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増補ハル・ブレイン・ディスコグラフィー読解 その5 John Lennon
 
ハル・ブレインがジョン・レノンのRock'n'Rollセッションに参加したことは、盤のクレジットや、ハルの回想記ですでにわかっていたことです。

しかし、Rock'N'Rollにはアルバム全体のパーソネルが記載されているだけで、どのトラックでハル・ブレインがプレイしたかという詳細は不明でした。少なくとも、自分のものや友人のものなど、昔の各種エディションのクレジットを見るかぎりではわかりませんでした。その後のエディションにはトラック・バイ・トラック・データが書かれたのかもしれませんが。

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Rock'n'Rollのメイン・ドラマーはジム・ケルトナーです。ハルはいわば「ゲスト」でした。そのあたりの経緯は明らかにされていませんが、こんな空想をします。

ジム・ケルトナーほどダブル・ドラムの経験があるドラマーはそうはいないでしょう。ジョー・コッカーのMad Dogs and English Menツアーでジム・ゴードンと組んで以来、じつにさまざまなドラマーとダブルをやっています。

ケルトナーは、スペクターとバックビートのことを話していて、ダブルをやってはどうか、と提案したのではないでしょうか。あるいは、ジム・ゴードンとのダブルがいかにすばらしい経験だったかをスペクターに話したのかもしれません。

では、ダブルをやってみようか、ということになり、たとえばジム・ゴードンに連絡をとったけれど、ツアーで不在、アールもつかまらない、では、ハル・ブレインはどうだ、となったけれど、かつての経緯があるので、スペクターは難色を示し、ハルと親しかったケルトナーが、ではこの件は自分に一任してくれと提案した、なんて道筋はどうでしょう。ハル・ブレインは、ジム・ケルトナーを通じて依頼されたといっています。

◆ オフィシャル・リリース ◆◆
どうであれ、かつての「フィル・スペクターのドラマー」は、1964年のライチャウス・ブラザーズのセッションを断って、スペクターの不興を買って以来、十年ぶりにスペクターのセッションでプレイすることになります。エモーショナルな場面もあったのではないかと思いますが、ハルは、スペクターとの再会についてはなにもいっていません。

今回の増補ディスコグラフィーで、ハル・ブレインがプレイしたトラック(の少なくとも一部)が明らかになりました。まずは一曲。ファッツ・ドミノ・クラシック。

ジョン・レノン Ain't That a Shame


すべてジム・ケルトナーとのダブルのはずですが、左右に分離するといったミキシングではないので、ほんとうにダブルかどうかも確信が持てないほどです。まして、どのプレイがだれ、なんてことはまったくわかりません。

Ain't That a Shameは、ハルがいるといないとに拘わらず、このアルバムのなかでドラミングが好きな曲でした。フェイドアウト直前のストップタイムのプレイは盛り上がります。とくにタムタム一打のアクセントが最高。

どちらもマスターフルなプレイヤーですが、ハル・ブレインのファンだったジム・ケルトナーは、いにしえのフィル・スペクター・シングルの売り物だった「ハルのフェイドアウト」を聴きたがったのではないでしょうか。わたしは、フェイドアウトのフィルインはハルがプレイしたと想像しています。

どうせ当たるも八卦当たらぬも八卦をやったのだから、行きがけの駄賃にもうひとつギャンブルをやります。この曲のすばらしいピアノはリオン・ラッセルのプレイでしょう。

つづいて、どうしてジョンがこの人の曲を好んでカヴァーしたのか、いまだに不可解というしかないラリー・ウィリアムズのヒット。

ジョン・レノン Bony Moronie


こちらは、フィルインのプレイで、一人ではないことがわかります。ハル・ブレインはかならず譜面を書いたそうです。プレイ方針が固まったら、細かいフィルインにいたるまで譜面で固定し、以後、何テイクとろうと、同じプレイをしたというのです。

ジャン&ディーンのトラックでは、しばしばアール・パーマーとユニゾンで叩きましたが、そういうケースでは、もちろん、譜面がなくては正確に合わせることはできなかったでしょう。このトラックでも譜面を書いたのだろうと想像します。ジム・ゴードンとのダブルでは、ケルトナーは譜面なしでやったはずで、これは彼にとっては新しい経験だったかもしれません。

