- タイトル
- Makin' Whoopee
- アーティスト
- Nilsson
- ライター
- Gus Kahn, Walter Donaldson
- 収録アルバム
- A Little Touch of Schmilsson in the Night
- リリース年
- 1973年
- 他のヴァージョン
- Frank Sinatra, Nat 'King' Cole, Eddie Cantor, Ray Charles, Jesse Belvin, Billy May, Nelson Riddle, Mel Torme, Bobby Troup, Doris Day, Julie London, Dinah Washington, Nancy Wilson, Esther Phillips
月夜に釜を抜かれる、というぐらいで、ロマンティックな夜景に油断して、あるいはそれを利用して、セレナーディングなんかして浮かれていると、あとできっちり請求書が届き、それでも無視していると、きびしく取り立てられることは、古今東西、まったく変わりません。
今日は、先日のMoonlight Serenadeにうたわれたような、あとさき考えない月夜のセレナーディングがもたらす、現実的結果のほうに移りたいと思います。となると、結婚式の歌、ハニムーンの歌、なんていうのが考えられるし、じっさい、そういう歌もそれなりの数が存在するのですが、急いで取り上げなければならないほど出来のいいものはないので、そういうのはここでは無視します。だって、あなた、新婚カップルのいちゃつきなんか、犬も食わないってぐらいで(毎度毎度の慣用句の誤用なり)、そんな歌、馬鹿馬鹿しくてやっていられないじゃないですか。
結婚生活に関するコメントといえば、Makin' Whoopeeしかないでしょう。大古典ですからね。スタンダード曲というのはうんざりするような歌詞が多いのですが、甘ったるい歌詞がいまよりももっとずっと嫌いだった若いころだって、Makin' Whoopeeには、うんうん、とうなずいちゃいったほどで、昔から好きな曲です。
◆ ロアリング・トウェンティーズの流行語 ◆◆
それでは、聞くも苦笑、語るも苦笑の歌詞を見てみます。女性シンガーのものも山ほどありますが、そういうのはみな邪道ないしは嫌がらせだと断じます。Makin' Whoopeeは、男がボヤくための曲です。よってジェンダーはオス。歌詞にはさまざまなヴァリエーションがありますが、ここでは看板に立てたニルソン盤にしたがいます。
Another sunny honeymoon
Another season, another reason
For makin' whoopee
「またしても花嫁、またしても六月、またしても快晴のハニムーン、またふたたびナニにふさわしい季節がめぐり、またしてもべつの理由をつける」
大人の曲と申し上げたとおり、タイトルからしてそのまんま、アレのことです。身も蓋もないたあ、このことですが、しかし、まあ、いちおう婉曲な言いまわしではあります。日本語でもナニのことを「お祭り」などといいますが、それに近い表現です。
ロアリング・トウェンティーズに流行したいいまわしだそうで、辞書には「make whoopie ばか騒ぎ[お祭り騒ぎ]する、浮かれ騒ぐ; 浮かれ出る; セックスにふける; 楽しくやる」とあります。この訳語の羅列からどれを選ぶべきかといえば、迷う余裕もあらばこそ、てなもんでありましてな、男と女の「馬鹿騒ぎ」といえば、アレしかないのです。
以上、ファースト・ヴァースは前ふり。つづいて本題。
A lot of rice
The groom is nervous
He answers twice
It's really killing
That he's so willing
To make whoopee
「参列者があふれ、米もたっぷり、花婿は落ち着きがなく、誓いの言葉を重ねて言ってしまう、花婿がナニをしたくてウズウズしているのは、死ぬほど笑えるじゃないか」
