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ジョン・ミリアス監督『ビッグ・ウェンズデイ』(1978年) その4

前々回の枕にゲーリー・ビューシーのことを書きましたが、本日はそのつづき、もう一本のビューシーの映画です。

The Buddy Holly Story予告篇


ドキュメンタリーのほうのバディー・ホリー伝は見ていましたが、こちらのほうは初見でした。べつに悪いところはなく、それなりに楽しい映画です。ドラマなのだから、現実のバディー・ホリーがどうだったといったことは、あまり気にしないようにして見たのですけれどね。

ゲーリー・ビューシーもコードはそこそこ押さえていて(Rave Onのときだったか、小指の上げ下げまではやらなかったが、ちゃんと6thの位置まで小指を伸ばしていた。ロックンロールでは6thはきわめて重要)、やっぱり、アメリカの音楽映画は見ていて気持がいいと思いました。

ただ、クリケッツがついに最後まで4人編成にならなかったのには、目を白黒してしまいました。バンドのメンバーの入れ替わりをいちいちドラマに取り込んでも意味がないと考えたのでしょうが、やっぱりちょっと残念です。

バディー・ホリー&ザ・クリケッツの歴史的重要性のひとつは、後年スタンダードになる、リード・ギター、リズム・ギター、ベース、ドラムズという「4ピース・ギター・コンボ」の原型をつくったことです。これがビートルズのプロトタイプだったのですから。それがずっとトリオとくるのだから、ジミヘン・ファンの陰謀かと思っちゃいますよ!

Oh Boy、It's So Easy、Rave On


あの当時、バディー・ホリー&ザ・クリケッツの音を聴いただけでは、白人か黒人かわからず、黒人の歌と勘違いした人がずいぶんいた、ということが描かれていて、へえ、あのころの白人音楽はそんなに真っ白だったのかよ、でした。時代によって感覚は大きく異なるので、わたしが音楽を聴きはじめたころには、すでに白人音楽がずいぶん黒くなっていたから、それより昔の「ちょっとだけ黒いもの」は、ただの真っ白に聞こえるのでしょう。

思いだすのはAWSoP、すなわち、A Whiter Shade of Paleです。あれはわたしが中学2年の秋のヒット曲で、予備知識なしにはじめてラジオで聴いたときは、ブラック・シンガーが歌っているのだと思いました。いま聴けば、まごうかたなき真っ白。AWSoPを後追いで聴いた人はみな、自動的に白人の歌だと思ったでしょう。

時代時代によって、その程度の感覚的ズレはあるものなのです。だから、バディー・ホリーが黒っぽく聞こえた(たとえば、That'll Be the Dayの歌いだしで、いきなりシャウトするが、ああいうことは当時の白人シンガーはやらなかったのだろう)というのは、わたしにはそれなりに想像できます。いや、実感はないのですよ。真っ白じゃんと思います。

見終わって思ったのは、バディー・ホリーはほんとうにいい曲をたくさん書いたなあ、ということでした。映画の出来とぜんぜん関係ない! Rave On、Oh Boy、Not Fade Away、That'll Be the Day、Everyday、Peggy Sue、Words of Love、Well Alright、Maybe Babyなんて並べると、サンバーストのストラトにストラップをかけて立ち上がりたくなります。十代のジョン・レノンがバディー・ホリーに傾倒した気分を自分のものにできたような気がしてきました。

We-eh-eh-el little things you say and do make me want to be with you-ou-ou, Rave on, it's-a crazy feelin'

ジョン・レノン、バディー・ホリーを歌う


◆ スターになんかなりたくない ◆◆
なんだか小三次の高座みたいに長い枕になってしまい、これでは噺に入れないぞと心配になりましたが、今日こそは『ビッグ・ウェンズデイ』の肝心要のシークェンスを書こうと不退転の決意で臨んでいます。

1965年の章で、マットが泥酔して、自動車事故を引き起こしたりしたため、ジャックに殴られ、ビーチから追い出されたところまでは、前回書きました。この時点では、マットがなぜこんな状態になっているのかは説明されません。

つぎのシーンでは、アーティスト不明のGreen Onionが流れ、サーフ・ショップの店頭と道路が映ります。前章の最後で、もうおまえたちのボードをつくれない、といった〈ベア〉が、桟橋ではなく街に店を開き、大繁盛しているのです!

