『嵐を呼ぶ男』が大ヒット作であることは前回の『予告篇』で書きましたが、すぐれた作品かというと、ちょっと言葉に詰まります。
こういうときには、よそさんの助けを借りるにかぎります。『日活アクションの華麗な世界』の上巻で、渡辺武信は(やはり出来自体は褒めずに!)以下のように大ヒットの理由を分析しています。
あの時代の気分をどちらが理解していたかといえば、もちろん、『嵐を呼ぶ男』の公開時に十九歳だったという渡辺武信のほうであって、幼児にすぎなかったわたしではありません。そうお断りしたうえで、まずはわたしなりにヒット要因を考えてみます。
◆ 母ものプロット ◆◆
渡辺武信は日活アクション初期の、とくに石原裕次郎が演じたヒーローを「孤狼型ヒーロー」と「家庭型ヒーロー」に分け、『嵐を呼ぶ男』を後者に算入しています。そういう二分法でいえば、たしかにそのとおりだろうと思います。
そして、ヒットの理由のひとつは、そこにあるのではないでしょうか。もうすこし細かくいうと、石原裕次郎演じる『嵐を呼ぶ男』のドラマー、国分正一には家庭があり、父はいないものの、母や弟と同居し、自分につらく当たる母を大事に思い、弟の面倒をよく見る人間です。
これが大ヒットの最大の要因ではないかと思います。家庭をもたない「孤狼型ヒーロー」(当家で過去に取り上げた日活アクションでいえば、『東京流れ者』、『拳銃は俺のパスポート』、『霧笛が俺を呼んでいる』などがこのタイプにあたる)の映画は、どれも前回書いたわが家の騒ぎのように、一家総出で見に行くようなものではありません。巨大な鬱屈を抱えた若年層をなだめるタイプの映画です。
例によって、性格づけだの属性だのを洗い流し、骨組みだけを見れば、『嵐を呼ぶ男』は、「瞼の母」に代表される「母もの」のような気がします。目の前にいるのだから、この「新・瞼の母」の主人公は、母を求めて物理的な放浪はしませんが(だが、家にも落ち着けない)、「心理的彷徨」を強いられています。
「彼が求める母」はそこにいないか、あるいは、彼の存在を認めないのだから、いないも同然、したがって、「発見しなければならない母」だということにおいて、『嵐を呼ぶ男』は「瞼の母」と本質的に懸隔がありません。
もちろん、「瞼の母」だけでヒットするなら、『嵐を呼ぶ男』ではなく、『瞼の母』をつくればいいのであって、石原裕次郎は番場の忠太郎を演じることになってしまいます。だから、骨組みの周りの肉付けも重要で、それが渡辺武信が指摘したような、ドラマーという属性や、芸能界という舞台であり、そこに「瞼の母」を流し込んだことで、大勝利を得たのでしょう。
◆ 異例のスコア ◆◆
『嵐を呼ぶ男』はひどく古めかしいプロットの映画です。当家ですでに取り上げた映画でいえば、『狂った果実』や『拳銃は俺のパスポート』や『霧笛が俺を呼んでいる』といった作品にくらべると、泥臭いというか野暮ったいというか、土着のにおいが濃厚にある映画です。これより前の石原裕次郎主演作、たとえば『狂った果実』や『俺は待ってるぜ』などとくらべると、『嵐を呼ぶ男』は、時代意識としては後退した映画です。
ただし、その古めかしい「瞼の母」的構造から目をそらす、新しい要素がこの映画にはあります。音楽です。旧来のオーケストラ音楽も使われているし、小編成のストリングスによる叙情的な「キュー」もあるのですが、全編に渡って鳴り響いている支配的サウンドは、スネア・ドラムのパラディドルです。
これは革命的というか、生涯に見た映画を思いだして、よーく考えてからこのセンテンスを書いているのですが、こんなにスネアのパラディドルばかりが聞こえる映画はほかにありません。そして、このスネア・ドラムの派手な4分3連や16分が、この古めかしい骨組みの映画に斬新な感触を与え、すばらしい躍動感を生み出しています。
とりわけ、演奏シーンではなく、普通のシーンに使われたときに、このスネア・ドラム(およびその付録としてのアップライト・ベース、ピアノ、ヴァイブラフォーン、テナーサックスのサウンド)は、画面を強く突き動かす原動力になっています。わたしが知るかぎり、このように、スネア・ドラムのパラディドルを大黒柱として組み上げられた映画スコアはほかにありません。
スネア・ドラムを大きくフィーチャーしたスコアとしては、モーリス・ジャールの『史上最大の作戦』がありますが、あれはテンポの遅い、静かなマーチング・ドラムであって、『嵐を呼ぶ男』のような、画面を前へと強く突き動かし、観客をエクサイトさせるタイプのものではありませんでした。
◆ 非音楽的脚本 ◆◆
原作とシナリオは監督の井上梅次ですが、遠慮せずにいえば、プロットは穴だらけだし、音楽映画なのに、音楽の知識があるとは思えない処理が目立ちます。
たとえば、留置所の石原裕次郎を請け出しにいって、彼がそこらの棒きれで鉄格子を叩くのを聴き、北原美枝が「荒削りね」といい、その兄である岡田真澄が「うん、荒削りだ」とこたえます。
嵐を呼ぶ男 冒頭付近ダイジェスト
でも、たかが鉄棒を叩いただけで、荒削りとかそうでないとかいうのは、わたしには奇妙に聞こえます。表現のレベルに達するプレイではないのだから、精確か不精確かのどちらかしかないでしょう。粗いだのなんだのいうのは、トラップに坐って、他のプレイヤーとちゃんと曲をやったときに、全体の構成やフィルインのつくりが下手だとか、そういうときに出てくる言葉ではないでしょうか。ちなみに、この鉄棒を叩く音はじっさいにはライド・シンバルを使っていて、精確なタイムでプレイされています。明らかに一流ドラマーのプレイ。粗くないのです!
