- タイトル
- かくれんぼ
- アーティスト
- はっぴいえんど
- ライター
- 松本隆, 大滝詠一
- 収録アルバム
- はっぴいえんど
- リリース年
- 1970年
- 他のヴァージョン
- live version of the same artist、センチメンタル・シティ・ロマンス、すかんち
昨日につづき、今日もゲスト・ライターTonieさんによる「日本の雪の歌」特集です。本日は「かくれんぼ」の後半です。(席亭songsf4s敬白)
◆ 一杯の紅茶から ◆◆
歪にゆがんだ珈琲茶碗に余った
瞬間が悸いている
私は熱いお茶を飲んでいる
こちらも、僕が最初に買ったCDの歌詞カードには、「歪にゆがんだ珈琲茶碗に 餘った」となっています。「敵 THANATOS」ほどではないですが、何て読んで良いか、一瞬途惑う漢字表記は、石浦信三と松本隆で徹底的に難しくした結果なのでしょう。
1行目の「雪融けがない」は、今年は雪が多くって、とけきれないから根雪になる、という70年代に大雪が降ったという事件ではなく、当然わだかまりが融けない様子を指していますね。
この「かくれんぼ」は、さきほどの「ちっちゃな田舎のコーヒー店」の前に、元々、違った歌詞にあてた曲を使用したそうです。その「あしあと」という詩は「ちっちゃな田舎のコーヒー店」と副題がつけられていまして、まちの汚い道ばた(のコーヒー店?)に座って、機械のように行進する大衆をみている、というものでした。「しんしんしん」の世界につながるちょっと習作っぽい内容でしたが、つぎに内容をガラリと変えてさきほどの「ちっちゃな田舎のコーヒー店」が作られることになります。これにつけられた副題が「かくれんぼ」で、ここでもうプロットも内容も完成していることがわかります。
《大瀧 1月26日には「かくれんぼ」のもとだったところの「足跡」っていう詞があったのね。松本が書いた「足跡」って詞を、俺、確か貰ったのは詞先だったのかな。詞先で貰ってて》(『定本はっぴいえんど』インタビュー)
しかし「歪にゆがんだ」というところは、歌いにくいですよね。ボックスにも大瀧詠一がライブでトチっている様子も収録されてます。それは、ともかく、歪な二人の状況を示す道具として「珈琲茶碗」が登場します。これには、ちょっと戸惑います。お茶を珈琲茶碗で飲む、ということは、今まで飲んでいた「お茶」の種類は、「煎茶」や「ほうじ茶」ではなくて、「紅茶」だったんだと推測されるからです。「お茶しない?」(死語)というとき、飲むものは、紅茶でもコーヒーでもココアでもいいので、装置としてのドリンクがあれば、喫茶店で出てくるものはなんでもいいのかもしれませんが、音からくるイメージというのは強烈ですから、やはり「お茶」を飲んでなければいけないのです。
珈琲茶碗には、それほど量は入りませんから、気まずい雰囲気の中、手持ちぶさた解消のため、お茶でも少しずつ飲んでいる、という状況なのかもしれません。この何かを飲むという行為で、心情をさらりとあらわすというのは、松本隆のうまい表現の一つでしょう(たとえば、大滝詠一『白い港』の「港のカフェーの椅子で 苦いコーヒー飲むよ」)。
この世界観は、松本隆がポール・サイモンから学んだところが大きいようです。ヤングギター71年3月号掲載(『はっぴいえんどBOOK』に再掲)の「ぼくは水いろの歌をきいたことがある」というコラムで、松本隆はサイモン&ガーファンクルのアルバム 『パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム』の一曲「ダングリング・カンバーゼイション(宙ぶらりんの会話)」を訳もつけて紹介しています。
Simon & Garfunkel 「Dangling Conversation」より
Couched in our indifference
Like shells upon the shore
You can hear the ocean roar
In the dangling conversation
ぼくらは 坐って コーヒーを飲んでいる
岸辺の貝のようにそっけなくね!
