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橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』と小林信彦『黒澤明という時代』

引っ越し準備でデスクを廃棄するためにPCをばらしたときには、すぐにまたつなぐつもりだったのですが、とてもそのような余裕はありませんでした。さらに、引越先にはすでに電話があり、事情があってそれを変更することはできず、これまでのプロヴァイダーは使えないことになり、引越後に改めて手配したために、はからずもひと月以上もご無沙汰することになってしまいました。

亭主留守のあいだは、パートナーがときおり開いて、コメントの確認やお知らせの代筆やインデクスのメインテナンスなどをしていました。インデクスのおかげで、ページヴューがドッと増えて記録的な数になったりもしたそうです。また、コメントもいくつかいただきましたが、ちゃんと自分の目で読み、自分でタイプできる環境ではなかったので、レスは失礼させていただき、さきほど公開だけしました。どうかあしからず。

◆ 晴読雨読 ◆◆
これだけ長く休んだのは当ブログ開闢以来のことで(昨年の一月、まるまるひと月休止したのがこれまでの最長)、なにごともなかったように『イージー・ライダー』のつづきを書くというのも、どうも据わりが悪いようで(いや、書こうとしたのだが、うまく気分をリジュームできなかった)、今日は四方山話でそろりと入り直すことにします。

このひと月あまりのあいだ、ウェブに時間を使わない分、読書量がかつての非ウェブ時代の半分ほどまで回復しました。といっても、万巻の書を処分する(数えるような愚は犯さなかったが、万にはわずかに欠けるかもしれないものの、丼勘定で8000~9000冊だったと考えている)のに大汗をかいたあとなので、もう本を買う気はまったくなく、わずか200冊弱にまでそぎ落とした蔵書と、図書館で借りてきた本を読んだだけですけれどね。以下、七月の読了分。

『定本久生十蘭全集第5巻』
『定本久生十蘭全集第6巻』
日影丈吉『内部の真実』『赤い子犬』
獅子文六『箱根山』『楽天公子』『浮世酒場』
佐々木譲『ベルリン飛行指令』
石坂洋次郎『陽のあたる坂道』『あいつと私』『丘は花ざかり』『白い橋』
陳舜臣『方壺園』
川口松太郎『窯ぐれ女』『非情物語』『続人情馬鹿物語』『忘れ得ぬ人忘れ得ぬこと』
島田一男『社会部記者』
橋本忍『複眼の映像――私と黒澤明』
小林信彦『黒澤明という時代』
半村良『平家伝説』『獣人伝説』
柳家小満ん『べけんや わが師、桂文楽』
富田均『聞書き 寄席末広亭』

この年になると、新しいものになど興味がわかず、ほとんどは再読再々読四読五読……n読です。『楽天公子』は十回目ぐらいでしょうか。このなかで初読は『複眼の映像 私と黒澤明』『べけんや わが師、桂文楽』『忘れ得ぬ人忘れ得ぬこと』、そして、二冊の『定本久生十蘭全集』のうち、単行本未収録作品群だけで、あとはみな再読以上です。

川口松太郎をはじめて読んだのは二十代はじめのことでしたが(半村良が『新宿馬鹿物語』のあとがきで、川口松太郎『人情馬鹿物語』へのオマージュなのだと書いていたため)、年をとるにつれて読み返す頻度が高まり、今回のジェノサイド並みの書籍大処分でも、一冊も捨てませんでした。こういう忘れられた作家は、古書店も見離しているので、いったん売ってしまうと、あとで思わぬ苦労をする怖れがあるのです(まあ、『人情馬鹿物語』だけは一定の間隔でリプリントされるだろうが)。古書価はかぎりなくゼロに近くても、そんなことはこの場合、関係ないのです。

ひねくれ者は、こういうもはやだれも話題にしない作家にはおおいに肩入れするわけで、いずれ稿を改め、大々的に書くつもりですが(溝口健二にからめて取り上げる方法もある。川口松太郎は大映の専務であり、京都撮影所長もつとめたし、溝口とは幼なじみで、溝口映画のスタッフでもあった)、とりあえず落語ファンには『しぐれ茶屋おりく』をお勧めしておきます。主人公のおりくさんが、若いころ、旦那にねだって寄席にいくわけですな、するってえと、そのとき高座に上がっている師匠が……なのですよ! 山田風太郎『明治波濤歌』よりギョッとしましたぜ。

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◆ 会ってはいけなかった男 ◆◆
マーシャル・ソラルによる『黄金の男』のテーマ曲以来、当家の記事を裏から支えてくださっている「三河の侍大将」Oさんが、私信のなかで橋本忍『複眼の映像』に感銘を受けたとおっしゃっていたのですが、図書館にあったので、わたしも一読し、やはり感銘を受けました。

