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成瀬巳喜男監督『めし』(東宝映画、1951年) その4

◆ 五尺の身の置きどころなし ◆◆
前回、「女三界に家なし」と書いたのですが、「三界」の中身を記憶していなかったので調べました。

「いっさいの衆生の生死輪廻する三種の迷いの世界。すなわち、欲界・色界・無色界」だそうで、「欲界」とは「性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む領域」、つまりわれわれの世界です。

「色界」は「三欲を離れた生きものの住む清らかな領域」ではあるけれど、依然として物質の存在する世界。

「無色界」は「最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界。ここの最高処を有頂天と称する」とあります。

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「三界に家なし」の典拠は、『平家物語』のようです。せっかくだから、原文にあたってみました。

大納言宣ひけるは、「三界広しと雖も、五尺の身置き所なし。一生程無しといへども、一日暮らし難し」とて、夜中に九重の中を紛れ出でて、八重立つ雲のほかへぞおもむかれける。 (平家物語第三巻)

大納言とは源資賢のことだそうです。ここは清盛が、多くの者の官位を剥奪して流罪にするくだりで、源資賢も畿外へと追放になったのだとか。

細かいことはどうでもよくて、大事なのは、この段階では、わずか五尺しかない身の置きどころを三つの界のどこにも見つけられないのは、女ではなく、男だったということです。

わたしは「女三界に家なし」と覚えていましたし、辞書にもそうありますが、これは後世のだれかが、家父長制のなかでの女の地位の低さを嘆いて創作したのでしょう。近代文学の有名な作品だろうと想像します。

つまり、なにごとも鵜呑みにするな、ということです。だれかが女のことへとねじ曲げたのであって、もとはといえば男、いや、性別とは無関係に、人間というのは身の置きどころがないものだ、という意味だったのです。

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このくだりには感銘を受けました。居場所がないだけでなく、人の一生は短いものだというのに「一日暮らし難し」なのだから、いやはや、です。まったく、あれから八百年たっても、やっぱり居場所はないし、一日生き延びるのも四苦八苦です。

◆ 一日とて生き難し ◆◆
今回は『めし』の結末にふれるので、ご注意ください。

前夜の義弟・小林桂樹の叱責に、身の置きどころがないことを思い知ったうえに、原節子は姪を送っていった夫の実家で、姑(長岡輝子)に、あなたの義弟さんはよくできた人だから、実家でのうのうとしていられるだろうけれど、ふつうだったらはそうはいかないのだから、もう大阪に帰りなさいな、と諭されます。

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前夜、人のいい義弟がめずらしく怒りをあらわにしたところに接し、もはや実家も自分の居場所ではないことを思い知ったばかりなので、この長岡輝子の言葉は、またしても、意図しないアイロニーになって、原節子を責めさいなみます。

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そして、(たぶん)「三界に家なしなのね」とため息をつくような思いで帰路につくと、前回の最後で見たように、戦争未亡人の同級生が新聞を売る姿を目撃してしまうわけで、一日とて生き難いことも痛感させられます。

そんなふうに、悄然と帰宅した原節子を、満面の笑みの母と妹が迎えます。

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靴を見て、上原謙がやってきたことを原節子は知ります。

ここで原節子は、身を翻して出て行ってしまいます。ビックリして止めようとする杉葉子に、杉村春子は「ほうっておきよ。気を鎮めてから会いたいんだろ」といいます。わたしも杉葉子と一緒に、なるほど、そういうものかねえ、と思ってしまいました。

前夜からいろいろと思い乱れる出来事がつづき、それまでよりも夫の面影が脳裡で濃くなってきたまさにそのときに、本人があらわれたものだから、図星を指されたようで恥ずかしかったのだろう、とわたしは受け取りました。

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成瀬巳喜男は皮肉な人、というか、原作者の林芙美子か、はたまた脚色者の田中澄江と井出俊郎のせいなのか、ここも意地の悪い展開になります。

