- タイトル
- Me Japanese Boy
- アーティスト
- Harpers Bizarre
- ライター
- Burt Bacharach, Hal David
- 収録アルバム
- The Secret Life of Harpers Bizarre
- リリース年
- 1968年
- 他のヴァージョン
- Bobby Goldsboro
先日のタク・シンドーのSkylarkはエキゾティカそのもの、前回のポール・ホワイトマン楽団のThe Japanese Sandmanは「プリ・エキゾティカ」(わたしが捏造したタームですが)でした。本日は予告どおり、「ポスト・エキゾティカ」(もう一丁捏造)へと進みます。
ショーヴィニスト的傾向をもつ方は、ひょっとしたらPCスクリーンを殴りつけたくなるかもしれないくだりがあるので、お茶でも入れてリラックスしてから、以下をお読みになるようにお奨めします。お互い、ケガをしてはつまりません。いや、お互いとは、あなたの手とあなたのPCのことですけれどね。
◆ 英語もどき ◆◆
それではファースト・ヴァースとコーラスをひとまとめにいきます。ヴァースとコーラスがつながっているので、切れないのです。
A little boy and a girl were so in love
Standing neath the moon above
He said "Me Japanese Boy, I love you
I do love you
You Japanese Girl
You love me, please say you do"
「遠くはるか昔、遠い国でのこと、少年と少女がお互いに深く愛し合っていた、月の明かりの下に立ち、彼はいった。『ぼく日本少年、きみ日本少女、愛するあるよ。ほんとうに愛するあるよ。きみ日本少女も、ぼく愛する、どうかそういってほしいあるね』」
まあ、わたしがこねくった日本語にしたのですが、原語もややピジン・イングリシュじみています。こういう英語もどきは、たとえば、映画やドラマで中国人などが使った場合、上記のような日本語に訳すのがきまりになっているわけでして、わたしはそれにしたがったまでのことです。
まあ、考えてみると、この手の英語もどきよりもっとひどい、意味不明の英単語羅列は、現在でもテレビで日常的に使われているので、アメリカ人が、日本人はこういう英語を喋ると思いこんでも、異にするほどのこともないでしょう。もっとも、日本にいる外国人がこういう雰囲気の日本語もどきを喋ることもしばしばあるので、おあいこのはずですが。
◆ 花見作法のアメリカ的誤解と日本的不快 ◆◆
セカンド・ヴァース。こんどはショーヴィニストではなく、植物を愛する人たちに、まあまあ、お平らに、軽薄なアメリカの作詞家がつくった、ただの軽薄な流行歌だということをお忘れなく、と警告しておきます。
Just like they've done in Japan since time began
Then he gently held her hand
「日本の国がはじまって以来、だれもがそうしてきたように、二人も桜の古木に自分たちの名前を刻み込み、そして彼はやさしく彼女の手をとった」
ここもヴァースとコーラスがつながっているので、「彼はやさしく彼女の手をとり、ぼく日本少年、きみ日本少女愛するあるよ」という構成になっています、って、そんなことはどうでもいいか、というヴァースですがね。
われわれはしばしば自国文化のよってきたるところを知らなかったり、まちがったことを信じていたりするので、百パーセントの自信はないのですが、でも、桜の木に恋人たちが名前を刻むなどということを、われわれが民族的習慣としていたとは思えません。樹木を傷つける者は、現在同様、やはり、昔も指弾されたのではないでしょうか。
ただし、われわれは、桜の根方を踏み固めたり、あろうことか根の上に坐りこんだりするという、木を窒息させるに等しい行為を、「花見」と称して至上の快楽とし、だれもそれをとがめない民族です。考えようによっては、名前を刻んで樹皮を傷つけるよりずっとたちの悪いことを恒常的にしているのだから、アメリカ人作詞家の無知を嗤う資格はわれわれにはありません。
念のために申し上げておくと、ただの受け売りですが、幹に近いところの根は、水分や養分を吸い上げる役割を終えていて、機能しているのは、根の先端部分だそうです。根は見えませんが、その先端は枝の先端とほぼ同じあたりにあるとか。桜の下に坐り込んで、根を窒息させながら飲み騒ぐなどという野蛮かつ愚劣きわまりないことをやめ、根の上の土を踏み固めぬよう歩を選んでそぞろ歩きながら、そっと花をめでるような国になってくれたら、どんなにか住みやすくなることかと思います。
