- タイトル
- Ripple
- アーティスト
- Grateful Dead
- ライター
- Robert Hunter, Jerry Garcia
- 収録アルバム
- American Beauty
- リリース年
- 1971年
- 他のヴァージョン
- Jerry Garcia, Chris Hillman
風の歌特集も、ホーム・ストレッチに入ってみると、プレイヤーに残っているのは、なんだか帯に短したすきに長しみたいな曲ばかりになってきました。
冬の冷たい風ははじめから対象にしていません(タートルズのLet the Cold Wind Blowが代表)。しかし、秋風ぐらいなら、プレイヤーにドラッグしてあります。フォルダーをつくり、原稿も途中まで書きながら、結局、「時鳥厠半ばに出かねたり」の曲もあります。
リリース・デイトがはっきりしない、なんていうのも困ります。いや、是が非でも、と思うほど好きならば、不明としてやってしまうのですが、どうしようかな、というボーダーライン上の曲の場合、棚上げにする理由になります。
そもそも、プレイヤーの楽曲一覧をつらつら眺めてみると、この特集をはじめたときから、必ずやると決めていたものは、もう一曲しか残っていません。これをやってしまえば、あしたに死すとも可なり、なのです。というわけで、この特集に登場することがはじめから決定していた、グレイトフル・デッドの三曲のラスト・バッター、Rippleです。
You Tubeには、この曲のスタジオ録音と、80年代のライヴ・フッテージ、べつの日のライヴがあるので、よろしかったら、ご覧になってみてください。
◆ 自己言及メタ・ソング ◆◆
Rippleは、ロバート・ハンターの詩としては相対的にわかりやすい部類で、今日はスムーズにいくことを願っていますが、当てごととなんとかになってしまうかもしれません。それではファースト・ヴァース。
And my tunes were played on the harp unstrung
Would you hear my voice come through the music
Would you hold it near as it were your own?
「ぼくの歌詞が黄金色の陽光で輝くなら、ぼくの曲が弦を張っていないハープで演奏されるなら、音楽のなかからぼくの声を聴き取ってくれないか? そして、それが自分のものであるかのように、そばにおいてくれないか?」
と書いて、われながら「おいてくれないか」は変だろうと思うのですが、とりあえず、代替案は思いつきませんでした。この場合のholdは、「保持する」という意味でしょう。いや、歌詞というのは、一元的理解はできないもので、いやいや、そうじゃなくて、言葉というのはつねに何重もの意味を背後に引きずっているもので、holdの「抱く」というニュアンスも無視できません。keepではなく、holdであるのは、意味のあることなのでしょう。
でも、そういうことをいって重箱の隅をせせりはじめると、ものごとは進まなくなるので、ものすごく下世話な言葉で言い換えて、強引にまとめます。つまり、hold it nearは、「気に入ったら、いっしょにうたってくれ」と呼びかけているのだと考えます。
ハンターの歌詞には、音楽、バンド、聴衆を題材としたものが多いということは、Stella Blueや、つい先日取り上げたUncle John's Bandなどで繰り返しふれました。この曲もその一例、もっとも代表的な「自己言及ソング」です。
この点については後半でもう一度ふれますが、このヴァースで肝心なのはYouです。だれと解釈してもかまわないような書き方になっていますが、デッドヘッズは、自分たちのことだと思っています。これはデッドとそのファンの歌である、と昔から考えられているのです。いや、デッド歌詞注釈サイトが盛っている事実が端的に証明しているように、デッドヘッズだって明快に理解しているわけではないのです。「ただなんとなく」「これは俺たちの歌だ」と「感じている」だけです。それが正しいかどうかではなく、重要なのは、「そう受け取られている」事実のほうです。
◆ 静けさや泉波立つ歌の声 ◆◆
セカンド・ヴァース。
Perhaps they're better left unsung
I don't know, don't really care
Let there be songs to fill the air
