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Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra
タイトル
Pocketful of Miracles
アーティスト
Frank Sinatra
ライター
Jimmy Van Heusen, Sammy Cahn
収録アルバム
Sinatra's Sinatra
リリース年
1961年
他のヴァージョン
Harpers Bizarre, original soundtrack for a Frank Capra picture "Pocketful of Miracles"(邦題『ポケット一杯の幸福』)
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◆ シナトラ=リドルの黄金コンビ ◆◆
Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra_f0147840_028525.jpgこの曲は、映画『ポケット一杯の幸福』のために書かれたオリジナル曲なのだと思いますが(いま調べたら、アカデミー・ベスト主題歌賞にノミネートされているので、やはり映画用に書かれたもの)、それにしては、フランク・シナトラのヴァージョンは映画と同じ1961年の11月に録音されていて、じつに素早いカヴァーです。シナトラがその作品をたくさん歌った作者たち、ジミー・ヴァン・ヒューゼンとサミー・カーンから、直接にアプローチを受けたのかもしれません。

あれほど集めたシナトラの曲のなかにこれは入っていなくて、じたばたしてみた結果、昨日になって、シナトラ・ヴァージョンをようやく聴くことができ、おおいに満足しています。その勢いで、よし、すぐに書いちゃおう、と決めてしまったのです。まだ十数回聴いただけですが、ハーパーズ・ビザールの看板は下ろし、シナトラのほうを立てようかと思ったほどです。

結局、ハーパーズ・ビザールを先に立てたのは、ただひとつ、ハル・ブレイン、キャロル・ケイ、トミー・テデスコというハーパーズ盤のメンバーが、「わたしのリズム・セクション」だからにすぎません。シナトラ盤のグルーヴもけっして悪くはないのですが、小さいころからから親しみ、年をとってからは、金と時間と情熱をかけて、その仕事ぶりを深く研究した人たちがもっているグルーヴは、もはや「わたしのもの」でもあり、なにものにも替えがたいのです。

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『ポケット一杯の幸福』スティル。左からピーター・フォーク、グレン・フォード。フォークはこの映画でアカデミー助演男優賞にノミネートされた。

でも、シナトラ盤も気持ちのよい、晴れやかな仕上がりです。いつも思うのですが、シナトラはミディアムからアップで、バンドのグルーヴに乗ってスウィングするときが素晴らしく、わたしの好みからいうと、テンポのゆるいバラッド、とくにリプリーズ時代のものは「歌いすぎ」に感じます。この曲はミディアム・シャッフル(ブリッジではベースだけ4ビートに変化する)で、シナトラも軽くグルーヴに乗って歌っていて、さすがにうまいレンディションだと感じます。

Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra_f0147840_0363243.jpgこの曲のアレンジャーはネルソン・リドルで、セッショノグラフィーのマスター番号から判断すると、同じセッションで、さきにCome Rain or ShineとNight and Dayという重要曲を録音しています。Pocketful of Miraclesで、声がすこししわがれているのは、大物をうたったあとだからでしょうか。それはそれで、味になっていると感じます。

ネルソン・リドルのアレンジメントについていえば、この曲に関しては、ストリングスのラインがなかなか美しいと感じます。また、ブリッジでフルート部隊とグロッケンシュピールに同じフレーズをプレイさせていますが、なるほど、こういうのがオーケストラ・アレンジの要諦なんだな、と思います。

そう考えると、フィル・スペクターやブライアン・ウィルソンのやったこと、つまり、ブライアンのいう「第三の音」を生みだすことも、ある意味でこういう伝統的アレンジ手法を、ロックンロールの文脈にパラフレーズしたにすぎなかったことがわかります。Pet Sounds Sessionsのライナーでだったか、キャロル・ケイが、ブライアンは映画音楽の世界に進むべきだったといっていましたが、いまになって、彼女のいわんとしたことがよくわかりました。ブライアン・ウィルソンは、正規の教育を受けたわけではないのに、ネルソン・リドルのようなアレンジャーたちが使っている、伝統的編曲手法の根幹を自然に理解していたことを、彼女は身近にいて感じたのでしょう。

◆ もはや記憶喪失 ◆◆
もう自分には記憶力があると思ってはいけない、なにごとも調べて確認しないと、間違いを大量生産してしまうことになると自覚、自戒しているのですが、どうやら昨日のPocketful of Miracles その1 by Harpers Bizarreでも、いくつか間違いを生産してしまったようです。

Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra_f0147840_0391963.jpg昨夜、泥縄でデイモン・ラニアンの「マダム・ラ・ギンプ」、すなわち、フランク・キャプラの映画『一日だけの淑女』と『ポケット一杯の幸福』の原作を読み返していて、「あれ?」と思いました。クリスマス・ストーリーではなかったのです。

デイモン・ラニアンという人は、「三人の賢者」や「ダンシング・ダンのクリスマス」ここここでも読める。ラジオ・ドラマのMP3もある)やPalm Beach Santa Clausなど、作品数が少ないわりには、多くのクリスマス・ストーリーを書いています。

Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra_f0147840_0411088.jpg映画『ポケット一杯の幸福』で、「デイヴ・ザ・デュード」が「マダム・ラ・ギンプ」からリンゴを買うシーンでは雪が降っていたし(いや、これもヴィデオを見返せば、記憶違いだったことがわかるかもしれない!)、テーマ・ソングも「五月のど真ん中なのに、ジングル・ベルが聞こえる」といっているし、もうひとつ、キャプラの代表作『素晴らしき哉、人生!』が、これはもう正真正銘、ガチガチのクリスマス・ストーリーだということもあり、そういうあれこれのせいで、てっきりクリスマス・ストーリーだと思いこんでしまったようです。平伏陳謝。ついでにいうと、映画は確認していませんが、『野郎どもと女たち』も、すくなくとも原作はクリスマス・ストーリーではないし、「ザ・スカイ」が惚れる女性も救世軍の尼さんではありませんでした。もう一度平伏陳謝。

Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra_f0147840_0422466.jpgなんだか、食品会社の経営者か政治家か大学高校の運動部のコーチにでもなった気分です。ああいうのをやると、頭ばかり下げることになるな、なんて思っていましたが、どうしてどうして、ブログひとつやっただけでこのていたらくです。

記憶違いの連打に驚いて、あれこれ調べているうちに、デイモン・ラニアンがもう一曲、これは正真正銘折り紙付きのクリスマス・ソング、うちにも10種類以上のヴァージョンがあるはずの有名曲と関係があることがわかりました。犬も歩けば棒に当たる、猫も鳴けば餌をもらえる(これは記憶違いではなく、いま捏造した)、なんでも調べてみるものです。どのクリスマス・ソングかは、その曲を取り上げるときに明かすことにします。明日にでもやります。

◆ あらすじを少々……音楽ブログになんでや? ◆◆
デイモン・ラニアンの短編小説の多くは、禁酒法時代のブロードウェイ界隈を舞台にしています。登場人物も、同じ人物がときに主役になったり、脇役になったりする連作短編スタイルで、『一日だけの淑女』『ポケット一杯の幸福』の主役のひとり、デイヴ・ザ・デュードも、いくつかの短編に顔を出す(二つ名が示すように)ギャングのボスです。

Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra_f0147840_04438100.jpg小津安二郎の戦後映画を「母のいない父子家庭の嫁ぎ遅れた娘を、父親、友人、親戚が心配し、父の老後を案じて結婚を渋る娘を説得し、または騙し、どうにかこうにか結婚させる物語」と単純化することができるならば、ラニアンの短編は「世にも酷薄な行為で人を傷つけ、官憲および世間を敵にまわしてきた悪党(たち)が、思わぬ契機によって、はからずも善行をなしてしまう物語」と単純化することができるでしょう。

もちろん、ファンタシーです。現実のギャングはギャング、現実の娼婦は娼婦、現実の博奕打ちは博奕打ち、ラニアンが描いたようなお人好しのはずがありません。しかし、ファンタシーであるがゆえに、ラニアンの作品群の永続性は保証されてもいます。リアリズム手法全盛の現代には、もうこういう作家はあらわれないでしょう。

『一日だけの淑女』『ポケット一杯の幸福』の原作である「マダム・ラ・ギンプ」はこんな話です。「マダム・ラ・ギンプ」はびっこ(gimp)の老婆で、ブロードウェイ界隈でリンゴを売り歩いて、かろうじて暮らしています。ギャングのボス、デイヴ・ザ・デュードは、ラ・ギンプのリンゴは幸運のお守り(いえ、幸運といっても、博奕のツキのことですが)だといって、彼女を見かければ、いつもリンゴを買ってやっています。

Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra_f0147840_0512820.jpgところがある日、デイヴはラ・ギンプがたいへんな苦境に陥っていることを知ります。彼女には娘がいたのですが、物心つかないうちに、スペインに住む妹にあずけていました。その子どもが成長し、スペインのさる伯爵の息子と婚約して、相手の一家に母親を紹介するために、アメリカに里帰りすることになったというのです。

問題は、娘は母親のラ・ギンプが落ちぶれたリンゴ売りだとは知らず、立派な、暮らし向きのよい人間だと思いこんでいることです。ラ・ギンプは格式高いホテルの便箋と封筒をくすね、それで娘に手紙を書き、返信は、ホテルのクラークに頼んで、脇からわたしてもらっていたのです(このあたり、映画では拡大したエピソードが加えられている)。さらに問題なのは、伯爵は、跡取り息子の嫁は立派な家の出でなければならないと考え、この旅で嫁の母親を見定め、結婚を許すかどうかを決めるつもりだ、ということです。

Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra_f0147840_154824.jpgここで悪党デイヴは、ボスらしい侠気を発揮し、ラ・ギンプのために一肌脱ぐことに決めます。デイヴは嫁さん(といっても、もちろん素っ堅気ではなく、元ダンサーなんですがね。当然、色っぽい女性でしょう)にラ・ギンプをあずけ、またたくうちに貴婦人に変身させてしまいます。

