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『雨月物語』と『祇園囃子』──川口松太郎による溝口健二映画の原作小説二種 後篇
 
溝口健二監督『祇園囃子』(1953年、大映)と、その原作である川口松太郎の『祇園囃子』の関係は、『雨月物語』以上に微妙だと感じます。プロットはほぼアイデンティカルで、「忠実な映画化」といえるほどなのですが、しかし、後味は異なるものでした。

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祇園の芸妓・美代春(木暮実千代)のもとに、昔の客と朋輩だった名妓のあいだにできた娘、栄子(若尾文子)がやってきて、舞妓になりたいと頼みます。

美代春は妹分をもちたいのは山々ではあるものの、舞妓ひとりを一人前にするには大金が必要で、その投資を回収するには時間がかかり、途中でやめられでもしたら大損害になるため、慎重に栄子の意思をたしかめます。だれか確実な保証人をたてるのが手順ですが、栄子の没落した父(進藤英太郎)は、あれこれといって、ついに判を押しません。

溝口健二『祇園囃子』冒頭


美代春はそれでも栄子の境遇に同情し、また、自分も旦那を持たず、頼り身寄りがないので、栄子を妹分にして、舞妓に育てます。映画では、垢抜けない少女が、稽古に通い、身なりも変わり、だんだん美しくなっていく過程が描かれています。

美代春は「吉君〔よしきみ〕」という茶屋の女将から、栄子を一人前に育て、着飾らせるための費用を借りるのですが、この女将はその金を楠田(河津清三郎)という「車輌会社」(小説によれば鉄道車輌の製造会社らしい)の常務から借りたというので、美代春はあとで驚くことになります。茶屋に借りをつくるのはともかく、旦那でもない客から借りるのは本意ではなかったのです。

視覚的には、前半は若尾文子が美しく粧っていく過程がポイントですが、プロットのロジックとしては、芸妓、舞妓(あの方面にはまったく不案内でこの二者の区別はつかないのだが)というのは、花代だけでは生活が成り立たず、「後援者」を必要とする、むくつけにいえば、男に買ってもらわねばやっていけない、ということが描かれています。

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もうひとつ、若尾文子演じる栄子(のちに美代栄と名乗る)が「アプレ」だということも示唆されます。アプレとは「アプレゲール」の略、辞書には「(フランスapres-guerre)戦後、特に第二次大戦後に育った、昔からの考え方や習慣にとらわれない人たちをいう。戦後派。アプレ。⇔アバンゲール」とあります。

ただし、川口松太郎の原作では「アブレ」と書かれています。昔だから、こういう訛りというのはいかにもありそうで、誤植ではないだろうと思います。昔の年寄りはデパートを「デバート」、アパートを「アバート」などといったもので、それと同じようなものでしょう。

アプレの栄子は、花街のしきたり、前近代性に対して、何度か疑問を呈し、異議を唱えます。「そしたら、お座敷でお客はんが強引に口説きはったら、基本的人権を無視したことになりまっしゃろ」などというわけです。当然、これは後半への伏線です。

車輌会社の楠田は栄子が気に入り、旦那になりたいという意思を示します。いっぽう、楠田は運輸省(のように思われる)の役人を口説き落とし、重要な案件の認可をもらおうと画策しているところで、この役人は、美代春姐さんに一目惚れします。

京の舞妓は、その時期になると、東京に行って演舞場で「東おどり」を見ないと肩身が狭いのだそうで、楠田は栄子を東京に誘い、栄子は姐ちゃんも一緒ならというので、美代春もともに東京に行きます。

これは旅費滞在費、さらに二十四時間ぶっ通しの花代まで払うので、おおいに金のかかることのようで、楠田のほうはもう栄子の旦那になったつもりでいますが、栄子のほうは、まだ楠田を旦那と定める決心がついていません。

築地の旅館で、役人は美代春の酌でくつろぎ、さておもむろに口説こうというかまえになったとき、楠田は別室で栄子を抱きすくめ、無理に一儀に及ぼうとしますが、栄子は抵抗し、楠田の唇を思い切り噛んでしまいます。

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これが案外な大怪我で、大事な客をしくじりそうになった「吉君」の女将(浪花千栄子)は、非公式の「ふれ」を出して、他の茶屋にも美代春と栄子を呼ばないように圧力をかけます。

楠田の側は、自分の欲望はさておき、大事なのはここ一番の切所に来た商売のほうで、なにがなんでも役人を口説き落とさなければならないところに追いつめられているため、楠田の部下(菅井一郎)は、吉君の女将を通して美代春に、役人と枕を交わすように圧力をかけます。

吉君の女将の怒りが解けなければ、祇園町での芸者稼業は立ちゆかず、美代春は役人と寝て、女将の勘気をときます。しかし、美代春がなにをしたかを察した栄子は、座敷に出られるといわれても喜ばず、美代春を嘘つきとなじります。

みんな嘘つきばっかや、京都の名物も、世界の名物もみんな嘘や、お金で買われるのが上手な人間が出世して、下手なのがうちみたいにボイコットをされるのやないか、もう厭や、躰を売らないと舞妓できんのやったら、うちやめる、姐ちゃんも芸者やめて、と栄子は泣いて頼みます。