以前にも書いたことがあるのですが、わたしは黒澤明のシリアスな映画というのが不得手で、『羅生門』のどこが面白いのかさっぱりわからず(いや、宮川一夫の撮影は圧倒的だが)、『静かなる決闘』にはむかっ腹を立てました。『生きる』も、「きっと立派な映画なのだろうなあ」とよそごとのように思うだけで、なんだか教科書を読んでいるような気分でした。『椿三十郎』を見て、はじめて「うまい」「すごい」「面白い」と、楽しい映画を見たときの言葉が出ました。

ということで、わたしは黒澤明のファンではありません。好きなのは『椿三十郎』『天国と地獄』『野良犬』、悪くないと思うのは『用心棒』(ただし『荒野の用心棒』のほうが好き)、『七人の侍』『隠し砦の三悪人』といったあたりです。わたしという人間が、「タメにするところのあるもの」、すなわち、メッセージ性の強い、「主張のある」作物を受けつけず、『生きる』のような話材には、「お父さん、お説教ならまたの日にしてください。わたしはもう小学生ではありません」と我慢できずに座を立ってしまうにすぎず、黒澤明の力量とはなんの関係もないのですが、でも、説教の多い人だなあ、ほっといてくれよ、と辟易してしまうのです。

阿佐田哲也が、古今亭志ん生のことを「滑稽噺だけやっていればいいのに、なにかというと人情噺をやりたがるのが困りもの」と書いていましたが、わたしはこの言葉は黒澤明にいうべきだったと思います(志ん生には、三遊派の頂点に立つ人間としての義務があるから、たとえやりたくなくても、たとえば「鰍沢」を後世に伝えなければならなかったわけで、情状酌量の余地がある。まあ、たまに木戸銭払って寄席に入ったら、その日の志ん生は「文七元結」だった、なんてことになると、金返せといいたくなっただろうけれど)。アクションだけやっていればいいのに、シリアスな話を作りたがるのがじつに困りものです。

さて、橋本忍の『複眼の映像――私と黒澤明』です。黒澤ファンには『羅生門』や『七人の侍』のバックステージが非常に興味深いでしょうが、わたしが感銘を受けたのはべつのところ、野村芳太郎が橋本忍に面と向かっていった橋本忍評です。

「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです」

いやはやなんとも、まったくもってごもっとも、というしかありません。橋本忍に出会ってしまったがために、シリアス病が黒澤明の宿痾の病となって、フィルモグラフィーが濁ったのです。くだらない寄り道をせず、面白い映画をつくることに徹すれば、黒澤はキングになったはずだというのです。『椿三十郎』のような映画を五、六本撮ってみなさい、ハリウッドが湯水のように資金を提供したでしょうに。

いやまあ、黒澤明自身のなかに、もともと橋本忍的な要素が多量にあったことが根本原因なのですが、それでもなお、菊島隆三や小国英雄との共同作業なら、黒澤明の「タメにしたい」「お説教を垂れたい」悪癖は稀釈されたにちがいなく、野村芳太郎は橋本忍にそのことをいったのです。

それにしても、わたしは『ゼロの焦点』『張込み』『砂の器』といった松本清張原作ものや、『八つ墓村』『白昼堂々』『事件』を見た程度なので、なにもいえないのですが、野村芳太郎というのはすごい人ですねえ。たった一言で黒澤明と橋本忍の両方のシルエットを切り取ってみせるなんて、そうそうできることじゃありませんよ。

もちろん、野村芳太郎が橋本忍とは何度も仕事をしたことがあり、踏み込んだことをいえる関係にあったからこその言葉でしょうが、橋本忍が衝撃を受けることがはじめからわかっていながら、遠慮なしに論評したところは、やはり人物です。

◆ 『黒澤明という時代』 ◆◆
ついでといってはなんですが、小林信彦『黒澤明という時代』も読んでみました。すると、最後の章に、この書の直接の契機は野村芳太郎の黒澤明/橋本忍評だとあって、やっぱりねえ、でした。

わたしのように、リアルタイムで最初に見た黒澤映画は『赤ひげ』だったなどという縁なき衆生(そのつぎの『どですかでん』でもろにコケて、以後、長いあいだ黒澤には興味をもたなかった)とはちがい、『姿三四郎』から見てきた人だし、すぐれた映画評のある作家だから、わたしの凝り固まった偏見を是正するなにかがあるかと思ったのですが、とくにそういうことはなく、また、野村芳太郎の黒澤評をどう受け取ったかもよくわかりませんでした。わたしのように単純に「そうだ、そのとおり! 百パーセント同意する」ではないはずで、そこのところを読みたかったのですが、たんに「そこまでいっていいのだ」(野村芳太郎のように遠慮なくいっていい、の意)と思ったとあるだけで、論評は加えていません。それは本全体を読んでくれればわかる、ということなのでしょう。

