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What Kind of Fool Am I by Lesley Gore
タイトル
What Kind of Fool Am I
アーティスト
Lesley Gore
ライター
Leslie Bricusse, Anthony Newley
収録アルバム
I'll Cry If I Want To
リリース年
1963年
他のヴァージョン
Percy Faith, Laurindo Almeida, Frankie Laine, the Four Freshmen, Buddy Greco, Marvin Gaye, Ray Conniff, Ray Charles Singers
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朔日からはじめた馬鹿ソング特集もそろそろ終盤にさしかかりますが、ふつうにやれば二日つづきになること間違いなしの大物が、まだ三曲も控えています。このまま逃げまわっていると、最後は八甲田山死の彷徨、インパール死の撤退、二〇三高地攻略、阪神タイガース死のロードのようなことになるのは目に見えています。

そこで、今日は意を決して、大物三曲の一角を二日分割にせず、一挙に駆け抜けようと思います。よって、今日は小三次のような長い枕はなし、さっそく入ります。えー、落語に出てくる人物には、お札の顔になるような立派なのはいませんな。「ご隠居、いるかい?」てな、あっというまの入りなので、よろしく。中身もSP盤両面に「御神酒徳利」か「ちきり伊勢屋」を押し込むような調子でがんばってみます。

◆ 馬鹿にもおのずと階梯あり、一に空馬鹿、二にうすら馬鹿、三に…… ◆◆
まず、まとめて2ヴァース。いや、コード進行からいうと、これで1ヴァースかもしれません。ヴァージョンにより細部に異同があるので、以下はレスリー・ゴア盤に準拠しました。

What kind of fool am I
Who never fell in love
It seems that I'm the only one
That I have been thinking of

What kind of life is this?
An empty shell
A lonely cell in which
An empty heart must dwell

「一度も恋をしたことがないなんて、いったいわたしはどういう種類の馬鹿なのだろう? 考えてみてもそんなのはわたし以外にはいないらしい いったいこれはどういう人生なの? 空っぽの貝殻、空っぽのハートが住む小部屋」

どんどんいきます。また2ヴァースひとまとめ。よそのヴァージョンはまだつづきますが、レスリー・ゴア盤はこれでおしまいです。典型的な羅列型なのに、とくにめざましい言い換えはないので、気の短い60年代感覚では、打ち切りは大正解。

What kind of lips are these
That lied with every kiss
That whispered empty words of love
That left me alone like this

Why can't I fall in love
Like any other people can
And maybe then I'll know
What kind of fool I am

「キスのたびに偽るわたしの唇はいったいなんなの、むなしい寂しさだけが残る空々しい愛の言葉をささやくこの唇は? ほかのみんなのようになぜ恋することができないのだろう、恋をすれば、自分がどういう種類の馬鹿なのか、わかるかもしれない」

◆ 常套手段としての「裏返し」 ◆◆
馬鹿ソングのもっとも代表的な類型は、「恋する馬鹿」をあつかったものです。本特集ですでに取り上げたものでいうと、トップバッターのFools Fall in Loveからしてそうですし、Fools Rush InBe Young, Be Foolish, Be Happy(Now and Then There's) A Fool Such As Iなど、いずれもがこのタイプです。

f0147840_23565275.jpgほかの分野でもそうですが、支配的傾向が読み取れたら、それを裏返してみるだけで、ひとつのものがつくれます。そこで、恋する馬鹿を裏返して、「恋しない馬鹿」の登場と相成ったのでしょう。恋をするのもアホ、恋をしないのもアホ、どうせアホなら、かどうかは、わたしの関知することではないので、ご自由に。

でも、つらつらおもんみるに、「死はその当人にとってもっとも意外なかたちでやってくる」と山田風太郎はいいましたが、恋なんていうのも、おおむね予想外のときに地震のように襲ってくるわけで、狭い日本、なにをそんなに急いで恋に落ちる、ですなあ。いざ、落ちてみたら、Love's Made a Fool of Youになるのが、たいていの末路じゃござんせんか。

しかしまあ、作詞家という職業は、このように、他を参照しつつ、なんとか新味を出そうとすることをつねとしているので、その意味で、一発アイディアのお座敷芸として、そこそこの出来の歌詞だと思います。もっとも、羅列型歌詞はしばしばマヌケになるので、よほどすぐれたラインがないと退屈します。この歌詞も、その弊をまぬかれているとはいいがたいようです。

◆ 隙のないプロダクション ◆◆
そもそも、この曲をはじめて盤として買ったのがレスリー・ゴアなのですが、その後、いろいろ聴いてみても、やっぱり感心するものはなく、はじめにちがうヴァージョンに出合っていたら、「しょーもねー古くさいガラクタ」箱に突っ込んで、それきりで忘れてしまったでしょう。今回、棚卸しをやってすべて並べてみましたが、この判断に一点の間違いもなかったことを確認しただけでした。

f0147840_2358826.jpgエイリアンが史上最強のモンスターなら、この時期のレスリー・ゴアは史上最強のガール・シンガーだろうってくらいなもので、どこにも弱点はありません。ヴォーカルはどこまでもさわやか、アレンジはどこまでもあざやか、プロデューシングはどこまでもスタイリッシュ(くそ、対句をつくりそこねた!)、ポップ・ソングにほかになにが必要か、てなもんです。

