『日本のいちばん長い日』は、要所要所で言葉をめぐる問題で紛糾します。
まず、ポツダム宣言にある、天皇および日本国民は連合国にsubject toする、という表現に陸軍が抵抗します。be subject toとは「隷属する」ということではないか、と硬化してしまうのです。それに対して外務省は、このbe subject toは「その制限のもとにおかれる」という意味だと主張します。
この状況では、こうでもしないことには陸軍の抵抗を排除できないというのは理解できます。しかし、be subject toは、「隷」という強い文字を避けたとしても、「服従する」の意味です。「制限の下におかれる」は、やはり詭弁、言い逃れ、小手先のごまかしでしょう。
現今でも、国際条約の報道を目にして、この原文はどうなっているのだろうと思うことがあります。いまでも「制限の下におかれる」式の詭弁、二枚舌を弄している危惧を感じます。外交というのは本質的にそういう側面があるのではないでしょうか。内と外に異なった顔をしてみせる、ということです。
てなことをいいつつ、自分の言葉遣いにも、自分で疑義を呈してしまいます。『日本のいちばん長い日』の記事では、戦争中の言葉遣いに寄り添うほうがふさわしいような気がして、「皇居」は避け、「宮城」と書いています。だとするなら、「太平洋戦争」も不可で、「大東亞戦争」とするべきなのですが、この言葉を使うのはいくぶんか抵抗があり、つい「太平洋戦争」としてしまいます。
しかし、映画のなかで、陸軍士官、それも近衛師団の少壮参謀たちが、乱暴に「天皇」を連発するのも、ずいぶんと耳立ちます。クーデターをたくらむ連中はそんなものだったのかもしれませんが、あの時代にはやはり「陛下」というのがふつうではないでしょうか。軍隊式に見れば天皇は最高指揮官、「大元帥閣下」という呼び方もあります。
1945年までの日本は立憲君主国なのだから、戦後民主主義的感覚で「天皇」を連発されると、「その場にいる」気分が醒めます。いえ、政治信条をいっているのではありません。そうではなく、物語はいかにしてリアリティーを獲得するか、という技術論をいっているのです。
橋本忍による『日本のいちばん長い日』のシナリオは、外国の同種の大作戦争映画と比較しても、非常に出来のよいものですが(その点についてはいずれきちんと書く)、「天皇」連発だけは、オーケストラのなかのチューニングが狂ったヴァイオリンのように、イヤな音でわたしの神経を逆撫でします。
◆ 戦局好転せず ◆◆
終戦をめぐる閣議は何度も暗礁に乗り上げますが、最後に大きな障碍となって降伏への道に立ちふさがった言葉は「戦勢日に非にして」です。現代語でいえば「戦況は日々悪化し」ぐらいのところでしょうか、この終戦の詔書案の一節を、阿南陸軍大臣は拒否します。「戦局好転せず」と書き換えてもらいたい、というのです。しかし、米内海軍大臣は、なにをいまさら取り繕うのか、と阿南案を拒否し、閣議は頓挫してしまいます。
阿南、米内の両大臣は、それぞれ陸軍省、海軍省への用事のためにしばしば中座する必要に迫られ、これも閣議を空転させる要因になるのですが、皮肉なことに、最後の土壇場に来て、この中座が合意へのスプリングボードになります。海軍省からまた首相官邸にもどってきた米内海相は、阿南案の「戦局好転せず」を受け入れるというのです(後刻、さらに「戦局必ずしも好転せず」と補訂される)。海軍省にもどって叛乱の噂をきき、阿南陸相の苦衷をわがものとして理解したからだろうという解釈が提示されます。
同じことを容赦なく断じるか、婉曲にやわらかく云うかというちがいにすぎず、些末といえば些末ですが、詰まるところ人間は言葉の動物、とくにこのような緊迫した状況では、ささやかな表現のちがいに過敏に反応するのも事実です。
広大な地域に展開して戦っている前線の数百万の将兵に、言葉ひとつで、すみやかに、滞りなく干戈を収めさせようというのだから、陸相が字句の細部に固執するのは当然のことであり、そんなことは本質ではないと考えた海相は、デリカシーと人間心理への洞察に欠ける朴念仁というべきでしょう。
ともあれ、これで詔書案ができあがり、清書へとまわされることになります。これが14日午後7時ごろのことです。「清書」といっても、なにしろ天皇の詔書です。御名御璽が入るものなので、神経は使うし、手間のかかるものだったようです。
戦争がはじまるときも、文字の問題、すなわち、タイピングの遅れで、真珠湾攻撃のあとで宣戦布告文書を届けるという大失敗をしますが、戦争が終わるときも、また時計をにらみながら文字を書いているわけで、そういうものなのでしょうね。
◆ いつ死ねば得なのか? ◆◆
歴史的事実に即したストーリーなので仕方ありませんが、このあたりからの数時間はやや静かで、映画は周辺的な動きを追います。蹶起を叫ぶ佐々木武雄大尉(天本英世)率いる横浜警備隊の動きや、埼玉県の児玉基地の第二十七飛行団の出撃前の様子です。
天本英世は何度も狂的人物を演じていますが、この佐々木大尉の演技は彼のキャリアのなかでもとりわけ印象の深いものです。いや、「活躍する」のはもっとあとのことですが。
町の人たちが食べ物をもって集まり、兵士と交流する児玉基地の様子は、どう見ても特攻隊の出撃前という雰囲気ですが、原作にはそうとは明示されていませんし、映画も特攻を暗示するにとどめています。
閣議ではもう降伏が決まり、あとはいつ発表するかという話し合いをしているときに、まさに出撃しようとしている若者たちがいる、という状況の残酷さを、映画は描こうとしているのでしょう。
もちろん、悲劇的ではあります。しかし、終戦の数時間前に死ぬことと、数日前に死ぬことと、そして数カ月前に死ぬことのあいだに、どれだけの違いがあるのでしょうか。たしかに、もう一日早く閣議がまとまれば、彼らは助かったかもしれません。しかし、それをいうなら、もう十日早ければ、広島と長崎の原爆投下はなかったことになります。
あるいは、むしろ戦争が終わってからのほうがきびしい「戦い」になった、大陸や半島に取り残された人びともいます。さらにいえば、終戦を知らずに戦っていたのは、児玉基地の若者だけでなく、北支から南方にいたる前線の将兵たちも同じです。
終戦を知らずに死んでいったのは悲惨ですが、しかし、戦争による死に軽重はつけられないでしょう。この児玉基地の出来事の扱いは、『日本のいちばん長い日』という秀作の瑕瑾のひとつに感じます。戦争による死に軽重をつけられる無思慮な人たちの感傷に訴えようという、品のなさが感じられるのです。
歴史は夜つくられる、というのは意味がちがいますが、『日本のいちばん長い日』も、宵闇が深まるにつれて緊迫していきます。次回はいよいよ生死を賭けた人びとの動きを追うことになります。
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