小林信彦は、『黒澤明という時代』のなかで、何度か、「劇場で見てほしい」ということと「映画は公開の時に見なければダメ」ということをいっています。うーん、はてさて。前者はとくに文句はありません。映画はフィルムで見たほうがいいに決まっています。しいてケチをつけるなら、「現代という環境にあっては」フィルムで見たうえで、なおかつDVDなどのヴィデオ・パッケージ化したものも見るべきである、と補足したくなる程度です。

しかし、後者は困惑します。いや、ぜんぜんわからない、というわけではありません。小説や絵画などとは異なり、映画やポップ・ミュージックは、時代の直接の関数として生みだされるのだから、それを生みだした空気のなかで味わうのが理想である、といった意味なのでしょう。

じっさい、目下当ブログで書き進めている『イージー・ライダー』など、まさしく時代の関数として生まれ、大ヒットした結果、時代の気分のありように大きな影響を与えた映画です。1969年に高校生があの映画を見て感じたことと、いまわたしがDVDで見ながら分析していることとのあいだには、大きな隔たりがあります。

でもねえ、自分が生まれる前に公開された映画について、リアルタイムで劇場で見なければダメ、といわれちゃうと、やはり困惑します。つまり、あとから見た人間がなにかいっても意味はない、みな的はずれ、といっているに等しいわけで、それをいったらおしまいよ、と車寅次郎になっちゃうのですね。

戦後生まれの小僧がヴィデオかなんかでちょこちょこと見て、たとえば、「『生きる』なんか退屈な説教にすぎない」などといった「暴論」を吐くのに何度も接した結果、「その時代にその映画がもった価値」というほうに力点を移動させすぎてしまったのでしょう。行きすぎです。

「リアルタイムで大画面で見た」経験を軽視したりはしません。なるほど、その時代にはそういう意味をもっていたのだな、と納得することもしばしばあります。でも、それは自分の経験ではないのだから、究極においては「よそごと」にすぎず、あくまでも「聞き置く」だけの「参考意見」にすぎません。

前の段落を書いてから、時間をかけて熟考しました。たとえば、いま、二十歳の人間が、どこかのブログに、「『イージー・ライダー』には退屈した。あの時代には、南部の保守主義の恐ろしさというのは、アメリカ人のマジョリティーにとっては大きな衝撃だったのかもしれないが、いまでは訴求力をもたなくなってしまった」と書いてあるのを読んだとしたらどうでしょうか?

むろん、賛成はしません。でも、「映画は公開時に劇場で見なければダメ」ともいいません。こういう評言を読んだら、ああ、こいつと俺はまったく考え方がちがう、なにも共通点がない、頭から尻尾までぜんぜん無関係、と感じて、一分後には読んだことも忘れてしまうでしょう。

わたしは他人がどう思うかにはあまり関心がなく、その意味で「冷たい」人間です。重要なのは「自分がどう感じるか」だけであって、ほかのことは付けたりにすぎないと思っているのです。ひるがえって、他人の意見に「ホットに」反応し、「映画は公開時に劇場で見なければダメ」とくりかえし書く小林信彦は、わたしよりずっとコミュニケーション能力に富んだ、温かい心の持ち主なのかもしれません。

ちょっと強引なパラフレーズかもしれませんが、「映画は公開時に劇場で見なければダメ」というのは、すなわち「もっとつくった人間の心に迫り、それを受け取った人びとの心情に想像力を働かせてほしい」という願いなのでしょう。そういう意味なら、理解できなくはありません。

心情的には小林信彦のいうことも、まんざらわからなくはありませんが、でも、突き放していえば、失礼ながら、年寄りの繰り言です。「複製の時代」にあっては、あらゆるものが記録され、頒布され、無数の文脈のなかに配置し直されるのであり、結果として「評価の無限増殖」は避けられません。どこかに明快な軸をおき、中心と辺境の区別をつけたいのかもしれませんが、残念ながら、そういう概念はもはやこの巨大な蜘蛛の巣のどこかにまぎれて、捕捉不能になってしまったようです。

ほんとうは久生十蘭全集の話になるはずだったのですが、軽い枕のつもりで書きはじめた黒澤明のことが長大になってしまったので、新版全集で陽の目を見た十蘭の未刊行長編については次回に持ち越します。


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文庫
複眼の映像―私と黒澤明 (文春文庫)
複眼の映像―私と黒澤明 (文春文庫)

四六版
複眼の映像 私と黒澤明
複眼の映像 私と黒澤明



黒澤明という時代
黒澤明という時代
by songsf4s | 2010-07-26 21:08 | 書物