- タイトル
- Vaya Con Dios
- アーティスト
- ナンシー梅木
- ライター
- Larry Russel, Inez James, Buddy Pepper
- 収録アルバム
- アーリー・デイズ1950-1954
- リリース年
- 未詳(オリジナルは1953年)
コメントでtonieさんがお書きになっているように、日本ではナンシー梅木の芸名で、そしてアメリカではMiyoshi Umekiとして活躍された梅木美代志さんが、去る8月28日、ミズーリ州リッキングで亡くなられました。享年七十八。息子さんによれば、ガンの合併症が原因だったそうです。
日本の新聞は外電そのままの簡単な記事を掲載しているだけですが、わたしが見たニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、シカゴ・トリビューンは、彼女のストーリーをきちんと書いています。どこで活躍したにせよ、どこで亡くなったにせよ、彼女は日本人なのですが。
直接にアメリカの各紙の記事を訳出しかけたのですが、トラブルは避けたいので、記事をもとに彼女のキャリアを以下にまとめます。この「小伝」では、わずらわしいので、「です」「ます」ではなく、「だ」「である」にします。また、内容はわたしの知見にもとづくものではないので、そのつもりでどうぞ。
◆ ナンシー梅木小伝 ◆◆
梅木美代志は、鉄工所経営者の娘、九人兄妹の末っ子として、1929(昭和4)年5月8日に、小樽に生まれた。子どものころはラジオから流れてくる歌舞伎とアメリカのポップ・ミュージックが好きだったが、両親がアメリカの音楽を嫌ったため、布団にもぐって、頭からバケツをかぶって歌の練習をした。
終戦後、小樽駐屯地のクラブで、一晩に90セントのギャラでGIのバンドの歌手として歌うようになった。ラジオから流れてくるダイナ・ショア、ペギー・リー、ドリス・デイなどのアメリカの歌手の影響を受けたという。
やがてナンシー梅木の芸名でラジオやテレビに出演するようになり、日本RCA(とあるが、現在の日本ビクターか?)と契約し、アメリカン・ポップ・スタンダードを録音した。1955年、あるタレント・スカウトの目にとまり、彼女はニューヨークにむかった。まもなく、マーキュリー・レコードと契約を結び、さらにテレビにも出演するようになった。そうした番組のひとつ、「アーサー・ゴドフリー・ショウ」を見たジョシュア・ローガン監督が、彼女を次作の『サヨナラ』に起用し、アカデミー助演女優賞の獲得につながる。
1958年12月、ロジャーズ&ハマースタインのブロードウェイ・ミュージカル『フラワー・ドラム・ソング』に、パット・スズキとともに主演に起用された。このミュージカルは2年にわたって上演され、59年にはこの演技によって梅木はトニー賞最優秀女優賞にノミネートされた。
「タイム」誌は、「彼女の温かみのある演技は、魔術的な鎮静作用ともいうべきものを生み、劇場全体をリラックスさせる」と伝えている。
61年にこのミュージカルが映画化されたときも梅木は主演した。映画出演としては、ほかに『Cry for Happy』(61年、共演グレン・フォード)、『The Horizontal Lieutenant』(62年、共演ジム・ハットン)『A Girl Named Tamiko』(63年、共演ローレンス・ハーヴィー)などがある。
テレビ出演としては、シテュエイション・コメディー『The Courtship of Eddie’s Father』(ビル・ビグスビー主演)がもっともよく知られていて、これは1969年から72年までつづいた。また「ドナ・リード・ショウ」「ドクター・キルデア」「ローハイド」「ミスター・エド」をはじめ、多数の番組にゲスト出演している。『The Courtship of Eddie’s Father』の終了とともに、梅木はショウ・ビジネスから引退した。
テレビ局重役だったフレデリック・オーピーとの結婚は長くつづかず、68年、ドキュメンタリーのプロデューサー兼監督のランダル・フッドと再婚したが、76年には死別した。梅木はノース・ハリウッドで映画編集機材レンタルと大学向け映画プログラム企画のビジネスをしていたが、5年ほど前に引退して、ミズーリに移った。
