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蔵原惟繕監督、佐藤勝音楽監督『俺は待ってるぜ』(日活) その3
 
ほかのスタジオの映画もそうですが、とりわけ日活アクションには、しばしば引込線が登場しました。すでに取り上げた映画でいうと、舛田利雄の『赤いハンカチ』は横浜の貨物駅のシークェンスで幕を開けます。

ギャングの取引には好都合な場所だからということなのかもしれませんし、車輌の動きや足元が見えてしまう遮蔽物としての面白さ、そして凶器になりうることなどから、映画的効果を生みやすいということもあるのでしょう。

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以上三葉は『赤いハンカチ』冒頭の、石原裕次郎、二谷英明が榎木兵衛を追う貨物駅のシークェンスより。

前回の記事のコメント欄に書いたのですが、子どものころから引込線が好きでした。そのことは散歩ブログの「神奈川臨海鉄道本牧線の旅、とはいかなかったが──続・日活アクション的横浜インダストリアル散歩」という記事にも書きました。

映画をつくる側としては、いろいろ好都合なことがあって引込線を使うのでしょうが、見る側が引込線に魅力を感じるのはなぜなのだろうと思いました。最初に思いついた答えは、非日常性です。

子どものとき、引込線の線路の上を歩いていたときに感じたのは、非日常の喜びだったのだといま振り返って思います。「これはふつうならできない遊びだ」と感じていました。旅客を運んでいる鉄道の線路を歩くなど、まずできないことですから。

また、旅客を運ばない、いわば「プライヴェートな鉄道」であることも、子どもにはひどく面白く感じられました。言い換えると、ちょっと大げさですが、「この世の埒外にあるもの」としての深い魅力をたたえていたから、子どものとき、引込線のそばにいくたびに、その上を歩かずにはいられなかったのだろうと思います。

蔵原惟繕が、『俺は待ってるぜ』で、レストランのセットを「横浜市中区新港町埠頭構内」などという、無番地の奇妙な場所においただけでなく、線路の「砂かぶり」とでもいうべき近さに引込線があるという設定にしたのは、たんなる視覚的な面白さだけでなく、二重三重に主人公をこの世の外、といって大げさなら、「日本の日常の外」におきたかったからではないか、と想像しました。

◆ 外部の異界と内部の異界 ◆◆
『俺は待ってるぜ』のレストランのセットが置かれた位置については、前回、くどくどと書いたので、今回はセットそのもののことを少々書きます。

レストラン「リーフ」は、全体に西部劇の酒場のようなムードでデザインされています。とくにファサードを横から見たショットでは、ポーチのせいで西部劇のセットそのものに見えます。

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二、三段の階段を上がってポーチの上に立つと、ドアがあります。このドアも内部の床面より高いところにあり、二、三段の短い階段を降りて内部に入るようになっています。つまり、ポーチの階段を上がり、ドアをくぐると、こんどは階段を降りるという、考えようによっては無駄な構造になっているのです。

このような構造にした意味は、ひとつには視覚的効果の問題でしょう。いくつか、じっさいにそのようなショットがあるのですが、室内から見て、店に入ってきた人間を「奥」に配置しながら、なおかつ、その存在を強調することができるのです。

ドアから入ってきた人物は、やや高いところに立つことになるので、ちょうどステージに上がったように、室内の人間や調度のなかに沈まないのです。

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また、人物が水平移動するのは、見るものの視覚運動が小さいのですが、垂直方向に移動すると、目玉の運動量が増大し、映像に躍動感が生まれます。そのあたりの効果も狙ってのものでしょう。

もうひとつは、視覚的な意味ではなく、「界」と「界」の境を越える動作を強調し、レストラン「リーフ」の内部を「異界化」するためでしょう。リーフの位置自体が「異界」だということはすでに書きましたが、いわばその念押しとして、二重の異界化を、この松山崇のデザインになるセットはおこなっているのだと考えます。

ドアをくぐって店内に入ると、左手に長めのコントワールがあります。昼間はコーヒーや紅茶が、夜は酒が供されるのでしょう。このカウンターの両端には大型のコーヒーミルとラジオが見えます。正面奥の左側は調理場で、短めのカウンターがあり、できあがった料理がおかれます。

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開巻直後、石原裕次郎に誘われ、北原三枝がレストラン「リーフ」にやってきて、ドアのところに立ったたきの、彼女の「見た目」のショット。ドアが高いところにあるので、左手のコントワールの向こうにいる裕次郎を見下ろす格好になる。

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調理場内部からドアのほうを見たショット。右側にはコントワールの端が見え、その上にコーヒーミルが置かれている。

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こちらは逆方向からのショット。石原裕次郎の頭の向こうに調理場がある。そのむかって右はプライヴェート・スペースで、北原三枝がそこから出てきたところ。

調理場のむかって右にはドアがあり、その向こうには店主の私室があります。松山崇は、ここでも部屋と部屋の境に段差をつけました。私室には、店から二段ほどの階段を降りて入るようになっているのです。

この場合も、店の入口の階段と同じ視覚的効果を狙ってのデザインでしょう。部屋の奥からドアを狙ったたショットでは、手前のベッドに腰掛ける人物と、ドアから入ってきた人物に重みの差をつけずに、均等に見せることができます。

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そして、メタフィジカルなレベルにおいては、このプライヴェートな「奥の院」は、日本から遠くへ、遠くへと進むこのセット・デザインにおいて、最遠の地であり、もっとも異界性が強い場所として設計されています。

主人公がこの部屋のベッドに寝転がって、タバコを吸いながら思うのは、兄から手紙が届き、この日本を、心だけでなく、肉体としても離れ、ブラジルに渡るときのことにちがいありません。「ここではないどこか」で「自分ではない誰か」として生きる夢です。

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その想念のささやかな道具立てとして、壁には南米の地図が張られています。ここには日本を思わせるものはなにもなく、「異界性」は極限に達しています。

二十歳ぐらいのときにこの映画を再見して感じたのは、日本からの解放でした。いま改めてセットがおかれた場所と内部デザインを検討して思うのも、やはりそのことです。

1957年ほどには、あるいは、わたしがこの映画を再見した1970年代半ばほどには、いまは日本脱出願望というのは大きくありません。経済状態の好転とともに、むしろ日本肯定の気分が広がっていったのを、わたしは他人事のような遠さで見ていました。

しかし、大震災とその後の政治、経済、メディアを見ていて、1957年となにも変わっていない、あるいはさらに悪化したのではないかと思えてきました。

われわれはやはり、荒涼たる土地のはずれに小屋掛けし、その奥まった狭い一室に追い詰められ、いつか、この日本ではないどこかで、我慢のならない日本的政治風土から遠く離れ、それまでの自分とは異なる人間として暮らす夢を見ているような気がします。

今回は横浜の町のショットも検討すると予告したのですが、それは次回にさせていただき、本日はここまで。


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by songsf4s | 2011-09-19 23:33 | 映画