美代春は、この暮らしに狎れきった躰やさかい、いまさらどうしようもないけれど、あんたの躰だけはきれいに守ってやりたいとおもっているのえ、と諭します。そして、先夜、栄子の父が来て、二進も三進もいかずに金に困っているというので、栄子に黙って工面してあげたことを告げます。

「あたしは親も兄弟もないさびしい女やけど、人間の情けだけはもっているつもりや」と美代春はいい、「人間なんていくらお金や地位があっても、ひとりきりやったら、みんな心細うてさびしいもんや」と栄子を諭します。

二人は、お互いがいることに満足を感じ、同時に、ある諦念のもとに、稼業に戻っていくところで映画は終わります。

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原作もほぼ同様のプロットで、二人が蹉跌を乗り越えて稼業に戻るところで終わっているのですが、映画とは微妙にニュアンスが異なっています。

どちらかというと、小説のほうが、栄子をわが娘にしたいと願う美代春の心が、なめらかに飲み込めるように思います。こうしているわけにはいかない、あたしは働きに出る、でも、あんたは舞妓がいやなら、やめていい、という美代春の、栄子の一本気な気性とまだ男を知らない躰を守ってあげたいという心情が、無理からぬものに思えるのです。

映画でも小説でも、冒頭で、一人前の舞妓ができあがるまでにはたいへんな投資が必要であり、昔のように借金で舞妓の躰を縛ることのできない時代なのだから、たしかな身元引受人が必要だということが描出されています。

それなのに、最後にいたって、美代春は、栄子の父に金をやって娘と縁を切らせるだけでなく、それまでの投資すらもうどうでもよいと考え、ただ栄子を自分の娘にしたい、栄子の好きなようにさせたいと願うわけですが、そこのところが、そうだなあ、とすんなり思えるのは、原作のほうなのです。

すこし戻りますが、栄子が楠田に怪我をさせ、その結果として、美代春と栄子が祇園で商売できなくなる、というのは川口松太郎版も溝口健二版も同じです。

映画では、その解決策として、楠田が賄賂攻勢をかけている役人と美代春は枕を交わすことになります。こちらのほうが、原因と結果をわかりやすくつなげてある、といえるでしょう。楠田に被害を与えたのだから、楠田の利益になることをして、謝罪するわけです。

ひるがえって、小説では、楠田の一件それ自体より、むしろ吉君の女将の怒りが問題で、女将の要求している、べつの客に美代春は躰を売ることになります。

これはどうでしょうねえ。映画は観客にわかりやすい形にしたのに対し、小説のほうは、花街の構造を示す形にしてあるというあたりでしょうか。

そして、映画では、このときの花代と、栄子の父に工面してやるものは、直接にはつなげられていないのに対し、小説では、このときの五十万がそのまま栄子の父に渡されたように描かれています。それで、美代春は名実ともに栄子の「母」になるのです。

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小説より映画のほうが、エンディングの流れがスムーズですが、感銘を受けたのは小説のほうでした。以下、小説のエンディングあたりを省略しつつ書き抜きます。

「うちかて親も姉妹もないやろ。間違いだらけな女やけど、人間の情だけは持っているつもりや。情に縋って生きて行けたら、案外気楽にいけるのやないやろか」
「………?」
「もし栄子がほんまの子になってくれたら、五十万は安いもんや」
「うん」
(略)
 宇治の佐藤に躰を売って五十万の金を造った。そして二人は親子になった。同時に、栄子の髪は『割れしのぶ』から『福わけ』に変った。処女を失った証明の髪飾りだ。
「旦那を持って女になりました」
 と、吹聴する飾り方を、怪しまない習慣の世界が、大都会の真中に存在する。哀れな貧しい親子だけが、不合理な風習に反抗して、
「美代栄の水揚げの旦那はうちや」
 と、美代春は笑っている。
「襟替えの時の旦那もお母ちゃんや」
 と、栄子は笑ってつぶやいたが、笑い切れない淋しさを、肩の上に乗せながら、悲しい稼業を続けて行った。


作家は「笑い切れない淋しさ」と云っていますが、映画を見たあとでこちらを読むと、心が明るくなるように感じました。花街のしきたりに負けた格好ですが、それでも、小説のほうが、一矢を報いた感覚があります。

それは、美代春が栄子の躰を買ったという比喩にあらわれています。二人は、祇園のしきたりを逆手にとり、自分たちのやり方を偽装して、自分たちの気持と栄子の躰を守るのです。

そして、美代春自身は、金で躰を売ったというネガティヴな行為を、生きることを肯定するためのなにものかに変換し得たことが、小説では明快に描かれています。

『雨月物語』とは異なり、『祇園囃子』の脚本は依田義賢単独です。脚本家の考えというのも計算の外におくわけにはいきませんが、『祇園囃子』の映画と小説のニュアンスの相違は、やはり川口松太郎と溝口健二の資質の違いに由来するような気がします。

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by songsf4s | 2012-05-31 23:46 | 映画