- タイトル
- 雪ちゃんは魔物だ
- アーティスト
- バートン・クレーン
- ライター
- Traditional, 森岩雄(日本語詞)
- 収録アルバム
- バートン・クレーン作品集
- リリース年
- 1931年(CD化2006年)
- 他のヴァージョン
- Mississippi John Hurt, Jimmie Rodgers, Helen Morgan, Elvis Presley, Brook Benton, Sam Cooke, the Ventures, Merle Haggard
ゲストライターのTonieさんによる「日本の雪の歌」特集は、本日の番外編でほんとうにホントの最終回です。わたしもよく、季節に関係のない曲をこじつけで無理矢理押し込みますが、心優しいTonieさんは、郷に入っては郷に従え、ここでも当ブログの悪習を踏襲され、最後はブラッシュ・ボールか、はたまた、スピッターかという「不正投球」を選ばれました。(席亭songsf4s敬白)
◆ 「雪の歌」番外編 ◆◆
たいがい、こういう企画では、最後に選外とか、番外編を選ぶのがスジというものでしょうから、「雪」にからむ日本の歌を、もう1曲取り上げさせてください。今回のお題「日本の“雪”の歌」にあわせて、最後はナックルボールで勝負です!
さて、ヒッチコックの『白い恐怖』ではないですが、雪が魔物と化した時にはどれほど恐ろしいか、雪国に住むものなら、だれでも一度や二度は体験していると思います。今回は、そういった、雪のもつ恐ろしさの一面に着目した作品を取り上げたいと思います。
古来、雪の恐ろしさを知らせるためには、日本では「雪女」という説明装置を作り、子供の外出を禁じるように機能させてきたものと思われます(異なる解釈もあるでしょうが)。「雪のワルツ」の三木鶏郎作品にも「泣く泣くかぐや姫」風の佳曲「雪女」(ダークダックス歌)がありますし、北原白秋作詞・團伊玖磨作曲による「雪女の歌」という曲もあるようです。
今回の曲は「雪女」からさらに「雪」を取り去っても、雪の恐ろしさと神聖で清い面が説明できる希有な曲です。「雪女」から「雪」を取り去ったら……「女」? そう、「雪」ちゃんの登場です!
◆ 「雪ちゃん」総ざらえ ◆◆
歌に限らず、「雪ちゃん」を総ざらえします。僕の年代で思い浮かぶ「雪ちゃん」は、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』に登場する森雪が筆頭でしょう。もう少し前の世代の方なら、藤田敏八監督の『修羅雪姫』(1973)の「お雪」、あるいは、「まつのき小唄」(1965)の二宮ゆき子でしょうか。
90年代中頃に深夜ラジオで時々かかっていた遠藤実作曲の「雪子のロック」(1967)は、シャングリラスにひけをとらない壮絶な事故ギミック作品ですが、当時聴いていた人はいらっしゃらないと思います。
『続青い山脈 雪子の巻』(1957)では、司葉子が「島崎雪子」を演じています。青い山脈は、このリメイク作品のあとも何度もリメイクされ(1963、1975、1988)、それぞれ「雪子」が登場します。もう少し遡って、轟“夕起子”は、雪子ではなく「ハナ子さん」(1943)を演じていました。
映画、歌謡曲より、昔の作品を手にしやすい書籍の世界に目を移すと、谷崎潤一郎『細雪』(1948)の「雪子」、永井荷風『濹東綺譚』(1937)の「お雪」などは、僕も読んだ印象深い「雪ちゃん」ものです。
そのサイトの意義と関係者の熱意に頭の下がる、青空文庫では、夢野久作「雪子さんの泥棒よけ」(1936)、樋口一葉「うつせみ」(1897)の「雪子」に出会うことが出来ます。なにが云いたいかというと、「雪ちゃんは魔物だ」が作られた1931年頃、雪ちゃんは普通の名前だったのだろう、ということです。
◆ バートン・クレーンの人となり ◆◆
バートン・クレーンがどういう人なのか、一言でいうと、片言日本語で歌う戦前の歌手です。本業は、英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」紙の記者で、余興で歌った「酒がのみたい」という替え歌がコロムビア社長の目に止まり、以後10数枚のSPレコードをリリースしたというのだから面白い経歴です。
