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ジョン・ミリアス監督『ビッグ・ウェンズデイ』(1978年) その5

最近、当家の映画の記事はむやみに長くなる傾向があります。あまりいいことには思えないので、それほどいくつも注目点があるわけではない『ビッグ・ウェンズデイ』を取り上げ、手早くまとめようと思ったのです。ところが、当てごととなんとかは向こうから外れるというヤツで、みごとに思惑ちがい。今日もまだエンディングにはたどり着けそうもありません。

◆ 独りで乗る波 ◆◆
前回は、〈ベア〉の結婚式で、マットとジャックが和解したところまで見ました。このあと、徴兵検査での大騒ぎが長々と描写されます。とくにリロイが狂気を装う場面を執拗に描写するのですが、タイプのちがう監督なら、もっとずっと短いショットを手早くつないでいき、リロイが拘束服を着せられ、救急車で連れ去られるところまでトントンと運んだことでしょう。描写が長いので、笑うきっかけを失ってしまいます。

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結局、マットとリロイは徴兵を免れ、ジャックと〈ワクサー〉という仲間だけが軍隊に入ります。当時を知る人間には当たり前のことですが、1965年にアメリカの軍隊に入ったら、かなりの確率でヴェトナムへ行くことになります。

わたしが好きなのはそのつぎのシークェンスです。軍隊に入ることになったジャックは、おそらくはヴェトナムで戦うこと、つまりは死を思いながら、ひとりで海に出て、ひょっとしたら最後になるかもしれないライドをします。

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いやあ、パセティックなシーンだなあ、万感迫るライドだろうなあ、なんて思うのですが、いっぽうで、わたしのなかの冷静な分析者は、べつのことを思っています。このシークェンスのどのショットも、ショットそれ自体はニュートラルなのです。ウィリアム・カットも、スタンドインのサーファーも、とくに演技をするつもりはなく、ただ静かに波に乗っただけでしょう。

もちろんたんなる想像ですが、監督から、「半年後、おまえはヴェトナムで死んでいるかもしれない、そのことを思いながらサーフィンしろ」なんていう指示もされなかったのではないでしょうか。演技者としてここで必要なのは、笑顔を見せないことだけで、それ以上になにかする必要はなかったはずです。なんのエモーションもこめずに、淡々とライドしたのだろうと思います。

それでもなお、われわれは「これが最後になるかもしれないと覚悟しているんだ」などと、勝手に解釈し、勝手に感情移入して、このシークェンスに見入ります。映画というのはそういうものなのだ、という根源的な感覚にふれることで、ショットの味わいが多元的になるのです。

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結局、なにを頼りにこのシークェンスの意味を理解するかといえば、ここまでの話の展開と、オーケストラによるマイナーの味の強い荘重な音楽にほかなりません。ここでたとえば、ビーチボーイズのSurfin' USAを流してみれば、ショットそれ自体はニュートラルだということを得心されるでしょう。あのサウンドをこの絵に重ねたりしたら、自分の死を思って最後のライドをするサーファーにはぜったいに見えません!

◆ 北のうねり、1968年冬 ◆◆

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1968年の章は、戦死したかつての仲間〈ワクサー〉の葬儀からはじまります。お悔やみをいうマットに対して、息子のサーフィン仲間が嫌いなのか、ワクサーの父親はろくに返事もしません。

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マットの乗る車に描かれた文字から、彼がプール・メインテナンスの会社をやっていることがわかります。きっと、それが、彼とこの世界のギリギリの妥協点だったのでしょう。

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たいした稼ぎにはならないが、自分自身がボスだし、たとえ不快なクライアントにぶつかっても、仕事はごく短期で終わる、なんてことをわたしは思いました。かなりリアルな設定なのです。わたしも世界と折り合うのは得意ではないので、マットがこの仕事をはじめた気持(というか、ジョン・ミリアス以下のシナリオ・ライター陣が、この仕事をマットにあたえた気持)はよくわかります。

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もちろん、マットは依然としてこの世界とうまくやっていません。それどころか、彼とこの世界は疎隔を強めています。それは、妻と待ち合わせたカフェテラスで、ウェイターともめそうになる場面に明快に表現されています。

ウェイター「注文は?」
マット「チーズバーガー二つとコーク二杯」
ウ「うちはそういう店じゃないんでね(We're off that trip, man)」
マ「どういう意味だ?」
ウ「動物虐待料理はださないんだよ。死骸はね」
マ「じゃあ、コークだけなら問題ないだろ?」
ウ「ああ。でも、あれは悪いカーマだぜ、ブラザー」
マ「俺はおまえのブラザーなんかじゃない! あのゴミみたいな音楽を小さくしてくれ!」

そういって、腹立ちの収まらないマットは、テーブルに置かれた香炉に水をかけてしまいます。このシークェンスも初見のときに強い印象を受けました。

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わたしはここで、マットのこの世界からの乖離、疎外感は、じつは二重のものであり、その分だけ深く重苦しいものなのだと感じます。

前章で描かれたマットの違和は、大人になりかけた若者にはよく見られる「普遍的な疎外感」でした。でも、この1968年の章では、彼の疎外感は特殊化し、プライヴェートなものになっていきます。

「普遍的な疎外感」とは、大人のありようと大人のつくった社会に対する若年者共通のものです。しかし、マットの疎外感は二重底なのです。彼はまだ若者でありながら、同世代の浮薄な変化に強い苛立ちを覚えています。サイケデリック・ミュージックも、「ブラザー」も、菜食主義も、すべてが彼には不快なだけなのです。

マットの気持は肉体的苦痛を感じるほどよくわかります。彼はこういいたいのです。「おまえたちは、なんだってそう簡単に昨日までの自分を捨てられるのだ。人が生きるというのは、そんなに安易なことなのか。冗談じゃない。必死で生きて、自分自身と自分の道をつくったのだ。世の中が変わったからといって、それに合わせてあっさり色を塗り替えられるほどお手軽なものではない」。彼が香炉に水をかけたのはそういう意味です。

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わたしはマットよりちょっと下の世代で、サイケデリック・ミュージックを楽しみましたが、ここでいいたいのはそういう表面的なこと、個別の事象ではなく、もっと普遍的なことです。

十代から二十代にかけて、60年代後半から70年代前半の世の中をながめていて、なんという安っぽさ、と呆れ果てました。ただ表層を漂う生き方を拒否したとき、マット・ジョンソンのように、われわれのだれもが孤立に追い込まれていくのです。結局、『ビッグ・ウェンズデイ』というのは、その疎外、違和、孤立を描いた映画だとわたしは捉えています。

この映画を取り上げようと思いたったのは、ひとえにこの点にあります。『ビッグ・ウェンズデイ』は、『八月の濡れた砂』とよく似た、この世界と狎れ合うことを拒否したがゆえに、否応なしに孤立を選ばされた魂を描いた、痛ましい物語なのです。

ジョン・ミリアスは、マット・ジョンソンの孤立をさらに際だたせるエピソードをこの直後に用意していますが、それは次回に。

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by songsf4s | 2010-06-06 23:54 | 映画