- タイトル
- Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!
- アーティスト
- Dean Martin
- ライター
- Sammy Cahn, Jule Styne
- 収録アルバム
- Christmas with Dino
- リリース年
- 1959年
- 他のヴァージョン
- Dean Martin (alternate take), Frank Sinatra, Aaron Neville, Andy Williams, Vaughn Monroe, Wayne Newton, Smokey Robinson & the Miracles, the Temptations, Johnny Mathis, Connie Boswell, Doris Day, Bette Midler with Johnny Mathis, Ella Fitzgerald, Marie Osmond, the Ray Charles Singers, Chet Atkins, Herb Alpert & the Tijuana Brass, the Three Suns
クリスマス・ソングの特集なんてものをやれば、クライマクスに向けて、浅いところにどういう曲をおくか、深いところにどういう曲を配すか、イヴはこの曲、クリスマス当日はこの曲、というように、ある程度は計画を立てることになります。
ところが、当てごととなんとかは向こうから外れるで、逆の並べ方のほうがよかったのかもしれないと、このごろは思っています。これからやる予定の曲をキーワードにして、歌詞を探しにきていらっしゃる方が相当数にのぼるのです。その種の曲はほとんど深いところに配してあるので、このままいくと、需要期が終わったころに登場することになります。
そこで、計画をすこし変えて、深いところに出すつもりだった重要曲にそろそろ手をつけようと思います。そのトップが、もっとずっと深いところに出すはずだった、Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!、または短縮してたんにLet It Snow!といわれている曲です。以下、短いタイトルを使います。
◆ ポップコーンと笑い声弾ける吹雪の夜 ◆◆
ファースト・ヴァース。
But the fire is so delightful
And since we've no place to go
Let it snow, let it snow, let it snow
「外はひどい天気だけれど、暖炉のそばはすごく気持ちがいい、どちらにしろ行くところなんかないのだから、雪よ降れ、雪よ降れ、雪よ降れさ」
とくに面倒ごとのない箇所なので、つづけてセカンド・ヴァース。
And I brought some corn for popping
The lights are turned way down low
Let it snow, let it snow, let it snow
「降りやむ気配はまったくないし、ちゃんとポップするためのコーンももってきたし、灯もずっと落としたから、雪よ降れ、雪よ降れ、雪よ降れさ」
ポップコーンは、for poppingとなっているので、まだできていないもの、これから炒めるようになったものです(ディノ盤では、I brought me some cornに聞こえる。brought with meという意味だろう)。たしかに、二人でキャッキャッいいながら、フライパンで弾けさせるから楽しいわけで、ただ袋をやぶってパクパクでは、二人だけのクリスマス・パーティーの演出にはなりませんな。いや、あなたの失敗演出のことをいったわけじゃないですがね。
個人的には、マシュマロを焼いたり、エビセンベイを揚げて膨らませたりするのも、お子さんのいらっしゃるご家庭向きだと思いますよ。食べ物が膨らむのを見ると、だれでも思わずニコッとなるようです。でも、ヤケドにはくれぐれもご注意を。中華エビセンベイは油を使いますし、マシュマロはあわてて食べると、中のほうが猛烈に熱くてフギャッと叫びます。
◆ 吹雪も味方につけて ◆◆
閑話休題。以下はブリッジ。
How I'll hate going out in the storm
But if you really hold me tight
All the way home I'll be warm
「別れのキスをするときがきたら、吹雪のなか、外に出るのはイヤだろうなあ、でも、きみが強く抱きしめてくれれば、うちに帰り着くまでずっと暖かいだろうね」