祭で賑わう町を原節子が歩みます。その通りの脇の路地から、下駄履きで手拭いをもった夫があらわれ、うしろから原節子に声をかけるのです。

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◆ いっしょに帰るかい? ◆◆
ここまで読んできた方はやめにくいでしょうが、以下、わたしなりに、この物語をほぐしてしまうので、これから『めし』をご覧になる方は、お読みにならないほうがいいと思います。楽しみを減ずることはあっても、増やすことはないでしょう。

そういいつつ、この部分からエンドマークが出るまでのサウンドトラックを切り出してサンプルにしました。どうせなら映画を見たほうがいいとは思いますが、音だけの映画というのも、わたしは好きで、よく聴いています。

サンプル 早坂文雄「語り合い~エンディング」

さて、近所を歩きながらの話で、上原謙は急に出張することになって、今朝着いたことがわかります。ここはどう解釈しましょうかね。原節子を連れもどすことが上京の主たる目的ではない、ということは、彼女の気を楽にしたのではないでしょうか。賭金の低いゲームだと、夫のほうから切り出したのです。ノーというにも、イエスというにも、気の楽な状況です。

むろん、ものごとはつねに多面的です。夫が耐えきれずに、頭を下げに来たわけではない、ということは、一面で原節子をガッカリさせたでしょう。人生はそういうものなので、やむをえませんな。

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風呂上がりの上原謙は「喉渇いた」といいます。二人は、昔なら「簡易食堂」といったであろう、安直な飲食店に入ります。夫は銭湯帰りの下駄履きだから、ちゃんとしたところになど入れないのですが、それでも、これは意図的なセッティングであり、恋人たちの背景ではなく、夫婦の背景です。ふたりはビールを飲み、話しはじめます。

原節子「苦い」
上原謙「ああ旨い」
「Yシャツ、ずいぶんよごれているのね。替わりもっていらした?」
「うん」
「猫、います?」
「ああ、谷口さんにあずけてきた。あの息子さん、就職したそうだ」
「そう……あなた、あたしがすぐ帰るとお思いになって?」
「ああ。だから、手紙書かなかった。ぼくの仕事は明日すむんだ。いっしょに帰る?」
「そうね……。あたし、あなたに手紙書いたのよ。だけど出さなかった」
「どうして?」
「……」(ただ笑って答えず)

あらゆることに意味を見いだそうとするのは賢明ではありません。話の流れの都合で、「つなぎ」として書かれる会話もあります。重要なラインを導きだすための準備であったり、二つの重要なラインが団子にならないように、中間に無意味なラインを入れることもあります。だから、事大主義に陥るべきではないと思いつつ、でもやはり、ここはひとつひとつのラインに注意が向かってしまいます。

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Yシャツの一件はなるほどです。彼女は「わたしはあなたの妻だ」と宣言したのではないでしょうか。離婚の意思は、たとえあったとしても、もうそれは過去のことだ、あなたのシャツの汚れが気になるのだ、それは自分の役割だから、といったように感じます。

「苦い」と「旨い」の対比は、音のつながりも重要ですが、つまり、夫婦は異なった意見を持っているものである、でも、それだからこそひとセットなのだ、という意味だとわたしは受け取りました。ユニゾンではなく、異なる二つの音のハーモニーだという意味です。

猫のことを尋ねるのは、Yシャツの件に似ていて、彼女がまだ大阪に、すなわち亭主との生活に「気」を残していることを明瞭化し、いったん開いた二人の距離を彼女のほうから縮め、もとの距離を再獲得するための手続きです。二人は連続性を取り戻し、他人ではなく、数年の歴史をもつ夫婦であることを確認するのです。

すぐ帰ると思ったかどうかをきくのは、女房としては当然のことでしょう。あるいは、自分でもすぐ帰るのかどうかわからなくて、夫の目にどう見えたか知りたくなったのかも知れませんが。

いっしょに帰るかい、という台詞はギョッとします。これは二通りに解釈できます。上原謙がひどく無神経な人間で、深く考えずに、軽く、「ついでだから」「どうせだから」という意味でいったケース。

もうひとつは、夫が繊細な人間で、ことを大きくしたり、妻になにかを強く迫って、事態を崖っぷちに追い込むようなことは避けたくて、できるだけ軽く、さりげなく、まるで妻がちょっとした用を片づけに実家に帰ったかのごとく、いたって日常的なレベルに収めようとした、というケースです。

