩というのが、マクベインの音訳だそうな。「連串的」という文字があったが、これはシリーズものという意味だろう。これを見つけたブログでは、「無波瀾」で「平淡的一本書」ときびしくやっつけられていた。たぶん、平板でサスペンスが薄いという意味だろう。呵々。

by songsf4s | 2008-06-24 22:02 | その他