その場にあるものをなんでも武器にして戦うストリート・ファイターの流儀のようなもので、雪が降れば、それを最大限に利用して、できるだけ多くのものを彼女から引き出そうとするのが、この語り手の考え方のようで、仕事ではやり手なのでしょう。この雪なんだから、最後のキスもひとつ熱々のを頼むよ、というわけでありますな。最後といったくせに、ぜんぜん最後じゃなくて、あとを引くようにもっていってしまう戦術なのでしょう。
しかし、わたしはこのブリッジでちょっと驚きます。だって、帰るんですからね。いまだったら、ふつうは泊まるんじゃないでしょうか。今昔の男女関係のちがいが、思わぬところにニョキッと顔を出して、ギョッとしました。まあ、まだ知り合ってそれほどたたない、ほんとうに「親密」になる一歩手前のカップル、という設定なのでしょうが。
最後のヴァース。
And, my dear, we're still goodbye-ing
But as long as you love me so
Let it snow, let it snow, let it snow
「暖炉の火は消えかけているけれど、ぼくらはまだ別れをいっている最中、でも、きみがぼくのことを愛してくれているかぎりは、雪よ降れ、雪よ降れ、雪よ降れ、という気分さ」
we're still goodbye-ingがじつにうまいですねえ。「そろそろ帰ろうかな」「まだいいじゃないの、もうすこししたら雪も小やみになるかもしれないわよ」「うん、そうだな」と繰り返すだけで、いっこうに腰が持ち上がらない、別れがたい恋人たちの気分がよく出ています。
もちろん、goodbyeはあくまでも名詞であり、動詞はないので、これは文法的にイレギュラーな用法で、そこに作詞家の工夫があるのです。60年代派の諸兄姉は、ナンシー・シナトラのThese Boots Are Made for Walkin'における、イレギュラーな-ingの連発を思い起こされよ。truth-ingとかですな。
◆ ラットパック組の二人 ◆◆
まずは看板に立てたディーン・マーティン盤から。このアレンジ、レンディションのいいところは、まず第一にテンポの選択です。ちょっと速めで軽快なこのテンポは、ディノのキャラクターにも合っていますし、この曲のムードにも合っていると感じます。ディノのLet It Snow!には、もうすこし遅いべつのテイクがあるのですが、それと比較しても、やはり、この一般に出まわっているヴァージョンのテンポがいいと感じます。
なんといっても、俳優としてのディノのキャラクター・イメージにぴったりくる仕上がりだから、素晴らしいと感じるのだと思います。シャンペンを片手に、ポップコーンをそっとジャケットのポケットに忍ばせて、今日知り合ったばかりの女性のところに、にこやかに押しかけてくる伊達男が、彼の映画の一場面のように眼前に彷彿とします。彼のお気楽そうなプレイボーイぶりに、この軽快な、それでいながら、速すぎないテンポはほんとうにふさわしいと思います。
ディノ盤にくらべると、兄貴分のフランク・シナトラ盤は、かなり速いテンポで、これはちょっと速すぎると感じます。この吹雪だ、どうせ行くところなんかありゃしないじゃないか、腰を落ち着けてシャンペンを飲もうぜ、という、ディノの余裕綽々たるプレイボーイぶり、明日は明日の風が吹くさ、というノンシャランぶりにくらべると、シナトラというのは、じつは、すごくまじめな人なのだ、という印象を受けるから、歌というのは不思議なものです。
並べて聴いて思いましたが、ディーン・マーティン盤の軽快さを演出している隠れた要素は、フェンダー・ベースの使用ではないかという気がしてきました。いや、ただフェンダー・ベースを使っただけではダメで、プレイヤーしだいなのですが、それにしても、シナトラ盤は、テンポが速いわりには、微妙な重さを感じます。それはスタンダップ・ベースのせいではないでしょうか。
◆ 他の男性シンガー陣1 ◆◆
ここに並んだシンガーのなかで、つぎに好きなのはエアロン・ネヴィルです。ネヴィル盤もシナトラ並みの速いテンポでやっています。声が薄くて軽い人なので、このテンポは合っています。ハモンドのオブリガートもけっこう。なかなかいい盤です。気に入らないのは、ベースの根性が悪いことと、うまくもないテナー・サックス・ソロです。
キャロル・ケイというベーシストの凄味をもっとも感じたのは、4分だけの素晴らしいグルーヴで押し通したトラックを聴いたときでした。この曲は4分音符だけでいこうと決めたら、つまらないシンコペーションなど入れないのです。子どもや半チクなリスナーに下手くそだと思われても、まったく気にしないプロ魂をもっています。
それにくらべると、このエアロン・ネヴィル盤のベースは、プロじゃありません。4ビートで、4分のランニング・ラインで押し通せばいいのに、ちょこちょこと飾りのシンコペーションを入れて、流れを壊しているのです。俺はうまいんだ、といいたいのでしょうね。下手じゃないかもしれませんが、馬鹿です。ドラムと並ぶグルーヴのだいじな担い手が、グルーヴを壊してどうするんです?
