よけいなことばかり書いているから、つい、肝心なことを忘れてしまいます。クリップを見つけておいたのに、過去三回の『乳母車』の記事には埋め込みそこなってしまいました。
しかし、よくしたもので、今日はこのクリップに登場するセットのことです。邦画のクリップはすぐに消されてしまうので、ご興味のある方はお急ぎあれ。まだアップされたばかりだから見られるのであって、そう長生きはできないかもしれません。
◆ 戦後民主主義的妾宅 ◆◆
昨日の記事の最後のほうで、芦川いづみが重大な決心をする、と書きましたが、その結果が上記のクリップです。娘が父親の愛人の家に行くなんていうのは親たちにとっては予想外のことで、このへんが石坂洋次郎式というか、関係者がディベートすることによって打開策を見いだすという、戦後民主主義のプロパガンダのような展開です。
そのへんのことを考えはじめると、ブログがいくつあっても足りなくなるので、ちょっとつま先を湯につけただけでアチッといって引き返します。今回の『乳母車』シリーズは、木村威夫のデザインを見るのが主眼です。
なんと呼ぶのが適切なのかわからないまま、「愛人」だなんていっていますが、わたしが子どものころには「二号」さんという呼び方があったし、さらに昔は「妾」といったのはご存知の通り。妾宅といえば、芝居のほうから「見越しの松に舟板塀」ということになっています。玄冶店よりも、(現代のではなく)大昔の根岸や向島のほうにありそうな造りですな。
じっさいにそんな造りの妾宅があるかどうかは別として、そういうイメージは厳としてあるのだから、フィクションではそれをどう処理するか、考慮を要します。美術監督がその点について明言していますが、思いきって開放的な造りにしたというのです。
それがもっとも端的に効果を発揮するのが、姉のところに尋ねてきた石原裕次郎が、姉の「旦那」である宇野重吉が来ていることを知って、思わず生け垣のあいだからのぞいてしまうシークェンスです。家のなかの造りも三間続きで、すべて開け放すことができますが、外部に対しても、この「妾宅」は開放的な造りになっているのです。
石坂洋次郎の話というのは、ものすごく単純化すると、「話せばわかる」という「哲学」を土台にし、その信念を広めるためのものです。芦川いづみも両親、とくに母に対して、きびしい意見をいうし、外に行っても、思ったことをしまっておくことはしません。「話せばわかる」はずだから、どんな場面でも腹蔵なく話し合うのです。先述したように、ディベート・ストーリー、民主主義物語なのです。
ストーリーのベースが「開放」なのだから、この家には、黙阿弥だかだれだか歌舞伎作者がつくった「妾宅」のイメージとは、対極にあるデザインが適用されたのです。だから、宇野重吉は鎌倉の豪邸にいるときとはうってかわって、この「妾宅」では文字どおり「アット・ホーム」な表情で、ママゴトのような「家庭生活」、ふつうの夫、ふつうの父を楽しむのです。
新珠三千代にいわれて、庭のしその葉を摘むという、鎌倉の豪邸ではぜったいにしないであろうことを、あえてここで監督がさせたのも、そういう意図でしょう。見えない仕切りで分断された鎌倉の家の「表」と「奥」の多重構造は、この家にはありません。美術監督・木村威夫がどこまで意識的にやったかはわかりませんが、「閉鎖」と「開放」というキーワードでデザインしたことだけは明白に伝わってきます。
◆ 鎌倉のセット2 ◆◆
今日はべつのセットを見る余裕はないので、前回割愛した部分をお見せします。
状況を説明しておきます。山根壽子が家を出る決心をし、すっかり身支度を調えたところに夫が帰ってきます。山根壽子は、終電に乗るつもりでいるのですが、夫に断りもなしに出て行くわけにはいかないので、書斎で話すことになります。
しかし、呼んであった車がやってきて、若い女中が判断に困り、女中頭にお伺いをたてに、厨房にやってきます。このへん、まったく無言なのですが、状況は明快に伝わってくるという、映画的快感があります。
それはさておき、ここで観客は、「あっ、ちゃんと食堂と厨房もあるんだ」と軽く愕きます。そこからキャメラは女中頭の動きを1カットで追い続けるところで、あ、このセットはひとつながりなのか、ともう一回愕くことになります。一階については、ほとんど丸ごと家を造ってしまったようなセットなのです。