そのうえで、さる判事(といっても、それはたんなる綽名で、じっさいの稼業は賭けビリヤードをはじめ、各種のきわめてクリエイティヴなイカサマ博奕や、その他の雑多な悪事なんですがね)をつれてきて、これまた貫禄たっぷりの紳士に変身させ、ラ・ギンプの亭主としてキャスティングします。

かくして、この即席の夫婦は港で娘と婚約者の一家を出迎え、「かつてアメリカが沈めたスペインの軍艦を全部浮かべられるほど」の涙が流れることになります。米西戦争のときに、マニラで沈められちゃったスペイン艦隊のことですな。ヴェンチャーズの曲にそういうの(たしかArmadaというタイトル)がありましたっけ。あれはだれがオリジナルだったか。

Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra_f0147840_1113222.jpgいやま、それはともかく、このへんで芝居に幕を下ろせば無事だったのですが、デイヴ・ザ・デュードは、各界の名士を招いて盛大な歓迎パーティーを開くことにします。といってもギャングのボスですから、「名士」とはそのじつ、ギャング、密輸業者、泥棒、博奕打ち、ダンサー、お尋ね者、新聞記者、その他の偽物ばかり。

これが騒動のもとで、小説でもちょっとしたトラブルになりますが、映画では、ニューヨークじゅうの悪党たちが、変装して(といっても、タキシードで「正装」しているのですがね)集合しているというので、凶器準備集合罪(かどうかは知りませんが)の疑いをかけられ、警官隊に包囲されるという大騒動になってしまいます。

映画は、この窮境をいかに(キャプラらしい)心温まる結末にもっていくかがクライマクスとなりますが、小説のほうは、そういうゴタゴタはなく、もっとささやかなエンディングになっています。ラニアンが『一日だけの淑女』を見て、ストーリーの改変をおおいに賞賛したのは、このあたりの見せ場の作り方のせいでしょう。自分が『一日だけの淑女』の「著者」と書かれているのを見て、ラニアンはわざわざ「今後は、わたしと『一日だけの淑女』をむすびつけるのはやめてもらいたい、あの映画の出来はほぼ全面的に監督と脚本家の手腕に負っている」とコメントしたと伝えられています。

Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra_f0147840_0553688.jpgラニアンは、ストーリーなんか気にしないといっていたそうです。読者はストーリーなんか忘れてしまう、記憶するのはキャラクターだ、というのです。たしかに、印象的な人物ばかりが登場しますが、そのキャラクターを際だたせるのは、世に言う「ラニアン語」による、比喩を駆使した描写でしょう。たしかに、ストーリーは忘れてしまいますが、「いいか、いつもだれかの金に躰をこすりつけているんだ、そうすれば、いつかは金のかけらがこっちにくっつくからな」といった、いかにもラニアンらしい「金言」もまた、けっして忘れられるものではありません。

ウェブで調べていて、レイモンド・チャンドラーのスタイルは、真似すればそれなりにうまくいくこともあるだろう、だが、ラニアンのスタイルを模しても、馬鹿に見えるだけだ、と書いている評を読みました。いや、まったく。ラニアンのスタイルはラニアンにしかできません。「小説とはスタイルである」とするなら、ラニアンほど純粋な小説家はまずいないでしょう。

◆ 謝辞、および、よしなしごと ◆◆
わが家にはフランク・シナトラのPocketful of Miraclesがなく、今回の特集でぜひこの曲を取り上げたいと思い、仲間内に「回状」をまわして、ご喜捨を願ったところ、さっそく「靴下」にそっと入れていってくれた方がいました。どうもありがとうございます>O旦那。おかげで、当ブログが目指している、「楽曲の立体的な肖像の提示」が、このオールタイム・フェイヴァリットについてもでき……いや、すくなくとも試みることができました。

Pocketful of Miracles その2 by Frank Sinatra_f0147840_1162487.jpgもつべきものは友とはよくいったもので、高校時代にテレビで見たきりで、その後、まったくお目にかかれなかった『ポケット一杯の幸福』を、つい先年、ようやく再見することができたのも、仕事で知り合った友人がエアチェックしたものをダビングしてくれたおかげ、かつて、ふとラニアンを原文で読みたいと思ったら、さっそくペンギン・ブック版のGuys and Dollsを送ってくれたのも中学高校の後輩、なんだ、自分で買ったのはハーパーズのPocketful of Miraclesと、『一日だけの淑女』だけじゃん、でありました。

ところで、今回発見した過去の勘違い記事は、時間の余裕ができしだい修正します。わたしのチョンボの証拠を押さえておきたい意地悪な方は、すぐに証拠保全にとりかかったほうがいいでしょう。

おっと、またしても、忘却とは忘れ去ることなりby菊田一夫をやっちゃいました。『ポケット一杯の幸福』では、アン=マーグレットがデビューしています。いやもう、後年のお色気なんかまるっきりなくて、清楚が清楚の羽織を着て清楚の披露目にやってきたみたいな美少女ぶりで、ぶったまげました。シンガーとしての彼女も好きなのですが(Let Me Entertain Youなんか、じつにけっこうな曲ですぜ)、『ポケット一杯の幸福』を見て惚れ直しました。
by songsf4s | 2007-12-05 00:08 | クリスマス・ソング