ドゥエイン・エディーのことを書こうとすると、いつも言葉に詰まります。たぶん、いいも悪いもなく、好きか嫌いかだけだからだろうと思うのですが、でも、ここがまたわたしにとっては微妙なところで、好きなのか嫌いなのかも、じつはよくわからないのです。
好きなギタリストというと、ドゥエイン・エディーのようなタイプではないことははっきりしています。じゃあ、嫌いかというと、そうともいえません。独自の明確なスタイルをもっているという一点で、やはり尊敬に値するプレイヤーだと思います。
結局、エディーが長持ちしたのは、スタイルというか、もっと細かく限定すれば、あの「トワンギン」サウンドのおかげでしょう。あれがなければ、だれも見向きもしなかったはずです。もちろん、アレンジを含むバンド・サウンドの出来も重要ですが、そんなことは、エディーにかぎった話ではなく、インストゥルメンタル・ミュージックはみなサウンドしだいなのです。エディーに限定するなら、あの「トワンギン」サウンド以外には、なにもないといってかまわないでしょう。
◆ ドゥエイン・エディーの「才能」 ◆◆
それほどたくさん聴いたわけではないので、おそろしく上っ面の話にすぎないのですが、エディーの曲で印象に残っているのは、デビュー曲のMoovin' 'n' Groovin'、Revel Rouser、Ramrod、Shazam!といった、アップテンポのロッカーです。極端に音数の少ないギタリストだから、それが異様に感じられないテンポの曲のほうが、違和感なしに聴けるからではないかと思います。
しかし、今日のLong Lonely Days of Winterは、タイトルからも想像がつくように、スロウな曲です。背後で流しているぶんには、なかなかきれいないい曲だな、と感じるだけですが、ちょっと立ち止まって、ギター・プレイに意識を集中すると、よくこんなふうに弾けるなあ、と呆れます。いや、つまり、音を出さない時間が永劫のようにつづくのですよ。わたしだったら、ピックをもっている親指と人差し指が、早くつぎの音を弾きたくて、痙攣しちゃうのじゃないかと思うほどです。
ここにいたって、はたと、そうか、音を出さないのも「才能」のうちか、と納得がいきました。わたしのような凡愚では、ドゥエイン・エディーのようなプレイはぜったいにできないにきまっているのだから、やはり、彼は彼なりにプロフェッショナルなのです。
当ブログでは、曲を小突きまわして、めちゃめちゃにしてしまうシンガーやプレイヤーは、客をほっぽらかして、自分の才能に溺れる愚か者として、さんざん罵倒してきましたが、ドゥエイン・エディーは、その対極にいる人なのだと、やっと気づいたわたしもまた愚か者でした。
エディーのバックのサウンドについては、いずれべつの機会にくわしく検討したいと思います。パーソネルの判明しているものを見ていくと、なかなか興味深い点があります。このLong Lonely Days of Winterを収録したLonely Guitarというアルバムのアレンジャーは、ついこのあいだ、Canadian Sunsetをとりあげた、マーティー・ペイチです。
◆ ジョン・エントウィスルの「理解」 ◆◆
ライノのTwang Thang: The Duane Eddy Anthologyのライナーを読み返していて、思わず笑ったところがあります。ザ・フーのジョン・エントウィスルが、エディーにあこがれて、「ベースを」買った、というところです。
誤解も理解のうち、考え方としては、正しかったのではないでしょうか。じっさい、エディーも、グレッチのギターばかりでなく、ときにダンエレクトロ6弦ベース(ダノ)を使っています。エディーも、はじめてダノを見たとき、これは自分のためにつくられたものだ、と感じたそうで、ジョン・エントウィスルも、同じようなことを考えていたのでしょう。
じっさい、ジョン・エントウィスルのプレイはギター的で、そこが子どものころ、非常に印象に残りました。不思議なベースだと思いましたが、ああなってしまった原因はドゥエイン・エディーのトワンギン・サウンドだとわかれば、不思議でもなんでもありません。まさにドゥエイン・エディー的な「ベース」サウンドです。しかし、音楽史ではけっこうあることとはいいながら、なんともまた奇妙な影響関係があったものです。