なんだか、『嵐を呼ぶ男』その1でも、その2でも、映画自体はあまり褒めなかったというか、どちらかといえば、けなしっぱなしですが、今回も、結局、シナリオの穴を列挙することになってしまいました。
考えてみると、井上梅次という監督とは相性がよくなくて、見たのはほんの数本ですが、どれもあまり気に入りませんでした。相性はどうにもならないので、井上梅次ファンにはごめんなさいして、シナリオ欠陥探しをつづけます。
わたしが最終的に強調したいのは、シナリオがどれほどひどくても、それがヒットかミスかに影響を与えないという、偶然ないしは時の勢いというものの恐ろしさのほうなので、どうかあしからず。
あ、もうひとつ、勝因分析を誤るのはよくあることだし、状況は刻々変化することを忘れるのは人間のつねである、ということも日活の歴史は教えてくれます。昨日の真実は今日はもうガラクタなのです。
◆ 愚かさの連鎖 ◆◆
すこしストーリーラインを追います。
石原裕次郎は、音楽業界ゴロである金子信雄が、裕次郎が属すバンドのマネージメントをしている北原美枝に横恋慕しているのを利用し、自分を売り出してくれたら、仲を取り持ってやると約束します。しかし、いっしょに暮らすうちに自分自身が北原美枝に恋してしまい、約束を反故にしてしまいます。
裕次郎には音楽学校で作曲を学んでいるまじめな弟・青山恭二がいます。母は音楽家など職業ではない、次男には会社員になって欲しいのに、長男が悪い影響を与えているといいますが、それをいうにはもう遅すぎるでしょう。
音楽学校へ行くのは、ふつうは音楽家になるためであって、サラリーマンになるならべつのコースを選んでいなければいけないのは、だれだってわかることです。文句をいうならコースを選択するときであって、コースを選択し終わったあとでは無意味です。シナリオ・ライターはこういう矛盾に気づかないのでしょうか? それとも、そういう分別すらない愚かな人間として、この母親を描きたかったのでしょうか。不可解。
さて、この弟が非常に優秀で、アメリカの財閥(と解釈した)が新たにはじめる新人作曲家奨励プログラムの第一回に選ばれ、自分の曲を発表するチャンスを与えられます。ここまでは、失速寸前ではあるものの、まあいいとします。
問題は、これをネタに、金子信雄が裕次郎に威しをかけることです。北原美枝をあきらめないと、弟のコンサートを妨害するというのです。金子信雄の役が非常に影響力の強い音楽評論家だということは何度も強調されますが、それにしても、ワン・ショットのコンサートをどうやって妨害するというのか、そのへんの説明がありません。せいぜい、あとで雑誌や放送でボロクソにけなすぐらいのことでしょう。そういう迂遠なことでは、遅かりし由良之助です。
いろいろ想像をめぐらせてみましたが、わたしにはさっぱりわかりません。あの時代には音楽評論には影響力があったのでしょうか。信じがたいですね。わたしの知っている日本では、そんなことが起きるはずがありません。音楽評論も映画評論も、客の気分やサイフの開閉にはなんの影響も与えなかったし、いまも無関係でしょう。せいぜい、スキャンダルでも暴いて、裏側から追い落とすぐらいのことしかできないだろうと思います。
◆ 批評? そんなものは犬にでもくれてやれ ◆◆
北原美枝と敵対するマネージメント会社のボス、安部徹はダンサーの白木マリを情婦にしています。脅迫のために北原美枝をあきらめた石原裕次郎は、泥酔して白木マリのアパートに泊まります。これを誤解され、安部徹の配下(もちろん高品格を含む!)にリンチにあうシーンでは、石原裕次郎はふたたび金子信雄に、弟に手を出さないと約束するなら、俺も男だ、なにをされても警察沙汰にはしない、などといいます。
ここもプロットが亜脱臼しています。どうやって妨害するのか、方法をたしかめずに威しに屈するのは納得がいきません。妨害だ? できるものならやってみろ、評論家風情がしゃらくさい、といえば一件落着ですよ。そもそも、そういう台詞のほうが裕次郎らしいでしょう?
この映画は批評を極度に過大評価しています。批評でなにかが成功したり失敗したりなんて、ブロードウェイならいざ知らず、日本では聞いたことがありません。批評になにか力があるとしたら、そもそも日活自体が、石原裕次郎のデビューとともに倒産していたでしょう! 裕次郎が大スターになったことが、すでに批評の無効性を証明しています。映画評論家がなにをいおうと、だれも相手にしなかったからこそ、日活アクションに客が入ったのです。
しかし、またしても、視覚の刺激は論理を蹴散らします。子どものわたしが、この映画で記憶に深く刻みつけたのは、ほかならぬこのリンチ・シーン、とりわけ、コンクリート片で裕次郎の右手をたたきつぶすショットです。『嵐を呼ぶ男』というのは、長いあいだ、わたしにとっては「指をたたきつぶす映画」でした。ほかのことはみな忘れてしまいました。
暴力を行使する者と、暴力に屈する者のあいだには、あるエロティシズムが介在することを、子どもは鋭敏に感じとったのでしょう。いまのわたしは鈍感な大人なので、そういう微細なところに隠れた真理をたちどころに読み取るセンスは持ち合わせていません。
ともあれ、シナリオ・ライターがこれほど巨大な穴を放置して安閑としていられたのは、結局、金子信雄の役柄が評論家というより業界ゴロであり、安部徹の役がマネージメント・オフィスの社長というより暴力団のボスであり、会社には暴力のプロがゴロゴロしているという設定のおかげでしょう。金子信雄が「妨害」を暗示すると、石原裕次郎も観客も、ペンではなくドスによる妨害をイメージするのです。音楽映画じゃなくて、ヤクザ映画ですな!
◆ 変なキャラクターの変な言動 ◆◆
話は、弟・青山恭二の晴れ舞台へと収束していきます。裕次郎が甘んじてリンチを受けた結果、ヤクザ者や音楽ゴロとはすべて話がついているので、もうたいしたことは起きそうもないのですが、そこが「母もの映画」、そっちのほうの決着をクライマクスにもってきています。
兄の石原裕次郎が病院から逃げだし、どこかに行ってしまったために、心から兄を信頼していた青山恭二はパニックに陥り、これではオーケストラの指揮などできない、などと子どものようなことをいいます。
この弟のキャラクターがかなり子どもっぽく設定されているし、青山恭二という俳優の持ち味もまた気弱そうなところにあるので、日活映画を見慣れた人間なら「青山恭二がやりそうな役だ」と思うのですが、それでも、ここはおおいに引っかかりました。そんな馬鹿なことがあるかよ、兄は兄、コンサートはコンサート、まったく次元がちがうだろうが、です。
結局、周囲に説得され、お兄さんはかならず見つけ出すから、といわれて、青山恭二は指揮台にあがるのだから、なんのためにダダをこねたのかもわかりません。ダダをこねたことが、その後の展開にまったくなにも影響を与えないのです。変なシナリオ!
またしても時間が足りず、もう一回、『嵐を呼ぶ男』を延長させていただきます。次回は間違いなくエンド・マークにたどり着けます。