◆ 呑気な落とし咄 ◆◆
以下はブリッジ。
She became his happy bride
From that day until this very moment
She'd been standing by his side
「青と白の着物を着て、彼女は幸せいっぱいの花嫁になった、その日からいまに至るまでずっと、彼女は彼のかたわらにいる」
着物の色についての詮索は無駄だからやめておきます。大昔まで遡れば、どんな色の着物を着て嫁いだのか、そもそも、婚礼衣装なんてものがいつ生まれたのか、わたしはなにも知りません。いまの形はせいぜい数十年の歴史しかないということを、ものの本で読んだ記憶があります。
サード・ヴァースと最後のコーラスをつづけていきます。
And from what I am told
They're still in love
Just as much as they once were
Every night he kissed her
And said "Me Japanese Boy, I love you, I do love you"
That is the way that it should be when love is true
That is the way that it should be for me and you
「いまでは二人も年老いたけれど、聞いたところによると、二人はまだ昔と同じように愛し合っていて、彼は毎晩は彼女にキスし、「ぼく日本少年、きみ日本少女、愛するあるよ」といっているそうだ。ほんとうに愛し合っているのなら、そうでなくちゃいけないよね。ぼくときみも、そうあるべきじゃないかな」
というわけで、最後のコーラスはサゲになっています。つまり、恋人に向かってお伽噺をし、ぼくらもそれに倣おうじゃないか、という口説きの歌なのでした。日本はただのダシなのだから、ショーヴィニスティックになって、けしからん、などと目くじらを立てるほどのものではないのです。ちらっとビーチボーイズのSumahamaを思いだしたりもしますな。あれは、「いただいた」とはいわないまでも、Me Japanese Boy, I Love Youを「参照」した気配があります。
◆ 6thは永久に不滅です ◆◆
さて、本日のお題は(って、わたしが自分で出題しただけのマッチ・ポンプですが)「ポスト・エキゾティカ」です。
歌詞があまりリアリティーのない日本を描いていること以外に、この曲のどこかにエキゾティカのなごりがあるとしたら、6thコード、6thのスケールを使っていることでしょう。これがあると、われわれの耳には日本的とは聞こえないにしても、ある種の東洋的ムードが生じるわけで、バート・バカラックは伝統に則った曲作りをしています。まあ、アメリカ人はほかにやりようを知らないだけかもしれませんが。
コードをきちんととる時間がなかったのですが、ハーパーズ盤の冒頭は、F#-F#6-Abm7-Bbm7となっているようです(ちがっていたらすまん。でも、うたう分にはこれで合う。F#6とBmaj7は似ているし、Abm7はB6に似ているしで、そのへんのいい加減さはギターをお弾きになる方なら承知のことのはず)。
イントロ・リックは、半音が煩わしくて恐縮ですが、Eb-Db-Bb-Ab-Bb-Ab-F#-Ebという下降フレーズです。最初の上のEbと、最後にたどり着く下のEbが、F#における6thの音で、つまり、6thではじまり、6thで終わっているのです。3度と7度の音を飛ばし、6thの音を入れたスケールを適当に弾くと、なんとなく、ラーメンが食べたくなるようなフレーズが、蓋をして3分もかからずにできあがるので、手近な楽器でお試しあれ。
つまり、このMe Japanese Boyという曲も、エキゾティカの伝統にしたがって、中国と日本は同じものとみなし、われわれの耳には中国的に響くメロディーによって、日本を表現していることになります。
ここまでの「エキゾティカ」シリーズをお読みになった、注意力散漫でない方は、気になっていることがあるはずです。そう、「パリは燃えているか?」、じゃなかった、「銅鑼は鳴っているか?」です。
その答えはイエスでもあり、ノーでもあります。ハーパーズは銅鑼なし(麻雀かよ!)、ヒット・ヴァージョン(そして、たぶんオリジナル)であるボビー・ゴールズボロ盤では、銅鑼が由緒正しい響きで鳴っています。ジャーン、タラララランという、ラーメンCM状態なのです。
◆ ハーパーズ・ビザール盤 ◆◆