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店のなかでは〈ベア〉が葉巻を吹かしながら、白いタキシードの仮縫いをやっていて、そこにマットがやってきます。

ベア「なんだ、ひどい顔じゃないか。だれかにやられたのか?」
マット「酔っぱらって車の事故を引き起こしたものだから、ジャックに殴られたんだ」
ベ「そいつは友だちのやることじゃないな」
マ「ぼくが悪かったんだ」
ベ「それがなんだ。そういうときこそ友だちが必要なんじゃないか。うまくいっているときはなにもいらないものさ。ちょっと来いよ。新しいボードのことで相談がある。〈マット・ジョンソン・ボード〉っていうのをつくろうと思ってな」
マ「そんなのかんべんしてくれよ、ベア」
ベ「なにいってんだ?」
マ「もらったボードは返すよ。これからはちゃんとお金を払うようにする。スターになんかなりたくないんだ。雑誌に写真が載ったり、子どもたちにあこがれの目で見られたりなんて、ゴメンだ。ぼくはただの飲んだくれのろくでなしさ。友だちと乗ると気分がいいから、サーフィンをするだけのことなんだよ。そもそも、いまじゃあ、それすらしてない」

マットがはまりこんだトラブルの正体は、以上でほぼ明らかでしょう。『八月の濡れた砂』の健一郎と同じ魂の持ち主といっていいと思います。簡単にいえば、どうにもこうにも世間と折り合いがつけられない、若者のひとつの典型をあらわしているのです。

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『八月の濡れた砂』の健一郎は、この世界と折り合いをつけられない憤懣を、粗暴なふるまいに変換して、外に向かって噴出することで正気を保っています。いっぽう、『ビッグ・ウェンズデイ』のマット・ジョンソンは、内向し、かつての仲間との付き合いもしなくなり(一種の引きこもりといえる)、酒で気を紛らわせています。なんだか、日米の若者のありようが逆のような気もしますが!

◆ 執行猶予としての和解 ◆◆
さらに〈ベア〉とマットの対話はつづきます。〈ベア〉はボードの側面(「レイル」)にふれながら、マットに話しかけます。

ベ「どうだい、このレイルは?」
マ「なあ、わかってくれよ」
ベ「そんなことでうまくいくわけがないじゃないか。おまえはわかっていないんだ。大人になるのはつらいものだよな、坊や」
マ「よしてくれよ、ベア!」
ベ「(マット・ジョンソンをひと目見ようと、店の入口に集まった少年たちに視線をやり、語気を強め)あの子たちはおまえを尊敬している。おまえが嫌がろうがどうしようが、そんなことは関係ないんだ。新しいボードを選んだほうがいいと思わないか?」
「ああ、わかったよ、ベア」

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以上で、〈ベア〉のサーフ・ショップでの二人の対話をすべて書き写しました。『ビッグ・ウェンズデイ』という映画のエッセンスは、この対話に明示的に描かれています。

わたしの直感は、ここに掘るべきなにものかがある、といっているのですが、今日は時間がないので、通りすぎます。仰ぎみられる存在にはそれに伴って自動的に責任が生じる、という概念の提示は、記憶にとどめておき、あとできっかけがあったら考察をめぐらす価値があるような気がするのです。われわれの文化にはこういう概念はあるのでしょうか? いや、それはいずれ考えることにして……。

◆ 地獄だろうが大波だろうが ◆◆
つぎのショットは〈ベア〉の結婚式当日、その会場となる教会の庭で、〈ベア〉を囲んでマットやリロイたちが坐っています。そこへジャックが母親とガールフレンドを伴ってやってきて、〈ベア〉が、こっちへきて一杯やれ、と誘います。ジャックは、マットと仲直りしろ、という意味で〈ベア〉が飲めといっているのだと察して、ためらいますが、

「なあ、ジャック。人間、なによりも大切なのは友だちだ」

という〈ベア〉に押し切られたかたちで、ジャックは差し出されたボトルを受け取ります。

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「なんのために飲むんだい?」
「ただひたすら友だちのためさ。地獄が来ようが、大波が来ようが、つねに変わらぬ友情に乾杯さ」

ここはやや蛇足というか、不可欠とはいえないダメ押しのように感じますが、二人の仲違いを解消しておかないと、以後の話の展開に支障が出るという判断だったのでしょう。

すでに〈ベア〉との対話で、マットの「当面の弥縫策」は完了していると思います。こういう問題は解決できる性質のものではないから、じっさいの人生と同じように、すこし視点を変えて、現在のトラブルから目をそらし、遠くを見ることでその日を切り抜けることにしたのです。

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だれもが若いときに(と限定する必要はないか?)マットと同じトラブルに悩まされるわけではないでしょうが、やはりこれは普遍的な現象であり、われわれは自己のなかに、あるいは身近な友人知己に、マットと同じ魂を見いだすはずです。

『ビッグ・ウェンズデイ』はバランスの悪い映画で、話の展開もスムーズではありません。評論家的な言辞は避けたいのですが、あえてそちらに寄り添った物言いをするなら、小さな計算ちがいがすこしずつ積み重なって、結局、目指したものをうまく実現できなかった「失敗作」ではないかとも思います。

それでもなお、何度も見直しているのは、やはり、われわれはマット・ジョンソンのこの世界に対する違和感を、自分自身のなかにも見いだすからではないかと思います。

マット・ジョンソン対この世界の戦いはまたつづきますが、いまは忙しいので、焦らずあわてず、すこしずつ進んでいくことにします。いや、明日明後日も多忙なので、更新できるとしても、またサンプラーになると思いますが。



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by songsf4s | 2010-06-04 23:57 | 映画