『マルホランド・フォールズ』を取り上げたものの、どこまで書いたものかと思案投げ首で、ちょうど割り込ませる材料もあったので、そちらへ逃げていました。
当家では平気でエンディングまで書く習慣ですが、この映画はまずいなあ、と思います。いや、意外性を狙ったものではなく、最後の最後は略し、事件の全貌だけを書くならかまわないような気もしますが、とりあえず、周辺的なことを書きつつ考えることにします。
◆ 大クラシック・カー展覧会 ◆◆
今回の再見で、これはすごいな、と思ったのは、映画の本質には関係ないかもしれませんが、クラシック・カーが山ほど登場することです。









渋滞を起こすほどではありませんが、とにかく、ふんだんに出てきます。これだけそろえた努力はやはり大声で賞賛しないと、だれも面倒な仕込みをしなくなってしまうので、「すごい!」「えらい!」と大声を上げておきます。このように背景に凝ることが映画を楽しくするのだから、むしろ映画作りでもっとも重要なベーシックスである、というべきかもしれません。
ひるがえって、日本でこういう映画を撮ったらどうなるでしょうかね。昭和30年代をあつかった映画なんてのがヒットしましたが、あれはCGばかりで、「背景の美」がまったく感じられませんでした。偽物を使うと画面がチープになります。







あの30年代風映画がそうだというのではなく、連想の糸がそっちに行っただけですが、小津安二郎を真似するなら、キャメラ・ポジションなんかほうっておいて、「すべてホンモノを使う」という精神を真似するべきで、それが小津映画の厚みの源泉になっています。
デイヴ・クラークは、カスタネットやジャック・ニーチー風のストリング・アレンジメントなどという些末なことは切り捨て、リヴァーブで音を厚くし、同時に音の周囲に「にじみ」をまぶす方法だけをスペクターから学び、表面的にはまったくちがうのに、本質的なところではきわめてスペクタレスクなサウンドを作り上げました。
閑話休題。『マルホランド・フォールズ』の車も町もCGなどではなく、ホンモノですからね。ハスケル・ウェクスラーはクロームの輝きを欣然と捉えています。

よその国のことなので、考証に間違いがあっても、わたしにはわかりませんが、車に対する姿勢から類推するに、それなりにまじめにやったのだろうと思います。そういうところで手を抜くと、画面が弱くなり、観客はそれを感じとるものです。
◆ 重量感の美 ◆◆
『48時間』以来、ニック・ノルティーの映画はできるだけ見るようにしています。『ロレンツォのオイル』のようなシリアス・ドラマも悪くないと思いましたが、やはりこの俳優の体躯と動きが生きるのはアクション映画です。
ジョージ・フォアマンのようなヘヴィー級のボクサーが、ゆっくりとした始動で途中からスウィングを加速して、重いヒットをするように、ニック・ノルティーはブラックジャックで悪党(とFBI)をぶちのめします。
この俳優の魅力はシロクマのような重量感です。一見、動きが鈍そうで、アクションになると、重さを生かしてじつにいい動きをします。いや、もちろん、そう見えるように撮影し、動きにキレをあたえるように編集するわけで、それが映画というものですが、それでも、アニメではなく、ほんものの人間がそこにいる以上、その人物の本質は画面に捉えられます。
『マルホランド・フォールズ』でもっとも魅力的なアクション・シーンは、すでにふれた開巻間もないシカゴ・ギャングをマルホランド・フォールズに連れて行く場面、さらにいいのは、自分の家を家宅捜索した3人のFBI捜査官を、ニック・ノルティーがあっという間に片づける場面です。









クライマクスの輸送機の場面は、狭いところでの格闘なので、俳優の動きではなく、編集に過度に依存して作り上げたもので、初見のときはともかくとして、再見では、編集だけかあ、と溜息が出てしまいました。
むずかしいところだと思います。この四半世紀ぐらいのアクション映画の進化は主として編集の変化によるものであり、それ自体はけっこうなことだと思います。日本のアクション映画は、カット数が少なすぎ、間延びして感じられるのだから、根本においては、ほんの数コマ単位、一秒以下の短いカットをつないでいく現今のハリウッド製アクション映画の主流的手法は肯定できます。
また、キャメラを固定せず、アクションを追ってパーンし、そのパーンのリズムをステディーにすることも大事だと思います。ポスト・プロダクション段階の編集によるスピード感の表現を、プロダクション段階で細部まで計算しておく演出法が、近年のハリウッド製アクション映画の最大の特徴といえるのではないでしょうか。
こういう手法に慣れてしまうと、いくら短いカットをつないでも、キャメラをフィックスしていると間延びして感じられます。人間は慣れの動物だから仕方ありません。



しかし、それでもなお、アクションは結局、肉体なのだと思います。だから、編集技法としてははるかに高度で、手間をかけている輸送機内部のアクションが、FBI捜査官を痛めつける(相対的に)ゆっくりしたリズムのシーンほど魅力的に感じられないのです。あの地下駐車場でブラック・ジャックを振りまわす場面には、ニック・ノルティーの肉体が表出しているのに、輸送機の場面は肉体が不在なのです。
◆ レゾンデートルと事件の乖離 ◆◆
ここまではできるだけストーリーにふれないようにと気をつけてきましたが、最後に骨組みを書きます。スポイラー警報発令なので、知りたくない方はここで切り上げられるとよろしいでしょう。
ハット・スクォドは、LAに進出しようとする他都市のギャングの先兵たちに先制攻撃を加え、追い払うために発足したチームです。『マルホランド・フォールズ』の冒頭および中間部分(チーフの回想という形で)に、そうしたギャングを痛めつけるシーンが登場します。
しかし、この物語で解決する事件は組織犯罪ではありません。いや、犯罪組織のモンスターというべきか、つまり、アメリカ陸軍がこの映画でのハット・スクォドの相手です。冒頭で死んで発見される女は、ニック・ノルティーの愛人であり、ノルティーのもとに、彼女が他の男とベッドをともにするところを撮影した8ミリが送られてきます。
調べていくうちに、この男が原爆開発を担った将軍とわかり、LAPDの管轄権がおよばないことがはっきりします。しかし、ハット・スクォドに本来の仕事をさせず、政治がらみの事件の解決に当たらせるというこの映画の意図はたぶんここにあるのでしょうが、怖いもの知らずのハット・スクォドは、管轄がなんだ、陸軍がなんだ、俺たちはハット・スクォドだ、というノリで、ギャングを半殺しにするときと同じ法律クソ食らえ魂で強引に捜査を進めていきます。










犯人ははじめからわかっているようなものです。どう解決するかがこの映画のポイントなので、そろそろプロットを追うのはやめたほうがよさそうです。
思うに、ハット・スクォドの敵はやはりギャングにしておいたほうが面白かったでしょう。政治がらみの事件というのは、アクション映画には向いていない、というか、そういう話が作りたいなら、アクションに分類されないようなスタイルを選ぶべきだったと思います。






前半を中心に、すばらしい輸送機の不時着シーンをはじめ、魅力たっぷりの映画なのに、大満足とはいかず、残念ながら、企画段階で計算違いをしたかな、という出来でした。でも、冒頭の数分間、地下駐車場、輸送機といったすばらしいシークェンスがあるし、それを彩るデイヴ・グルーシンのスコアも楽しいので、それだけでわたしには十分です。

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