このヴァースをうたわないヴァージョンもありますし、うたっても部分的に異なっていたり、いろいろです。「靴」が出てくるのはニルソン盤だけのような気がしますが、ヴァージョンが多すぎて、確認の余裕がありません。靴また靴の大盛会という意味だと解しておきました。ご存知でしょうが、米が出てくるのは、結婚式で振りまく習慣があるからです。
それにしても、花婿がちゃんとものをいえないだけで、「おまえ、そんなにやりたいのか」といわれちゃうのだから、結婚式というのはじつにもってしんどいもので、わたしは花婿に同情します。「こんなところで韻を踏むなよ>作詞家」といいたくなるでしょう。が、しかし、この花婿、じつはそれほどウブでもないのです。いや、ウブ「だった」のだけれど、というべきか、そのへんはよくわかりませんが……。
◆ セレナーディングの収支決算 ◆◆
ブリッジ。
Down where the roses cling
Picture that same sweet love nest
Think what a year can bring
「薔薇なんぞがまとわりついた、ささやかな愛の巣を思い描いていただきましょう、そして、そのささやかな愛の巣の一年後の姿を考えると、どんな絵がうかぶことやら」
サード・ヴァース。
He's so ambitious he even sews
So don't forget folks
That's what you get, folks
For makin' whoopee
「彼は皿も洗えば、オムツも洗う、それどころか、針仕事にまで挑戦する、だから諸兄よ、ゆめゆめ油断召さるるなかれ、ナニをすると、こうなってしまうわけでしてな」
そうなっちゃうんですよね。タダほど高いものはないといいますが、つまり、世の中にタダのものなんかないということです。みんな値札がついているのです。それがちゃんと見えるところに貼り付いている明朗会計か、「アンディー」の裏側に隠してあるぶったくりバーかというちがいなのです。
岸田秀は、短期スポット売買契約か、長期独占契約かのちがいにすぎない、どちらも有料である、といっていましたが、そういうことですな。「どちらも」って、なにとなにのことだ、なんて、あなた、トボけちゃいけませんぜ。あれとあれのことに決まっているじゃないですか。
◆ 非現実的収入と非現実的判決 ◆◆
フォース・ヴァース。
What's this I hear?
Well, can't you guess?
She feels neglected
And he's suspected of makin' whoopee
「また一年たつと、いや、一年もしないうちに、妙な話をきくことになる、おわかりでしょうに、彼女はほったらかしにされていると感じ、彼は浮気を疑われているというしだい」
光陰矢のごとし、というか、君子豹変す、というか、いや、この際、ほとんど無関係な慣用句の助けを借りなくても同じことですが、式の参列者に笑われるほど、嫁さんとのナニへの意欲にみなぎっていた花婿、皿でもオムツでもなんでも洗い、縫い物までした優等生亭主も、浮気を疑われるまでに「成長」しちゃったのであります。人間、そんなもんですって。
He doesn't phone her, he doesn't write
She says he's busy, then she says, is he?
He's makin' whoopee
「ほとんど毎晩、彼女はひとりポツンとしている、彼は電話をするでもなければ、手紙を寄越すでもない、彼女は、彼は忙しいのよね、といったあとで、忙しいなんてことがある? と思い直す、あの人はナニをしているだけなのよ!」
She says he's busyではなく、He says he's busyとしているヴァージョンが大部分で、She saysとしているのは、ひょっとしたら、ニルソン盤だけかもしれません。しかし、ここはsheのほうがずっといいと感じます。「彼がそう主張している」では、当たり前じゃん、言い訳なんだもん、ですが、sheにすると、亭主を疑いながら、それでもなんとか、信じようとする妻のいじらしい姿が浮かんできます。たんに盲目なだけ、ともいえますが!