大昔のヒット・ヴァージョン、ヴォーン・モンロー盤は、さすが、という出来。歌詞のことを忘れれば、このヴァージョンを看板に立てたかもしれません。音としては非常にいい出来だと感じますが、ディノの千両役者ぶりのまえでは、やはり、一段落ちると感じます。しかし、バックの女性コーラスのアレンジなんか、気持ちいいですよ。
アンディー・ウィリアムズ盤もなかなかけっこうな出来です。昔はこの人のことを馬鹿にしていましたが、最近はおおいに見直しています。とにかく、サウンドがいいのです。フランク・シナトラや美空ひばりが、全体のサウンドの出来に「責任をとった」例を考えれば、アンディー・ウィリアムズのさまざまな曲のサウンドのよさは、歌い手の意思のあらわれととっていいような気がします。
◆ 他の男性シンガー陣2 ◆◆
スモーキー・ロビンソンは大好きなシンガーだし、途中で家庭に入ってしまった彼の奥さんの声も好みです。ミラクルズ盤は、奥さんが主としてリードをとっていますが、そういうことと関係なく、サウンドが鈍重で、まったくいただけません。とくにベースの鈍くささは特筆に値します。ハリウッド録音なんかであるはずがなく、デトロイト製にちがいありません。ジェイムズ・ジェマーソンというのは、じつはこの程度の人じゃないかと目を開かれました。
ついこのあいだ、Rudolph the Red-Nosed Reindeerのときに、テンプテーションズのコード改変を賞賛しましたが、この曲でもメロディー・ラインを変えています。でも、これはペケ。この曲から、歌うと思わず浮き浮きするメロディー・ラインをとって、なにをつくるつもりだったのか、理解に苦しみます。黒人シンガーのバラッドというのは、基本的に好かないのですが、これは悪い典型例。シンガーがひとりで入りこんで陶酔しているのを眺めるほど馬鹿馬鹿しいことはありません。勝手にやってろ、です。
ジョニー・マティスは、いわば「ロマンティック・バラッド」の人ですから、女性のなかにはこういうのをお好みの方もいらっしゃるのでしょう。もうすこし重心を上にもっていって、軽く歌ってくれないと、男としては、おいおい、です。露骨な口説きの歌へと堕落しています。
その点、薄さっぺらさと軽さが身上のウェイン・ニュートンには、そういういやらしさはありませんが、だからといって、とくにいいヴァージョンということもありません。毒にも薬にもならない中性的な歌声が、この人に生きる場所をあたえたとつねづね思っていますが、いい年をして、ラス・ヴェガスでまだこれをやっているのかと思うと、ちょっと怖いものがあります。芸能人というのは、因果な商売です。
◆ 女性シンガー、そしてふたたびディノ ◆◆
ドリス・デイは遅すぎてべたつき、ベット・ミドラーは騒々しくてしらけ(好きなシンガーですが、向いていない曲を選んだと感じます)、エラ・フィッツジェラルドは歌のうまさ以外になにも売るものがない極貧ぶりに寒気を感じ、マリー・オズモンドはシンガー以前なので、はじめから論ずるに足らず、女性の盤にはどれもうんざりです。コニー・ボズウェル(なんて人はわたしは知らなかったのですが)だけは、サウンドも歌もまずまずです。間奏のマヌケなストリングスも管もいただけませんが。
この曲は歌い手のキャラクターを峻別するので、女性シンガーにははじめから無理だと感じます。過度の感情移入はどんな場合も禁物ですが、Let It Snow!は、感情移入の仕方によって、全体の味わいがまったく変わってしまう不思議な曲です。性的な暗示があるのだから、それをどう表現するか、いや、正確には、それをいかに表現「しない」かが重要だと感じます。
ディノのヴァージョンが飛び抜けてよいと感じるのは、彼がプレイボーイのキャラクターを演じつづけてきたおかげではないでしょうか。プレイボーイには性的魅力が必須ですが、それは生なものではなく、抽象化されたものだから、プレイボーイたりうるのです。生だったら、ジゴロ、ホストです。この抽象化と隠し味のユーモアが、ディノのLet It Snow!を気持ちのよい、そして、思わずニヤッと笑ってしまうヴァージョンにしていると感じます。
女性が歌うと、性的な暗示がほどよく表現されず、ベット・ミドラーのように、じゃあ帰れば、といわんばかりの味気なさになったり、ドリス・デイのように、まとわりついてくる印象になるのではないでしょうか。歌うとなんとも気持ちがよく、ジャンプやスラーのような難所もなく、カラオケ向きだと思うのですが、歌えばあなたのキャラクターが白日のもとに露呈されるので、お気をつけになったほうがいいでしょう。あ、いかん、もう歌っているところを聴かれてしまった!