「それは出来合の安物、考えは形を成していない、ひょっとしたら、うたわずにすませるほうがいいのかもしれない、わからない、どっちでもかまいはしない、歌よ、宙を満たせ」
ここはもう、わからんなあ、と思いつつ、でも、let there be songs to fill the airって、かっこいいじゃん、ぐらいに「感じて」おけばそれでいいんじゃないでしょうか。うたって気持ちよければ万事オーライなのです。
thoughts are brokenのあとに、between the singer and the listnersがあるのかもしれません。デイヴィッド・ドッドはそういう解釈を提示しています。それもひとつの解釈ではありますが、あくまでもひとつの解釈に「すぎない」ともいえます。
コーラス。
When there is no pebble tossed
Nor wind to blow
「静かな水面[みなも]にたつさざ波、小石が投げ込まれたわけでもなければ、風も吹いていないのに」
どの記事か忘れましたが、ロバート・ハンターは日本文化に関心があることにはすでにふれました。それが歌詞に直接にあらわれた代表的な例がこのRipple、それも、このコーラスであるといわれています。これは俳句なのだというのです。五七五です。シラブルを勘定してみてください。厳密にはちがうと思いますが、五七五を「シラブル」とみなし、それを前提に書いたものなのだそうです。
もうひとついうと、ここから俳句を連想するとしたら、芭蕉の「古池や」でしょう。「静けさや岩にしみいる蝉の声」も連想するかもしれません。また、原因がないのに結果が生じたように見えることから、禅の公案も連想します。日本について雑多なものを読み、そこから生まれた歌詞であるのは、まちがいないでしょう。
「さざ波」とはなにか? もっともシンプルな解釈は「音」「歌」でしょう。石が投げ込まれなくても、風がなくても、音が鳴れば、水面は振動します、なんて、こういうときに、こういう小理屈をいっちゃいけませんな。
◆ ぞろぞろ ◆◆
サード・ヴァース。
If your cup is full may it be again
Let it be known there is a fountain
That was not made by the hands of men
「もしもきみのカップが空ならば、手を出したまえ、カップがいっぱいなら、またいっぱいになるだろう、人の手でつくられたのではない泉があることをカップに教えてやろう」
むむう。ぐうの音も出なくなるようなヴァースでありますなあ。とりあえず、こういうときは辞書の記述を眺める、ということになっています。cupとはなんなのか? カップ、杯といった器物以外の意味としては、まず「酒」それ自体というのがあります。これは日本語でも同じ。「杯を交わす」という表現は、いっしょに酒を飲むことをいうわけですから。
もうひとつ、通常の連想からやや遠いところにあるのは「《聖書中の種々の句から》運命の杯、運命(fate)、経験(experience)」という語義。用例として「a bitter cup 苦杯 《人生の苦い経験》」「drain the cup of sorrow [pleasure, life] to the bottom [dregs] 悲しみの杯[歓楽の美酒, 憂き世の辛酸]をなめ尽くす」、「Her cup (of happiness [misery]) is full. 幸福[不幸]が極点に達している」「My cup runs over [runneth over, overflows]. 幸福が身に余る《Ps. 23: 5》」の四種があげられています。Ps.とはPsalm(サーム)すなわち、旧約聖書の「詩篇」の略で、そこからの引用という意味です。
My Cup Runneth Overというエド・エイムズの曲がありますが、そのまんまです。あまり好みではないので、気にしたこともありませんでしたが。ともあれ、emptyと、runnesth over(あふれる)はまさに対の関係にあり、この連想は大外れではない可能性もあります。コーラスに出てくる「泉」は「人の手でつくられた」のではないというのだから、ふつうはムジナがつくったとか、カッパがつくったとか、狸がつくったなどとは思わず、紙がつくった、ちがうってば、神がつくったと考えます。しいて宗教臭を排除するなら、「大自然の恵み」でしょう。われわれの文化では、やおよろずの神々と大自然は渾然一体ですけれどね。