手紙を書くの書かないのって、そりゃいったいどういう浮気だよ、と思いますが、1920年代のアメリカの事情などはよくわからないので、通過することにします。そんなに長いあいだ家をあけたら、もはや浮気じゃないと思うのですが……。
セカンド・ブリッジ。
Only five thousand per
And some judge who thinks he's funny
Says you pay six to her
「彼はたいして稼ぐわけではない、年にたったの五千ドルだ、どこかの判事殿は、面白い冗談をいう被告だと考えるようで、そのうち六千ドルを彼女に支払うこと、と命じる」
以前から疑問に思っているのですが、収入をいう場合は、ふつうは週給か年収だと思います。五千というのは、週給としては非現実的なまでに多額だし、時代を考えると、年収としても、少ないとはいえないでしょう。
昔はもっと額が小さかったのかと思いましたが、1928年のエディー・キャンター盤でも五千ドルとうたっています。1928年の五千ドルというのは、多額な収入です。「いえ、たいした収入ではありません、たったの五千ドルです」なんていうものだから、判事は、笑わせてくれるじゃないか、と感じたのでしょう。収入をうわまわる六千ドルの養育費という非現実的な判決になってしまうのは、そういう筋道と読めばいいのだと思います。ちがうかなあ……。
よけいなことですが、仮に五千ドルが冗談でもなんでもないとしたら、この亭主は酒類の密輸をしているギャングか、ムーン・シャイナーかなんかではないでしょうか。この歌が書かれたのは1928年、禁酒法時代です。
最後のヴァース。
The judge says, "Budge right into jail
You better keep her
I think it's cheaper
Than makin' whoopee"
「彼はいった、『でも、判事、もしも払えなかったらどうなります?』、判事の仰せになるには、『刑務所に行くだけさ、別れないほうが賢明だね、そのほうがナニをするより安上がりじゃないかね』」
budgeをmoveのかわりに使うのがノーマルかどうか知りません。韻を踏むために無理矢理にもってきたような感じもするのですが……。しかし、keep herとcheaperの脚韻には恐れ入ります。この曲でいちばん笑えるラインです。話はあとさきしますが、failとjailの韻もすごいですねえ。被告にとっては、笑いごとじゃないでしょうが!
◆ またしてもRCAのスタジオA ◆◆
Makin' Whoopeeを収録した、ニルソンのスタンダード・アルバム、A Little Touch of Schmilsson in the Nightがすぐれたアルバムだということは、いうまでもありません。スタンダードというと、わたしの頭のなかでは、このアルバムが基準(シャレのつもりはない)になってしまうので、50年代のスタンダード・アルバムには、どれも強い不満を感じるほどです。
小さなことがらからあげていくと、まず録音です。ヘンリー・マンシーニと同じ、ハリウッドのRCAのスタジオAです。いくらハリウッドでも、純粋な音楽スタジオで、これだけの人数のオーケストラを録れるところはそうはなかったようですし(テレビや映画の大きなサウンド・ステージを録音スタジオとして流用した例はある)、鳴りもすばらしかったことは、さまざまな盤からわかります。ここで録られたクラシックの盤なんかまったく聴かなくても、そう思います。
そもそも、これだけの大オーケストラを使ったポップ・アルバム(いわゆるスタンダード・アルバムも含む)というもの自体、存在することがむずかしいのです。コストの問題があるからです。ざっと見渡して、ほかにシナトラぐらいしか、これだけのコストを正当化できるアーティストはいないでしょう。もののたとえでもなんでもなく、大編成のフルオーケストラです。記憶で書きますが、49人編成だったと思います。
エピソードを思いだしました。ニルソンの契約更改に、なぜかジョン・レノンがついていったのだそうです(つまり、ジョンのいわゆる「失われた週末」、LAでハリーやキース・ムーンとヤサグレていた時期、つまり、ニルソンのPussycatを録音したころのことだろう)。で、ジョン・レノンが、ニルソンの契約額を吊り上げるために、RCAの首脳陣にいったセリフ。「RCAにほかにだれがいる? エルヴィスだろう? そして、ハリーだ、それだけじゃないか」