今回は2種のヴァージョンしかないので、聞き比べというほどのことにはなりませんが、恒例なので、比較考証のお楽しみもやっておきます。
ハーパーズ盤を看板に立てたのは、こちらのほうがすぐれているからというより、ボビー・ゴールズボロはすぐにまた取り上げる予定なので、右のメニューに変化をもたせようと考えたまでにすぎません。でもまあ、そういうことは抜きにしても、ハーパーズのMe Japanese Boyのほうが、わたしには面白く感じられます。
その理由は、主としてサウンドのスケール感と、アレンジにあります。なんせ、わたしが専門とする60年代のハリウッドだから当然ですが、うんうん、that is the way that it should beとうなずける点が多々あるのです。
ハーパーズのCDのたすきに、日本の会社は「バーバンク・サウンド」というタームを使っていますが、WBやリプリーズの盤も、バーバンクではなく、ほとんどがハリウッドで録音されています。バーバンクはWBの本社所在地にすぎず、ハリウッドで生みだされた音楽に共通する属性とは無関係です。あくまでも、ハリウッドの音楽として全体を捉えないと、WBおよびリプリーズの盤だけが、他のハリウッド録音の盤から分離されてしまい、歴史を見誤ることになるでしょう。
話を元に戻します。ハーパーズのアルバムは、どれもアレンジャーが入り乱れていますが、この曲はニック・デカロのアレンジです。ニック・デカロの仕事としては、かなり上位にくると感じます。派手派手しくはやっていませんが、パーカッションの扱いが凝っているし、またその配置が繊細で、このあたりはおおいに好みです。
ストリングスのラインの取り方もきれいですし、ストリングスの裏で薄く管を鳴らして立体感をつくる基本技もちゃんとやっています。もっとも気持ちのいいくだりはブリッジで、突然出現するフレンチ・ホルンはなかなかスリリングです。
そして、こういう音が気持ちいいと感じる裏には、つねにすぐれたエンジニアがいることも忘れるわけにはいきません。もちろん、この盤も、他のハーパーズの盤と同じく、リー・ハーシュバーグの録音です。クレジットがなくてもわかっちゃうくらい、うんうんとうなずきっぱなしの、みごとな音の空間配置です。
贔屓のリズム・セクションがとりたてて活躍しない(ハル・ブレインはやはりパーカッションのどれかをプレイしたのでしょうね)ことも気にならないほど、60年代ハリウッドの、いま振り返れば夢のように豊かなインフラストラクチャーを如実に示す、みごとな音作りです。
◆ ボビー・ゴールズボロ盤 ◆◆
ヒットしたのはボビー・ゴールズボロ盤のほうなのですが、それは先にやったからとか、シングル・カットしたからといった理由にすぎないように思います。
わたしはゴールズボロのそこそこのファンなので、こちらのヴァージョン(タイトルはMe Japanese Boy, I Love Youと長い)も嫌いではありません。悪くない出来だと思います。でも、ハーパーズ盤を聴いてしまうと、あの音作りのレベルの高さ、とくにリー・ハーシュバーグの名人芸にはとうてい敵するものではないことを納得しないわけにはいきません。相手が悪すぎます。
イントロはそこそこの出来(銅鑼が鳴りますがね!)ですが、ヴァースに入ったとたん、音が薄いなあ、と思います。とはいえ、薄いものには薄いものの魅力があるので、このヴァージョンだけしか知らなければ、これはこれでいいと思ったでしょうし、当時のアメリカのリスナーもそう感じたからこそ、ヒットしたにちがいありません。
ポップ・ファンは、かならずしもハイ・レベルで複雑な工芸品を好むわけではありません。シンプルなもののほうに親しみを感じることはしばしばあります。だから、ボビー・ゴールズボロ盤Me Japanese Boyのヒットは、たとえ楽曲のよさに大きく寄りかかったものにせよ、不思議ではありませんし、ハーパーズ盤は、仮にシングル・カットしても、ヒットにはいたらなかっただろうと思います。
以上、前回のThe Japanese Sandmanから、約半世紀の時間をジャンプして、「プリ・エキゾティカ」と「ポスト・エキゾティカ」を並べてみました。
わたしの結論は、「エキゾティカは万古不易、永遠の6thである」です。われわれとしても、もう日本は6thと銅鑼で表現されるものと決まってしまった、これは国旗のように取り替えの困難なものなのだ、と腹をくくるしかないでしょう。
イヤだといったって、あちらさんの固着はすくなくとも20世紀初頭からのもので、もはや獲得形質の段階を終わり、民族の血に遺伝形質として組みこれまれてしまったように思えるほどで、いまさら修正のしようがありません。♪およばぬ~ことと~、あきらめ~ました~。