長男のマイケル・フッド氏によれば、彼女は芸能界でのキャリアを語ることを好まなかったという。彼女が息子の前で見せた過去の片鱗は、死の四カ月ほどまえ、孫に日本の歌を教えたときのことだけだった。
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以上で「小伝」を終わります。各紙は『サヨナラ』の内容をかなりくわしく伝えていますが、その点はすべて省略しました。直接に映画を見ることもできますし、この映画の梗概については日本語の文章がたくさんあるので、そちらを参照なさるか、または、わたしが利用した新聞記事をご覧ください。
◆ ヴァイア・コン・ディオス ◆◆
以上で今夜の更新の目的は果たしたのですが、せっかくなので、彼女の残したカタログから一曲、選んでみました。このアルバムのなかでいちばん出来がよいという意味ではなく、最後の歌として、これがいいのではないかと考えただけです。「あなたとともに神がましますように」というタイトルが理由です。
オリジナルかどうかはべつとして、最初にこの曲をヒットさせたのはレス・ポールとメアリー・フォードのコンビで、1953年夏にビルボード・チャート・トッパーになっています。ナンシー梅木盤は、レス・ポール=メアリー・フォード盤の直後の録音と考えられます。
ナンシー梅木盤Vaya Con Diosの歌詞は、レス・ポール=メアリー・フォード盤とは構成も内容もいくぶん異なり、セカンド・ヴァースを飛ばしてサード・ヴァースにつなげ、日本語詞のサード・ヴァースとブリッジを入れる余裕をつくっています。
おそらくは南米のどこかの田舎町が舞台で、恋人または夫と遠く離れている女性の独白という形式をとった歌です。すこし歌詞を見てみましょう。ファースト・ヴァースとコーラス。
The town is sleeping
Now the time has come to part
The time for weeping
Vaya con Dios my darling
May God be with you my love
農園は暗くなり、町は眠りについた、別れの時、涙の時がきた、ヴァイア・コン・ディオス・マイ・ダーリン、神があなたとましますように、といった意味でしょう。スペイン語はわからないのですが(突っ込みお待ちしていますよ>nk24mdstさん)、vaya con diosをそのまま英訳すると、go with godとなるそうで、旅路にある愛しい人のために祈っているのでしょう。
ナンシー梅木盤では、以下の日本語のブリッジとヴァースが加えられています。
忘れないであの夜を いまごろはどこにいるのだろう
お休みなさい恋人よ 街の灯も消えました
今宵また夢でお話ししましょ
◆ シンガーは死して歌声を遺す ◆◆
急いで音源だけを手に入れたので、データがわからないのですが、ナンシー梅木盤は、コーラス部分や後半のヴァースなどをデュエットで歌っています。これがなかなか素晴らしい響きなのです。ナンシー梅木自身のダブル・トラックのように聞こえますが、だとしたら、日本ではずいぶん早い時点でこの手法を試みたことになるでしょう。しかし、日本の音楽をよく知っているわけではないので、なんともいえません。いずれ、知識が追いついたときには訂正する可能性もあります。
アルバム全体を通して、Ice Candyの素晴らしい印象を裏切るものではなく、もっと早く聴くべきだったと後悔しています。しかし、当ブログで彼女の歌うIce Candyをとりあげたおかげで、とにもかくにも、彼女の他の録音にたどり着くことができたので、それでよしとします。なにもしないよりは、遅れてもなにかするほうがまし、という歌もあるくらいですから。20世紀以降のパフォーマーは、こうしてメディアのなかになにかを遺し、後世に伝えられるのは、パフォーマー自身にとっても、われわれにとっても幸運なことなのだと改めて思いました。
梅木美代志さんのご冥福をお祈りします。
◆ 補足(2007年9月8日) ◆◆
Vaya Con Diosについて、その後、いくつかのことがわかったので、補足しておきます。
まず、tonieさんからいただいた、「アーリー・デイズ」のライナーの記載について。ナンシー梅木は、1950年3月4日の初録音以来、日本ビクターに25曲を録音し、Vaya Con Diosは、53年11月録音、翌年2月のリリースとのことです。また、レス・ポール=メアリー・フォードのスタイルを参考に、ナンシー梅木自身によるダブル・トラック・レコーディングをおこなったそうです。レス・ポールの発明は、意外に早い段階で日本でも取り入れられたことを確認できました。