◆ ニルソン=ジェンキンズの乾坤一擲 ◆◆
1973年といえば、ニルソンの絶頂期です。賢明な人だったのでしょう。絶頂期にしか不可能な、とんでもないコストのかかるアルバムをつくったのです。落ち目になってから、目先を変えるために、デュエット・アルバムやスタンダード・アルバムをつくるというのが近ごろの業界の慣行ですが、そんな有象無象の愚行のことはぜんぶ忘れてかまいません。
ニルソンのスタンダード・アルバムは、そういう小手先でかわす柔な変化球ではないのです。絶頂期のピッチャーが投げたど真ん中の剛速球です。ほかのゴミ同然のスタンダード・アルバムとは、まったく成立の事情がちがいます。傑出したシンガーが、会社を黙らせられるだけの実績を上げていたその絶頂期に、全力を投入してつくったアルバムです。そこのところをお間違えなきように。
選んだアレンジャーがまた大正解でした。わたしはこのアルバムでゴードン・ジェンキンズというアレンジャーを知り、途方もなく凝りに凝ったアレンジメントにビックリ仰天して、ほかにもいくつか聴いてみたほどです。しかし、ジェンキンズといえども、ここまで冴えに冴えた、奔放かつ細心なアレンジをした例は、すくなくともわたしはほかに知りません。A Little Touch of Schmilsson in the Nightは、ゴードン・ジェンキンズにとっても代表作なのです。
予算が潤沢で、大編成のオーケストラが使えたことと、キャリアの終盤にさしかかり、それまでに培った知識と技術をすべて注ぎこんで、アレンジャー人生の総仕上げ、集大成アルバムにしようとしたのだと感じます。まるで、生きたポップ・オーケストレーション大百科事典とでもいうべき、サウンド・アイディアの一大伽藍のような譜面です。
当ブログでは、シナトラのアルバムにおけるネルソン・リドルのアレンジメントをしばしばほめていますが、それでもなお、ゴードン・ジェンキンズのほうがはるかに偉大だとわたしは考えています。それは、ほかならぬ、A Little Touch of Schmilsson in the Nightでの、圧倒的なアレンジを知っているからです。この一枚があれば、シナトラのアルバムを何枚積み重ねても、ネルソン・リドルはついにゴードン・ジェンキンズを凌駕することはできません。ゴードン・ジェンキンズ死して、金城鉄壁のアルバムを一枚残したのです。
Makin' Whoopeeに関しても、ほかの曲同様、ジェンキンズ以外にはできない、そして、低予算のプロジェクトでは不可能な、じつにぜいたくなオーケストレーションが施されています。楽器の数は多いは、それにもましてオブリガートの数は多いはで、なにを書けばいいのかわからないのですが、なによりも印象に残るのは、フレンチ・ホルンの使い方です。
しかし、驚くのは、同じパターンが出てこない、いや、そもそも、パターンなどというものは、はなから存在しないことです。数小節ごとに、異なった楽器による、異なったフレーズのオブリガートが入れ替わり立ち替わり登場するのです。これ一曲だけで、優に十曲分のアイディアが投入されています。ジェンキンズがいつもそんなことをしているのかというと、そんなことはありません。だから、彼のアレンジャー人生の集大成だというのです。
そして、ご本尊のニルソンです。もともと歌のうまい人ですし、Pussycatのときに、プロデューサーのジョン・レノンが、「ハリー、もう終わった、完成したんだ、もううたわなくていい」と説得して、やっとうたいやめたというくらいの完全主義者です。そういうシンガーが、これはわたしの想像ですが、絶頂期の自分の姿をテープに定着しようと、細心の注意を払って、一曲一曲をていねいにうたったアルバムです。大傑作ができる可能性はあっても、悪いものができる可能性はゼロ以下です。
褒め言葉の大安売りはこれくらいにしておきましょう。このアルバムでのニルソンのヴォーカル・レンディションについては、すでに昨秋のLullaby in Ragtimeのときに書いてしまったので、じつは、もうこれ以上いうことがないのです。
残りの各ヴァージョンについては明日以降に書かせていただきます。できれば、歌詞のヴァリアントもすこし見てみたいと思っています。