ついでにいうと、ドラマーも完璧なプレイをしています。NY録音なので、おそらくゲーリー・チェスターでしょう。レスリーの盤は、ドラミングもショウの一部です。この曲は終始一貫、ブラシで同じパターンを叩いているだけですが、どのビートも間然とするところなし。ブラシなんて、だれがやっても同じみたいなものですが、やはりキレの善し悪しは歴然とするものですなあ。とりわけ、ロック・エラになると、もたつきは禁物。これくらいピシッとやってくれれば、文句はありません。

いつも、考えこむことがあります。どこまでがアレンジャーのクラウス・オーゲルマンの仕事で、どこからがプロデューサーのクウィンシー・ジョーンズの仕事なのか、という、その線引きです。

たとえば、ハンドクラップ。アレンジャーが譜面にハンドクラップと指定するのか、それとも、現場でプロデューサーが追加するのか? いや、ハンドクラップだって馬鹿にするわけにはいきません。ほかならぬレスリー・ゴアの代表作It's My Partyでも、ハンドクラップは重要なサウンドですし、Sunshine Lollipops Rainbouw and Everything、She's a Fool、That's the Way the Boys Are、Maybe I Knowなどなど、わたしの好きなレスリーの曲は、ハンドクラップだらけです。

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それだけではなく、トライアングル、カスタネットのようなパーカッションの使い方も、レスリー・ゴアのプロダクションでは、つねに効果的で、これはクラウス・オーゲルマンの仕事なのか、クウィンシー・ジョーンズの仕事なのか、そこがすごく気になります。

リズム・アレンジを抜きに、レスリー・ゴアのサウンドを語ることはできません。What Kind of Fool Am Iもその点ではほかの曲と変わりません。楽器数は少なく、オーケストラのない、リズムセクションだけの編成(ブラシ、フェンダー・ベース、エレクトリックのカッティング、ピアノ、混声コーラス)で、いたってシンプルなアレンジですが、それだけにリズムが重要です。

右チャンネルに配されたドラムとベースのグルーヴも一級品で(NYにこんなうまいベースがいたっけ、と首をひねるが、フラット・ピッキングではあるものの、一音一音こまめに、かつ端正にミュートしているところから、アップライト出身の人と想像される)、その前提なしにはこのサウンドは成立しませんが、オーゲルマンの力量を感じるのは、ピアノのオブリガートの入れ方で、このパーカッシヴな処理が印象的です。

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What Kind of Fool Am Iは、はじめからアルバム・トラックとして、コストをかけずにつくられたのは明らかです。とはいえ、フルプロダクションのシングル盤がタブローだとするなら、このWhat Kind of Fool Am Iには、名匠が談余、おなぐさみにコースターを裏返して描いたスケッチ、というおもむきがあります。いいときというのは、そういうものにすら、曰くいいがたい味が生まれるものなのでしょう。

◆ 他のヴァージョン ◆◆
他のヴァージョンは、いずれも、この曲ならこうやるだろう、というクリシェのかたまりです。みんなノロマ。レスリーが1分43秒フラットで一気に駆け抜けた道を、ご老体が杖にすがって休み休み歩んでいるようで、思わず、オンブしてあげたくなります。

苛立たずに聴けるのは、ローリンド・アルメイダ盤。遅めのボサ・ノヴァですが、ほかが亀ばかりなので、ウサギに見えます。アルメイダというのは、わたしが聴いた範囲では、テクニックをあらわに見せるのを嫌うプレイヤーのようで、いつも控えめです。この曲では、エンディング直前の一瞬だけ、目の覚めるようなランを聴かせてくれます。

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なんで、ここにジェイムズ・ボンド映画のサントラが出てくるんだ、そんなものをおいた覚えはないぞ、と思うのが、シャーリー・バッシー盤。いたずらが過ぎるように思いますが、このヴァージョンで面白いのは、最初と最後に出てくる、ジェイムズ・ボンド映画を想起させる弦のアレンジだけ。

バディー・グレコがかつてテレビでバディー・リッチと共演したときは、すごいピアニストだなあ、と思いましたが(早口言葉の掛け合いみたいなプレイ)、シンガーとしては、ピアノの速さを補うかのように、ものすごく遅い人だなあ、という感想しか出ず。わたしが野暮なので、こういう歌い方がまったくわからないだけなのでしょうけれど。

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アコースティック・ギターのアルペジオではじまるフォー・フレッシュメン盤は、いつもの彼らとはいくぶんちがう雰囲気があります。ホーン・アレンジはおおいに買えます。四人の人間の声より、ホーンによるハーモニーのほうが、わたしはずっと好きなのだと自覚するのでありました。

f0147840_00462.jpgレイ・チャールズ・シンガーズは、大人数でドカーンとこの曲をうたう馬鹿馬鹿しさに大笑いできるので、座布団一枚。本特集の「もっともバカで賞」として、マヨネーズについてきた極小キューピー人形(写真)を贈呈いたします。