銀座を歩くと「どこの店からも、このレコード(クレーンの「酒がのみたい」)が聞こえてくる程流行っていた」(橋本淳「日本のジャズソング」解説より)そうですから、一世を風靡したのでしょう。2006年に復刻CDが出たので、その全貌を手軽に知ることができるようになりました。
◆ 「雪ちゃん」と太郎 ◆◆
それでは一番です。
太郎は目がくらんで ゴー・ストップにぶつかった
おお、雪ちゃん、君凄いネ
この曲は六番までありますが、起承転結が明快で、一番を見れば、二番以降の傾向がわかると思います。コード進行も明快です。信号をゴー・ストップというところに少し時代を感じますが、彼が外人だからこういう単語を使ったのか、この時代特有の呼び方なのかは分かりませんでした[songsf4s割り込み 「ゴー・ストップ」は一般に使われていた。ただし、自動信号機のみならず、手動信号機にもつかわれた形跡あり]。「お外にぶつかった」と歌っているように思ってました。
「Frankie and Johnny」のコードタブにあたるとその多くがC-F-G(あるいはA-D-E、G-C-Dのいずれか。また、C-F-G7としているサイトもあった)で示されています。「雪が魔物と化した時にはどれほど恐ろしいか」を、これほど単純明快に歌い上げる歌を僕は他に知りません(^_^)。
なお、この太郎は、バートン・クレーンによって「♪太郎は一番の阿呆ですよ」(「コンスタンチノープル」)、「♪太郎はカフェーに行ったのよ」(「かわいそう」)と歌われる「太郎」と同一人物かどうかは定かではありません。
◆ 「雪ちゃん」と二郎 ◆◆
次に二番です。
二郎さんは天に登って 太陽に衝突
おお、雪ちゃん、君危ないネ
二郎さんも魔物にやられました。「二郎さん」こと坂上二郎が「飛びます、飛びます」とギャグをやるのを予見していた訳ではないでしょうけれど、天にも昇る気持ちが太陽まで届く諧謔性はたいしたものです。
ここで長めの間奏がはいり、バンジョーのリズムに合わせて、サックスがソロをとります。コロムビアジャズバンドは、当時の最高のジャズバンドだったようで、この曲は熱演ではないでしょうがそつなくこなしています。「日本のジャズソング」解説には、「トロンボーンはバートン・クレーンの時代は谷やん(谷口又士)だが、その以降は、みんな鶴やん(鶴田)のソロ」とあります。ただ、ドラムがいないのがちょっと残念です。
◆ 「雪ちゃん」と三郎 ◆◆
そして三番。
三郎さんは駆け出して 金庫を破った
おお、雪ちゃん、君罪だネ
はっぴいえんどの「かくれんぼ」でも登場した、三好達治の「雪」では太郎と次郎が登場しましたが、バートン・クレーンは三郎も四郎も登場させていきます。三郎が金庫を破るなど妙にシチュエーションが細かくて、金庫破りでも当時あったのでしょうか。80年近く前のことなのに、つい最近の出来事のように感じる、「画になる」出来事が短い詞に詰まっているので、僕は、バートン・クレーンの歌のことを「ポケット・シネマ・ソング」と名付けています。
◆ 「雪ちゃん」と四郎 ◆◆
さらに四番。
四郎さんはガッカリ 汽車ポッポ往生
おお、雪ちゃん、君つれないネ
ひじ鉄砲と汽車ぽっぽ、の韻の踏み方はそりゃあんまりにも強引だろう、の出来です。ここで、二度目の長めの間奏がはいります。今度はバンジョー主体です。編曲者としてクレジットがあるハーバート・エルカという人がどういう人か不明です。
◆ 「雪ちゃん」と五郎 ◆◆
さらに五番。
五郎さんはうっとりして アイスクリームになった
おお、雪ちゃん、君冷たいネ
全体に諧謔性に溢れる曲の中でこの歌詞が一番好きです。「私の鶯」でとりあげたサトウ・ハチローは、バートン・クレーンの「酒がのみたい」を「ああ、俺もこんな酔拂った歌が作りたい」といったそうですが、こんな甘い「Ice candy」ソング、僕も作ってみたいです。
◆ 「雪ちゃん」と六郎 ◆◆
〆の六番です。
六郎に惚れて 裸にされた
おお、雪ちゃん、君も憐れだネ
