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ジョン・ミリアス監督『ビッグ・ウェンズデイ』(1978年) その6 最終回

前回のMoon of Manakooraのサンプラーでは、アクスル・ストーダールなんて人のヴァージョンを看板に立てたのですが、いま、この人のことを知っているのは、熱心なフランク・シナトラ・ファンだけでしょうから、ちょっと心配しました。しかし、さっき、box.netを見たところ、数回のアクセスがあったようで、ホッとしました。ゼロかなあ、と思っていたのです。

◆ 時は流れ、人は去る ◆◆
マット・ジョンソンは、「Liquid Dreams」というサーフィン映画の製作者から招待状をもらい、妻と娘を連れてプレミアに出かけます。マットもこの映画に登場するというのです。しかし、いよいよマットのシーンになると、それまでの観客の歓声が消え、ちょっと野次られたりしたあげくに、あっという間にマットのシーンは終わり、現在のスターであるロペスのショットに移ってしまい、また場内は歓声に包まれます。

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マットは当惑し、妻も困った表情を浮かべます。もうマット・ジョンソンは過去の人だったのです。ここでわたしは、リック・ネルソンのGarden Partyを思い起こします。マジソン・スクェア・ガーデンのオールディーズ・ショウに出演したときのことを歌った曲です。YouTubeには正しいヴァージョンがなかったので(再録ものかライヴ)、自前でオリジナル・ヴァージョンをアップしました。

サンプル Rick Nelson "Garden Party"

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ファースト・ヴァースは以下のごとし。

I went to a garden party to reminisce with my old friends
A chance to share old memories and play our songs again
When I got to the garden party, they all knew my name
No one recognized me, I didn't look the same

「旧友たちと昔をしのぼうとガーデン・パーティーに出かけた。思い出話に花を咲かせ、みんなで昔の曲を歌ういい機会だと思ったんだ。会場に行くと、だれもがぼくの名前を知っていたけれど、ぼくだとわかる人はだれもいなかった。ぼくは面変わりしてしまったんだ」

つづいてコーラス。

But it's all right now, I learned my lesson well
You see, you can't please everyone, so you got to please yourself

「でも、もう気にしていないさ。いい勉強をさせてもらったよ。万人を喜ばせるなんてできはしない。勝手に自分の楽しみを見つけてくれ」

リックは自分のことをオールディーズ・アクトとは思っていなかったので、このショウでも新しい曲を歌ったら、ひどいブーイングを受け、そのときの思いを歌にしたといわれます。

しかし、ここが人気という妖怪のやっかいなところですが、客の仕打ちに竹篦返しをしたこの1971年のGarden Partyは、久しぶりのトップ10ヒットとなり、リックを再びスターダムに押し上げることになります。そういう意味でも重要な曲です。

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いや、そういう客観的なことも重要ではないのです。数千曲は知っているビルボード・トップ40ヒットのなかでも、この曲はなんともいえないエモーションを引き起こす特異な歌詞になっていて、ファンとしてはリックの心中を思い、落涙しそうになります。

とはいえ、それは脇筋。試写会でマット・ジョンソンは、マジソン・スクェア・ガーデンでのリック・ネルソンと同じことを思ったことでしょう。時は流れ、人の心は変わるのです。しばしば冷淡に。

◆ 時間の裏切り ◆◆
つぎのショットでは、浜辺でマットの妻と娘が遊んでいるところに、ジャックがあらわれます。無事に除隊して帰ってきたのです。ボードをこぎ出したジャックは、海の上でマットに再会します。まるで、昨日別れて今日また会ったようなマットのそぶりがじつに好ましいショットです。

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しかし、ジャックもまた3年の歳月にしてやられます。「サリーに会ったか?」とマットにきかれ、ジャックは「いや、まっすぐここに来た」とこたえます。つぎのショットで、ジャックはサリーの家を訪ねます。彼女は不在で、夫が玄関口にあらわれ、「帰ってくるのが遅すぎたな」といわれます。

リロイも交えて、3人はワクサーの墓に詣で、ワクサーの思い出を語ります。それは死んだ友だちの思い出であると同時に、「死んだ自分たち」の思い出話でもあります。彼らは自分たちの時代が終わったことをたしかめあったのでした。

