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武夫と浪子 by 笠智衆およびキャスト その3(OST 『長屋紳士録』より)
タイトル
武夫と浪子
アーティスト
笠智衆およびキャスト(OST)
ライター
Traditonal
収録アルバム
『小津安二郎の世界』(映画『長屋紳士録』挿入曲 from an Ozu Yasujirou film "Record of a Tenement Gentleman" a.k.a. "Nagaya Shinshiroku")
リリース年
1947年
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前回引用した、編集者の浦岡敬一による小津映画に関する分析を繰り返しておきます。お読みになった方ももうお忘れでしょうし、はじめての方も前の記事に戻るのは面倒でしょうから。

「その実景の秒数は、七フィート、ジャスト。一コマたりとも違わない。しかも、ダイアローグ・カット、つまり、会話の部分はすべて台詞尻十コマ、頭六コマで切れている。これはどういうことかというと、Aの人物が話し終わって十コマ間があき、つぎの人物が話すまでに六コマの間があくということなんです。その間はつねに十六コマ、つまり三分の二秒、間があくということです」

本日はおもにこの後半、「ダイアローグ・カット」についてです。しちくどくなりますが、浦岡敬一の言葉を噛みくだいて書き直しておきます。

小津映画ではおなじみの二人の人物の会話を、切り返してみせるパターンに、この「台詞尻十コマ、頭六コマ」のリズムが明白にあらわれます。

たとえば、こんなぐあいです。

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佐分利信が話し終わってから十コマのあいだこのショットがつづく。

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原節子のショットに切り替わっても、台詞がはじまるまでに六コマ進む。

「台詞尻十コマ」というのは、佐分利信の台詞が終わってから、そのショットのまま十コマ分いく、という意味です。「頭六コマ」というのは、つぎの原節子のショットに切り替わってから、台詞がはじまるまでの無音が六コマつづく、という意味です。だから、佐分利信の台詞の最後と、原節子の台詞のはじまりとのあいだに、合計で十六コマ=三分の二秒間の無音部分がある、ということになります。

この点をご理解いただいたものとして、話をつづけます。

◆ 会話のグルーヴ ◆◆
驚くべきは、浦岡敬一の分析では、小津はどんな場面でもこの三分の二秒間の無音を貫いたということです。もちろんわれわれは、十六コマ、三分の二秒間というものを、感覚で正確に計測することはできません。

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浦岡敬一

でも、浦岡敬一もいうように、これが何度も何度も繰り返されると、そこに一定のリズムがあることを、無意識のうちに、自然に感じるものです。音楽を聴いていて、ドラマーのうまい下手はわからなくても、全体のグルーヴを無意識のうちに感じ、この音楽は気分がいい、とか、なんだかギクシャクしていて気持ちが悪い、といったことを判断できるのと同じです。

この「小津の十六コマ」は昭和24年の『晩春』で確立されたのだと思います。浦岡敬一も、すでに脚本作りの段階から、このリズムははじまっている、だから、これだけを模倣しても「小津調」にはならない、と指摘しているからです。つまり、戦後、小津が野田高梧とはじめて組んで、シナリオを書きはじめた『晩春』から、あのスタイルが登場するのだと考えていいことになります。

◆ 言葉のステディー・ビート ◆◆
小津安二郎と野田高梧が書く会話は、まだ俳優の口にのらない文字だけの段階で、すでにステディー・ビートの感覚をもっています。『晩春』の竜安寺石庭のシークェンス、笠智衆と三島雅夫の対話を引用します。

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三島「しかし、よく紀ちゃん遣る気になったねえ」
笠「(ほとんど聞こえないほどの低声で)うん」
三島「あの子ならきっといい奥さんになるよ」
笠「うん……もつんなら、やっぱり男の子だよ。女の子はつまらんよ。……(鳥のさえずり)……せっかく育てると嫁にやるんだから」
三島「うん……」
笠「行かなきゃ行かないで心配だし、いざゆくとなると、やっぱりなんだかつまらないよ」
三島「そらあしようがないさ。われわれだって育ったのを貰ったんだから」
笠「そりゃあまあそうだ」
二人「はっはっはは」

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映画の台詞にかぎらず、書き言葉までふくめて、日本語のリズムを決定する大きな要素は語尾です。二人の人物の対話においては、語尾がよりいっそう重要になります。有能なフィクションの作り手はみな語尾に神経をすり減らしているにちがいありません。

◆ 精密な言葉のリズム ◆◆
『小津安二郎と茅ヶ崎館』に書かれていたことですが、著者・石坂昌三は、大船撮影所の廊下で電話をかけている小津安二郎を目撃したことがあるそうです。そのとき、小津はなにをいっていたか? じっさいに俳優にいわせてみたら、あの台詞の語尾の「よ」がどうしてもうまくいかないので、削らせていただきました、と謝っていたのだそうです。

これだけで、電話の相手は野田高梧とわかります。二人で半年以上もかけて細部まで固めていったシナリオですが、いざ人間の口に乗れば、やはりリズムが悪く聞こえることはあるでしょう。俳優も人間なので、ミュージシャン同様、それぞれ固有のセンス・オヴ・タイムをかならずもっています。そのタイムと台詞が合わなければ、ぎこちなく響くにちがいありません。それで、小津は共作者の野田高梧に相談しないまま、その場で決断を下し、撮影を終えたあとで、急いで事後承諾を願う電話をかけたのだと考えられます。

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左から笠智衆、野田高梧、里見弴、小津安二郎。キャプションに「『晩春』のころ」とあって、素の笠智衆が若いのに驚く。

これはなにを示しているのでしょうか? 語尾の「よ」「わ」「だ」「だね」「なあ」といった、一見ささいな言葉であっても、無意識におかれたものはひとつもないということです。すべてはリズムを配慮したうえで、マティーニのオリーヴのように慎重に配置されたものだったのです。

こうしてシナリオの段階から全体のリズムと合致する形で組み上げられていった言葉の伽藍は、三分の二秒という厳密な間をとって配置されていき、こうしたすべてが映画のグルーヴを形成したのです。

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これが戦後小津映画の核心、あのスタイル(大文字かつイタリックで、「ザ・スタイル」というべきだが)を形成したものの正体です。小津安二郎は、映画史上もっとも「フィルムのグルーヴ」を重視した映画監督だったのです。

ロックンロールが誕生する以前に、小津はフィルムを使って「完璧にステディーなビート」をつくりだしました。わたしが小津を愛する理由は、彼のすばらしいビート、ジム・ゴードンのドラミングを聴いているのと同質の感動を得られる、卓越したグルーヴに尽きます。

どうも、相手が小津安二郎ともなると、むやみに時間がかかるは、神経は磨りへらすは、なかなか話が進みません。もうひとつ書こうと思っていたこと、「メロディー対ビート」という話題にたどり着けなかったので、この項はさらにもう一回延長させていただきます。
by songsf4s | 2009-08-21 23:49 | 映画・TV音楽