しかし、なんといえばいいんでしょうね。ここが映画の摩訶不思議なところなのですが、小説だったらぜったいに見逃されないであろう、プロットや台詞の無数の欠陥が、映画ゆえにどんどん「なかったもの」にされていくのです。なぜチャラになるかといえば、石原裕次郎が暴れ、北原美枝が「凛々しい女」ぶりをふりまき、芦川いづみが可憐だからです。
そして、忘れてはいけないのは、小説ならば「スネア・ドラムの4分3連が派手に鳴り響いた」でしかないものが、映画ではじっさいの音としてわれわれの聴覚を揺さぶることです。ただの文字と、ほんもののスネア・ドラムの4分3連のあいだいには、無限の距離があります。文字ですむものならば、だれがわざわざ音楽を聴くものか!
◆ フランク・シナトラと石原裕次郎 ◆◆
たしかに、渡辺武信が『日活アクションの華麗な世界』で批判しているように、石原裕次郎やライヴァルのドラマーを演じる笈田敏夫の動きは、音ときちんとシンクしていませんし、二人ともドラマーらしい手首の使い方はしていません。
しかし、これはだれがやってもむずかしいでしょう。俳優が演じることがもっとも困難なミュージシャンはドラマーです。リストを柔らかく使うことだけで訓練(まあ、「慣れ」ぐらいでもいいが)を要しますし、音と矛盾しないように速いパラディドルを叩くのも楽ではありません。まして、スネアからタムタムに流し、スネアに戻して、左手はスネアのまま、1拍目と2拍目の表拍だけ、右手はフロアタムでアクセント、なんてプレイを音と矛盾なくやるなんて、素人には不可能です。
これは日活だからダメとか、井上梅次の演出が手抜きだといったレベルのことではありません。ほぼ同じころ(1955年)、ネルソン・オルグレンの小説を映画化した『黄金の腕』(音楽監督エルマー・バースティーン)で、フランク・シナトラがドラマーを演じましたが、やはり、尻がむずむずするようなスティックの扱いでした。
まあ、『黄金の腕』のほうは演奏シーンが少なく、短いパッセージながら、どれもきちんとシンクさせてはいます。また、「サイド・スティック」(スティックをヘッドの上に寝かせ、ヘッドに一方の端をつけたまま、リムを叩くプレイ)のような、左手首の返しを必要としないものを使うといった細かい気遣いも見せています(シナトラのコーチをつとめたシェリー・マンの進言か)。
でも、フランク・シナトラは不世出のシンガーであって、不世出のドラマーではないからして当然ですが、左手首の動きが見えた瞬間、これではスネアは叩けないことが一目でわかってしまいます(『すべてをあなたに』でドラマーを演じた俳優は、左手首はコチンコチンに固まっていたが、シンクはほとんど完璧にやっていた。手首が硬いというなら、チャーリー・ワッツのような「プロ」ということになっているドラマーでも信じられないほど硬いので、凡庸なドラマーを演じているのなら、手首の返しの硬軟はどうでもよい)。
俳優には、レギュラー・グリップでの左手首の返しはリアルには演じられません。モダーン・グリップにすればごまかしがききますが、あれはロック・ドラマーのやるもので、すくなくとも昔のジャズ・ドラマーはモダーンは使いませんでした。
だから、石原裕次郎の「ドラミング」については、とくに批判するようなものではないと思います。俳優にしては左手首をまずまず柔らかく返していて、むしろ感心してしまいます。その点では、『黄金の腕』のフランク・シナトラよりいい出来でした。問題は、演奏シーンが多く、音と動きがシンクしていないことです。
こういうことというのは、井上梅次だとか、石原裕次郎だとか、日活だとか、そういう局所的な問題ではなく、日本映画界全体の、あるいは、ひょっとしたら、われわれ日本人の心性そのものに根ざすものかもしれず、特定の作品の批評にはなじまないような気がします。
ちょっと前に、記事本文ではなく、ラリー・ネクテルの訃報のコメントに書いたのですが、日本映画で、俳優の手と音のシンクという面で脱帽したのはたった一度、『さらばモスクワ愚連隊』での、加山雄三のピアノだけです。あとはまあ、呆れるほどいい加減で、見ていられないものばかりでした。
これも以前書いたことの繰り返しですが、『アマデウス』の俳優のように、ピアノのレッスンを受けてから撮影に入る(だけでなく、あらゆるシーンが完璧にシンクしていた!)なんてことは、観念としても、コストとしても、日本ではありえないことなのでしょう。
どうも、ややネガティヴな方向に入りこみましたが、次回もさらに『嵐を呼ぶ男』のスコアについて考えをめぐらせてみるつもりです。
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