まじめにハーモニーをとると、閑話の余裕はなくなるので、寄り道はなし、本日はさっそく本題へ。
「夏なんです」のつぎは鈴木茂の「花いちもんめ」。これはたぶんハーモニーも鈴木茂自身が歌っていて、大滝詠一の声は聞こえない。好きな曲ではあるけれど、通過。
そのつぎは細野晴臣がフォールセットで歌う(スモーキー・ロビンソン風に歌ったという意味で、たしか「スモーキー・ヴォーカル」とクレジットにあったと思う)「あした天気になれ」で、これもハーモニーは作者自身だろう。
そして大滝詠一の「台風」。なかなか面白い曲だが(鈴木茂がジミヘンしちゃう!)、ハーモニーの興味はない。
そしてやっと大滝詠一のハーモニーがある「春らんまん」にたどり着く。ちょっとコピーをネグッていたし、この曲はいままでのものと異なり、ほぼストレートな3パートなので、そういうのもあるということを示す意味もあって、冒頭をコピーしてみた。
はっぴいえんど「春らんまん」
この曲のハーモニーは、ライン自体は複雑でもなければ、イレギュラーでもないのだが、確信はないものの、メロディーと上のハーモニーは大滝詠一、下のハーモニーは細野晴臣という組み合わせのようで、そこは変則的である。
コードはD、A、Gだけ。ヴォーカル・ラインもDメイジャーのスケールに収まっている。なお、このシリーズでは音程をドレミで書いてきたのだが、どうにもまだるっこしいので、C、D、Eに切り替えた。あしからず。
むこうを ゆくのは お は る じゃないか
上 D- D- F#-G-G-F#-E-D- D- D- F#-F#-F#-F#
中 A- A- D- D-D-Db-B-A- A- A- D- D- D- D
下 F#-F#-A- B-B-A- G-F#-F#-F#-A- A- A- A
はく じょなめつきで しらんかお
上 F#-E-D- E-D- E- F#-E-D- D- D- D
中 Db-B-A- B-A- B- Db-B-A- A- A- A
下 A- G-F#-G-F#-G- A- G-F#-F#-F#-F#
ちょっとあやふやなところはあるが(その場合は素直にコードから考えていった)、だいたいこのようなラインだろうと思う。メロディーがハーモニーのようなラインにいってしまうところ(「知らん顔」)で、かなりイレギュラーな感触があるが、それ以外は、このままギターのコード・プレイになりそうな三和音を構成している。
ただ、メロディーとそれぞれの音域から選択されたのだろうが、結果的にちょっと変わったヴォイシングになったといえるかもしれない。素直なはずなのに、ビートルズのThis Boyのような感触はなく、また変なラインになっているのではないかと疑わせる響きだ。呵々。
これまでの流れからそれるスタイルだが、これは気分のいいハーモニーで、あの時代の文脈でいうなら、大部分の日本のバンドは、こういう当然の処理もきちんとやってくれなかった。
また、イントロのサウンドおよびグルーヴは、はっぴいえんどの全カタログのなかでも三本指にいれるほど好ましいと感じる。ベース、キック・ドラム、アコースティック・ギターのコードが一体になったグルーヴは気持がいいし、ハーモニカの音が重なった響きも、おお、と思う。
「はいからはくち」同様、この曲にもスロウ・ダウンしたコーダがついているが、これは出所が明白である。バンジョーという傍証まで付けておいてくれたのだから、間違えようがない。
Buffalo Springfield - Bluebird
その後、あまり聴かなくなってしまったが、バッファローを知ったころは、この曲が大好きだった。スティーヴ・スティルズのオープン・チューニングのアコースティック・ギターのプレイがなんともいえず魅力的だった。アコースティック・ギターをこんなにワイルドに弾く人ははじめてだった。
はっぴいえんどが初期にこの曲をライヴでやっている。オリジナル曲がそろうまではレパートリーにしていたのではないだろうか。
はっぴいえんど(ヴァレンタイン・ブルー)「Bluebird」
はっぴいえんどではなく、バッファローのほうのBluebirdの1:30あたりからスティルズがギターで繰り返す、A-B-D-Dというリックも、はっぴいえんどはすこし変形し、デビュー盤で引用している。
はっぴいえんど「続はっぴいえんど」
「春らんまん」のあとにあるのは、五十音をモティーフにした歌詞の「愛飢を」で、これこそ独立した曲と云うより、カーテンコールのような趣で、「春らんまん」は事実上のエンディングと云っていいだろう。
デビュー盤の最初の曲が「春よ来い」で、セカンド・アルバムの事実上のエンディングが「春らんまん」という曲になったのは、むろん意図的なことだろう。
はっぴいえんどは、ある種のメタ・ミュージックをやっていたので、歌詞にも一次元上の意味がもたせてあった。
「春よ来い」の「家さえ飛び出なければ、いまごろみんな揃って、おめでとうがいえたのに」は、意味が重層化して聞こえる。
伝統的な日本の枠組をはずれずに生きていれば、疎外感を味合わずにすんだだろうに、という意味もむろんあるだろう。
いっぽう、音楽的に云うと、「従来の日本のロックを否定しなければ」と云っているようにも思える。
彼らは既存のバンドやロック・ファンからずいぶん攻撃された。その詳細はほとんど覚えていないが(いや、いまだに根に持っている発言もあるが!)、わたしも、友人たちも、このようなバンドが出現したことを心から歓迎していたので、雑誌で見るそのような反撥はじつに意外だった。
彼らも、いくぶんの覚悟があってはじめたこと(とりわけ「日本語のロック」宣言)だろうが、それにしても、あれほど露骨な反感を示されるとは思っていなかったのではないだろうか。
内田裕也なんか、なにいってんだ、こいつは、と高校生のわたしは怒り狂った(「日本語のロックというけれど、歌詞がぜんぜん聞こえないじゃないか」)。他人ですらそうなのだから、当事者たちは、ほとほとうんざりしたにちがいない。
そして、それはボディブロウになったと思う。客は入らない、盤は売れない、日本語のロックだなんていって、全然音に言葉がのっていないじゃないか、などと「ロックな人」たちは言葉のつぶてを投げつける。これではやりきれない。
「春らんまん」の歌詞を聴くと、彼らの落胆を感じてつらくなる。「ほんに春はきやしない、おや、また待ちぼうけかーい」とは、そういう意味ではないか。意義のあることだと思ってはじめたけれど、結局、受け入れられなかった、という失意を感じる。
ハッピーか否かにかかわらず、もう、エンディングはすぐそこに迫っていた。
Click and follow Songs for 4 Seasons/metalside on Twitter