レス・ポールが最初に多重録音をおこなったのは1947年のLoverのことで、これはインストゥルメンタルでした。ヴォーカルでダブル・トラッキングを最初におこなったのはパティー・ペイジと思われ、曲はTennessee Waltzでした(1950年?)。レス・ポールは、どうやら自分の発明を盗まれたように感じたらしく、すぐにメアリー・フォードのヴォーカルも入れて、Tennessee Waltzをリリースしています。
1953年のVaya Con Diosについては長いストーリーがあります。ナンシー梅木盤の誕生にもいくぶん関係があるので、しばらくご辛抱を。
レス・ポールは1953年春にこの曲のアニタ・オデイ盤を聴き、即座にレコーディングすることを決めます。しかし、キャピトルはすでに彼らのつぎのシングルとして、I'm a Fool to Careを50万枚プレス済みで(レス・ポールというのはかなり話し好きな人らしく、ジョーク連発のあいだに挟まって出てくる数字ですから、話半分、あるいはそれ以下に受け取っておくほうが安全です)、これが障碍になりました。
レス・ポールは「そんなものはトイレに流すか、地下室に放り込んでしまえ」といったそうです。自分が録音したものなのですが! いや、そもそも、この盤はのちにリリースされているので、トイレには流さず(詰まっちゃいます!)、一時的に地下室に放り込んだだけだったようです。
キャピトルの担当者はすぐにVaya Con Diosを見つけ、折り返しレス・ポールに電話して、「これはひどい代物じゃないか」といったところ、レス・ポールは「ひどい代物だったんだ。歌詞を変えたんだよ。ずっとよくなっている」と言い返しました。あれこれやりとりがあって、「つぎのシングルをVaya Con Diosにしないなら、今後、わたしから手に入るのはリズム・トラックだけになるぞ」というレス・ポールの「脅迫」に、会社側が屈する形になりました。
つい長々と書いてしまいましたが、このエピソードをご紹介したのは、彼が「歌詞を変えた」といっているからです。レス・ポールは以下のように説明しています。
「なぜ歌詞を変えたかというと、May god be with you, my darling, may god be with you, my loveというところが、ぴったりはまって聞こえなかったからだ。Vaya con Dios, my darling, may god be with you, my loveと歌ったほうがはるかにいい。みんな、これはどういう意味だろう、と首をひねるにちがいない。あるいは、ディスクジョッキーが番組のなかで説明できるように、意味を印刷して配ってもいい。どちらにしろ、だれもが「いったい、これはどういう意味だ?」と思うに決まっている。大ヒットまちがいなしさ」
まったく仰せのとおり。こういう鋭敏さがなければ、彼のヒット連発はなかったにちがいありません。しかし、Vaya Con Diosの出足は遅れたそうです。B面のほうが先にヒットしてしまったからです。たしかに、そちらの曲も「キラー」だから、無理もありません。B面はI Really Don't Want to Know、すなわち、日本でもさまざまなカヴァーが生まれた「知りたくないの」だったのです。
刺身のつまのはずだったレス・ポールの話が長くなりましたが、これで、ナンシー梅木盤がどのヴァージョンをもとにしたかがわかりました。アニタ・オデイ盤ではなく、レス・ポール=メアリー・フォード盤です。コーラスの歌詞が同じだからです。
以上、ナンシー梅木については「アーリー・デイズ」のライナー、レス・ポールについてはThe Best of Capitol Mastesのライナーを参照しました。tonieさん、ご協力ありがとうございます。
(わたしと同じように、そういうことに関心を抱く人もいるかもしれないので付け加えておきます。Vaya Con Diosでは、ギブソンが最初につくったレス・ポール・モデルのゴールド・アーチトップのプロトタイプを使ったそうです。のちにメイン・ギターとなるブラック・アーチ・トップはまだ届いていなかった、といっています。)