頓狂なことに、わたしは落語の「ぞろぞろ」を思い浮かべてしまいました。あれだって、神様(いや、神社に祀られているほうの神様であって、godとは他人の空似だが)が手配したことでしてね。まあ、ハンターの知識は芭蕉がいいところで、落語までは知らないでしょうが! このへん、西洋人の日本理解は半チクなのです。われわれはローレル&ハーディーだって、アボット&コステロだって知っているのに、あちらは志ん生すら知らないのだから、彼我の知的落差は華厳の滝を超えて、ナイアガラ瀑布規模、ローレル・キャニオン・サイズです。
なにも解決できませんでしたが、ここは「無限に豊穣なるもの」のイメージだけ受け取っておけばよかろうと思います。それ以上に重箱の隅をせせりたい方は、デイヴィッド・ドッドのサイトをご覧あれ。聖書どころか、イエイツまで飛び出して、大騒ぎです。イエイツの「かげろう」はけっこうですなあ。西洋の詩でもっとも好きです。Rippleにはぜんぜん関係ないですがね。
◆ 導き、導かれる者 ◆◆
フォース・ヴァース。
Between the dawn and the dark of night
And if you go no one may follow
That path is for your steps alone
「夜明けと闇夜のあいだに道がある、真っ直ぐなハイウェイではない、そして、きみがその道を行っても、だれもついていく者はない、その道筋はきみだけがたどるものなのだ」
ふーむ。go on your wayということでしょうかね。以前にも書きましたが、わたしは若年のころから「だれにも似ないように」を信条としてきました。それゆえに、こういうラインは、深く考えずに、天と地のあいだにあるはおのれのみ、他は斟酌の必要なし、なにごとにも信念を枉げるな、というように、短絡的に受け取ってしまい、自動的に他の解釈の道を閉ざしてしまうようです。よって、これ以上、踏み込みません。たとえそうしたくとも、踏み込めないのです。
コーラスをはさんで、最後のヴァースへ。
But if you fall you fall alone
If you should stand then who's to guide you?
If I knew the way I would take you home
「先導することを選んだ者は道にしたがわなければならない、だが、倒れるときはひとりで倒れることになる、きみが立っているならば、では、だれがきみを導くのか? ぼくが道を知っているなら、きみを家までつれていくだろう」
頭上にクエスチョン・マークが飛びかうヴァースです。leadとfollowは対立する概念というか、べつの主体がおこなう動作であり、同一の主体がleadし、followするというのは、ちょっと考えこむところです。答えが出なければ、考えても、考えなくてもいっしょ、努力だの、経過だのは、この世では無意味、結果がすべてなので、意味のないことを書いてしまいました。つまり、さっぱりわからん!
「倒れるときはひとり」というのは、日常感覚のレベルでよくわかります。自分自身を含め、だれかが倒れても、「あー、倒れるぞ」とか、「あ、倒れた!」という顔で眺めているしかないのです。
三行目は、また禅の公案のようになって、意味が行方不明になります。そも、standはfallの対立概念として出てきただけなのか、それとも、walkの対立概念として、stand still、つまり「立ち止まってしまう」といっているのか、そこもわかりません。わたしの頭はここで短絡し、「要するにさあ、おのれを導く者は、おのれ自身のほかにだれもいない、生きるとはそういうことだ、っていいたいわけよねー」と、ごくがさつに、かつ、お手軽にまとめてしまいました。
そういう方針だと、最後の行も反語で、「知らないのだから、家に帰る手助けはできない」という意味になります。「家」は出発点という意味なのか、すごろくの「上がり」、あるいは野球の「ホーム」のような、「最終目的地」なのか、そのへんは受取手の考え方しだいではないでしょうか。
デッドの曲としてはめずらしく、Rippleのヴァージョンはごく一握りですが、あわただしく片づけるわけにもいかないので、今日はここまでとし、各ヴァージョンの検討は明日以降に先送りさせていただきます。