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◆ ぜんぜんうねらないグレイト・スウェル ◆◆
どなたの賛成も得られないだろうな、と思いつつ、でも、だからといって、ウソを書くのは馬鹿馬鹿しいから、じっさいのところを書きます。『ビッグ・ウェンズデイ』の最後の章は、何度見てもあくびが出ます。

最後の章とは、もちろん、あの大波「ビッグ・ウェンズデイ」に3人が挑むところです。タイトルにもなっているのだし、最後のシークェンスなのだから、クライマクスのはずです。じっさい、『ビッグ・ウェンズデイ』を「サーフィン映画」と捉えている人は、あの大波を見て盛り上がったのだろうと想像します。でも、わたしは引き潮になってしまいました。

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なぜ乗れなかったのか。分析などたいした意味はありませんが、とにかく考えてみました。ひとつは、わたしがこの映画を「失意の物語」と捉えているからだと思います。マットもジャックも、時の流れには乗らずに生きた結果、自身のレゾン・デートルを失っていく、という道筋は、前節までに述べたとおりです。そのような話の流れと、最後の大波が、わたしの頭のなかではどうしてもうまくつながらないのです。

人生とちがって、映画には印象的な結末が必要です。『ビッグ・ウェンズデイ』があのように終わったのは、それだけの理由でしかないように思います。1962年にはじまって1968年まで、現実に対する深い失望を描いてきたことは、諸処の計算ちがいを超えたところで共感できます。スムーズには描かれていないものの、でも、そこにたしかな手ざわりをわれわれは感じとります。

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それがすべて大波に押し流され、やっぱり友だちはいいものだ、これからもちゃんと連絡を取り合おうぜ、じゃあな、また会おう、で終わってしまうとくるのだから、これまでの話はなんだったのだ、といいたくなります。

この時代には、まだプロデューサーの締めつけは後年ほどきびしくなかっただろうと思うのですが、やっぱり、ハッピーエンドにしないと客はおさまらない、という配慮から、こういうとってつけたようなメイジャー・コードのエンディングになってしまったと感じます。

◆ ライド・ザ・ワイルド・サーフ ◆◆
仮に、それでもいいとしましょう。木に竹を接いだようではあるけれど、失意のままで終わらせるのはあまりにもむごいから、花道をつくろうではないか、という考えに賛成することにします。それでもなお、じっさいにできあがったシークェンスは納得がいきません。

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これは難癖、ないものねだりだろうな、と思いつつ書きます。

たとえば、『バンド・ワゴン』です。あれは、芝居の失敗というどん底から立ち上がって、旅公演を成功に導いて終わります。最後のニューヨーク公演で、彼らが成功したことははっきりと表現されているのです。われわれが映画でカタルシスを得るには、こういう操作が必要です。

『ビッグ・ウェンズデイ』の大波が困るのはそこです。あれは「成功」だったのでしょうか、なんてききたくなるほど、輪郭の判然としないシーンなのです。「サーフィンは成功だの不成功だのといったレベルで判断するものではない」といわれてしまうかもしれません。だとしたら、あれを最後にもってきたことは失敗だったと証明されたことになってしまいます。カタルシスを得るには、白黒の決着が必要なのです。

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いや、〈ベア〉はべつのシーンで、マット、ジャック、リロイは大波に挑戦し、成功することで不朽の名を残す、と明言しています。だから、成功することが不可欠なのですが、あれが成功なのか不成功なのか、判然としないのです。彼らが満足そうな表情を浮かべるから、成功したのだと思うだけという頼りのない状態で、カタルシスどころではありません。

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うーん、あんまりジョン・ミリアスを責めたくないのですよ。でも、プロダクションの段階で失敗し、編集などのポスト・プロダクションでも失敗したと感じます。テンポが遅くて気分が昂揚しないだけでなく、撮影と演出でも計算ちがいしていると思います。いや、たとえば、彼らの歓喜の表情をクロースアップで見せるといった野暮ったい処理はしたくなかったのでしょう。でも、そのせいで、ただ漫然とサーファーたちを撮っただけにしか見えなくなっています。