◆ ハル・ブレイン、ジョン・レノンと対話す ◆◆
以前、ハル・ブレインの回想記を訳し、いくつかの書肆に持ち込んでみました。ある版元で出版が具体化したのですが、その後に不可解なことが起こり、この話は立ち消えとなってしまいました。アメリカの版元からイエスの返事も、ノーの返事もこなかったのです。

こんな馬鹿な話はあとにも先にも、このとき一回だけ。ノーならわかりますが(いや、このレベルの本なら、たいていは二つ返事でOKになる)、ノー・リプライとはあきれ果てます。結局、その原稿は宙に浮き、いまもHDDに眠っています。

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ということで、ここで再利用というか、正確には「初利用」ですが、その原稿から、ジョン・レノンに関する部分を以下にコピーします。

(この直前に、フィル・スペクターがプロデュースしたレナード・コーエンのセッションに関する記述がある。しかし、これはおそらくハルの記憶違いで、コーエンのセッションはジョン・レノンのセッションよりずっとあとの77年か78年と考えられる)これはさらなる大物につながるきっかけとなった。ジョン・レノンのプロジェクトだ。

ある日、ジム・ケルトナーが電話してきて、フィルがプロデュースするジョン・レノンのセッションで、彼とダブル・ドラムを組んでくれないかといってきたのだ。これはジョンがニューヨークにもどって最後の仕事をするまえのことで、ウェストコーストでのプロジェクトだった。もちろん、ぜひやりたい、と返事をした。

そして、A&Mスタジオで、ふたたび新しいウォール・オヴ・サウンドがつくられることになった。われわれは大きなスタジオに集まり、おおぜいの人間がジョン・レノンという名前をひそひそいいかわしていた。われわれはそこで一週間ほど働き、それからレコード・プラントに移って、さらに二、三晩、レコーディングをつづけた。全員がこのプロジェクトに没頭した。これはフィル・スペクターの最高の仕事だった。素材とバンドがじつにみごとにからみあわされたのである。

ジョン・レノンは、ちょっとシャイで、気どらない人間だった。わたしはじぶんのドラムのセットアップをチェックするために、たいてい早めにスタジオに顔を出したが、いつもジョンがさきにきていて、ギターをチューニングし、歌のおさらいをしていた。わたしたちは、ゆっくりと楽しいおしゃべりをした。音楽業界の話や、そして彼のキャリアの土台を形づくることになったさまざまなレコードのことだ。彼はわたしに、いっしょに仕事をしてくれてありがとうと礼をいい、そして、彼の好きなレコードのほとんどは、若いころに聴いた「あなたの」ウェストコースト録音のレコードだ、と打ち明けてくれた。

ジョンにとって、このころはつらい時期だった。ヨーコと別居していたために、みじめな状態で酒ばかり飲んでいた。彼のそばにはジュリアンがついていた。わたしも息子のデイヴィッドといっしょに暮らしていて、ふたりとも似たり寄ったりの状態だった。ジュリアンはたしか十二か十三で、ドラムを叩きたがっていた。ある日、われわれ四人はハリウッドで昼食をともにし、ふた組の父と息子だけの楽しいひとときをすごした。

フィルとジョンとの最後のセッション以後、どちらにも再会することはなかった。ジョンはニューヨークにもどり、あのすばらしいカムバックをやってのけた。その後の悲劇は、いまもわれわれみなの胸にある。ドナはいまでもときおり電話をくれて、フィルがよろしくいっている、と伝えてくる。われわれはフィルに、隠遁をやめて、オールスター・フィル・スペクター・リヴューをやろうと頼んだ。もし彼が、われわれ全員をまた集めたら、あらゆるショウの息の根を止める、ショウのなかのショウになるだろう。フィルはぜったいにケチなことはやらなかったのだから。


ハル・ブレインという人は、他人の悪口はいわないし(例外はバーズとタートルズ。両方とも「嘘つき」と斬って捨てた)、ひどい音楽だ、などといったネガティヴなこともいいません。

ジョン・レノンのRock'n'Rollは、ジョンにとっても、フィル・スペクターにとっても、代表作とはいいがたいし、スペクターはケッセル兄弟(バーニーの息子たち)をボディーガードにし、銃を携行してスタジオにあらわれ、一度、発砲したことまであったといわれています。

最後はマスターテープをもって姿をくらまし、ジョン・レノンは苦労してテープを取り返し、残ったトラックを自分でプロデュースしてリリースにこぎつけたと伝えられています。