ほら大洋の響きが聞こえるだろう
宙ぶらりんの会話と よそいきの嘆息の中に(松本隆訳)
推測ですが、この「コーヒー」と「宙ぶらりんの会話」のシチュエーションをモチーフに、「ちっちゃな田舎のコーヒー店」は出来上がったのではないでしょうか。なお、「Warter Color」という単語については、ここでは「水いろ」という表現を使っていますが、この時期「水彩画の街」という詩も書いてますし、「Warter Color」をたんなる「水色」と捉えているのではないと思います。
◆ お茶の飲み方 ◆◆
それでは、お茶のみバンドとも評されたはっぴいえんどは、ライブなどで、どのようにお茶を飲んでいたのかをピックアップしてみます。いずれも曲の最後に飲むお茶です。
1970年4月12日
「私は熱いお茶を飲んでーる、熱い、熱い、お茶、お茶を飲んでるんは。(ギターと低音効かせたベース)」
1970年8月5日
「私は熱いお茶を飲んでーる、熱い、お茶、お茶をーんは。んでるー。(鈴)」
1970年8月9日
「私は熱いお茶を飲んでーぅ、熱いーお茶ををぉ、のんでるー。ルラララララーァ(長いギターインプロビゼーション)」
1971年8月7日
「私は熱いお茶を飲んでー、熱いお茶を飲んでるー、熱いお茶ぁ(ギターとベースと迫力あるドラムのかけあい)」
1971年8月21日
「私は熱いお茶ほ飲んでーる、お茶を飲んでる。お茶を飲んでるぅー、お茶を飲んでる、お茶をんでる、んふー。(均整のとれたバンドサウンド)」
1972年8月5日
「私は熱いお茶を飲んでるー、(ディストーションの効いたギター)」
1973年9月21日
「私は熱いお茶を飲んでむ、(ギター)」
聞き比べると、お茶がだんだん「うまく」なっていきます。
しかし、鈴木茂はうまいですね。インプロビゼーションなど、やっぱりすぐに「12月の雨の日」のイントロを思いついた人だけあって、直感的に手が動いてるんだろうなと感心します。
細野晴臣のベースは最初からうまいようにおもいますが、とくに松本隆のドラムが、71年頃からは畳みかけるように叩いてて、もう一杯お代わり!な出来です。
演奏技術も、録音レベルも、最後の熱い「お茶」が一番端正で美味しいと思います。
僕のおすすめの(好きな)お茶は、1970年8月9日のお茶です。普通、鉄はあついうちですが、お茶はすこし温めがいいはずです。しかし、このお茶は、沸騰したお湯を適温まで冷まさずにそのまま抽出してしまった、熱い熱いお茶です。夏だから、“暑さのせい”でのぼせ上がってるのでしょうか(^_^)、特にもうボーカルが熱くて熱くて、ノリに乗っていて、タイム的にも突っかかるぐらい前に前にと出てしまっているのですが、この熱さが江戸っ子が好む銭湯ぐらいたまらない一品です。
ちなみに、演奏など各種データを記しておきます。
1970年4月12日
文京公会堂「ロック叛乱祭」(レアリティーズVol.1トラック3)
1970年8月5日
スタジオ(通称『ゆでめん』トラック2)
1970年8月9日
岐阜県椛の湖「第2回全日本フォークジャンボリー」(レアリティーズ Vol.1トラック11)
1971年8月7日
岐阜県椛の湖「第3回全日本フォークジャンボリー」(レアリティーズ Vol.1トラック15)
1971年8月21日
日比谷野外音楽堂「ロック・アウト・ロック・コンサート」(はっぴいえんど LIVE ON STAGEトラック5)
1972年8月5日
長崎市公会堂「大震祭 VOL.3」(レアリティーズ Vol.2トラック9)
1973年9月21日
文京公会堂「CITY-LAST TIME AROUND」(ライブ!! はっぴいえんどトラック10)
◆ 機関車と船と飛行機 ◆◆
そう黙っててくれればいいんだ
君の言葉が聞こえないから
これは最初に聞いたときにドキッとしたフレーズです、少し唐突に思ったというか、今までと違うなと思ったのです。ここでずっと、詞をおってきましたが、曲の方にめをやってみます。曲については、わりと複雑ではないマイナーコード進行となっています(楽譜「CITY」では、ずっとDm7-Gm7の繰り返しとなっています)。
次々と畳みかけるように状況を伝える詞なので、このコード進行でもあまり変化のない繰り返しとは感じず、メロディと歌とがマッチしていい曲だなと感じてました。細野晴臣もいい歌と褒めてますし、実際に人気もあったようです。
