『牡丹燈籠』散歩、今回は主人公の萩原新三郎が住んでいたという根津の清水谷というのは、どこのことをいっていたのかを追求し、新三郎の家があったであろう場所を特定することにします。
いえ、もちろん、『牡丹燈籠』はフィクションなので、家があったものなにもないのですが、ほら、房総に行くと、富山(とみさん)というところに、「伏姫籠もり穴」なんていうのがあるでしょう? ここで伏姫と八房がちぎって八剣士をみごもったのだとか。もちろん、『南総里見八犬伝』は滝沢馬琴が『水滸伝』あたりをもとに粉飾したまったくのフィクション。あれと同じです。
足柄山にいってご覧なさいな、夕日の滝という名勝のそばに、「金太郎遊び石」というのがあって、金太郎が遊び道具にしたものということになっています。いや、金太郎は実在の人物、坂田金時(公時)の幼名ですが、山姥(やまんば)がどうしたとか、鉞かついで熊退治をしたとか、そのへんはお伽噺です。
南足柄市の金太郎遊び石ページ
◆ 三遊亭圓朝の碑文 ◆◆
本題に入る前に、前回は時間が足りなくて端折ってしまった、谷中全生庵の山岡鉄舟の墓、圓朝と鉄舟の碑文の写真を掲げておきます。
鉄舟は幕末の剣士として勇名を馳せましたが、惜しいかな、幕臣だから政治に関係せざるをえず、海舟に指嗾され、江戸無血開城などという愚行の片棒をかつぎ、履歴を汚しました。まあ、幕府も人がいなくなり、倒れるべくして倒れたのですが、それにしても、武家の頭領だろうが、戦ってから倒れろよ、です。
金で侍の株を買っただけ(買ったのは親父の小吉だが)の海舟なんかにまかせるから、歴史にきちんとした区切りがつかなかったじゃねーか、きちんと始末をつけないから、太平洋戦争で東京は火の海にされたんだ、てえんで、あのことを思うと、わたしは不機嫌になります。見離された孤児みたいな彰義隊の憐れなこと。江戸っ子がみな彰義隊の味方をしたのは当然です。
◆ 門まで歩いた本堂 ◆◆
さて本題。「山本薩夫監督『牡丹燈籠』その1」に書きましたが、主人公の萩原新三郎が住んでいるとされる「根津の清水谷」は、現代の地名としては残っていません。
江戸切絵図を見ると東叡山寛永寺の西の外れ、子院である護国院のそばに「清水門」という門があり、このあたりのどこかに清水谷があったのではないかと考えました。
護国院は、芸大と上野高校に敷地を切り取られ、猫の額のような境内になってしまいましたが、とにかく現存するので、ここを起点に周囲を歩いてみました。
じっさいに護国院の境内に立ってみて面喰らったのは、清水門があったであろう位置の見当がまったくつけられなかったことです。切絵図では、護国院から清水門までは相当の距離があるのですが、本堂を中心に眺めても、門の位置を割り出せなかったのです。
平地はしばしば区画整理されるものの、高台は江戸時代のままであることが多いのです。護国院のあたりはどこも曲の手(かぎのて)に曲がっていて、いかにも江戸時代の道の雰囲気があります。この道に面して清水門があった可能性が高いのですが、それにしては護国院の本堂が近すぎるのです。
護国院には台東区がつけた解説板があり、あとでもどってそれを読み、疑問は氷解しました。
なんと、本堂のほうが、江戸時代の位置よりずっと門に近いところに移動していたのです。逆転の発想、というのはちょっとちがいますが、これには虚を衝かれました。
しかし、その前に、道ではなく、本堂を中心に考え、門のあったのはこのへんかと見当をつけて歩いていき、門のかわりにちがうものに遭遇しました。
前回もふれましたが、台東区循環バス「めぐりん」という観光用の路線バスがあって、その路線に「谷中清水町公園」というバス停があったのです。
または話は逸れますが、気になって調べたら、「めぐりん」には300円の一日券という、3路線すべてに通用する切符があるそうで、こんど乗ってみようと思います。隅田川ベリから谷中まで、台東区は広いですからね。
台東区のめぐりんページ
バス停のそばに、清水町公園は現存し(すごく狭いが)、そこに旧町名の由来という銘板がありました。
少なくとも台東区は土地の歴史というものの価値を認識するにいたったようですが、だったら、さっさと町名を昔に戻したらよかろうと思います。台東区ではありませんが、わたしの本籍地なんて、あまりにも広い地域を統合したものだから、地名をいっただけではどのへんかわからないほどです。千代田区の外神田、内神田と同様、包含する地域が広すぎて実用になりません。