そういう状況の劣悪さを考えれば、できあがったアルバムは悪くないとはいえるでしょう。いくつかはいかにもジョン・レノンらしいレンディションで、ソロのジョン・レノンが大嫌いだったわたしのような人間にとっては、唯一、腹の立たないジョン・レノンのソロ・アルバムでした。

まあ、その程度のものであり、ハルの誉め方はいくらなんでも行き過ぎだと思いますが、要するに、ハル・ブレインというのはそういう人間なのだ、ということでしょう。

◆ アウト・テイクス ◆◆
ジョン・レノンとフィル・スペクターにとってはどん底の時期だったこともあり、また、Come Togetherをめぐる訴訟問題の解決手段(Youn Can't Catch Meを録音する義務があった)でもあったので、Rock'n'Rollセッションは、かつてのLet It Beセッションのように、巨大なゴミの山を残しました。

そうしたトラックは、後年、CD化の際のボーナスやら、寄せ集め盤の埋め草やら、ボックスのトラックなどとしてリリースされることになったのはご存知の通り。ハル・ブレインがプレイしたトラックは、そのようなアウトテイクのなかにも撒き散らされています。

ジョン・レノン Angel Baby


オリジナルは、かのロージー&ディ・オリジナルズです。ジョンもポールも、ロージー&ディ・オリジナルズこそが、ロックンロールという雑駁な音楽形態の魅力を体現しているのだ、と強調していました。つまり、下手こそよかれ、の精神であり、ナンセンスな遊び、わけのわからないデタラメな曲こそがロックンロールなのだ、という立場です。一言でいうなら、absurdityこそがロックンロールの本質である、ということです。それを実践したのが、You Know My Nameなのだとポールはいっていました。

ビートルズ You Know My Name


もうabsurdityは十分に堪能なさったかもしれませんが、Anthologyに入っていたこれなんかも、同系統の「ロージーの息子」といえるでしょう。

ビートルズ Los Paranoias


どうせ化けるなら、サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドなんて大仰なものではなく、ロス・パラノイアスに化けるほうがずっとよかったのではないかと思います。わたしは二曲とも好きです。

閑話休題。さらにアウトテイクはつづきます。あ、いや、ロージー&ディ・オリジナルズのオリジナル・ヴァージョンを聴きますか。なんたってジョンとポールが絶賛した曲ですからね。下手くそも下手くそ、チューニングすら合っていなくて、一聴、忘れがたい印象を残します。

ロージー&ディ・オリジナルズ


ギター、サックス、ヴォーカル、よくまあ、そろいもそろってみごとに音をはずせるものです。グレイト!

で、もう一度、閑話休題。Rock'n'Rollセッションのアウトテイクをつづけます。没後リリースのMenlove Avenueで陽の目を見た、Rock'n'Rollセッション唯一のオリジナル曲、それもジョン・レノン、フィル・スペクターの共作、なんていっても、期待すると打っちゃりを喰らう、Here We Go Again。



なんというか、隔靴掻痒というか、あとちょっと、どこかをどうにかできていたら、それなりの仕上がりになったのじゃないかと、焦れてしまうような出来です。やっぱり、精神状態、健康状態の悪さがこういうところに出てしまったような気がします。

ドラミングは、地味ながら、随所に興味深いフレーズがあり、60年代のキングと70年代のキングが、あれこれ相談しながらプレイをつくりあげていった様子がうかがわれて、どちらも大好きなわたしとしては、その場で二人のプレイを見られたら天国だっただろうと思います。

最後は、フィル・スペクターとハル・ブレインに永遠に結びつけて語られるであろう曲を。やはり、ハル・ブレインがいるから選ばれたのでしょう。

ジョン・レノン Be My Baby


うーむ。こういうときは何もいわないほうがいいのでしょう。ジョン・レノンの精神状態をまざまざと見る思いです。楽しいと同時に、肩のこるセッションだったとハル・ブレインがいっているのは、こういうところなのだと思います。

いやはや、こちらも肩がこってしまう回でした。フィル・スペクター、ジョン・レノン、ハル・ブレイン、ジム・ケルトナーと役者がそろいすぎて、結局、どこへたどり着いたのかよくわかりませんでした。


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Anthology
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Past Masters
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Anthology 3
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by songsf4s | 2011-07-19 23:46 | ドラマー特集