ここがオチになります。昭和初期は、モダニズムとエログロ・ナンセンスにあふれた時代といわれますが、この曲は最後のこのオチでその時代の色合いが濃く出ていると思います。この最後の歌詞を「♪君も哀れ。じゃーね」だと思っていて、延々と続く後奏に、格好も格好だし、ほったらかしにしないで早く終わってあげればいいのに、と余計な老婆心を起こしました。
いずれにせよ、こんな曲が戦前にあったと思うと、自分の戦前に対するイメージがガラリと変わり、心境的にも近しい過去として位置づけられました。「古いものは決して古くならない 新しいものだけが古くなる」と十九世紀のドイツの詩人リュッケルトが言ったそう(と、高田文夫氏が新聞で書いていた)ですが、自分が好んで聴いている曲は、実際の「音」を聞くと、古くなったというレッテルを貼られただけで、元々古かったわけではない、ワクワク出来る曲だと感じます(一部、あたまで変換してきいている部分もあるかもしれませんが)。
こうした戦前のユーモアソングの面白さを伝えることは、情報や選択肢が多いようで、とおり一遍のもの以外は聴きにくい音楽状況(ビジネス主体)に、風穴をあける効果もあると思います。
◆ 「雪ちゃん」と「Frankie and Johnny」 ◆◆
「雪ちゃんは魔物だ」の原曲であるFrankie and Johnnyには、エルヴィスやサム・クック、ブルック・ベントンなどのバージョンがあります。くわしくはここでどうぞ。
[songsf4s割り込み]
Tonieさんにかわって、うちにあるFrankie and Johnnyの各種ヴァージョンをご紹介します。
もっとも古いのは、1928年のミシシピー・ジョン・ハート盤ですが、これ、ほんとうにFrankie and Johnnyかなあ、と思うくらいで、他のヴァージョンとは歌詞もちがうし、メロディーも近縁性に乏しく、似ているのはタイトルだけです。まあ、デルタ・ブルーズにメロディーがあるか、といわれれば、ないも同然というしかなく、問題とすべきは歌詞だけですが、プロットは似ているものの、語句は別物です。
つぎは1929年のジミー・ロジャーズ盤。ジミー・ロジャーズといっても、50~60年代に活躍したポップ・シンガーではなく、カントリー・ヨーデラーのほうです。これは、なるほどエルヴィスがうたったのと同じ曲みたいだ、と感じます。歌詞もそこそこ似ています。
バートン・クレーンが参照した可能性があるのは以上の2種なのですが、どちらもあまり似ていないなあ、と思います。まさにトラッドとして、だれのヴァージョンということもなく覚えていたのではないでしょうか。
つぎは1934年のヘレン・モーガン盤。ハート、ロジャーズの泥臭さを完璧に殺菌消毒したソフィスティケーティッド・ヴァージョンで、ピアノとストリングスのみの室内楽的プレイをバックに、オペラ歌手のようにうたっています。室内楽的バッキングなのに、セヴンスの音を強調しているところが妙に現代的で、なかなかイケます。ストリングスでブルーズをやるというのは、当時としては画期的だったのではないでしょうか。
わたしがもっともよく聴いたのはサム・クック盤です。クック・セッションのレギュラー・プレイヤー/アレンジャーだった、ルネ・ホールのプレイと考えられる、ダンエレクトロ6弦ベース(ダノ)が印象的。リッチー・ヴァレンズのLa Bambaの有名なダノ・イントロもホールのプレイです。
不思議なことに、フレージングは異なりますが、ブルック・ベントン盤にもダノが使われています。どちらかがどちらかを参照した可能性あり。だれだかは知らず、ドラムとベースのタイムがいいので、グルーヴに違和感なし。もちろん、ベントンは好みなので、ヴォーカルもけっこう。
エルヴィス・プレスリー盤は、1966年の映画『フランキーandジョニー』(カタカナとアルファベットが混在する汚い字面は当方の責任にあらず、輸入会社の不見識なり)のテーマとして使われたもので、ドラムはハル・ブレインでしょう。ビッグバンド・ドラミングとロック・ドラミングの中間的なスタイルで、面白いか面白くないかはさておき、興味深くはあるプレイ。