◆ 懐かしの忍旅館 ◆◆
閑話休題。
「清水谷」という地名が台地につけられる可能性は低く、低地と考えて大丈夫でしょう。しかし、「上野のお山」というぐらいで、寛永寺は台地にあり(『武蔵野夫人』のときに、上野のお山、忍ヶ岡は武蔵野台地の外れに載っていることにふれた)、その子院である護国院も台地の端にあります。
ということは、この台地を下ったあたりが清水谷である可能性が高いと考えていいようです。上野高校の敷地(昔はもちろん寛永寺の敷地、護国院のすぐ外)に沿って坂道があり、これが清水坂という名前なのです。
坂の途中の曲がり角にプレートがありました。
やっと、圓朝の噺以外に清水谷という地名が使われている例が見つかり、ホッとしました。ここまでは、清水門、清水坂をもとに、圓朝が創作した可能性もゼロではないと考えていたのです。
坂を下りながら、このまま行くとあそこに出そうだな、と思いました。四半世紀前に建築写真を撮って歩いたのですが、そのときに、これはいいなあ、と思った「忍旅館」です。
かつてものすごい円高の時代、外国人観光客が詰めかけたという報道を見た記憶がありますが、すでに営業はしていないそうで、いまやしもた屋です。旅館のしもた屋というのも妙なものですが。
◆ しのぶ岡からしのばない低地 ◆◆
清水坂を下って、ここはもう低地、不忍池と同じ標高です。だから、このあたりが清水谷と考えていいのだろうと判断し、『牡丹燈籠』散歩完了としました。
歩いて、写真を撮るのは終わったのですが、まだ考えるべきことは残っています。清水坂を下りたあたりの低地が「根津の清水谷」だとするなら、萩原新三郎の家はどのへんと想定するのが適切か、です。江戸は武家地、寺社地、町人地の区別があるので、考えてみても無駄、地図を見ないことにははじまりません。
清水谷とおもわれる界隈は武家屋敷と寺社地が占めています。浪人が住み着き、貸し長屋をつくって町人を住まわせる、というわけにはいかない土地です。
しかし、江戸後期になると、旗本が敷地の一部を町人に貸した例もあるようなので(拝領地、すなわち、幕府から借りている土地だから、本来ならまずい)、そういうつもりでこのあたりを主人公の居所と設定した可能性もあります。
もうひとつの可能性は、小さな小さな「谷中町村分」と書かれた一郭です。
町人地ならば灰色に塗られるはずなのですが、ここは黄緑色で、なんのことなのやらわかりません。ご存知の方がいらしたらご教示願いたいと思います。
しかし、フィクションなので、「現実のなかにポッカリ開いた架空の空間」を設定するなら、こういう正体不明の場所はもってこいです。
そして、この「谷中町村分」という土地は、どうやらいま忍旅館があるあたりだと思われます。これは好都合、わたしは、萩原新三郎の家と隣接する伴蔵の家は忍旅館のあたりにあったと決めました。
◆ カラーンコローン ◆◆
もうひとつ都合のいいことがあります。いまでもこのあたりは、夜になると寂しいところなのです。
寂しいの、賑やかのと、そういうことというのは、ある程度、地相に左右されるのではないでしょうか。この土地のひと目でわかる特徴は、東を上野のお山にふさがれているということです。いまでもそうですが、昔は日当たりの善し悪しはさらに重要だったでしょう。
いま、このへんがすこし寂しいのは、不忍池や動物園の裏手にあたり、観光客にはあまり用のないところだからでもありますが、昔はもっと寂しかったにちがいありません。だいたい、江戸の町なんてのは暗くて、月のない晩に提灯なしで外出するのはひどく厄介でした(と講釈師、見てきたようなウソを云い)。
記憶が不確かですが、池波正太郎の『剣客商売』に、秋山小兵衛が夜、このあたりを歩いていて、刺客に襲われるシーンがありました。根津から上野の山を迂回して歩いていた、といったように書かれていたと思います。提灯を消したら、真の暗闇になり、そこで戦うといったシーンでした。
東を山にふさがれ、南は不忍池、川もあるしで、ここらは暗く、湿っていたにちがいありません。夜が更けると、そのひと気のない道をカラーンコローンと下駄の音がして――というわけで、ロケーション・ハンティングの甲斐あって、牡丹の飾りがついた燈籠の灯りを頼りに、夜な夜な、お露とお米がおとずれた萩原新三郎の家は、きっとこのへんにちがいないと決めてしまったのでした。
圓生百席(46)牡丹燈籠1~お霧と新三郎/牡丹灯篭2~御札はがし(芸談付き)