ジャックが軍隊に入る前に独りでライドするシーンは、うまくいっているのです。特段の「表現」をしなくても、われわれ観客が「勝手に」人物の心理を読み取るようになっています。それと同じように、最後の大波でも、われわれが彼らの心理を読み取れるようにショットを積み重ねるべきだったのです。

結局、編集の失敗が大きいのだと考えます。冗漫なショットがメリハリなくつなげられていて、物語のなかに入り込めないのです。ベイジル・ポールドゥーリスのドラマティックなスコアも空回りしています。

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ジョン・ミリアスは、あくまでもリアルであろうと心がけたのでしょう。その気持はわかりますが、フィクションが歓喜を惹起するようにもっていくには、ときには大嘘も必要なのではないでしょうか。失意の物語とそこからの快復というプランだったのだとしたら、結局、両者はうまくつながらなかったのだと感じます。残念ながら。

◆ 批評? そんなものは犬にでもくれてやれ ◆◆
さて、ここで手のひらを返すように、前言を撤回するようなことを書きます。

年をとるとともに、映画の「評価」なんてどうでもよくなってきました。秀作か駄作か、成功作か失敗作かなんてことはエッセンシャルではありません。われわれは無意識のうちに、世の中の常識という鋳型にはめこまれて、「評価」という無意味なことをやっているのだという思いが強くなってきたのです。

傑作だとか名作だとか愚作だとか駄作だとかといった「評価」をどうしても必要とするのは、われわれ観客ではなく、映画産業のほうでしょう。いかに慎重に避けても、映画ファンは世間が「駄作」と断じたものを山ほど見ることになります。どちらにしろ見るのだから、他人の「評価」なんてどうでもいいじゃないですか。

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当時、映画評論なんてものを読んでいたら、わたしは日活に通わなかったでしょう。東宝特撮映画だって、評論家の無視をまつまでもなく、「東宝にいってくるよ」というたびに、わが母に「またゴジラ? くだらないね」と切り捨てられていました。

いま、東宝特撮映画群を再見してどう思うか? たしかにくだらないですよ、あんなものは。シナリオはデタラメだし、話はつながっていません。でも、無類に楽しいシーンがたくさんあります。だから、見る価値はあるのです。

◆ relateというレベル ◆◆
結局、われわれは、頭の片隅に「評価」という軸をおきながらも、どん詰まりにおいては、そんなこととは関係のないレベルで映画を見ているのです。どういうレベルか? 明快に表現できなくて恐縮ですが、英語でいうrelateできるか否かのレベルで映画を見るのです。

簡略化すると大事なものがいくつかこぼれてしまいますが、平たくいえば「興味を持てるか否か」「自分と関係があるか否か」のレベルで見る、ということです。

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年をとるとともに、映画の見方が「勝手」になってきました。星印がいくつ(トマトはどれだけ腐ったか、なんていうサイトもある)、なんてことはどうでもいいのです。星ひとつも当然の出来だぜこいつは、なんて思いながらも、こりゃすげえな、というショットがひとつあれば、それだけでその映画は、わたしにとっては価値のあるものになるのです。

たとえば、あまり適切ではないと承知しつつ例にあげますが、田坂具隆の『乳母車』です。あれは「作品として評価すれば」(くだらん!)失敗作です。でも、夜の鎌倉駅のシークェンスはほんとうに素晴らしくて、ほかのことなんかどうでもいいじゃないか、と思います。つまり、わたしがrelateできる映画であり、したがって見るに値するのです。

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時間がなくなってきたので、面倒な話はこれ以上深追いせず(いや、いつの日か系統立ててまとめたいと思う)、『ビッグ・ウェンズデイ』に戻ります。

わたしの心はマット・ジョンソンの心情にぴったり寄り添います。だから、諸処の小さな計算違い、最後の章の大きな計算違いは、つまるところ、どうでもいい瑕瑾でしかないのです。なあ、マット、俺たちはつまらん意地を張ったばかりに、この世界から叩き出されちゃったな、でも、それで得たこともあったから、このゲームはドロウじゃないか、なんて思うのでありました。

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by songsf4s | 2010-06-08 23:56 | 映画