ヴェンチャーズ盤は当然インストですが、Frankie and Johnnyだかなんだかよくわかりません。つくる側もそう思ったのでしょう。女声コーラスがうしろで、繰り返し「フランキー・アンド・ジョニー」と叫んで、しきりにアイデンティティーを保証しています。それでもやっぱり、Frankie and Johnnyには聞こえないところがすごい! 要するに、どこのなにともつかない、出自不明の3コードのシンプルなリック・オリエンティッド・インスト。
1969年のマール・ハガード盤は、ジミー・ロジャーズのカヴァーを集めたアルバムに収録されたもの。エレクトリック(テレキャスター)、アコースティックともに、ギターがむちゃくちゃにうまくて、ヴォーカルなんかどうでもよくなっちゃいます。
メロディーはあるんだかないんだかあやふやで、「ホンにあなたは屁のようなお人」てなものだから、みんな適当に勝手なラインをうたっています。歌詞も、設定だけが同じで、字句はてんでんばらばらアネさんまちまち好き勝手。このあたりがトラッドのトラッドたる所以でしょう。しかし、この曲の面白さは歌詞にあるといってよく、その歌詞の設定だけは、「雪ちゃんは魔物だ」に引き継がれています。
思いだすのは、デル・シャノンのRunawayとその続篇であるHats Off to Larry(「ラリーに脱帽、彼はおまえをふった」)と、レスリー・ゴアのIt's My Partyとその続篇であるJudy's Turn to Cry(「こんどはジュディーが泣く番、ジョニーはわたしのところにもどってきた」)です。
60年代的常識では、悪い男または女が正篇で語り手をコケにし、続篇では一転、その悪者たちが天網恢々疎にして漏らさず天罰覿面勧善懲悪的にひどい目にあい、語り手は、ざまあ見ろ、と正編での溜飲をおおいに下げることになっています。しかし、Frankie and Johnnyおよび「雪ちゃんは魔物だ」においては、紙幅の都合か、昔の人は気が短かったのか、はたまた出し惜しみしない太っ腹だったのか、悪事と天罰がきちんとセットになった因果応報一回完結読切りという構造をとっています。
以上、songsf4sによる長ったらしい割り込みを終わり、Tonieさんの本文にもどります。
◆ おわりに ◆◆
本特集の途中で、songsf4sさんから「日本的なものと西洋音楽的なものの接点について語っている」というお言葉をいただきましたが、この曲などは、まさに接点の問題をいろいろな角度から眺められる曲なのではないかなと思います。
山川方夫「ジャンの新盆」のなかにこんなセリフがありました。
「古いしきたりの中の自分、民族的な血と歴史をもつ自分を捨てなければ、日本人には西欧的な自己はもちえません。でも、日本においては、日本を否定することこそ、もっとも日本的なことなのです。日本という国の文化も、いつもそのようにして育ってきました。だから文化的であろうとする日本人は、つねに日本のなかでひどく孤独になるのです」
「文化的」がいいことなのかわかりませんが、この言葉はすごくよく伝わります。でも、あまり西洋音楽が好きな日本人という「自己」に苛まされなくても、上の世代から伝えられた文化の蓄積を感じながら、昔の音楽も、現在進行形の音楽も、日本の音楽も、海外の音楽も同じように楽しむ。こんな21世紀型の“モダンで乙な”音楽とのつきあい方が出来る時代が、ネットの普及によって始まっているようにおもいます。
しかし、「とおり一遍」の音楽以外を紹介するサイトは少ないように思いますし、その「とおり一遍」の音楽ですら、きちんと語られていない現実があります。アーティストと曲名だけで、詞の内容も作詞・作曲者も紹介されないことも多いですし、編曲者になるともっとすくなく、さらにミュージシャンとなるとほとんど皆無です。僕がsongsf4sさんのサイトを大好きなのは、songsf4sさんが“モダンで乙な”音楽とのつきあいを実践されたうえで、他人に伝える条件整備をされているところにあります。
軽い気持ちで請け負って始めましたが、1曲の内容検討だけでもそのかかる労力たるや大変なものがあると分かりました。読者の皆さんには、songsf4sさんの更新の邪魔をしまったことをお詫びするとともに、自分としてはとにかく楽しい勉強の日々を持たせて貰ったことに感謝しています。ありがとうございました。