めったにそんなことはしないのですが、ごくたまに、IEで当ブログを表示することがあります。いやもう驚いてしまいますよ。最近のIEは使っていないのですが、古いヴァージョンだと、CSSの解釈が独特で(「ひどい」「デタラメ」の婉曲表現)、弱視者用設定かと思うようなドカーンという文字に、スカーンという字間行間になって、笑ってしまいます。
もともと、わたしと同年代の方々の視力減退に配慮して、文字が小さいと読みにくいからと、OperaやFirefoxでの表示を大きめにしてあるのです。それを、IEはさらに拡大してしまうから、メチャクチャなことになっているわけです。IEユーザーのなかには、ここはなんでこんなにドカーンの文字にスカーンの字間行間なのかと思われている方がいらっしゃるかもしれませんが、そういう事情なのでどうかあしからず。
しかし、世の中、文字はみな拡大傾向にあるわけで、IEのドカーン、スカーンは今の主流なのかもしれません。わたしも、Operaの「0」キー(表示を拡大)は頻繁に使っています。海外のニュース・サイトなんか、蚊の大群みたいで、さっぱり文字に見えないところがありますからね。
◆ 視力に依存しないOperaの新ページ内検索機能 ◆◆
最近、Operaは劇的に改善されました。Firefoxは使わなくなってしまったほどです。速度面でもFirefoxより数段速くなったのですが、もっとも劇的なイノヴェイションは、ページ内検索機能です(わたしはIEは6のまま放置しているので、よそでも実現されている機能のことを、そうではないかのように思っているかもしれないが)。
さて、Operaのページ内検索機能です。たとえば「ドン・マクリーン」ぐらいの長さの言葉を検索するのなら、旧式のページ内検索でも、それほど困りはしません。
右側のメニューにカーソルが入っています。
では、「19」はどうでしょうか?
よくわからないでしょうが、中心のあたりの「リリース年」の下にカーソルが入って、ハイライト表示になっています。これは、すくなくとも老眼の人にはきついはずです。同じことをOperaでやると、
このように、検索された文字以外の部分を暗くするので、目的の文字列がハイライト表示になり、瞬時にしてどこにあるかがわかるようになりました。
こんな簡単なことで解決できたわけで、むしろ、いままで実現されていなかったことのほうが不思議に思えてきます。グーグルで検索して、どこかのサイトに飛び込み、目的のキーワードを検索する、という、いたって日常的な作業で、これほど便利なものはなく、Operaだけしか使わなくなった所以です。
まあ、いずれ他のブラウザーもこの機能を実装すると思いますが、天下を取ったように見えたときが最大の危機だということを、IEの愚昧とFirefoxの怠惰は教えてくれます。
◆ 獅子文六『やっさもっさ』の記憶ちがい訂正 ◆◆
年をとると視力も衰えますが、記憶力もめだって衰えます。記憶でものを書くのは非常に危険なのですが、ブログでは忙しくて、つい、それをやってしまいます。
先日、「横浜映画」という記事のなかで、「『やっさもっさ』(渋谷実監督、淡島千景・小沢栄太郎主演、1953年、松竹)は未見ですが、たしかに獅子文六の原作は終始一貫横浜を舞台にしています。開巻いきなり、GIの町だったころの馬車道通りの描写があり、ほほう、と思いました」なんてことを書きました。
そう書いたあとで、就寝前に獅子文六全集を引っ張り出し、『やっさもっさ』の冒頭を読んだら、これが品川の御殿山にある元宮様の邸宅における慈善バザーの様子、では、つぎの場面かと先を読むと、これが横浜根岸にある孤児院の描写、馬車道のバの字も出てきませんでした。
やむをえず、翌晩、つづきを読むと40ページをすぎたところで、ようやく主人公が根岸の家を出てバスに乗り、めでたく本町4丁目で下車、馬車道通りを歩きはじめ、安堵しました。
しかし、食いしんぼの獅子文六も、ハンバーガーのような下賤なものには興味がなかったのか、馬車道交叉点の珈琲屋のハンバーガーにはふれていません。この店が小説に登場するのは矢作俊彦の『真夜中へもう一歩』まで待たなくてはいけないのでしょう(じつは、店内の様子を描写したこういう物語もある。事情を知っている友人たちはここで嗤うだろうが!)。
◆ 「ビルドゥング・ロマン」だろうか? ◆◆
『やっさもっさ』は、処女長編『金色青春譜』以来、獅子文六が得意としたビルドゥング・ロマンのヴァリエーションで、主人公たちが若い世代ではなく、中年だということがかつての諸作とは異なっています。しかし、これはビルドゥング・ロマンといってはいけないのかもしれません。
辞書の定義を見ます。
「主人公が幼年期の幸福な眠りからしだいしだいに自我に目覚め、友情や恋愛を経験し、社会の現実と闘って傷つきながら、自己形成をしていく過程を描いた長編小説」
この定義からすると、やはり主人公は若年者でなければいけないのですが、文六描く『やっさもっさ』の夫婦は、まるで現代の中高年の幼稚化を見越していたかのように、いい年をして「友情や恋愛を経験し、社会の現実と闘って傷つきながら、自己形成をしていく」のです。
そう考えると、以前書いた、中高年のラヴ・ストーリーより、中高年のビルドゥング・ロマンのほうが、現代に合っているかもしれません。いや、石坂洋次郎の中高年たちも「友情や恋愛を経験し、社会の現実と闘って傷つきながら、自己形成をしていく」ので、行き着くところは同じでしょうけれど。
横浜は進駐軍の接収がひどく、あとから読むと呆然とするようなことがたくさん起きました。なんたって、山下公園が日本ではなく、あそこにかまぼこ兵舎が並んでいたというのには唖然としてしまいます。子どものころ、大人たちが「山下公園」という言葉にこめていたニュアンスを思いだし、あのかまぼこ兵舎の写真を見ると、なるほど、そういう意味だったのか、と思います。やっとの思いで取り戻した宝物だったのでしょう。
自分が見聞きした範囲でいうと、やはり本牧から根岸にかけての一帯がひどく異国的だったことが印象に残っています。本牧デポは再開発されて久しいのですが、根岸はいまもところどころに「根岸ハイツ」の痕跡があります(いや、この数年行っていないので、当てにならないが)。このあたりを小説に書き残しておいてくれたのも矢作俊彦で、『マイク・ハマーへ伝言』を読めば、かつての雰囲気が眼前に彷彿としてきます。
『やっさもっさ』に描かれた横浜の変貌で、もっとも目を惹くのは、繁華の中心が野毛に移ったという点です。伊勢佐木町の主要な建物や劇場が米軍に接収されてしまった結果だそうですが、関東大震災で下町が壊滅し、一時的に神楽坂が非常に繁華な町になったのによく似ています。
◆ フィーリクス・スラトキン補足 ◆◆
昨日の「ラウンジ春宵二刻」では、フィーリクス・スラトキンのものを二曲サンプルにするつもりで、うっかりひとつを忘れてしまいました。
サンプル Felix Slatkin "On the Street Where You Live"
この曲は、ボブ・トンプソンのヴァージョンですでに取り上げています。
Bob Thompson "On the Street Where You Live"
スラトキンと、彼のアレンジャーだったボブ・トンプソンのヴァージョン、両方並べてみて、どちらが面白いか、いや、それは書かずにおきます。