「手紙書いたのよ」もじつに微妙です。こういうことを云うとどうなるか? ひとつは、夫に、あなたのことを忘れていたわけではない、と告げる意味があるでしょう。

なんだか犠牲フライによる一点みたいで、ワンアウトはとられるけれど(夫は書かなかったのに自分は書いた)、あなたとちがって、わたしは二人のことを真剣に考えたのだ、という得点をあげることになるのではないでしょうか。

もうひとつ、夫は、どんな手紙なのだろうと思うにちがいなく、情報を握っている人間と、情報を欲しい人間という立場の違いが生まれる可能性があります。やっぱり、2ラン・スクイズみたいなものかもしれません!

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◆ 腹減ったなー ◆◆
途中で終わりにするのもなんなので、二人の対話を最後までほぐしてみます。

「ねえ、あたし東京へ来て、2500円も使っちゃった」
「竹中の伯父さんがねえ、こんど、東亜商事に勤めたらどうかっていうんだ。そうすりゃ月給もすこし上がる。きみに相談して返事するっていっておいた」
「いいのに、あなたがお決めになって」
「そりゃあね、ぼくだってきみが苦労しているのはわかっているんだけど……」
「いいのよ……」
「もうそろそろ帰ろうか」
「ええ。(残った自分のビールを差し出して)これ、お飲みになって」
「うん……あー、腹減ったなー。あ、ごめんごめん」
(声を上げて笑う)

ここには、もう緊張感はありません。「2500円」(4、5万というあたりか)も使ったというのは、ほんの軽いものですが、妻が夫に謝っているのです。危機にある夫婦はこんな話はしません。

わたしは省略しましたが、「竹中の伯父さん」(進藤英太郎)に転職を勧められるシーンでも、上原謙は妻に相談してといっています。この夫婦の経済はすこし改善されるかも知れないのです。ここにも危機の気配はありません。転職のニュースは謝罪であると同時に、和解の確認で、「いいのよ」ということで、原節子は謝罪を受け入れます。

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すごいのは「そろそろ帰ろうか」です。もちろん、もう夕食の時間だから、妻の実家にもどろうというのですが、同時に、大阪に帰ろう、もとの二人に返ろうと云っています。

それに対して、原節子は、ちょっとだけ口をつけた自分のビールを夫に差し出し、もったいないから飲んでくれといいます。これが妻のそぶりでなければ、妻らしさなんかこの世に存在しません。他人はもちろん、恋人でも、こういうふるまいはしません。妻が夫にだけいう言葉です。夫も当然のように、そのビールを飲み干します。これでもう二人はもとの夫婦です。

安心のあまり、上原謙は、そもそも原節子が夫婦の生活に疑問を抱くきっかけとなった「腹減った」という台詞を云ってしまいます。以前とはちがうのは、夫は、妻の不満のありかを明確に認識していることです。

だから、腹減ったと口にした瞬間に、上原謙は失策に気づいたのです。そして妻は、そんな夫を見て、こうして実家に戻ったことは、まったくの無駄ではなかった、二人は一歩ずつ歩み寄り、理解は深まったのだと思い、笑ったのです。

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とまあ、わかったようなことを書きましたが、要するに、これは「わたしのヴァージョン」にすぎません。解釈はいくらでもあります。だから、うっかり読んでしまったあなたが、いまから『めし』を見る妨げにはならないのではないでしょうか。

このあと、大阪に戻る東海道線の車中のシークェンスがあり、女の幸せに関する妻の考察が一人称で語られますが、そこはコーダにすぎず、二人のたどり着いた場所は、簡易食堂での対話で明快に示されています。なかば諦念ではありますが、諦念と縁のない夫婦があるとは、わたしには思えません。

今回も大阪のショットを並べられなかったので、もう一回、こんどはプロットを追うのではなく、「成瀬巳喜男が捉えた大阪」として、ヴィジュアルを追ってみます。


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by songsf4s | 2010-10-06 23:56