《細野:「かくれんぼ」ですね。これは、ホントにいい歌なんですけれど、日本的な風土に変身しました。しかし、元はカリフォルニアの音だったんです。それは、Crosby, Stills & Nash の「Wooden Ships 」とか、それからStephen Stillsの、ずいぶん前ですけれども『Super Session』っていうアルバムが大ヒットして、やはりStephen Stillsがリードをとっていたりした曲が「Season Of The Witch」。これは、リードギターをとっていた訳ですね。この2曲あたりの雰囲気がとても「かくれんぼ」っぽいわけです。》(細野晴臣 2000年4月9日ラジオ番組「DAISY WORLD」)
《インタビュアー ライブでも人気曲でしたね。
大瀧 みんなにクロスビー・スティルス&ナッシュの「ウドゥン・シップ」って言われて。確かにそうなんだけど(笑)。でも、できあがってみると、どこにも「ウドゥン・シップ」はないね。どう聞いても「五木の子守歌」。チーンとか入るし(笑)。ロック的なものはないよ。いきなり“くもった”だもん、いきなり曇られてもなあ。ただ、確かに人気はあった。無理矢理言えば「春よ来い」が浪曲=R&Bでメンフィスでしょ。「十二月の雨の日」がフォークロックでナッシュヴィル。「かくれんぼ」は多少クルーナー的というか、そういうことだったんじゃないですかね。》(『はっぴいえんどBOX』ライナー)
はっぴいえんどファンは「おっ、ゲット・トゥギャザー」伝説で、ヤングブラッズを知ってる人も多いと思いますが、ジェファーソン・エアプレインの「ウドゥン・シップ」もお勧めです。
そして、このフレーズでコード進行に大きく変化が生まれ、「もう言葉が(Em-Am)聞こえないから(G-D)」となっていて、ここで鈴が大きくフィーチャーされています。「かくれんぼ」の解説では、鈴の事が盛り込まれることも多いですが、この曲はクリスマスソングでもないし、あまり鈴の議論ばかりしない方がいいと思います。本質は鈴だけでは捉えられないといっても、しかしなぜ鈴なのか、と思うところはあります。松本隆の証言にあるように、ここはあとからつけたところでしょう。「田舎のコーヒー店」にもないフレーズです。
《松本「かくれんぼ」は最初は大サビがなかったけれど、つけたいからといわれて、後で2行つけ加えた》(『ロック画報』)
そして、ずっと七七でつながっているのに、ここは七五調ではないのです。これもこのフレーズを際だたせている要因に思います。
《松本 僕の詞って七五で出来てるんだけど、基本的には三五七で出来てるのを、出来るだけ文語体から口語体になおしたいなと思ってた》(『定本はっぴいえんど』)
《松本;やっぱり奇数は正しくて特別な数字なんだよね。ただそれに寄りかかると、いわゆる七五調になっちゃう。七五調もいいんだけど、七五調に寄りかかった文化というのがある。それにハマりたくもないな。でも、七五調はやっぱり基本だなと思う自分もいる。(ユリイカ「はっぴいえんど特集」》
こうした、コード進行、句型といった変更に加えて、もうひとつ、このフレーズが非常に唐突だと感じる要因があります。最大の要因は、やはり、それまでの情景描写と違い、自分の感情を歌に込めているところにあります。「喋り始めた」のです、それらが相俟って、少しドラマチックな曲になっているのかもしれません。
◆ そして、ようやく雪景色へ ◆◆
なかでふたりは隠れん坊
絵に描いたような顔が笑う
私は熱いお茶を飲んでいる
最後のフレーズです。ようやく雪景色までたどりつきました。
先ほどの熱い感情吐露が嘘のように、淡々とした描写が続きます。雪から連想される、「静けさ」が雪景色となって辺りを覆いつくします。そして、雪の「冷たさ」がもたらす緊張関係がわだかまった二人をあらわします。
これほどあちこちに詩趣を見いだすことが出来る雪景色は素晴らしいの一言です。また、もうひとつスゴイのは、ふつうに考えると「外は雪景色なのです」と記してしまうところを、そうせずに、「雪景色は 外なのです」としたところです。
「雪景色は 外なのです」、この一文にしびれて、「日本の雪の歌」特集にトライしたようなものです(今日もう紹介したので、この一回で特集を終わっても本望です(^_^)v)。
しかし、なぜこんな使い方が出来たのでしょうか。永嶋慎二にあるのか、確認してませんが、いうならば、実に漫画的、といって悪ければ、映像的です。ここで「外」が強調されているからこそ、次の「内」が引き立ちます。
松本隆の解説があれば、「かくれんぼ」というメタファーへの補足は要らないでしょう。
《松本 当時は爽やかなフォークの全盛期で、男女が互いに疑いあう歌なんてなかったんだ。でも僕、19の割りには屈折している青年だったから、とてもそんな簡単に男と女がわかりあえるなんてあり得ないと思っていて。男と女とは、一生懸命努力するんだけど、延々とすれちがっているような、そういう複雑なものじゃないかな、と。(中略)鬼にもなるし、隠れる子にもなるし、それはお互いさまなんだよ、と。》(『はっぴいえんどBOX』ライナー)