レイ・コニフは途中にチラッと出てくるギターがみごと。こういうメロディーをなぞっただけのプレイで納得させられるのは、ほんとうにうまい人だけです。ピッキングがきれいだから、音に艶があります。

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やはりものがちがうな、というのがパーシー・フェイス。アレンジの力によって、われわれの主観的時間は伸び縮みするのだということを痛感します。テンポは遅いのですが、ノロいと苛立つことはありません。それがサウンドの力というものです。これは量なくしては生み出せない質で、この音の広がりはコンボにはつくりようがありません。

歌詞からいって、この曲は男がうたわないほうがいいだろうと思うし、じっさい、現物もそういう印象ですが、フランキー・レイン盤は、アレンジだけとると、ハリウッドというインフラストラクチャーの圧倒的迫力を如実に感じるアレンジ、プレイです。ヴォーカルよりサウンドのほうを聴くわたしとしては、こりゃやっぱりすげえな、といわざるをえません。繊細な譜面に対して、フランキー・レインの声はちと無骨すぎるようですがね。

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マーヴィン・ゲイも、明らかにデトロイト録音ではなく、すくなくともトラックはハリウッドにまちがいありません。モータウン研究家って、どういう耳をしているんでしょうね。ごく初期から、デトロイトでは逆立ちしてもカニ歩きしても録音できない音がLPまるごと録音されているのに気づかないのでしょうか。それとも、モータウンの本線ではないから、なかったことにした?

それにしても、地味なプレイだけど、いいドラマーですねえ。タムタム一発で、むむ、できるな、と、こちらも柄を握る手に力が入り、相手をナメた大上段から正眼へと構えを変えてしまいます。一度出てくるタムタムしか手がかりがなく、残念ながら、今回はプレイヤーの名前を突き止めるにはいたりませんでしたが。

一度、このアルバムからのトラックを褒めた覚えがありますが、マーヴィン・ゲイのヴォーカルについては、これじゃあダメだろうというしかありません。声のよさだけが頼りで、文字通り十年早いアルバムです。白人市場に一日でも早く食い込みたいというベリー・ゴーディーの焦りと見ました。まだ幼稚園児のようなスティーヴィー・ワンダーのレイ・チャールズ・ソングブックなんかも、同じ焦りの産物じゃないでしょうか。児童虐待というべきでしょう。

◆ はからずも三木助 ◆◆
ノロいものを山ほど聴いて、豁然と覚るところがありました。三世桂三木助(先年、みずから命を絶った四代目のお父さん)が得意にしていた「長短」という噺がありますね。気早くせっかちな兄哥と、おそろしくノロマな弟分の、世にも噛み合わない会話の可笑しさを狙ったものです。

問題はこの弟分の話し方です。あまりのろすぎて、センテンスとして意味を成すまでに、無限の時間がかかるかのように話すのが、この噺の演じ方のポイントです。ひとつらなりの単語になるまでだって、とても待ちきれなくなるほど伸ばすのです。のろまなWhat Kind of Fool Am Iをたくさん聴いて、わたしは自分がこの「長短」の兄哥なのだとわかりました。

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メロディーラインというのは、一連の音符の高低差によって生じます。ひとつの音では意味を成しません。いくつかの音が上がったり下がったりする、その流れのなかにメロディーが生まれ、ここは気持いい、などと感じたりするのです。

What Kind of Fool Am Iの大部分のヴァージョンでは、わたしは無限の待ち時間に耐えられず、メロディーラインとして認識できなくなり、「長短」の兄哥のように、キセルで煙草盆をカツンとやりたくなってしまうのです。

レスリー・ゴア盤のように、とんとんと、つぎはトロ、へい小鰭、はい穴子、おつぎはメロン、べらんめえ、そんな寿司が食えるか、てな調子で、手早くとっとと音符を並べてくれれば、なるほど、いいメロディーだ、と認識できるのです。所詮、ゾウとネズミでは鼓動のペースがちがい、生きている時間が異なるのです。

ドラマーの力量を判断するとき、タイムは時代によって変化する、現代のタイム感をそのまま当てはめて、昔のドラマーを判断してはいけない、とつねに自戒しています。今日は、ドラムだけではなく、すべてのタイム感は時代によって大きく変化するという当たり前の事実を再認識しました。わたしが速すぎるだけであって、今日、けなしもせずに戸棚にそのまま戻した各ヴァージョンは、ふつうの速度なのでしょう。

いや、「長短」の兄哥なら、こんなもってまわった言い方はしませんね。簡潔に「こちとらあな、江戸っ子だ、ノロマはでえっきれえよ」というでしょう。

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左からティミー・ユーロー、ブルック・ベントン、レスリー・ゴア

by songsf4s | 2008-04-18 23:54 | 愚者の船