◆ インスト盤 ◆◆
インスト盤はあまりいいものがありません。コードがシンプルすぎて、オーケストラ・リーダーたちに嫌われたのかもしれません。わが家には、不思議なことに、オーケストラものがないのです。
チェット・アトキンズは、もう貫禄のプレイで、ギターについてはいうことがありません。この盤の欠点はバックのサウンドがチープなことなのです。レス・ポールもエイリアンですが、チェットも異星人と地球人のあいだに生まれたハーフぐらいに感じます。
ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラス盤は、テンポを落として、しっとりとしたムードでやっていますが、いつものTJBサウンドにしたほうがよかったのではないかと感じます。はじめて聴いたとき、いつハルがバシーンとスネアをハード・ヒットして、テンポ・チェンジを宣言し、いつものTJBスタイルになるのかと待ちかまえたのに、最後まで同じテンポだったので、ありゃ、とコケました。
スリー・サンズ盤は、毎度毎度申し上げるように、わけのわからないアレンジで、コミック・ソングかよ、です。ひょっとして、スリー・サンズのクリスマス・アルバムは、スタン・フリーバーグあたりの線を狙ったのかもしれません。だとしたらあと一歩で成功、ちょっと惜しかった、という感じです。だって、コミックなのかどうなのか、考えこんでしまうのだから、コミック盤としても十分な成功とはいえないじゃないですか。
◆ 存在を否定したいヴァージョン、存在を祈るヴァージョン ◆◆
じつは、ほかにも数ヴァージョンあるのですが、どこといって語るべき特長がなかったり、罵倒する以外には取り上げようのないものだったりして、書くのが面倒なだけなので、リストから外しました。以前言及したシカゴやアメリカのクリスマス・アルバムには、ほとほと呆れ果てたので、もうもっていないことにして、以後言及しません。あれがあるじゃないかなんて、わたしをつっつくと、額に青筋を立てて、いかにダメなヴァージョンかと滔滔と論じ立てることになるから、刺激しないでください。シカゴとアメリカのクリスマス・アルバムはわが家にはありません。よろしいですね?
いらないものを山ほど抱えて思うのは、ぜひこの曲を歌ってほしかった人たちの顔です。まずジョニー・マーサー。彼の声とキャラクターとシンギング・スタイルに、この曲はドンピシャだと思います。つぎにキング・シスターズ。彼女たちなら、いやらしくならず、「まだいいじゃない、もうすこし飲みましょうよ」という、軽やかで和やかな雰囲気が出せたでしょう。
いや、わが家にないだけですよ。わたしがこんなに聴いてみたいと思うのだから、どこかに存在しているのじゃないでしょうか。存在していなかったら、頭のなかでつくっちゃうから、やっぱり「存在」しているのです。
それにしても、ほんの20種類ほど聴いただけで、疲労困憊しました。もっとヴァージョンの多い曲(あるんですよ、まだ何曲も!)を3曲もやれば、25日を迎える前に、棺桶に頭から突っ込んでいるもしれません!