◆ 冬の詩人“松本隆” ◆◆
松本隆は、ポール・サイモンだけでなく、様々な詩人の作品を血や肉に変え、結晶となって、はっぴいえんどがあるということは、ライナーのデディケーションに列挙された人物からもうかがい知ることが出来ます。
僕の周りの心あるはっぴいえんどファン5人に「はっぴいえんどの雪の歌」でどれがお好みかと聞いたところ、第1位が「しんしんしん」、第2位が「抱きしめたい」でした。
「しんしんしん」は、やはり、中原中也の「汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れつちまつた悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる」の影響が大きいのかなとおもって、中原中也の詩集を読み返してみると、「秋」が結構キーポイントになってました(^_-)。
たとえば「曇つた秋」という詩は「かくれんぼ」の出だしになり、原詩「曇った冬の」というのは、曇った秋を発展させたものかもしれません。また、「秋」という詩集の『秋」という詩では、「僕は煙草を喫ふ。その煙が澱んだ空気の中をくねりながら昇る」とあり、一服する「抱きしめたい」につながるようにも思います。
シューベルトの「冬の旅」も日本語に訳してしまったほどですから、松本隆は冬好きなのだと思います。秋の詩人“中原中也”、冬の詩人“松本隆”といったら、言い過ぎでしょうか?
また、「しんしんしん」や「あやか市」などをみると、ランボーは松本隆に大きな影響を与えたと思います。松本隆が好きだと名前を挙げた詩人の一人、清岡卓行をウェブで調べると、はっぴいえんど結成前夜の1968年に清岡卓行翻訳『ランボー詩集』(河出書房新社)というのが刊行されているのが分かりますので、清岡卓行の詩も訳したランボーの詩も好きだったのじゃないかなと思います。
しかし、前出の詩集「風のバルコニー」によれば、「14才にして早熟にもランボー、ボードレール、マンディアルグにかぶれ、ジャン・コクトーのアンファンテリブル気取りのポーズを覚えるが、モテなかった」とあるので、1963年にはランボーを読んでいたんですね。ともかく、様々な影響を重層的に受けているから、こういった詩が書けたのでしょう。そこには、海外もあり、日本もあった、ということだと思います。
《松本 日本の詩人はあまり好きじゃなかった。リルケも読んでた。あと、フランスのランボーとかロートレアモンとか。》(『定本はっぴいえんど』)
《松本 宮沢賢治とか萩原朔太郎とか北原白秋とか中原中也にひかれていった。》(『ロック画報』)
《(松本さんは現代詩の作品も読んでいたんでしょ?)松本 清岡卓行とかね。》
ここで、ランボーの詩から雪のでてくる一節でも引用して終わろうかと思いましたが(「O pale Ophelia! belle comme la neige!」(雪のように美しいオフェリアよ!)とか)、松本隆は、「雪」を「雪」としてとりあげず、「景色」として取り上げていますので、それじゃ格好良すぎて、しらけっちまうぜ、ですので、ちょっと違った形で終わります。
この曲が、熟成されて出来上がった傑作「抱きしめたい」では、ジェットマシーンを使って「“雪”の銀河」を表現できるようになっていますし、『風街ろまん』の完成度は高いと思います。でも、はっぴいえんどについては、ファンになればなるほど、その原点の荒削りのサウンドの方になぜか愛着が湧きます。
「Wooden Ships」で吹いている南風(CS&Nの歌詞では、It's a fair wind/Blowin' warm out of the south over my shoulderとなっていて、ジェファーソン・エアプレーンとは終わりの歌詞が違う)を受けて、フォーク・ロック・シーンに次々と新たな風を紡ぎ出す原点となったのがこの曲です。
隠喩としての風にとどまることなく、「風」と「雪景色」という言葉をうまく使った詞で紡ぎ出されているこの曲は、一枚目のアルバムのなかでも、とびきり愛着のある、自分にとって「侘び茶」の1曲なのです。
○主な参考文献
『定本はっぴいえんど』(白夜書房)
『はっぴいえんどBOOK』(シンコーミュージックムック刊)
『はっぴいえんどBOX』ライナー(エイベックス・イオ)
『はっぴいえんどかばぁぼっくす』(OZディスク)
『ロック画報 (20世紀最後のはっぴいえんど特集)』No.1、 No.2(ブルース・インターアクションズ)
「 ユリイカ(特集:はっぴいえんど)」第36巻第9号(青土社)